エチオピア....強烈な国だ。
周囲の東アフリカ諸国と明らかに違う。
イスラム教国にはさまれた、キリスト教の国である。
水を使って処理するのが主流のアフリカ諸国で唯一、トイレで紙を使う。
トイレに鍵をかけない。「そう・あっれ(人がいるよ!」と叫ばなければ、戸を開けられてしまう。昔の中国に似ているが、エチオピアは男女共用トイレが多いため、余計始末が悪い。
不潔である。この国に来ると最初の一ヶ月は、<こんにちゃ(南京虫)>の洗礼を受ける(でも一ヶ月たてば慣れて抗体ができる)。
不潔であるくせに何故か八頭身の美男美女が多い。人口の半分は20歳以下である。
教育がいき届いていない。
ともかくうるさい。騒がしい。アジアでは現地人となれる私もアフリカでは異邦人のルックスから逃れられない。小人の国に来たガリバーの話、香港映画で見た見世物にされた白人の話(ちなみにコレは名作)を私は何度も思い出す。
遠慮をしらない。シャワーを浴びている時でも平気で戸を蹴飛ばす。寝て居る所を合鍵をつかって入ってくる。それで驚かせて笑う。私の身につけている物(頭に巻いた布や手提げ袋)を猿の如く奪って放り投げる。抗議すると「アンチ・ドゥルエ(アンタはズルイ)!!」とやり返される。書き出したらキリがない。
もちろんこれは、私が安宿(連れ込み宿)に泊まっていて、特にお行儀の悪いお姐さんたちを相手にしていたせいもあるだろう(実際、町の女の子たちはとても控えめで優しかった)。しかし、「もう二度と来るかあっ!」と毎夜誓っていた私が、2ヵ月後には近所中に見送られて「んでげな・いめたる(また来るよ)」と固い約束をして涙ながらに別れることになろうとは、思ってもいなかった。
そして本当に次も訪れ、今や私はこの国が忘れられない大好きな国のひとつになっている。
エルサレム。通称えるす。後にジョリーと改名するが、私はえるすと呼び続けている。
彼女は典型的な<あばしゃ・せートゥ(エチオピアガール)」だ。エチオピア人の持つ善さ、悪さを全て持っている。エチオピアを語るとき、私はえるすを抜きにしては語れない。えるすは私といた2ヶ月の間に、みるみるイイ奴になっていった(というより、私が彼女のよさに気付いていった)。
初めてえるすの働くブンナベット(レストラン兼バー兼連れ込み宿)に足を踏み入れた時から、えるすは、一番騒がしかった。
「何で外人がそんな汚い恰好してるのよ!」
「そのズタ袋!サンダル!むんとの(何なの)!(注:私は泥棒よけに泥棒が欲しがらないズタ袋に荷物をいれていた。加えて教養ある大人は、サンダルなど履かないものなので、えるすの言い分も尤もではある)」
「うわっ!マッサージしてる!ばたんトゥルの(非常によいの意)!」
「みわこ、むにえさらしの(何してるの)?」
「みわこ、いえっと・てーじ・あれし(何処にいくの)?」
「みわこ、ねい(来て)!むさ・いんにぶら(お昼一緒に食べよう)!!」
雲雀もスズメもえるすのキンキン声には敵わない。レストランに来る客には、誰彼構わず抱きつく。断りもいれずに同席して勝手に食う(エチオピアの主食、インジェラは皆で一皿をわけて食べる形式なので、ウエイトレスが常連客に同席して一緒に食べるのはそんなに珍しいことではないと思われるが、よその店では見たことがない)。
しかも私を引きずり出して、半ば強引に食わせる(もちろん代金は客持ちだ)。私のする按摩や折り紙、似顔絵書きやその他いろいろな日本の技を、客に披露したくてたまらないのだ。
これらえるすの、いや、私に関わった全ての連中の、私にとっては迷惑極まりない一連の行為が実は善意からできていて、外国人との接し方を知らない彼らなりの精一杯の歓迎の表れだったとわかったのは、私が爆発したあとだった。
もう出よう。
さすがの私も堪忍袋の緒が切れた。
朝早くから荷物の整理を始める。よし、出発準備完了だ。
この町さえ、この宿さえ出れば今までの苦節の数週間は過去に変わる。もう二度と来るものか。
私の旅装束を見たスタッフの一人が、びっくりして皆に知らせに走った。
----みわこが怒っている。
彼らは本当に驚いたようだ。ブンナベットの一人ひとり(常連客含む)が、私の顔色を窺っている様子がひしひしと伝わってくる。
「みわこ、ねい(おいで)!ブンナたったお(珈琲飲もうや)」
「みわこ、ねい!くるすびぃ(朝ごはん食べなよ)」
スタッフも常連客も、気をきかせて御馳走してくれる。
「みわこ、あってーじ(行かないで)」
「みわこ、あってーじ(行かないで)」
言われるままに飲み食いしてしまい、非常に出ずらくなる。別れるタイミングがつかめない。バスを待つという口実でずっと座っていたが、出るに出られず、何台もバスをやり過ごしてしまう。
そのうち、私の爆発を引き起こした娼婦(質の悪いイタズラをされたのだが、もちろんそれだけが爆発の原因ではない)を、えるすが連れてきた。
「みわこ、ばたんいきるた(本当にごめんね)」
えるすはどんな説得をしたのだろう。その娼婦さんは目いっぱいの愛情表現(頬にチュッチュッの嵐)をしながら私に謝ってくる。女性からそんなことをされても喜ぶ訳はないのだが。どう対応したらよいか硬直しながら考えているところで、じっとこっちを見ていたえるすと目が合った。えるすは私の目を離さず言った。
「あってーじ(行かないで)。」
.....出れる訳がない。最終のバスも見送ってしまい、そのまま一日がおわる。誰かが私の一旦まとめた荷物を、また部屋に戻してくれた。
「よかったね。」
ブンナベットの面々も、裏の食堂のお兄さん夫婦も、向かいのチョーブンナ(塩珈琲)屋のおばちゃん一家も、隣の雑貨屋さん親子も、みんなみんな喜んでくれた。
それからしばらく経った頃であろうか、私の呼び名が微妙に変わった。
「みわこいぇ」
....いぇ?腹痛で店を休んだえるすを見舞いに行って以来、えるすは私をこう呼ぶ。声色まで変わった。いつしかブンナベット中に広まり、皆が私を「みわこいぇ」と呼ぶようになった。
私は(賢そうな人を選んで)訊いた。
「いぇ~、むんとの(いぇ~って、何さ)?」
......‘いぇ’とは、ごく親しい人だけにつける言葉だそうだ。
「さん」「ちゃん」とは格が違う、親愛にあふれた呼称だそうだ。
このブンナベットに来て一ヶ月、ようやく私は、皆に心から受け入れられる人間になったのだった。
えるすは少し変わった。キンキン声は相変わらずだが、<何をすればみわこは怒るのか><何をすればみわこは喜ぶのか>を学んだようだった。はじめは先頭切って仕掛けていたイタズラも、今では他のイタズラ坊主に食ってかかり、私を守るようになっていた。
えるすの大袈裟なまでの客への対応も、著しい集客効果があったのだ。このブンナベットは、確かにヨソのブンナベットより繁盛していた。みなえるすの功績である。
えるすは昼間の食事タイムのみの出勤で、娼婦ではないと知ったのも、仲直りをした後だった。えるすはいつもふざけているようで、実は仕事ができるのだ。
18歳のえるすには、3歳の娘がいた。えるすの現在の旦那さんは娘の父親ではないので、娘は隣町の実家に預けていた。家へ遊びに行くと、えるすの母親も妹も旦那さんも娘っこも、みんな私を「みわこ」と呼んだ(いぇ、はまだ付かないが)。私はえるすのアパートに行ってはアパートの子供たちと遊び、抱き上げ、大家さんの家族にマッサージをし、ときには健康相談にのったりした。
こうしてこの町は、私のたくさんある故郷のうちのひとつになった。
当然離れるのもつらく、前述した通りの見送りつきで、涙ながらのお別れとなった。
それから一年後、私はエチオピアに戻って来た。美味しいブンナ(珈琲)、インジェラ、喧しい歌謡曲、うるさい市民.....私にはどれをとっても心地よく(?)、懐かしい。
えるすの、沢山の‘がでにゃ(友達)’のいるこの町に到着する。
バスから降りて少しあるいただけで、ブンナベットの門番が数十メートル向こうから私を見つけ、叫んだ。「みわこー!」
なっふぇかねし(懐かしい)!!
えにゃ かたま(私の町)!!
すぐに駆け寄り、抱き合って再会を喜んだ。
ブンナベットの女主人は、少し先に更に大きいブンナベットを建てていた。裏の食堂兄さんのところも、大きくなっている。隣の店も、向かいの人も、みんなみんな達者でいる。
えるすは.....?
「赤ちゃんが生まれたよ。ふれってんにゃ りじねし(二人目も女の子だよ)」
「......!!」
二児の母になったえるすは、優しい笑みを浮かべていた。赤ん坊にお乳を与えていたえるすは、一年ぶりに突然訪れた私を心から歓迎してくれた。二人で料理をした。任されてブンナ(珈琲)を入れた。エチオピア珈琲は生豆を炒るところから始まるのだが、一人で入れられるようになったのも皆の手ほどきのお陰である。
すっかり母性が備わったえるすの口ぶりは、もう子供のそれではなかった。落ち着いた大人の話し方になっていた(出産疲れもあっただろうが)。ブンナを飲み終わると、えるすは私に赤ん坊の命名を頼んできた。正式名はもう用意してあるから、学校などでの呼び名に、日本の名前が欲しいという。
名前を複数持つのはここの習慣であるし、アフリカ諸国は1ヶ国で百ヶ国語を持つ多言語社会である。日本語で名前を付けても、さして浮いたりしないだろうと思い、快く引き受けた。
---みゆき。
一晩考えてそう決めた。
えるすの旦那さんの名前はミッキーだから、語呂も合う。私の大好きな歌手、中島みゆきさんから貰ったのだが、もちろん悲しい歌をつくってほしくて付けたのではない。中島みゆきさんのような素敵な女性に育ってほしいのだ(この国では、かなり難しいことだろう)。
えるすは満足そうに、
「みーい、ゆぅきぃ」
「みーい、ゆぅきぃ」と彼女流の発音で繰り返した。
この赤ちゃんの名付け親になった以上、私は、これから幾度もえるすを訪れることになるだろう。えるすとその家族をはじめ、アパートの住人たち、ブンナベットの仲間たちとその近所で働く面々.....。一度は縁を切ろうとしたこの町から、私は最早、抜け出せない。
周囲の東アフリカ諸国と明らかに違う。
イスラム教国にはさまれた、キリスト教の国である。
水を使って処理するのが主流のアフリカ諸国で唯一、トイレで紙を使う。
トイレに鍵をかけない。「そう・あっれ(人がいるよ!」と叫ばなければ、戸を開けられてしまう。昔の中国に似ているが、エチオピアは男女共用トイレが多いため、余計始末が悪い。
不潔である。この国に来ると最初の一ヶ月は、<こんにちゃ(南京虫)>の洗礼を受ける(でも一ヶ月たてば慣れて抗体ができる)。
不潔であるくせに何故か八頭身の美男美女が多い。人口の半分は20歳以下である。
教育がいき届いていない。
ともかくうるさい。騒がしい。アジアでは現地人となれる私もアフリカでは異邦人のルックスから逃れられない。小人の国に来たガリバーの話、香港映画で見た見世物にされた白人の話(ちなみにコレは名作)を私は何度も思い出す。
遠慮をしらない。シャワーを浴びている時でも平気で戸を蹴飛ばす。寝て居る所を合鍵をつかって入ってくる。それで驚かせて笑う。私の身につけている物(頭に巻いた布や手提げ袋)を猿の如く奪って放り投げる。抗議すると「アンチ・ドゥルエ(アンタはズルイ)!!」とやり返される。書き出したらキリがない。
もちろんこれは、私が安宿(連れ込み宿)に泊まっていて、特にお行儀の悪いお姐さんたちを相手にしていたせいもあるだろう(実際、町の女の子たちはとても控えめで優しかった)。しかし、「もう二度と来るかあっ!」と毎夜誓っていた私が、2ヵ月後には近所中に見送られて「んでげな・いめたる(また来るよ)」と固い約束をして涙ながらに別れることになろうとは、思ってもいなかった。
そして本当に次も訪れ、今や私はこの国が忘れられない大好きな国のひとつになっている。
エルサレム。通称えるす。後にジョリーと改名するが、私はえるすと呼び続けている。
彼女は典型的な<あばしゃ・せートゥ(エチオピアガール)」だ。エチオピア人の持つ善さ、悪さを全て持っている。エチオピアを語るとき、私はえるすを抜きにしては語れない。えるすは私といた2ヶ月の間に、みるみるイイ奴になっていった(というより、私が彼女のよさに気付いていった)。
初めてえるすの働くブンナベット(レストラン兼バー兼連れ込み宿)に足を踏み入れた時から、えるすは、一番騒がしかった。
「何で外人がそんな汚い恰好してるのよ!」
「そのズタ袋!サンダル!むんとの(何なの)!(注:私は泥棒よけに泥棒が欲しがらないズタ袋に荷物をいれていた。加えて教養ある大人は、サンダルなど履かないものなので、えるすの言い分も尤もではある)」
「うわっ!マッサージしてる!ばたんトゥルの(非常によいの意)!」
「みわこ、むにえさらしの(何してるの)?」
「みわこ、いえっと・てーじ・あれし(何処にいくの)?」
「みわこ、ねい(来て)!むさ・いんにぶら(お昼一緒に食べよう)!!」
雲雀もスズメもえるすのキンキン声には敵わない。レストランに来る客には、誰彼構わず抱きつく。断りもいれずに同席して勝手に食う(エチオピアの主食、インジェラは皆で一皿をわけて食べる形式なので、ウエイトレスが常連客に同席して一緒に食べるのはそんなに珍しいことではないと思われるが、よその店では見たことがない)。
しかも私を引きずり出して、半ば強引に食わせる(もちろん代金は客持ちだ)。私のする按摩や折り紙、似顔絵書きやその他いろいろな日本の技を、客に披露したくてたまらないのだ。
これらえるすの、いや、私に関わった全ての連中の、私にとっては迷惑極まりない一連の行為が実は善意からできていて、外国人との接し方を知らない彼らなりの精一杯の歓迎の表れだったとわかったのは、私が爆発したあとだった。
もう出よう。
さすがの私も堪忍袋の緒が切れた。
朝早くから荷物の整理を始める。よし、出発準備完了だ。
この町さえ、この宿さえ出れば今までの苦節の数週間は過去に変わる。もう二度と来るものか。
私の旅装束を見たスタッフの一人が、びっくりして皆に知らせに走った。
----みわこが怒っている。
彼らは本当に驚いたようだ。ブンナベットの一人ひとり(常連客含む)が、私の顔色を窺っている様子がひしひしと伝わってくる。
「みわこ、ねい(おいで)!ブンナたったお(珈琲飲もうや)」
「みわこ、ねい!くるすびぃ(朝ごはん食べなよ)」
スタッフも常連客も、気をきかせて御馳走してくれる。
「みわこ、あってーじ(行かないで)」
「みわこ、あってーじ(行かないで)」
言われるままに飲み食いしてしまい、非常に出ずらくなる。別れるタイミングがつかめない。バスを待つという口実でずっと座っていたが、出るに出られず、何台もバスをやり過ごしてしまう。
そのうち、私の爆発を引き起こした娼婦(質の悪いイタズラをされたのだが、もちろんそれだけが爆発の原因ではない)を、えるすが連れてきた。
「みわこ、ばたんいきるた(本当にごめんね)」
えるすはどんな説得をしたのだろう。その娼婦さんは目いっぱいの愛情表現(頬にチュッチュッの嵐)をしながら私に謝ってくる。女性からそんなことをされても喜ぶ訳はないのだが。どう対応したらよいか硬直しながら考えているところで、じっとこっちを見ていたえるすと目が合った。えるすは私の目を離さず言った。
「あってーじ(行かないで)。」
.....出れる訳がない。最終のバスも見送ってしまい、そのまま一日がおわる。誰かが私の一旦まとめた荷物を、また部屋に戻してくれた。
「よかったね。」
ブンナベットの面々も、裏の食堂のお兄さん夫婦も、向かいのチョーブンナ(塩珈琲)屋のおばちゃん一家も、隣の雑貨屋さん親子も、みんなみんな喜んでくれた。
それからしばらく経った頃であろうか、私の呼び名が微妙に変わった。
「みわこいぇ」
....いぇ?腹痛で店を休んだえるすを見舞いに行って以来、えるすは私をこう呼ぶ。声色まで変わった。いつしかブンナベット中に広まり、皆が私を「みわこいぇ」と呼ぶようになった。
私は(賢そうな人を選んで)訊いた。
「いぇ~、むんとの(いぇ~って、何さ)?」
......‘いぇ’とは、ごく親しい人だけにつける言葉だそうだ。
「さん」「ちゃん」とは格が違う、親愛にあふれた呼称だそうだ。
このブンナベットに来て一ヶ月、ようやく私は、皆に心から受け入れられる人間になったのだった。
えるすは少し変わった。キンキン声は相変わらずだが、<何をすればみわこは怒るのか><何をすればみわこは喜ぶのか>を学んだようだった。はじめは先頭切って仕掛けていたイタズラも、今では他のイタズラ坊主に食ってかかり、私を守るようになっていた。
えるすの大袈裟なまでの客への対応も、著しい集客効果があったのだ。このブンナベットは、確かにヨソのブンナベットより繁盛していた。みなえるすの功績である。
えるすは昼間の食事タイムのみの出勤で、娼婦ではないと知ったのも、仲直りをした後だった。えるすはいつもふざけているようで、実は仕事ができるのだ。
18歳のえるすには、3歳の娘がいた。えるすの現在の旦那さんは娘の父親ではないので、娘は隣町の実家に預けていた。家へ遊びに行くと、えるすの母親も妹も旦那さんも娘っこも、みんな私を「みわこ」と呼んだ(いぇ、はまだ付かないが)。私はえるすのアパートに行ってはアパートの子供たちと遊び、抱き上げ、大家さんの家族にマッサージをし、ときには健康相談にのったりした。
こうしてこの町は、私のたくさんある故郷のうちのひとつになった。
当然離れるのもつらく、前述した通りの見送りつきで、涙ながらのお別れとなった。
それから一年後、私はエチオピアに戻って来た。美味しいブンナ(珈琲)、インジェラ、喧しい歌謡曲、うるさい市民.....私にはどれをとっても心地よく(?)、懐かしい。
えるすの、沢山の‘がでにゃ(友達)’のいるこの町に到着する。
バスから降りて少しあるいただけで、ブンナベットの門番が数十メートル向こうから私を見つけ、叫んだ。「みわこー!」
なっふぇかねし(懐かしい)!!
えにゃ かたま(私の町)!!
すぐに駆け寄り、抱き合って再会を喜んだ。
ブンナベットの女主人は、少し先に更に大きいブンナベットを建てていた。裏の食堂兄さんのところも、大きくなっている。隣の店も、向かいの人も、みんなみんな達者でいる。
えるすは.....?
「赤ちゃんが生まれたよ。ふれってんにゃ りじねし(二人目も女の子だよ)」
「......!!」
二児の母になったえるすは、優しい笑みを浮かべていた。赤ん坊にお乳を与えていたえるすは、一年ぶりに突然訪れた私を心から歓迎してくれた。二人で料理をした。任されてブンナ(珈琲)を入れた。エチオピア珈琲は生豆を炒るところから始まるのだが、一人で入れられるようになったのも皆の手ほどきのお陰である。
すっかり母性が備わったえるすの口ぶりは、もう子供のそれではなかった。落ち着いた大人の話し方になっていた(出産疲れもあっただろうが)。ブンナを飲み終わると、えるすは私に赤ん坊の命名を頼んできた。正式名はもう用意してあるから、学校などでの呼び名に、日本の名前が欲しいという。
名前を複数持つのはここの習慣であるし、アフリカ諸国は1ヶ国で百ヶ国語を持つ多言語社会である。日本語で名前を付けても、さして浮いたりしないだろうと思い、快く引き受けた。
---みゆき。
一晩考えてそう決めた。
えるすの旦那さんの名前はミッキーだから、語呂も合う。私の大好きな歌手、中島みゆきさんから貰ったのだが、もちろん悲しい歌をつくってほしくて付けたのではない。中島みゆきさんのような素敵な女性に育ってほしいのだ(この国では、かなり難しいことだろう)。
えるすは満足そうに、
「みーい、ゆぅきぃ」
「みーい、ゆぅきぃ」と彼女流の発音で繰り返した。
この赤ちゃんの名付け親になった以上、私は、これから幾度もえるすを訪れることになるだろう。えるすとその家族をはじめ、アパートの住人たち、ブンナベットの仲間たちとその近所で働く面々.....。一度は縁を切ろうとしたこの町から、私は最早、抜け出せない。