アフリカ人には全般的に奴隷根性が備わっている。
これが日本人の私には理解できない。
彼らの体の中の細胞には、何世代にもわたって受け継がれてきた奴隷としての記憶が今でもしっかり根づいている。白人には敵わない。黒人にはごつい体格の大男がうじゃうじゃいるので、体力勝負だけだったら、歴史的にあんなにもやられる事はなかったであろう。
白人に憧れる。写真屋はでき得る限り、黒い肌を白い肌に近づけて現像をする。仲間うちでもより黒い奴はからかわれる。
少しお金に余裕が出来ると、縮れ毛を伸ばすことに専念する。金髪に染める輩も多い。
旧宗主国の言葉(英語や仏語など)は、その国の公用語として使われる。百以上ある多言語社会を統一するには、これが一番、けんかにならない方法だ。
そんなアフリカ人の妬みの矛先は、インド人やレバノン人などの、白人でない余所者だ。東南アジアで華僑が妬まれるように、勤勉で成功している余所者は、地元民から恨みもかいやすい。
暴動があると、真っ先に襲撃される。コートジボワールで、暴動により店の一切合財を奪われ、数ヶ月経っても立ち直れないレバノン人に会った事もあった。
私がナイジェリア北部で会った印度人(実際にはパキスタン出身)は、主に外国人と印度人(商売人だけでなく、出稼ぎ労働者もいる)相手の印度料理レストランをやっていた。
レッドワン。それが、そのレストランのオーナーの名前だった。
印度に延べ一年以上滞在していた私は、懐かしくて毎日のように遊びに行った。忘れかけていたヒンドゥー語(文字は別だが、発音はパキスタンのウルドゥー語とほぼ同じ)と覚えたてのハウサ語に苦心する私に、レッドワンはいつも(地元ハウサ式でない)印度のチャイ(ミルクティー)を入れてくれた。売り物ではないので、私は一度も支払いをした事がなかった。
正直印度でベンガル語を使っていた私には、彼の話すウルドゥー語は非常に難解で、レッドワンの方にしても、私の言葉は方言だらけで、ほとんど理解できなかっただろう。
しかし、私達には話題には尽きなかった。印度映画の話、印度料理の数々、そして異国に生活する者の経験談・・・。レッドワンには、印度の上流階級人にありがちな、ツンと澄ました雰囲気はなかった。周辺のハウサ人とも気さくに接する、温和な性格を持っていた。
そして一度、暴動の時に暴徒に切りつけられたという腕の傷跡を見せてくれた。
「今でも怖いよ」
そう、ハウサ人のともに話しているのを聞いた事がある。
レッドワンには奥さんと小学生の男の子もいるのだ。家族の安全を考えたら、ナイジェリアは決して住みやすい国ではないだろう。
ある日、役人がレッドワンの店に来た。
レッドワンと話をしていたが、店内にいる私に気がついて、こっちにやってきた。パスポートの提示を求められる。役人は私の想像どおり、難しい顔をして私のパスポートに難癖をつけ始めた。私は平静を装ってはいたが、はらわたは熱く煮えくり返っていた。
結局、役人はケチをつけるだけつけると、賄賂の要求をする事もなく、店を出ていった。無事で済んだのは、レッドワンのお陰かもしれない。レッドワンは終始にこやかに、誠意をもって、こうるさい役人に対応していたのだ。
そもそも役人がレッドワンの店に来たのも、恐らくたいした用事ではあるまい。私のみたところ、こうやって役人が来るのは日常的な事のようだった。そしてレッドワンの対応の様子は、完全に慣れていたそれだった。
暴動や内戦、地元民の妬みに役人の嫌がらせ・・・ レッドワンは様々な圧力の中で、このナイジェリアを生き抜いてきたのだ。レッドワンは、一家でアメリカに移住する計画があると言った。いつになるかわからないが、準備をすすめているという。そういえば彼の小さな男の子は、母親(細見の控え目な笑顔を見せるパキスタン美人だった)との会話に母国語のウルドゥー語ではなく、英語をつかっていた。上流階級にはよく見られる傾向だが、これも異国で暮らすための、レッドワン夫妻の知恵なのだろう。
出発する前日、レッドワンの店に挨拶に行った。最後くらい路上の屋台でなく、レッドワンの印度料理で散財しようと思ったが、またご馳走されてしまい、とうとう一度も支払う事ができなかった。
新しく雇ったネパール人(バラモン特有の整った顔立ちをしている)のシェフと共に新作メニューを練るレッドワンに、モロッコで買った料理雑誌(フランスからの流れ物なので、質は非常に良い)を今までのお礼に渡した。これしか喜びそうな物がなかったからだが、正解だったようだ。
私はいつかこの町に戻って来ると言った。
レッドワンとしては、できることなら、すぐにでも移住したいと思っているだろう。私が戻ってきても、もう会う事もないかもしれない。
しかしたとえ会えなくても、私は、ナイジェリアであった思い出深いパキスタン人として、地元の人にも親しまれるレッドワン一家の三人を忘れる事はないだろう。
これが日本人の私には理解できない。
彼らの体の中の細胞には、何世代にもわたって受け継がれてきた奴隷としての記憶が今でもしっかり根づいている。白人には敵わない。黒人にはごつい体格の大男がうじゃうじゃいるので、体力勝負だけだったら、歴史的にあんなにもやられる事はなかったであろう。
白人に憧れる。写真屋はでき得る限り、黒い肌を白い肌に近づけて現像をする。仲間うちでもより黒い奴はからかわれる。
少しお金に余裕が出来ると、縮れ毛を伸ばすことに専念する。金髪に染める輩も多い。
旧宗主国の言葉(英語や仏語など)は、その国の公用語として使われる。百以上ある多言語社会を統一するには、これが一番、けんかにならない方法だ。
そんなアフリカ人の妬みの矛先は、インド人やレバノン人などの、白人でない余所者だ。東南アジアで華僑が妬まれるように、勤勉で成功している余所者は、地元民から恨みもかいやすい。
暴動があると、真っ先に襲撃される。コートジボワールで、暴動により店の一切合財を奪われ、数ヶ月経っても立ち直れないレバノン人に会った事もあった。
私がナイジェリア北部で会った印度人(実際にはパキスタン出身)は、主に外国人と印度人(商売人だけでなく、出稼ぎ労働者もいる)相手の印度料理レストランをやっていた。
レッドワン。それが、そのレストランのオーナーの名前だった。
印度に延べ一年以上滞在していた私は、懐かしくて毎日のように遊びに行った。忘れかけていたヒンドゥー語(文字は別だが、発音はパキスタンのウルドゥー語とほぼ同じ)と覚えたてのハウサ語に苦心する私に、レッドワンはいつも(地元ハウサ式でない)印度のチャイ(ミルクティー)を入れてくれた。売り物ではないので、私は一度も支払いをした事がなかった。
正直印度でベンガル語を使っていた私には、彼の話すウルドゥー語は非常に難解で、レッドワンの方にしても、私の言葉は方言だらけで、ほとんど理解できなかっただろう。
しかし、私達には話題には尽きなかった。印度映画の話、印度料理の数々、そして異国に生活する者の経験談・・・。レッドワンには、印度の上流階級人にありがちな、ツンと澄ました雰囲気はなかった。周辺のハウサ人とも気さくに接する、温和な性格を持っていた。
そして一度、暴動の時に暴徒に切りつけられたという腕の傷跡を見せてくれた。
「今でも怖いよ」
そう、ハウサ人のともに話しているのを聞いた事がある。
レッドワンには奥さんと小学生の男の子もいるのだ。家族の安全を考えたら、ナイジェリアは決して住みやすい国ではないだろう。
ある日、役人がレッドワンの店に来た。
レッドワンと話をしていたが、店内にいる私に気がついて、こっちにやってきた。パスポートの提示を求められる。役人は私の想像どおり、難しい顔をして私のパスポートに難癖をつけ始めた。私は平静を装ってはいたが、はらわたは熱く煮えくり返っていた。
結局、役人はケチをつけるだけつけると、賄賂の要求をする事もなく、店を出ていった。無事で済んだのは、レッドワンのお陰かもしれない。レッドワンは終始にこやかに、誠意をもって、こうるさい役人に対応していたのだ。
そもそも役人がレッドワンの店に来たのも、恐らくたいした用事ではあるまい。私のみたところ、こうやって役人が来るのは日常的な事のようだった。そしてレッドワンの対応の様子は、完全に慣れていたそれだった。
暴動や内戦、地元民の妬みに役人の嫌がらせ・・・ レッドワンは様々な圧力の中で、このナイジェリアを生き抜いてきたのだ。レッドワンは、一家でアメリカに移住する計画があると言った。いつになるかわからないが、準備をすすめているという。そういえば彼の小さな男の子は、母親(細見の控え目な笑顔を見せるパキスタン美人だった)との会話に母国語のウルドゥー語ではなく、英語をつかっていた。上流階級にはよく見られる傾向だが、これも異国で暮らすための、レッドワン夫妻の知恵なのだろう。
出発する前日、レッドワンの店に挨拶に行った。最後くらい路上の屋台でなく、レッドワンの印度料理で散財しようと思ったが、またご馳走されてしまい、とうとう一度も支払う事ができなかった。
新しく雇ったネパール人(バラモン特有の整った顔立ちをしている)のシェフと共に新作メニューを練るレッドワンに、モロッコで買った料理雑誌(フランスからの流れ物なので、質は非常に良い)を今までのお礼に渡した。これしか喜びそうな物がなかったからだが、正解だったようだ。
私はいつかこの町に戻って来ると言った。
レッドワンとしては、できることなら、すぐにでも移住したいと思っているだろう。私が戻ってきても、もう会う事もないかもしれない。
しかしたとえ会えなくても、私は、ナイジェリアであった思い出深いパキスタン人として、地元の人にも親しまれるレッドワン一家の三人を忘れる事はないだろう。