海を渡るシブタ

5年10ヶ月に渡るシブタの足あと~アジア・アフリカ版~

〈11〉レッドワン ~厳しい異境の地に生きる印僑モスリム

2006-03-21 23:16:47 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 アフリカ人には全般的に奴隷根性が備わっている。

 これが日本人の私には理解できない。

 彼らの体の中の細胞には、何世代にもわたって受け継がれてきた奴隷としての記憶が今でもしっかり根づいている。白人には敵わない。黒人にはごつい体格の大男がうじゃうじゃいるので、体力勝負だけだったら、歴史的にあんなにもやられる事はなかったであろう。
 
 白人に憧れる。写真屋はでき得る限り、黒い肌を白い肌に近づけて現像をする。仲間うちでもより黒い奴はからかわれる。
 
 少しお金に余裕が出来ると、縮れ毛を伸ばすことに専念する。金髪に染める輩も多い。
 
 旧宗主国の言葉(英語や仏語など)は、その国の公用語として使われる。百以上ある多言語社会を統一するには、これが一番、けんかにならない方法だ。
 
 そんなアフリカ人の妬みの矛先は、インド人やレバノン人などの、白人でない余所者だ。東南アジアで華僑が妬まれるように、勤勉で成功している余所者は、地元民から恨みもかいやすい。
 
 暴動があると、真っ先に襲撃される。コートジボワールで、暴動により店の一切合財を奪われ、数ヶ月経っても立ち直れないレバノン人に会った事もあった。
 
 私がナイジェリア北部で会った印度人(実際にはパキスタン出身)は、主に外国人と印度人(商売人だけでなく、出稼ぎ労働者もいる)相手の印度料理レストランをやっていた。
 
 レッドワン。それが、そのレストランのオーナーの名前だった。
 
 印度に延べ一年以上滞在していた私は、懐かしくて毎日のように遊びに行った。忘れかけていたヒンドゥー語(文字は別だが、発音はパキスタンのウルドゥー語とほぼ同じ)と覚えたてのハウサ語に苦心する私に、レッドワンはいつも(地元ハウサ式でない)印度のチャイ(ミルクティー)を入れてくれた。売り物ではないので、私は一度も支払いをした事がなかった。
 
 正直印度でベンガル語を使っていた私には、彼の話すウルドゥー語は非常に難解で、レッドワンの方にしても、私の言葉は方言だらけで、ほとんど理解できなかっただろう。
 
 しかし、私達には話題には尽きなかった。印度映画の話、印度料理の数々、そして異国に生活する者の経験談・・・。レッドワンには、印度の上流階級人にありがちな、ツンと澄ました雰囲気はなかった。周辺のハウサ人とも気さくに接する、温和な性格を持っていた。
 
 そして一度、暴動の時に暴徒に切りつけられたという腕の傷跡を見せてくれた。
 
 「今でも怖いよ」
 そう、ハウサ人のともに話しているのを聞いた事がある。
 
 レッドワンには奥さんと小学生の男の子もいるのだ。家族の安全を考えたら、ナイジェリアは決して住みやすい国ではないだろう。
 
 ある日、役人がレッドワンの店に来た。
 
 レッドワンと話をしていたが、店内にいる私に気がついて、こっちにやってきた。パスポートの提示を求められる。役人は私の想像どおり、難しい顔をして私のパスポートに難癖をつけ始めた。私は平静を装ってはいたが、はらわたは熱く煮えくり返っていた。
 
 結局、役人はケチをつけるだけつけると、賄賂の要求をする事もなく、店を出ていった。無事で済んだのは、レッドワンのお陰かもしれない。レッドワンは終始にこやかに、誠意をもって、こうるさい役人に対応していたのだ。
 
 そもそも役人がレッドワンの店に来たのも、恐らくたいした用事ではあるまい。私のみたところ、こうやって役人が来るのは日常的な事のようだった。そしてレッドワンの対応の様子は、完全に慣れていたそれだった。
 
 暴動や内戦、地元民の妬みに役人の嫌がらせ・・・ レッドワンは様々な圧力の中で、このナイジェリアを生き抜いてきたのだ。レッドワンは、一家でアメリカに移住する計画があると言った。いつになるかわからないが、準備をすすめているという。そういえば彼の小さな男の子は、母親(細見の控え目な笑顔を見せるパキスタン美人だった)との会話に母国語のウルドゥー語ではなく、英語をつかっていた。上流階級にはよく見られる傾向だが、これも異国で暮らすための、レッドワン夫妻の知恵なのだろう。

 出発する前日、レッドワンの店に挨拶に行った。最後くらい路上の屋台でなく、レッドワンの印度料理で散財しようと思ったが、またご馳走されてしまい、とうとう一度も支払う事ができなかった。

 新しく雇ったネパール人(バラモン特有の整った顔立ちをしている)のシェフと共に新作メニューを練るレッドワンに、モロッコで買った料理雑誌(フランスからの流れ物なので、質は非常に良い)を今までのお礼に渡した。これしか喜びそうな物がなかったからだが、正解だったようだ。

 私はいつかこの町に戻って来ると言った。

 レッドワンとしては、できることなら、すぐにでも移住したいと思っているだろう。私が戻ってきても、もう会う事もないかもしれない。

 しかしたとえ会えなくても、私は、ナイジェリアであった思い出深いパキスタン人として、地元の人にも親しまれるレッドワン一家の三人を忘れる事はないだろう。

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〈12〉梅花(メイファ) ~隣国ラオスで商売するたくましい中国人たち

2006-03-20 23:17:46 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 私は中国大陸には何度か行っている。
 
 私は中国に一歩入れば中国人だ。多少発音は悪くても(日本時の話す北京語は、えてして南方訛りに近い)、普通語(北京語)も満足に話せない田舎者として扱われる。切符を買うときも(ひと昔前まで外国人料金制度があった)、市場で買物をする時も、中国の衣類に身を包み、人民らしい風貌の私を誰ひとり日本人としては見ない。初めての町で、道を訊かれる事も良くあった。
 
 そんな私は、東南アジアでもアフリカ大陸でも中国人(大陸人、台湾人、華僑)には親切を受け、非常にお世話になった。今でも、もらった恩の数々は忘れていない。
 
 梅花は、ラオスで商売している中国人のひとりだった。私はラオスでは、ラオ人社会とともに中国人社会にも出入りをしていたので、市場では一緒に座り込んで物を売る中国人の手伝いをした事が何度かある。梅花は、中でも一番の仲良しだった。彼女とともにゴザを敷いて座っていると、中国人の目から見たラオスというのが実によく観察できたのだった。
 
 一般に、ラオスで中国人に「今何時?」と訊くと、「北京では3時、ラオス時間では2時だよ」という答えが返ってくる。最初は梅花だけかと思ったが、たまり場の中国飯店の壁時間(これは後に地元の警察により現地時間に直された)をはじめ、全ての中国人の腕時計が北京時間で合わされていた。中国人は、ラオスに来ても中国の時間で生活しているのだ。
 
 梅花のラオ人に対する物の売りつけ方は、それはひどい。梅花に限った事ではないが、彼女のは、よりひどい。商品の陳列などには構わない。古くなって汚れた商品があっても、売れるまでは新しくて綺麗な商品は出さない。見るだけ、値段をきくだけの輩には、わざと高い値をつけて追い出す。「きくだけきいて、買わないのは邪魔だ」と言いたて蹴散らす事もある。
 
 祭りの出店となると、怒鳴りつけながら売りつけている感じだ。客を客とも思わないのは中国大陸でも同じだが、ラオ人を相手にしていると、いっそう拍車がかかっているようだ。
 
 中国語で四はスー、十はシュー(舌巻音だが湖南省出身の梅花の発音はやや違う)というが、ラオ語では四はシー、十はシップである。梅花はラオ語で十の発音がうまくできない為、一万(10千、シッパンという言い方をよくする)というところを、よく中国風に”しゅーぱん”と言っていた。これがラオ人には”四千”といっている様に聞こえる。
 
 「四千キップ(ラオスの貨幣単位)だって、安~い!」呑気なラオ人が嬌声をあげる。「四千(しーぱん)じゃなくて十千(しゅーぱん)やあ!」
 
 両手を広げてみせて喚く梅花。見ている私には”快玩笑(冗談)”以外の何ものでもないが、梅花は真剣に、ラオ人に腹を立てていたのだった。
 
 梅花達中国人商売人は、護照(パスポート)を持ってラオスに入国するのではない。大部分の商人は、入国証のような紙切れ(七日間の滞在許可がある)にスタンプをもらい、その後は延長を繰り返しながらラオスと故郷を行き来している。
 
 ほとんど湖南省の出身者か泰族(泰族の言葉とラオ語では、口語はほぼ同じだ)である為、彼ら同士の結束は固い。ラオスの華僑とも多少のつきあいはあるようだが、大陸人同士の結びつきの方がより強いように私には見えた。
 
 梅花は私にはとても親切にしてくれた。笑みをたやさず、色々なおしゃべりをした。梅花は中国に残っている家族をとても大切にしている、人のよいおばさんだった。
 
 しかし、ラオ人に対しては温かくはなかった。
 
 ラオスで会った、ある日本人旅行者にこれらの話をした。その男性は言った。
 「中国人は、ラオスを、独立した国とは思ってないんだよ」
 
 なるほど。その通りだ。国と思ってないからこそ、中国に一部のように思っているからこそ、パスポートはいらないのだ、中国の時間で暮らせているのだ。中国人にとって、ラオスの国民は山の蛮族に過ぎないのだ。
 
 中国の性根が悪いのではなく(これには諸説あるだろうが)、単に価値観の違いなのである。私は梅花が好きだ。中国飯店に出入りしている中国人も、そこの老板(主人)一家も、名前を呼びあい、按摩をし、彼らの晩餐にもつきあう仲である。
 
 そして私はラオ人のことも大好きだ。素朴で呑気な山の民。彼らの友好的な態度に私はすっかり浮かれて、村々を歩きまわり、家に入って按摩をし、ラオスの焼酎、ラオラオ(アルコール分が八十パーセントあるという)に酔い、歌って踊って毎日を過ごしていた。
 
 しかし、中国人がラオ人を蔑み、ラオ人が中国人を嫌う。これは、私がどうしたって、解決できるものではない。日本人観光客の間に入る事さえ滅多にない私なのだ。どうして異国間の仲介に入る事ができるだろう。
 
 ただの一観光客、いち按摩師でもいいか。もう一度、ラオスに帰ろう。
 
 そして、ラオ人社会に、中国人社会に入って、懐かしい旧友に再会する事が、私のラオスに帰る目的である。

 国籍など関係なく、ラオスには、たくさんの友達と、笑顔が待っているのだ・・・。

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〈13〉かおり姐 ~留守中に見事な変身を遂げた素敵な日本の女性

2006-03-19 23:20:17 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 先日、かおり姐に会った。

 かおり姐は旅行中に出会った友人ではない。この旅行記にはそぐわないかもしれないが、旅行前からの古い友人で、今も変らぬ交友を続けている。

 そして、旅行中に非常にお世話になった人でもあるのだ。かおり姐は六年以上も、私の荷物を預かってくれていたのである。
 
 七年前、私達は同じ職場の仲間だった。五歳年上のかおり姐は私にとって人生の先輩であり、よき相談相手でも会った。私達は他の仲間たちと共に昼食を食べ、時には仕事のあとに揃って外食に出かける事もあった。かおり姐は常に先頭に立ち、皆のまとめ役になっていた。

 当時は仲間のほとんどが独身で二十代、年長のかおり姐も独身で、生涯結婚することはないと公言していた。そのキャリアウーマンぶりが、私にはとても魅力的に見えた。

 私が仕事を辞め、旅行の準備をしていた頃、かおり姐が荷物の保管を申し出てくれたのだ。部屋を空けてしまった私にはとても有難く、かおり姐の気持ちに感謝し、あまえてしまった。たくさんの人の気持ちを受けて、私は、旅に出発した。
 
 旅行に出て一年半後、私は一時帰国をした。十日間の短期滞在中に、かおり姐と会う機会を作った。

 かおり姐は結婚していた。
 幸せそうな笑みを浮かべ、この一年半の間に起こった事を報告してくれた。

 私が旅に出た直後に夫となる人と知り合い、相思相愛の仲になり、すぐに結婚を決意したという。彼の方もかおり姐の意志をとても尊重してくれ、大きな問題もなくすんなり家庭にはいれたという。

 私はかおり姐の変わりように目をみはった。以前の仕事師ぶりは微塵もなく、家庭を守る主婦の姿がそこにはあった。一生、独身を貫くのではなかったのか。仕事に生きるのではなかったのか。会う前に抱いていた疑問はかおり姐の誇りに満ちた笑顔をみていたら、自然に消しとんでしまった。なんだかこっちまで結婚してしまった様な、幸せな気分になってしまった。
 
 その時、かおり姐は、赤ちゃんができたかもしれないと秘密めいた口調でいった。
 --まだわからへんけどね。心配するといけないから誰にも言うてへんねん。
 
 刺激になっては困ると思い、按摩をするのはやめてひたすら話す事に没頭していた。
 
 私は、次の帰国後に会うのを楽しみ、再度、日本を発った。

 私は旅行中はあまり連絡をとらない。Eメールや手紙を書いたりはするが、電気事情や郵便事情がよくなかったらそれまでだ。それに加え、私の旅行中の時間の流れと日本で生活する人達の時間の流れは、決定的に違う。現地の生活をする私と日本の家庭を守るかおり姐の間には、連絡をとる手段が、全くといっていいいほどなかった。
 
 私はかおり姐のお腹にいた小さな粒がどうなったかのさえもわからず、期待と心配をおりまぜて、数年経ってから帰国した。
 
 帰国して、大阪に戻ってすぐ、かおり姐と再会した。
 
 かおり姐のお腹にいた小さな粒は、四才の元気な女の子になっていた。よく笑い、よくしゃべり、大きな声を出しながら家中を走り回る。なんとその女の子には妹までできていた。初めて見る私に人みしりをして、離れたところからじっとこちらを窺っている。

 かおり姐は、以前にも増して、立派な主婦となり、お母さんになっていた。

 幾度か会ううちに人みしりの激しかった下の女の子も私に懐くようになり、「シブちゃん、シブちゃん」と呼ばれながら一緒に公園を走り回るようになった。子供の相手をするのに慣れていない私には重労働であったが、かおり姐はでんとして上手に遊び相手をしていた。

 私が日本にいなかった五年十ヶ月の間、ほとんどの旧友たちは生活を変えていた。結婚した友人、出産した友人、離婚した友人、それら全部を済ませてしまった友人、孫ができた年上の友人もいる。音信不通になったしまった友人も少なからずいた。

 その中でもかおり姐は、見事なまでに変身した友人のひとりだ。私の出国時にもっとも心配してくれた仲間のひとりであるかおり姐。そんなかおり姐の幸せな顔をみるのは、とてもうれしいものだ。
 
 以前は同じ職場の仲間だったかおり姐。現在は私と両極端の位置にいるかおり姐。

 私がかおり姐の人生をとても敬意をもってみている様に、かおり姐の方も私の行動を意味ある事とみていると、私は、思っている。

 私たちの交友は、すでに親子二代にわたって続こうとしているのだ。

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〈14〉スイートと南さん ~カレン難民に、知と希望を与えつづける夫妻

2006-03-18 23:21:08 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 スイートは、もともとカレン難民だ。

 ビルマ(ミャンマーよりこの国名の方が親しまれている)からの独立を宣言しているカレン族は、半世紀もの長い間、ビルマ政府と戦争を続けている。

 戦禍を逃れて隣国タイに逃げ込むカレン族も多い。外交上手なタイの国内には、数多くのカレン族難民キャンプがある。

 スイートは以前難民キャンプで生活していた。キャンプ内で教育を受け、カレン語だけでなくビルマ語、タイ語、そして英語を覚えた。その後タイ国籍を取得し、今はタイ側の国境の町に移り、難民のためのNGO(アメリカ出資)で働いている。

 その頃、私はカレン難民のための無料診療所に通って、入院患者さんに按摩をしていた。そしてボランティア仲間の紹介で、スイートと知りあった。

 スイートの語学力は確かだった。カレン訛りはあるものの、ビルマ語やタイ語も流暢に話す。英語にいたっては他のキャンプ出身の学生達より格段にうまい。それで、彼女は訪れる外人ボランティアにとってよい通訳となり、結果白人の友達を沢山持っていた。

 しかし、スイートは主に欧州の人が多いボランティアの中でも、特に日本人が好きなようだった。難民キャンプや診療所に来るボランティアや見学者の中で、日本人を含むアジア人の割合は、とても少ない。それなのに、日本人に好意をもつスイートを不思議に思う私に、スイートは理由を教えてくれた。スイートには、日本人の恋人がいたのだった。

 名前を南さんといった。

 スイートに紹介されて初めて対面した時、彼はアメリカの大学で民主主義について研究している学生だった。明るく快発で、事あるごとに大きな声で笑う感性豊かなスイートと対照的に、南さんは寡黙で感情の起伏が少なく、優れた頭脳を用いて、常に落ち着いた口調でモノを語る、知性あふれる学者といった風情だった。私には、当初、こんなにも性格の違う二人が、どうして仲良くやっていけるのか不思議でならなかった。

 しかし、南さんは、初めに抱いた印象とは違う人物であったようだ。一見冷静に見える彼も、話し始めると饒舌になった。豊富な知識と洞察の中に、情熱とユーモアが混ざる。いかにも可笑しそうに、かん高い声でゲラゲラ笑う事もある。南さんがしていた託児所のボランティアへ見学に行くと、小さな子供相手に身ぶりも大袈裟になり、子供達にとても人気があった。

 数十キロに及ぶ大量の蔵書をアメリカから持ち寄り研究に耽る傍ら、スイートに自慢の料理を振る舞ってやり、家事をこなし、スイートを大事にあつかう。遊びに訪れた私の目を気にせず、二人ではしゃぐ姿に、私の方が目のやり場に困った事もあった。

 当時の南さんは研究とスイートのために年に数回タイを訪れ、あとはアメリカで勉学を重ねていたようだ。

 診療所での按摩のボランティアを終え、旅を再会してからも私はスイートとメール通信を続けていた。

 そして、タイを離れて一年以上経った頃、スイートと南さんが結婚をしたという知らせのメールを受け取った。早速、私は祝いのカードを送った。しかし、二人が結婚をして、どういう生活を始めたのか、私は訊いていなかった。実際に二人に再会する直前まで、深く考えていなかったのだ。

 スイートと南さんのいるその国境の町に、私が帰ってきたとき、既に四年の歳月が過ぎていた。懐かしい友人達は皆、成長していた。年若く結婚してしまうカレンの人達は、私より大分年下であるにもかかわらず、すでに家庭をつくり、子供をもうけていた。
 
 その町も大きくなっていた。沢山のボランティアが国の内外から押しよせて来ている為、彼らのためのゲストハウス(安宿)や洋食レストランが増えていた。その収入のおかげで町はうるおい、道路も整備され、新しい建物が増えていた。四年前は町中を歩き回っていた私が道に迷ったぐらい、町は変っていたのだ。
 
 未明にバスが到着し、迷って三時間ほど歩いて探してようやく昔の常宿に辿り着いたが、宿はお洒落なレストランになっていた。オーナーは変っていなかったので中に入れてもらい、仮眠をとっていた私のところに、スイートがスクーターに乗って迎えにやって来た。四年ぶりの再会・・・!私は夢うつつでスイートの手を握って、目をこすりながら再会を喜んだ。常宿がなくなってしまったのでスイートのところにやっかいになる事にした私は、スイートの家に着いて仰天した。
 
 スイートと南さんは、以前の家から引越しをして、大きな家に住んでいた。二人は、ただ新婚生活を楽しんでいた訳ではなかった。アメリカでの研究を終え、タイに拠点を移した南さんは、スイートと暮らす家に、十数人のカレンの若者を一緒に住まわせ、彼らに教育を施していたのだった。
 
 その教育は、難民に英語を教える白人ボランティアのレベルではない。本格的な英語の試験を受けさせ、国際社会で通用できる程のハイレベルな英語教育だったのだ。
 
 さらに南さんは、あらゆる交渉のテクニックから民主主義とは何かについて、さらには日常生活の取り引き(難民キャンプで生まれ育ったカレンの若者達は、簡単な支払いや銀行の活用術、交友術や処世術などに明るくない)まで教えこもうとしているのだった。
 
 南さんは、ビルマ政府との戦いに嘆き悲しみ、それを訴えては国連の援助を当てにするカレンの人々の暮らしを、根底から変えようとしているのだ。
 
 カレン族の問題は、カレン族自らの手で解決しなければならない。

 そのためにはカレンの人たちに知識を植え付け、やればできるという自信をつけさせる事が大切なのだ。長老の意見を最優先し、奥手で謙虚を美徳とするカレンの社会に生きる若者達に、自信をつけされるのは生易しい事ではない。南さんとスイートの力では、及ばないほど道は遠いのかもしれない。

 カレン難民の為のNGOは数多くあるが、その出資者である白人達は、かわいそうにという慈悲の念だけで、本気でカレン社会を立ち直らせようとは思っていない。現状維持で満足しているのだから、誰も南さんに手を貸そうとする人がいないのだ。
 
 南さんの、カレン社会に対する言葉は厳しい。南さんによると、カレン族の大半を占めるキリスト教も、カレンの女性達の得意とする手織りの布も、はてはカレン文字にいたるまで、全ては白人の宣教師によってもたらされたものだそうだ。<布教>の一念だけでカレンの言葉を覚え、文字を発明し、聖書を訳したその白人宣教師の行いは確かに尊敬に値する。一世紀近くも愛読されているカレン語訳の聖書は、しかし未だに、誤字、誤訳が直されず、そのままになっているという。
 
 ほとんどのカレン族の人達は、誰しも身内をビルマ軍の襲撃によって殺されている。スイートももちろんその一人だし、私も、地雷で足を失った人たちを日常的に見ている。家を一度ならず焼きうちにされる事も珍しくない。どこのカレン人をつかまえても、皆、ビルマ軍とビルマ政府に対する憎しみの言葉を吐く。子供達は難民キャンプでそれを歴史として教わり、英語ができるようになると、それを外人に訴える事に懸命になる。難民を受け入れている西洋諸国(日本も含む)に、既に移住しているカレン人も大勢いる。
 
 「このままでは先に進めません」南さんは熱っぽく語る。

 「悲観して、訴えて、助けを求めるだけでは、何の解決にもならないんです。彼らが自分達で情勢をつかみ、交渉して、自分達の運命を切り拓いていかなければいけないんです」

 私財を投じ、どこからの協力もなく、独力で奮闘している南さん。情熱にあふれた南さんは、私の見たことのなかったもうひとつの南さんの顔であった。スイートは、その南さんの妻として、またカレンの若者の師範として、「だらむ(カレン語で先生)」と呼ばれる存在となっている。

 南さんのしていることは、<男の夢>だと私は思った。南さんの<男の夢>を背負ったカレンの若者達が、将来、カレン社会をどう変えていくのか、長老や国連やスーチー女史に頼らず、どんな未来を切り拓いていくのか、私は按摩以外、役に立つことはないかもしれないが、これからも、ずっと見守っていこうと思っている。

 南さんを。
 スイートを。
 カレン社会を。

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