岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

9 忌み嫌われし子

2019年07月16日 18時03分00秒 | 忌み嫌われし子

 

 

8 忌み嫌われし子 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

1234567891011あとがき河合から解放され、まずは会社に連絡を入れた。昼になっていた。課長の立場で無断遅刻。どのくらいのペナルティを受けねばならないのか。非常に電話を...

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 かなり余裕を持ち、会社へ出社する。
 朝一番で、まずは河合を捕まえよう。
 最初に会社を本当に辞めるのかという事。
 そして明日の水曜日、家へみゆきにパソコンを教えにくるのか。
 その二点は確認しなければならない。
 あいつが出社するまで、久しぶりに自分の机を整理した。
「課長、おはようです」
 背後から河合の声がする。始業時間までまだ十五分はある。少しぐらいなら大丈夫だろう。
「おはよう。河合君、ちょっと話す時間あるかな?」
「あらら、奇遇ですね~。俺も課長に話あったんですよ」
「そ、そうか……」
「ここではマズいですよね。さ、外へ行きましょう」
 不敵な笑みを見せながら、河合は先に歩いていく。
 河合の背後を見ながら歩いていると、自然に殺意が沸いてくる。今、ナイフがポケットにあれば、簡単に刺しているかもしれない。静かな殺意が私の中で充満していた。
 二人で社内を出て、誰もいない場所を見つける。
 ここが正念場だ。
 みゆきを守れるかどうか。
「河合君、君は会社を辞めるのかね?」
 とりあえず私から先手を打つ事にした。
「耳が早いですね~。ええ、仰る通りそうですよ。辞めます」
「そうか」
「明日、俺の言った要望…。実行しますよ」
「……」
 こいつめ……。
「明日、元々は奥さんにパソコンを教える約束してましたしね。酒持って、お邪魔しますから」
「……」
 淡々と陽気に話す河合の顔を見て、憎しみが増加する。
「それで課長……」
「何だ?」
「食事のあと、子供を早めに寝かして下さいね」
「何故だ?」
「子供の教育上よくないでしょうが」
 大きく目を見開きながらおどけて答える河合。
「貴様……」

「おお、こわっ! まあ話を聞いて下さいよ。子供を眠らせたあと、俺と課長と奥さんの三人で酒を飲むんです」
 これで確信できた。先日こいつの誘いでバーへ行ったが、あきらかに罠だったのだ。
「この間、私を眠らせた薬を使う気か?」
「嫌だな~。何でそんな事まで分かるんですか? ひょっとして課長って、エスパー?」
「ふざけるな!」
 無意識に右の拳で殴り掛かっていた。
「おっと」
 だが、簡単に私の拳は河合につかまれる。
「顔はマズいっしょ。顔は……」
「貴様……」
「まあ、続きを聞いて下さいよ。それで飲んでいる途中、俺が課長に『今日のブログ、更新とかいいんですか?』って聞くから、課長は『そうだな』とか適当に言って、その場から消えて下さい」
 誰が「はい、そうですか」などと言うのだ。自分の妻を寝取ろうとしている男に言われ……。
「……」
 言葉がうまく出なかった。
「あれ、ちょっと見ない間に、随分と回復しましたね。この間まで敬語を使いながら土下座して懇願していた人間が……」
 そう、こいつは私に対して切り札を持っている。
「はいって選択肢しかありませんよ、課長」
「おまえって奴は……」
「ははは、そうすると、会社に居辛いじゃないですか~? だから俺、退職の準備を進めていたんですよ」
 チェスでいうチェックメイト…。私には河合の要望に従うしか、道は残されていない。

 時間など、止まればいいのに……。
 仕事中、それだけを考えていた。それなのに、時間の流れを早く感じている。
「課長、今日お昼、何を食いますか?」
 河合はワザとらしく声を掛けてくる。完全に勝者の顔をしていた。
 こんな男に、私の妻であるみゆきは抱かれないといけないのか。何とかできないのか。
「課長、今日は顔色があまり良くないですよ。どうかしたんですか?」
 自分でそうさせておいて、よく言うものだ。
「課長、今日はいいお天気ですね~」
「いい加減にしろ、貴様……」
 河合の度重なる挑発に、私は堪忍袋の緒が切れた。社内にいる人間の視線が、私に突き刺さる。
 ザワザワしていた職場は、シーンと静まり返った。
「すみませんでした、課長……」
 ワザとらしく打ちひしがれた様子で、自分の席へ戻る河合。これでは私一人が、悪者に見られてしまう。
 それから終業時間まで、みんな私に対し、どこか敬遠しているような空気を感じていた。
 多分、河合はこの状況を狙っていたのだ。

 帰り道、今、世界で一番嫌いな人間と、私は一緒に歩いている。
 すべてを投げ出して、逃げたかった。
「いや~、明日、奥さん、どんな料理を作っているのかな~」
「今日は君に、関係ないだろ。どこか行きなさい」
「あれ、時間経って、また自信回復かな? 別に今日、いきなり課長の家へ訪ねたって構いませんよ、俺は……」
「……」
 また、殺意が大きくなる。殺したい…。本当にこいつを殺してやりたい。
「あらら、また、無口になっちゃって……」
「何が目的で、私にくっついて来るんだ?」
「確認事項をと思って」
「確認事項?」
「明日、俺が課長の家に行ったら、どうするんでしたっけ?」
 本当に嫌味な奴である。自分の妻が犯されるまでの手際を、旦那である私に、わざわざ言わせようというのか。
「言わないなら、課長…。あなたの今まで築いてきたものが、ガラガラと音を立てて崩れるだけの話です」
 一瞬、目の前が真っ暗になる。あがらっても無駄だ。すべては、こいつの言う通りになるだけなのである。
「あ、明日……」
「ええ」
「河合君が家に来たら、食事のあと、子供を早めに寝かせ……」
「はい、それから?」
「私らで酒を飲む…。き、君の合図で…。あ、合図で……」
「合図で、どうするんですか?」
「わ、私は…。私は……」
「え、聞こえませんよ? 大きな声で、ちゃんと言って下さいよ」
「私は、消える……」
「よし、よく覚えられましたね」
 悔しさで、目に涙が滲む。
 何故、法律では、人を殺めてはいけないのだろうか? 中にはこういう鬼畜もいる。こんな鬼畜を野放しにしておいて、本当にいいのだろうか……。
「では、俺、明日を楽しみにしてますから」
 私は、河合の後ろ姿をずっと睨んでいた。道に曲がり、あいつの姿が見えなくなっても、しばらくその場から動けないでいた。

 その日、私は妻を思う存分抱きたかった。
 しかし昨日の言い争いでみゆきの機嫌は悪く、ほとんど口を利けるような状態ではない。
「ねえ、明日は河合さん、来るの?」
 寝る前になって、みゆきはボソッと呟くように質問してきた。
 妻の口から出る河合という固有名詞。自然と苛立ちが募る。
「ああ……」
 手短に答えると、私は妻に背中を向けた。
 もう何も、みゆきにはしてやれないのだ。明日になれば、河合の魔の手でうまい具合にやられてしまうだけ……。
「やったぁ~。嬉しいわ。何か彼、食べたいものとかの、リクエストなかったの?」
 何も知らずに喜ぶ妻の姿を見ていると、神経がピリピリと唸る。
 そんなにおまえは、河合に逢いたかったのか?
 あいつの食べたいもの…。それはみゆき、おまえだよと答えてやりたかった。
「おまえの得意料理、すべて作ってやればいいじゃないか……」
 もはやヤケクソでしか、答える事ができないでいた。
「あなた…。昨日の態度といい、今朝の態度といい…、そして今…。ちょっと酷くないかしら?」
「さあね……」
「ひょっとして、あなた、河合さんにヤキモチを焼いているの?」
「ふざけんな!」
 私は、みゆきの頬を叩いていた。結婚してから初めて…、いや、生まれてから初めて、暴力というものを振るってしまったのだ。
「……」
 妻は、頬を押さえたまま、私に背中を向けた。
 肩が小刻みに震えている。多分、泣いているのだろう。
 私の右手には叩いた時の感触が、まだ、ピリピリと残っていた。
 不思議と悪い事をしたという気持ちにはなれないでいる。長年仲良く過ごしてきた夫婦生活に、亀裂が入ったのを感じた。
 訳も分からず叩かれた妻。そして板ばさみになっている私。
 いっその事、河合の件は放っておけばいい。あとで泣くのはみゆき自身なのだから……。
 すすり泣く妻の声が気になり眠れない。
 私は寝室を出て、昨夜のようにソファで寝た。

 一つだけ不自然な点をずっと感じていた。
 河合の奴、みゆきを抱けば会社に居辛いから辞めると言っていたが、その言い方に違和感を覚えていた。
 あそこまで用意周到な奴だ。望み通りみゆきを抱いたあとでも、あの手この手を使い、いくらだって現状を維持できるような気がする。
 私は罠にハメられたと思ってきたが、もしそうなら何故奴はそこまでする必要性があるのだ?
 確かに身内贔屓かもしれないが妻のみゆきは美人である。しかしみゆきを抱きたいぐらいで、普通あそこまで計画を練れるのだろうか?
 ありえないだろう。
 待てよ。発想の転換だ。
 奴がここまでする納得のいく心理状態を考えろ。
 何故河合は、私たち家族に接触してきたんだ?
 最初は本当に親切心から、私にパソコンを教えるつもりで……。
 いや、そんな奴ではない。あそこまで歪んだ奴だ。ここまでの流れは当初からあいつの予定通り進められてきたに違いない。
 だとすれば何故?
 最終目的が妻のみゆきを抱きたいがため?
 おそらく違う……。
 私がここまで苦しんでいるのは、河合も自覚しているだろう。それでも奴は悪魔のような思想でさらに苦しみを増加させてくる。
 以前奴が言った台詞をふと思い出した。
「だから俺はこのミチフィオって人物が、この話の中じゃ抜群に好きなんですよ」
 アルルの女に出てくる意地悪なカウボーイのミチフィオ。あいつは主人公のフレデリに対し、嫉妬に狂って飛び降り自殺をするぐらいの事を吹き込んだ。そんな最低な人物をあの時河合は一番好きだと言っていた。
 ミチフィオから河合を連想させる。
 自然と今の状況を思い描くと、自分がアルルの女の主人公であるフレデリになったような錯覚に陥った。状況は違えども、常に頭を悩まして錯乱寸前なところは非常に共通点がある。
 その図式で考えると河合は私を困らせようとしていると思うのが自然だ。
 それは何故だ?
 私を恨んでいるから?
 馬鹿な……。
 何も恨みを買うような覚えはない。
 仕事で強く怒る事は過去あったが、それは業務上当たり前の範疇である。それだけでこんなにも恨みを持つだろうか?
 じゃあ何で……。
 それ以外の答えが見つからなかった。
 一番辻褄が合うのだ。
 私に恨みを持っているからこその凶行と考えるのが……。
 ふざけるな。逆に恨んでいるのはこっちのほうだ。
 何故奴は、私をここまで苦しめる。快楽思考主義の愉快犯か。
「……っ!」
 愉快犯……。
 卓を殺した人間をあの時警察は、愉快犯の犯行と判断した。
 まさか……。
 いや、それこそありえない。
 河合は二十歳そこそこ。卓が亡くなったのは二歳の時だから、今から十二年も経つ。奴はまだどう見ても小学生だろう。いくら何でもこじつけ過ぎだ。
 馬鹿馬鹿しい……。
 とりあえず今は寝て、明日考えよう。こんな混乱しながら考えたところで何も名案など浮かばない。

 とうとう水曜日がやってきた。
 昨日と同じく妻が起きる前に、早めに家を出る。
 みゆきと話し合い仲直りしたところで、何の意味もないのだから……。
 どうせ今日でみゆきは、河合の奴に抱かれてしまうのだ。自分の妻がそのような目に遭うというのに、私は共犯者として動かなければいけない。
 何という因果なのだろうか。
 十数年前の楽しかった日々を思い出す。
 まだ、若く綺麗だったみゆき。ひと目見て、私は心を奪われそうになった。しかし過去のトラウマからか、真に女性を愛する事などできやしない……。
 そう、ずっと思っていた。
 だけど彼女は違った。
 過去をすべて話した訳ではなかったが、すべてを受け入れてくれ、優しく私を癒してくれた。
 両親に捨てられ、惨めに生きてきた私は、いつもどこかで自分を卑下して、いつからか忌み嫌われし子なのだと思うようになった。
 根本的な部分で、人間というものを信じられないのである。
 笑顔で接してくる人間も、ひと皮剥けば、醜い本性が眠っていると思っていた。母親に犯されたせいで、歪んだ性癖を覚え、女性自体をどこかで恨んでいる自分がいたのだ。
 みゆきは些細な事まで、私にとって完璧だった。
 本当にいい妻をもらえた。常にそう感じてはいる。
 二度目の子も授かり、生活は順風満帆だった。
 部下の河合が現れるまでは……。
 肩を震わせながら、鳴き声を押し殺していたみゆき。いくら余裕がなく精神的にいっぱいいっぱいだったとはいえ、叩いたのはやり過ぎだったのではないか。
 その上、今日河合の奴に抱かれてしまうのだ……。
 何とかこの窮地を脱出する方法はないのか?
 悲壮な決意で会社へ向かう私。
 玄関へ到着するが、まだ時間が早過ぎて中には入れない。一旦私は近くの公園へ向かった。ベンチに腰掛け、色々と考えてみた。
 これから会社。
 終われば、河合を連れて家へ帰る。
 食事のあと酒を飲む。
 私は河合の合図で消える。
 妻は薬を盛られ眠ってしまう。
 そのまま河合は好き放題に……。
 それを私は、ただ指をくわえて見ていろというのか。
 最愛の妻が、自分の会社の部下に寝取られようとしているのだ。
 旦那として、いや、男としてそれでいいのか?
 このまま河合の言いなりで、いいのだろうか?
 最初の初体験が、母親という歪んだ性体験を持つ私は、常に歪んでいる。
 ならば、いっその事、河合を……。
 駄目だ……。
 殺せたとしても、そのあとどうなるのだ? 間違いなく家庭は崩壊する。佳奈は、殺人者の子供として烙印を押される。
 とても河合が憎かった。殺したくて、うずうずしている自分がいた。
 しかし現実問題、それは不可能な話である。
 人間は、その一瞬だけの為に生きている訳ではない。
 生から死までの間、どれだけ自分らしく、好きなように生きられたら幸せだろうか。
 自由…。それを望む者は多いが、そこには混沌とした試練や物事をクリアしてこそ、初めて自由があるのだ。
 どうしても生きていく上で、モラルや良心といったものが芽生えてくる。
 子供は残酷であると誰かが言っていたが、それはまだ幼いから人間の本能に、忠実に従っているだけなのだ。
 言い方を代えれば、モラルや良心とは、成長するに従って、育っていくものなのである。
 もし、私が幼ければ……。
 いや、無理な話だ。
 もう四十歳の男なのだから……。
 覚悟を決めるしかないのか。
 妻が、河合に抱かれるのを……。

 仕事もロクに手がつかぬまま、時間はどんどん過ぎていく。
 河合は何事もないように自然に振舞っている。昨日奴へ怒鳴ったからなのか、私へのみんなの対応が、どこかよそよそしくも感じた。
 河合は私にパソコンというものを与えた代わりに、それ以外すべてのものを奪おうとしているように見えた。
 ずっと築き上げた信頼など、崩れる時は脆いものである。
 疲れた……。
 もう、この先、どうなってもいいか……。
 妻が抱かれたら、私はそのあとどのようにみゆきへ接するのだろうか?
 自分でも分からない。
 子供はどうなる? 佳奈は……。
 完全に壊れようとしている両親を目の当たりにして、どう育っていくというのだ。
 河合はいい…。あいつは人の家庭を自己の快楽の為だけにメチャメチャにして、会社から去り、新天地を求めるだけである。
 考えれば考えるほど、答えが遠のいていくような気がした。
 河合を説得する……。
 絶対に無理な話である。あいつは犯人のタイプで言ったら完全な愉快犯だ。そんな人間に良心やモラルで訴えても通じる訳がない。
 存在自体を消したいが、現実では難しい。
 では、どうするのだ。何ができる?
 河合は殺せない…。では、私は……。
 過去、これ以上生きていてもいい事など何もない。そう絶望の淵に何度も立たされ、死というものについて色々考えた。
 私は何故、生まれてきたのだろう。
 両親は何故、私を置いて捨てていったのだろう。
 希望に溢れる事など、みゆきに出逢うまで何もなかった。
 今、それさえも崩れようとしている。
 一度、息子の卓を失った時、自暴自棄になり掛けた。それでも持ち直し、ここまで幸せを築いてきたのだ。
 憎い……。
 殺してやりたいほど、河合が憎い。
 誰からも忌み嫌われ、誰からも必要とされず……。
 また暗黒のあの頃の時代へ、私は戻らねばならないのか。
 やっと、普通の人間らしくなれてきたと、自分で思っていた。
 そんな些細な事すらも、神は許してくれないのか。
 こんな人生の連続。この先、明るい未来などあるのだろうか。
 時間だけが刻々と過ぎ、終業時間になってしまう。定時を告げるベルがなった瞬間、河合は私を見て、いやらしそうに微笑んでいた。

 帰り道、河合は私の横に並んで歩いている。
「課長、奥さんには何か言いました?」
「いや……」
「ふ~ん、まいっか……」
 まいっかという台詞で、ブログ仲間のちゃちさんの部屋を思い出す。確か彼女のブログ名は、「MA IKKA」だった。
 まいっかという言葉。今までいい感じにとらえていたのに、こいつがその言葉を使うと、まるで違う風に感じるから不思議である。
 河合は途中で酒屋に寄り、ビール一ダースに、ウイスキー、焼酎、ブランデー、ワインなど、様々な種類の酒を購入している。この酒と持参した例の薬で、私の妻を眠らせようとしているのだ。
 数時間後には、河合の思い描く欲望が実現する。
 果たして私はその阿鼻叫喚に、堪えられるのだろうか。
 今、横にいるニヤケ面の部下に、自分の妻が抱かれる事に……。
 自宅へ辿り着くと、いつもと同じように、いや、娘の佳奈だけが玄関先まで迎えにくる。
「あー、河合のお兄ちゃん!」
 河合の姿を見るなり大はしゃぎの佳奈。
 父親である私に挨拶もせずにいきなり河合か…。まだ十歳の佳奈の発言に対し、苛立っても仕方ないのは自覚しているが、面白くない。
 こいつの実態をみんなの前で、思い切り暴露したかった。しかしそんな事をしても、子供は傷つくだけだし、私は社会的信用を失うだけである。
「久しぶりだね~、佳奈ちゃん。元気だったかい」
「うん、元気ー」
 子供に見えぬよう私は、後ろで拳を握り締めていた。
 この偽善の快楽思考主義者め……。
 居間へ向かうと、妻のみゆきは、かなり時間を掛けたような料理をたくさん作り待っていた。河合を見掛けると、嬉しそうに顔が歪む。
「奥さん、久しぶりです。あら、どうしちゃったんですか? この料理の数々…。見ているだけで癒されますよ」
「また~、ほんと、河合さんたら、お上手ね~」
 昨日、私に叩かれた事など、微塵も出さずにみゆきは笑顔でいた。歯痒い思いで、いっぱいになる。
「河合さん、具合悪いの良くなったの?」
「ええ、おかげさまで…。ご心配掛けてすみませんね」
「佳奈、お兄ちゃん来るの、楽しみにしてたの」
「そっかあ。お兄ちゃんも佳奈ちゃんに会いたくてねえ。楽しみにしてたよ」
 私だけ存在感のない寂しい食卓。
 どいつもこいつも、いい顔ばかりしやがって……。
「ほら、河合さん。温かい内に、たくさん食べて下さいな」
「あ、いただきま~す。うん、これ、メチャクチャうまいっすよ!」
「さ、どんどん召し上がって」
 相変わらず調子のいい奴だ。みゆきもこんな奴に愛敬を振り撒きやがって……。
 疎外感を覚え、食欲すら失せる。みゆきは私に対し、料理を作ったのではない。部下の河合にいいところを見せたくて、作っただけなのである。
 一見、はたから見ると、楽しそうな食卓だ。もちろん私も精一杯の作り笑顔をしているのだから……。
「おいしいでしょ、このステーキ。お肉屋さんでね、いいお肉入ったっていうから、ちょっと奮発してみたの」
 誰の働いた金で買えたと思っているんだ。そう言ってテーブルを強く叩きたかった。
「課長って、本当に幸せですね~。こんなにおいしい料理を作る奥さんに、可愛いお子さん…。絵に描いたような、ほのぼのした家庭ですよ。憧れちゃうなあ~」
 一瞬、妻の表情が強張ったような気がした。昨日、私が叩いた一件を思い出したのだろうか。
「嫌だわ。河合さんたら……」
 みゆきは照れたような表情を無理して作っている。
 このあとで想像もできない惨劇が待ち受けているとも知らず、見掛けだけの楽しい宴は続く。

 すっかり腹も満腹になり、眠気に襲われた子供を寝かしつけると、河合は持参した酒を食卓の上に次々と置きだした。
「あら、どうしたの、河合さん?」
「たまには、奥さんも楽しまないと…。どうですか?」
 ウイスキーのボトルをつかみ、そのまま河合の頭をかち割ってやりたい衝動に駆られる。
「あら、そんな気を使っていただいて、すみませんねえ」
 すべての酒を並べ終わると河合はビールを三缶取り、私とみゆきの目の前に置いた。
「とりあえずは、ビールで乾杯といきますか?」
「ええ…。何だか、こういうのって久しぶりだわ。ちょっとグラスを用意してきますね」
「ええ、お手数掛けてすみませんね」
 用意された三個のグラスに、ビールを楽しそうに注ぐ河合。さぞかし期待で胸が大きく膨らんでいるのだろう。
「課長もビールでいいっすか?」
「……」
 とうとう奴のシュミレーション通り、始まってしまった。あとは河合からのサインが出たら、私はこの場からいなくならないといけない……。
「あれ、課長? どうしました?」
「あ、ああ……」
 この野郎、とぼけた面をしやがって。
「せっかくだからアルルの女のファランドールでも掛けて、気分を出しましょう」
 こいつの一挙一動が酷く嫌味に感じられる。
「では、かんぱ~い!」
 妻が犯される計画のゴングが、チーンと静かな音を立てて鳴り響いた。
 最初の一時間は河合も私に会話を振りつつ、通常の状態でいた。買ってきたビールがなくなると、次はウイスキーのボトルを開ける。
「私、ウイスキーって飲んだ事、まったくないのよ。だってそのお酒、強いんでしょ?」
「そんな事ないですって。薄く水割りで作りますから味見ぐらいどうでしょう?」
「うーん、どうしようかな……」
 断りやがれ。私は心の中で叫ぶ。
「いい機会です。ウイスキーの味をちょっとでも知っておくべきですよ」
「じゃあ、ちょっとだけもらっちゃおうかしら」
 この馬鹿が……。
「あ、奥さん」
「なあに?」
「図々しい事を言っちゃっていいですか?」
「うん」
「できればつまみを…。俺、いつもウイスキー飲む時って軽いつまみないと、気分出ないんですよ。わがまま言っちゃっていいですか?」
 こいつの策略を大声でぶちまけたかった。
「チーズとか簡単なもので良ければ」
「すみません。ありがとうございます」
 妻が再び台所に立つと、河合は私にこれ見よがしにポケットから小さな紙袋を取り出した。そして粉状の薬みたいなものを妻のウイスキーの入ったグラスに入れ、ゆっくりと掻き回した。
 パッと見た目、普通の水割りにしか見えない。
「課長は、ロックにしますか?」
「……」
 私の目の前で、よくも抜けぬけとそんな真似をしてくれたな……。
「あ、そっか…。課長、今日のブログの様子が気になっているんでしょ? 今、奥さんも簡単なものを作ってますし、今の内にちょっと見てくればいいじゃないですか?」
 ついにきた河合からの悪魔のサイン……。
 自分で立てた計画通り、こいつは寸分の狂いもなく進行させる。
「……っ!」
 河合はスーツの胸ポケットから、一枚の写真を取り出し、私に見せてきた。以前誘惑に負け、お触りパブへ入ろうとする私の姿が写っている。携帯電話で撮った画像は削除したと言いながら、やはりこのようにプリントして持ち歩いていたのだ。
 奴の表情は底意地悪そうな顔に切り替わり、早く言う通りにしろとでも言っているようだった。
「ね、奥さん。別に構わないでしょう?」
「え?」
「いや、このあと、俺が奥さんにパソコン教えるのに、課長がブログをちょっとやらせてくれとかなるぐらいなら、今の内に先、やっといてもらえたらどうかなって」
「そうね。まだ、ちょっと時間掛かるし、どうぞ」
「奥さんの許可もとったし、俺は一人でウイスキーをチビリチビリやってますから」
 イエスとしか答えられない状況。もし、ここで私がノーと言ったら、河合はこの場で色々とぶちまけるだろう。素直に従うしかないのだ。
「ああ…。では、お言葉に甘えて、ちょっと行ってくるよ」
 後ろ髪を引かれるような思いで私は席を立ち、居間から出た。
 一瞬振り返ると、河合はいやらしい笑みでこっちを見ながらピースサインをしていた。
 どこまでこいつは私を愚弄するつもりなのだ。拳を固く握り締め、悔しさを噛み締めながら、ゆっくり居間から離れた。

 

 

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