ラオス人(以下ラオ人)は陽気な民だ。
いつも笑っている。
中国商人に横暴な態度(売ってやっているんだぞという意識が丸出し)で接されようが、ファラン(ラオ語で外人の意)が何か怒鳴ろうが、水牛が路上販売の野菜を食い荒らそうが、「フー!」という甲高い喚声とともに、何があっても笑っている素朴な山の民だ。
私はどこの町(村といってもよい)にいっても彼らの笑顔に接し、家を訪ね按摩をし、村ごと仲良くなり、なかなか離れられずに困った。
そのラオス滞在で女性の涙、失恋につきあったことがある。
ポク。それが彼女の呼び名(ラオ周辺の国の人々は、普通本名以外の呼び名をもつ)だった。
ポクは私の外人らしくない身なりに親しみを持ってくれたらしく、私には人一倍親切だった。私も村を按摩してまわったあと、ポクの雑貨屋の店先に座って時間をつぶすのが日課になった。
「もう飲み水は買うことないよ」と自分の家に常備している飲料水をボトルに入れて無理に持たせてくれるポク。そんなポクに、実は水道水を飲んでいる(これは外人旅行者だけでなく、ラオ人もやっていないとこの時初めて知った)とは口が割けても言えず、「こぷちゅう・えっえっ(ありがとうの意を持つラオ語こぷちゃい・らいらいの方言)」と貰い続けていたのを思い出す。
ポクはある日、「こい・みーふぇん・ファラン・れお(私には白人の恋人がいる)」と私に言った。写真も見せてくれた。
その相手の男はアメリカ人で名前はジョン(と記憶している)。一年前にこの村を訪れポクと恋仲になり、大きな町へ二人で小旅行に行ったこともあるそうだ。ポクは、今も旅行を続け、アラブ某国にいるジョンとのEメールのやり取りを励みに、今を生きているように見えた。
しかし、いくら雑貨店をまかされているといっても、主に外人が利用するインターネットカフェに毎日通うのは、経済的にも技術的にも楽なことではないだろう。ポクは、私にネットカフェに同伴することを頼み、私は彼女の下書きしたラブレターを代打するようになった。私自身も経済的に技術的に、メールをする習慣があまりなかった上に人の手紙を読むことに後ろめたさを感じてしまい、あまり乗り気ではなかったのだが、ポクは、そんな私であっても、頼る事で何か支えが欲しかったのかもしれない。
ある日、ポクはいつものラブレターに〈結婚〉の文字を入れた。私は焦った。
私にだってポクの気持ちは理解できる。が、私は同じ旅行者として、本国の暮らしが待っている旅行中のジョンの気持も、充分に理解できるつもりだった。しかも、ジョンはポクを置いて、アラブ旅行を楽しんでいるのである。彼がポクの結婚の申し出に同意するとは、とても思えなかったのだ。躊躇する私の手を引っ張り、ポクはネットカフェへ向かった。私は引きずられ、結局そのラブレターを代打するハメになった。
次の日、返信が来た。長い長い文章だった。ポクは英語の長文を読むことに慣れておらず、私もまた、その長文を瞬時に翻訳できるほど、ラオ語は上手くはなかった。ただ、ジョンが誠実に、ポクをなだめるように、〈結婚〉を回避しているのは読みとれた。その誠実さに私は打たれたので、私はポクに「もーぺんにゃん(大丈夫)」「ジョン、こんディー(ジョンはいい奴だ)」を繰り返しながら、その文章を紙に書き写していった。
その晩、ポクの雑貨屋に、ポクの友人でガイドをやっている男が来た。私の書き写したジョンのメールをポクに翻訳して聞かせていく。曰く――
“僕はまだ学生であり、この旅行が終わったら、本国アメリカでの学生生活が待っている。結婚の事は今は考えられない。その話はもう少し待ってくれないか―”
私はいちいち他人の手紙の内容など覚えていないのだが、多分そんな風な主旨だったと思う。第三者の私が見ればそれは想像した答えとほとんど変わりなく、もちろん驚くべき事柄など何もない。が、それを聞いていたポクの目は見る見る涙であふれてきた。
「・・・ジョンにはほかに女の人がいるんだ!」
思わぬ展開に私はかけるべき言葉がない。
ポクの友人のガイド男と顔を見合わせたが、彼にもポクに対して何ができるわけでもないだろう。私はその晩はポカンとしながらも、ないているポクの側にいてやること以外できなかった。
翌日、ポクはまた私に、メールの代打を頼んできた。便箋4枚はあったろうか、小さな文字でびっしり書き詰めてある。これがあのガイド男の代筆であることはすぐにわかった。曰く――
“あなたには私のほかにも恋人がいた。何故それを言ってくれなかったのか。私はあなたを信じていたのに、あなたはその気持ちを裏切った・・・云々かんぬん”
単語を変え表現を変え、同じ様な意味の言葉を何度も何度も繰り返す。私は驚き、そして呆れた。これは冗談であろう。まさかここに書いてあること全部、私にタイプさせる訳ではあるまい・・・。ポクとガイド男は笑った。
「これだけ書けば、ジョンは怒るよな。」
・・・私は口がきけなかった。
そもそもジョンは一言も、ポク以外の女性の事など言ってはいないのだ。
私にとって、陽気で素朴な山の民であったラオ人の、執念深い面を初めて見せつけられた気分だった。
この二人は一体、どういうつもりでこんな文章を作ったのだろう?
ジョンとの仲を終わらせたいのだろうか?
さすがに会ったこともないジョンが気の毒になったが、断りきれず再びあの長いメールを打たされてしまう自分にも嫌悪感をもってしまった。
また返事が来た。ジョンは泣いているように見えた。弁明と懇願。長いメールを書き写すのも、それを読んで真剣に策を練るポクとガイド男を見るのも、いい加減に嫌になってきた。ラオ語は英語と同じ語順なので、文末まで読まずに同時通訳をする事ができる。ガイド男がぽんぽんと訳す。それに耳を傾けるポクの涙は、前日ほどには濡れていなかった。
一区切りつき、いつもの様に店先にポクと一緒に座り、行き交う人々を眺める。買い物帰りのおばちゃんに声をかけ、向かいの店の兄ちゃんと道路越しに挨拶する。隣ではベトナム人の店から夫婦喧嘩の派手な音が聞こえてくる。
いつもの風景といつもの空気に浸っていると、一旦奥に引っ込んでいたポクが何か持って戻ってきた。手紙の束だ。その中の一通をポクが得意気に見せてくれた。英語だった。
“・・・元気ですか?以前、君が言っていた学費の足しに少し送ります。足りなかったらいつでも言ってくれ。英語が上達することを祈ってるよ・・・”
その手紙には百ドル札が同封されていたとポクは私に言った。思い出した。
ポクは外人がポクの店に来る度に、英語の学校に行くのが夢だと語っていた事を。ラオ人教師のクラスは安いが質が悪く、欧米人の教師がつくと百ドルかかる事をさりげなくつけ足していたのだ。
私を含めほとんどの客は「ふうん」と聞き入り、その話はいつもそこで終わる。深入りする事はない。だが客のうちの何人かは、こうして覚えていて形にしてくれるのであろう。その手紙の主はポクから見たら父親ほど年の離れたイタリア人で、もちろん特別な関係はないとポクは私の目を見て言った。
何を思ったのか、ポクは更に紙を広げて、返事のコピーを見せてくれた。
“――感謝しています。またいつか、きっと私に会いに来てください。私はあなたとの結婚を夢みて、勉強に励みます。”
私は訊いた。「それ誰に書いたの」
ポクは答える。「このイタリア人。」
私「学校には行ったの?」
ポク「行ってない。」
私「この結婚いうのは?」
ポクはにっこり笑った。「こい・ぼーディの(私、よくないね)」
私は諒解した。
ポクは世界中の女がやっている事と同じ事をやっていただけなのだ。
ポクの店に来る女友達も、娼婦だったり、恋人が日本人だったり、皆今を生きるために一生懸命なのだ。そんな彼女たちに「じゃお・ぼーディの(アンタは悪い)」という度胸は、私にはない。
ジョンとよりが戻り、メールに再びアイラブユーを連打するようになった頃、私は、その村をあとにした。
あれから5年。当時23歳だったポクと、その周辺の人たちはどうなったろう。
発展していくラオ国。成長したポク。
ラオの人たちの笑顔に再び会う日を楽しみに、私も今を生きている。
その時に備えて、私も、もっと女の処世術を、勉強しておこう。
いつも笑っている。
中国商人に横暴な態度(売ってやっているんだぞという意識が丸出し)で接されようが、ファラン(ラオ語で外人の意)が何か怒鳴ろうが、水牛が路上販売の野菜を食い荒らそうが、「フー!」という甲高い喚声とともに、何があっても笑っている素朴な山の民だ。
私はどこの町(村といってもよい)にいっても彼らの笑顔に接し、家を訪ね按摩をし、村ごと仲良くなり、なかなか離れられずに困った。
そのラオス滞在で女性の涙、失恋につきあったことがある。
ポク。それが彼女の呼び名(ラオ周辺の国の人々は、普通本名以外の呼び名をもつ)だった。
ポクは私の外人らしくない身なりに親しみを持ってくれたらしく、私には人一倍親切だった。私も村を按摩してまわったあと、ポクの雑貨屋の店先に座って時間をつぶすのが日課になった。
「もう飲み水は買うことないよ」と自分の家に常備している飲料水をボトルに入れて無理に持たせてくれるポク。そんなポクに、実は水道水を飲んでいる(これは外人旅行者だけでなく、ラオ人もやっていないとこの時初めて知った)とは口が割けても言えず、「こぷちゅう・えっえっ(ありがとうの意を持つラオ語こぷちゃい・らいらいの方言)」と貰い続けていたのを思い出す。
ポクはある日、「こい・みーふぇん・ファラン・れお(私には白人の恋人がいる)」と私に言った。写真も見せてくれた。
その相手の男はアメリカ人で名前はジョン(と記憶している)。一年前にこの村を訪れポクと恋仲になり、大きな町へ二人で小旅行に行ったこともあるそうだ。ポクは、今も旅行を続け、アラブ某国にいるジョンとのEメールのやり取りを励みに、今を生きているように見えた。
しかし、いくら雑貨店をまかされているといっても、主に外人が利用するインターネットカフェに毎日通うのは、経済的にも技術的にも楽なことではないだろう。ポクは、私にネットカフェに同伴することを頼み、私は彼女の下書きしたラブレターを代打するようになった。私自身も経済的に技術的に、メールをする習慣があまりなかった上に人の手紙を読むことに後ろめたさを感じてしまい、あまり乗り気ではなかったのだが、ポクは、そんな私であっても、頼る事で何か支えが欲しかったのかもしれない。
ある日、ポクはいつものラブレターに〈結婚〉の文字を入れた。私は焦った。
私にだってポクの気持ちは理解できる。が、私は同じ旅行者として、本国の暮らしが待っている旅行中のジョンの気持も、充分に理解できるつもりだった。しかも、ジョンはポクを置いて、アラブ旅行を楽しんでいるのである。彼がポクの結婚の申し出に同意するとは、とても思えなかったのだ。躊躇する私の手を引っ張り、ポクはネットカフェへ向かった。私は引きずられ、結局そのラブレターを代打するハメになった。
次の日、返信が来た。長い長い文章だった。ポクは英語の長文を読むことに慣れておらず、私もまた、その長文を瞬時に翻訳できるほど、ラオ語は上手くはなかった。ただ、ジョンが誠実に、ポクをなだめるように、〈結婚〉を回避しているのは読みとれた。その誠実さに私は打たれたので、私はポクに「もーぺんにゃん(大丈夫)」「ジョン、こんディー(ジョンはいい奴だ)」を繰り返しながら、その文章を紙に書き写していった。
その晩、ポクの雑貨屋に、ポクの友人でガイドをやっている男が来た。私の書き写したジョンのメールをポクに翻訳して聞かせていく。曰く――
“僕はまだ学生であり、この旅行が終わったら、本国アメリカでの学生生活が待っている。結婚の事は今は考えられない。その話はもう少し待ってくれないか―”
私はいちいち他人の手紙の内容など覚えていないのだが、多分そんな風な主旨だったと思う。第三者の私が見ればそれは想像した答えとほとんど変わりなく、もちろん驚くべき事柄など何もない。が、それを聞いていたポクの目は見る見る涙であふれてきた。
「・・・ジョンにはほかに女の人がいるんだ!」
思わぬ展開に私はかけるべき言葉がない。
ポクの友人のガイド男と顔を見合わせたが、彼にもポクに対して何ができるわけでもないだろう。私はその晩はポカンとしながらも、ないているポクの側にいてやること以外できなかった。
翌日、ポクはまた私に、メールの代打を頼んできた。便箋4枚はあったろうか、小さな文字でびっしり書き詰めてある。これがあのガイド男の代筆であることはすぐにわかった。曰く――
“あなたには私のほかにも恋人がいた。何故それを言ってくれなかったのか。私はあなたを信じていたのに、あなたはその気持ちを裏切った・・・云々かんぬん”
単語を変え表現を変え、同じ様な意味の言葉を何度も何度も繰り返す。私は驚き、そして呆れた。これは冗談であろう。まさかここに書いてあること全部、私にタイプさせる訳ではあるまい・・・。ポクとガイド男は笑った。
「これだけ書けば、ジョンは怒るよな。」
・・・私は口がきけなかった。
そもそもジョンは一言も、ポク以外の女性の事など言ってはいないのだ。
私にとって、陽気で素朴な山の民であったラオ人の、執念深い面を初めて見せつけられた気分だった。
この二人は一体、どういうつもりでこんな文章を作ったのだろう?
ジョンとの仲を終わらせたいのだろうか?
さすがに会ったこともないジョンが気の毒になったが、断りきれず再びあの長いメールを打たされてしまう自分にも嫌悪感をもってしまった。
また返事が来た。ジョンは泣いているように見えた。弁明と懇願。長いメールを書き写すのも、それを読んで真剣に策を練るポクとガイド男を見るのも、いい加減に嫌になってきた。ラオ語は英語と同じ語順なので、文末まで読まずに同時通訳をする事ができる。ガイド男がぽんぽんと訳す。それに耳を傾けるポクの涙は、前日ほどには濡れていなかった。
一区切りつき、いつもの様に店先にポクと一緒に座り、行き交う人々を眺める。買い物帰りのおばちゃんに声をかけ、向かいの店の兄ちゃんと道路越しに挨拶する。隣ではベトナム人の店から夫婦喧嘩の派手な音が聞こえてくる。
いつもの風景といつもの空気に浸っていると、一旦奥に引っ込んでいたポクが何か持って戻ってきた。手紙の束だ。その中の一通をポクが得意気に見せてくれた。英語だった。
“・・・元気ですか?以前、君が言っていた学費の足しに少し送ります。足りなかったらいつでも言ってくれ。英語が上達することを祈ってるよ・・・”
その手紙には百ドル札が同封されていたとポクは私に言った。思い出した。
ポクは外人がポクの店に来る度に、英語の学校に行くのが夢だと語っていた事を。ラオ人教師のクラスは安いが質が悪く、欧米人の教師がつくと百ドルかかる事をさりげなくつけ足していたのだ。
私を含めほとんどの客は「ふうん」と聞き入り、その話はいつもそこで終わる。深入りする事はない。だが客のうちの何人かは、こうして覚えていて形にしてくれるのであろう。その手紙の主はポクから見たら父親ほど年の離れたイタリア人で、もちろん特別な関係はないとポクは私の目を見て言った。
何を思ったのか、ポクは更に紙を広げて、返事のコピーを見せてくれた。
“――感謝しています。またいつか、きっと私に会いに来てください。私はあなたとの結婚を夢みて、勉強に励みます。”
私は訊いた。「それ誰に書いたの」
ポクは答える。「このイタリア人。」
私「学校には行ったの?」
ポク「行ってない。」
私「この結婚いうのは?」
ポクはにっこり笑った。「こい・ぼーディの(私、よくないね)」
私は諒解した。
ポクは世界中の女がやっている事と同じ事をやっていただけなのだ。
ポクの店に来る女友達も、娼婦だったり、恋人が日本人だったり、皆今を生きるために一生懸命なのだ。そんな彼女たちに「じゃお・ぼーディの(アンタは悪い)」という度胸は、私にはない。
ジョンとよりが戻り、メールに再びアイラブユーを連打するようになった頃、私は、その村をあとにした。
あれから5年。当時23歳だったポクと、その周辺の人たちはどうなったろう。
発展していくラオ国。成長したポク。
ラオの人たちの笑顔に再び会う日を楽しみに、私も今を生きている。
その時に備えて、私も、もっと女の処世術を、勉強しておこう。