海を渡るシブタ

5年10ヶ月に渡るシブタの足あと~アジア・アフリカ版~

〈7〉ピンキィ ~前世は「ぼうに(姉妹)」の「あまる・くくる」

2006-08-12 00:09:37 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 私は昔、中国で狗(いぬ)を食った。

 それが体に染みついて臭いを発するのであろう、犬にはすこぶる人気がない。

 野良犬天国のタイでは、毎日が戦いだった。犬どもは私を見ると、まるで親の敵でも見つけたように、五十メートル先にいてもこちら目がけて走ってくる。ボランティア按摩の行き帰りに、集団で襲いかかってくる野良犬を相手に棒キレや石コロで応戦したのが逆効果となり、戦いはそこを通る度に続いた。

 その私の運命が印度で一変した。

 年月が経ち、体臭が抜けたのだろうか、沢山の犬たちに囲まれ尻尾を振られ愛される〝人生の華〟を経験したのだ。

 印度の犬の中でも特別私に懐いていたのがメス犬のピンキィだった。

 ピンキィは齢十歳。高齢である。彼女には印度人の飼い主がいて、お手(さらーむ、又はシェイクハンドという)やお座り、ジャンプなどの数々の芸が仕込まれている、珍しい野良犬だ。野良犬というのは、本来の飼い主〝ちょいら親父〟は別の犬を飼っているのでピンキィを追い出し、路上生活犬にしたからなのだ。ピンキィは地元オリーヤ語のほかにベンガル語、英語その他あらゆる言葉を理解する。

 私が人間相手に手の按摩(お手?)をするのを同類と思ったのか、ピンキィに按摩を施して以来、ピンキィは私の行く処、どこへでも付いて来る様になった。

 私が出先で按摩をする。ピンキィが芸を見せる。私はお茶をもらい、ピンキィはビスケットやサモサ(印度の軽食)をもらう。この繰り返しで、私とピンキィが連れ立って歩いているのは、その界隈では忽ち知れ渡ってしまった。

 以前は「DiDi!」「ナニー(オリーヤ語でお姐さん)!」「マッサージ!」と声がかかっていたのが、今では「ピンキィ!」と彼女の名前で呼びとめられる有様だ。

 ピンキィは印度人の習性を、かなり持っていた。
 ―、人におねだりをするのが上手い。
 ―、異性と同性をはっきり区別する。
 ―、弱きものに対しては強く、強気には弱い。
 ―、一度ウケると、何度でも同じ芸を披露する。しつこいという言葉を知らない。
 
 日本人にもこれらの習性はもちろんあるが、ピンキィと印度人にはその傾向が強いのだ。
 
 それで、ピンキィと一緒にいるうちに、印度人のもうひとつの顔も次第に見える様になってきた。

 印度人にとって牛や猿は神様の使いであり、とても神聖なものだ。どんな悪さをしても、罰する事ができない。

 牛は、自分が崇められているのを知っているので、常に堂々としている。ダンボールの切れ端でも食べ得る強靭な胃袋を持つというのに、貧乏なリキシャわらでもその日の貴重な売り上げから一ルピーを使い牛の為にビスケットを差し出す。牛は狭い路上の中央に座り込み、通りを塞ごうが気にかけない。通行人に自慢の大きな角で攻撃することも日常茶飯事だ。大通りや住宅地で牛同士が喧嘩を始めれば、見物人が押し寄せちょっとした見物になる。B級映画を鑑賞するよりよっぽど迫力があって面白いのだ。

 一方、猿は物語ラーマヤーナの登場人物ハヌマンとして、大変親しまれている。自分でもそれがわかっているのか、付け上がり方も甚だしい。普段はヒンズー寺院近辺に棲んでいるが、住宅地を荒らしまわり、食べ物を盗っていき、人を襲う事もある。あまりのひどさに人間が手を挙げようにも、逆襲されるおそれがあるので(狂犬病というリスクがある)手出しできない。私が滞在していた時分は生後四ヶ月の赤ん坊を連れ去ってしまった事件もあったくらいだ。おそらく食べられてしまったのだろう。それでも印度社会では、猿を撲滅する事ができないのだ。

 犬は一番立場が弱い。バイクもリキシャも犬には目もくれず走り回る。何か気に入らない事柄があれば、犬に八つ当たりをする。石を投げる。蹴る。それも躊躇なく腹を蹴る。牛には食べ物を渡しながら撫でさする事もあるが、皮膚病をもつ汚い犬には決して手を触れる事はない。犬を室内で飼うという習慣も、当然ない。人を詰(なじ)る際には〝くった(ヒンドゥー語!〟〝くくる(オリーヤ語)!〟と犬呼ばわりをする(ほかに喧嘩用語があるとすれば、〝ちょろ・パキスタン(パキスタンへ行っちまえ)〟である)。

 印度の路上生活犬は、すべて負け犬だ。

 しかし、何故か印度人は犬に対して英語で話しかける。英国統治時代の影響なのだろうか、或いはコンプレックスの裏返しなのだろうか。チャイ屋の少女、シャンティ(前出、チャーDiDiの項参照)でさえ、誰にも使うことのない英語をピンキィには用いる。

 「SitDown」「Eat」「Jump」小声で短く、しかし確かにシャンティは英語を発する。そして、芸をさせた後、棒で叩いてピンキィを追い出す。
 
 犬に対して「かわいい」「かわいい」と愛情を持ってピンキィを撫でるのは、外人旅行者(主に日本人)だけだ。

 ピンキィを優しく撫でる旅行者を私は心強く思い、印度人たちはその様子を眉をしかめて見ていた。

 ピンキィは私の後ろに付いて回っていたが、同時に赤ちゃんも宿していた。十歳の老齢というのに、そして黒い体毛に白いものが混じっているというのに、まだまだ若い者には負けていないのだ。身重の体でジャンプをしたり走り回ったりしていたピンキィは、ある時期からぱったりと姿を消した。

 ピンキィがみつかったのは姿を消して三週間程経ってからだ。遠くにいる黒い塊を発見した私は、声を限りに叫んだ。

 「ピンキィーッ!」

 こちらに反応して、スピードを上げて走り寄ってきたピンキィを抱きしめる。

 「ウオオオン」
 「ワオオオン」

 ピンキィは雄叫びをして応える。大きかった腹部はへこみ、お乳が垂れ下がっていた。

 ピンキィは五匹の仔犬を産んでいたのだ。聞いたところによると、人間も犬も含め誰も近寄らない掘っ立て小屋の軒下、外敵や雨水さえ入ってこない静かな場所で、ピンキィはひっそり出産したと言う。さらに驚いた事に、産んでからしばらくの間は、誰もその仔犬たちを拝見する事ができなかった。ピンキィが隠していたのだ。

 私が「トゥマルばっちゃ・こたいあせ(アンタの子供はどこ?のベンガル語)?」「ぴら、くおれあち(同、オリーヤ語)?」と幾度問いかけても澄まして答えなかったぴんきぃ。ある日、飼い主のちょいら親父が「Where is POPPIS?」と訊いたところ初めて「ワン!」とひと吠えして、ちょいらを出産場所の掘立小屋へと案内したという。

 ちょいらに嫉妬をしたのはいう間でもないが、英語を解し、なおかつ危険な人間からは遠ざかり無事に出産を済ませたピンキィの賢さに、私は、ただただ感服した。

 そのピンキィともお別れする日がきた。

 この町を離れるのだ。出発の日、私は一日かけて町を巡り、友人に挨拶して世話になった礼を言い、私亡き(?)後のピンキィをよろしく頼むとお願いしてまわった。その少し前にひと月程留守にしていた時があったのだが、その間、ピンキィはいつものコースをひたすら歩き回り、「ピンキィ、トゥマケ・こじちぇ(ピンキィはアンタを探していたよ)」との報告を顔馴染みのあちこちからうけていた。

 ピンキィとの別れは辛かった。

 相手が人間なら記念品も渡せるし、手紙だって書ける。しかしピンキィにはそれができない。首輪を編んで、ピンキィの首に巻きつけたが、私がいなくなれば、すぐに大人も含む悪ガキ共に外されてしまうだろう。

 日本に連れて行きたいが、唐辛子とマサラ(インド料理の基本となる調味料)で育ったピンキィには、醤油味でできた日本の食べ物が受け付けられるか定かではない。加えて気候の違いや環境の違い、生涯の大移動などで、高齢のピンキィに大きなストレスを与えたくはなかった。

 町を出るずっと前から、ピンキィには「むう、ぽれいび(近々出るよ)」と伝えていたが、オリーヤ語ではピンキィに通じていなかったようだ。列車の出発時間が近づいたのでリキシャに乗り(歩きだと情が残って列車に乗りそびれるのが必至の為)、道中では友人知人に手を振りながら駅まで向かったが、後でそのリキシャをピンキィが必死で追いかけていたと聞いて、胸がいっぱいになった。

 それから二年以上の時が流れた。始めのうちはその町の友人への手紙に「ピンキィは元気か?」と訊けるだけの余裕があったが、今はとてもできない。犬にとって、二年という時間がとてつもなく長い歳月を意味する事を考えると、恐ろしくて答えを聞く事ができないのだ。万一、ピンキィに何か起こったとしても、私の友人達はわざわざそれを私に教えようとはしないだろう。私がこの目で確かめない限り、今のピンキィについての情報を得る手段は、何もない。

 早く印度に帰らなければ、早くピンキィに会いに行かなければと、焦る毎日が続いている。 

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