岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

7 忌み嫌われし子

2019年07月16日 18時00分00秒 | 忌み嫌われし子

 

 

6 忌み嫌われし子 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

1234567891011あとがき結局この日、河合の姿は見当たらず、仕事が終わる時間になった。帰り際、彼と仲のいい社員に、さり気なく聞いてみる事にした。「お先に失礼するね」「...

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 静かなジャズが流れる小さなカウンターだけのショットバー。
 今、私は部下の河合と二人で飲んでいた。
「河合君、なかなかシックでいいお店だね」
「ええ、よくここで一人静かに飲むんですよ。あ、課長。酒ないですよ。何を注文します?」
「そうだなあ……」
「どんな感じなのがいいですか?」
「う~ん……」
「甘いのとか、さっぱり系とか、色々あるじゃないですか」
「甘いけど、スースーするような…。あれ、アイスでいうと…、何だっけ?」
「チョコミントですか?」
「そうそう。あれ、結構好きなんだよな」
 不適な笑みを浮かべる河合。
「それなら、ピッタリのお酒ありますよ」
「え、そうなんだ?」
「ええ」
「じゃあ、トイレ言ってくるから、頼んでおいてくれるかい?」
「いいですよ」
 私は河合に注文を頼み、店の恥にあるトイレへ向かった。
 狭い店の狭い便所。自分の体が、壁に何度もぶつかる。結構、酔いが回っているようだ。小便の出る量も半端じゃなかった。
 カウンターへ戻ると、バーテンダーがちょうどシェイカーでカクテルを振るところだった。
 小刻みな動きでリズミカルに降るものだ。見ているだけで楽しくなる。
 透明のカクテルグラスに、注ぐ状態で驚いた。シェイカーから出てきたカクテルは緑色の液体だったのである。
「おい、河合君。あれ、大丈夫なのかい?」
「嫌だな~、課長は…。アイスのチョコミントだって、青緑みたいな色をしているじゃないですか。それが好きな訳でしょ?」
「という事は、チョコミントが、カクテルの中に入っているのかい?」
「もう、違いますよ。俺が課長用に頼んだカクテルは、グラスホッパー。クレーム・ドカカオのホワイトと、ペパーミントグリーン。それに生クリームをシェイクしたカクテルですよ」
「詳しいねえ……」
 その労力を仕事に活かせばいいのにと言おうと思ったが、やめておいた。

「さ、課長。ショートカクテルは冷たい内、一気に飲み干すもんですよ」
「あ、ああ……」
 グラスに入っている半分ぐらいを一気に飲んでみた。
 喉越しに甘いものが通り、そのあとでヒヤッとした感覚になる。
 うん、うまい。
 とても冷たい液体のチョコミントをそのまま飲んでいるみたいだ。
 私は残りを一気に飲み干した。もう一杯ぐらい飲んでみたい。同じものでおかわりを頼む。
「ほら、気に入ったみたいじゃないですか」
「……」
 得意満面の河合。悔しいが、言われる通りである。
 今度は、カクテルがさっきよりも早めに出てくる。なるほど、さっきは私がトイレに行っていたから、バーテンダーも作るのを待っていてくれたのだろう。憎い心遣いが嬉しく感じる。出されたカクテルをグイッと一気に飲み干す。
「マスター、いつもの曲を流してもらえますか?」
 河合がそう言うと、少ししてアルルの女が店内に響き渡る。確かこれは第二組曲の第二曲、間奏曲だったっけ。何だか私まで詳しくなっているな。
 あ、そういえば今日のブログの更新……。
 それにコメントは来ているだろうか。気になって携帯を開く。

 (うめ)
 焼肉いいですね~。じゅる……。
 よ、よだれが出ちゃいます。 

 コメントは常連のうめさんからだった。彼女らしい言い回し方に思わず笑みがこぼれる。
 ん…、新しい人がコメントを残してくれているぞ。

(たかさん)
 同じ四十男同士ですね。男四十にして立つの、たかです。同世代という事もあって、前から気になっていました。
 今回、初コメントになりますが、前から気まぐれパパさんのところは、こっそり覗いていましたよ。よろしくお願いしますね。

 ほう、ほぼ私と同世代の男性…。えーと、ハンドル名がたかさんだから、たかさんさんって呼んだ方がいいのか? いや、さすがに変か。
 私はたかさんのブログに飛んでみた。

 その間、空になったグラスを持ったままマスターへ声を掛けてみた。
「マスター。これ、最高ですね」
 マスターは、グラスを几帳面に磨いている。
「ありがとうございます」
 ボソッとお礼を言ってから、マスターはまた、丹念にグラスを磨きだした。
 河合がマスターに話し掛けたので、私は先ほどのたかさんのブログを見てみた。

『男四十にして立つ!』 たかさん
 こたつむり

 十月二十八日、最低気温十六度。最高気温二十五度。
 何故か、我が家にこたつが登場……。
 ん~…。まだ、暖かいと思うんだが、いつもの如く、嫁(女帝)のひと言。
「寒いんじゃ!」
 そう、嫁は寒がり屋さん……。
 …が、ここで問題が……。
 こたつ、イコール、居心地が良い……。
 故に、こたつへ入ると出てこない……。
 着いた名前が…、「こたつむり」です。そう嫁は寒がりで、気温が二十四度でも、こたつに入ると出てきません。
 いつもの如く、俺と子供……。
「ねえ、寒いんだからさ…。コーヒー持ってきて」
「ねえ、ご飯炊いてよ」
「ねえ、アレとって」
 ガクッ…。ちったー動けよな……。
 そんな事だから、体重が増えるんだよ!

「課長、さっきから、何を一人で携帯見ながら、ニヤニヤしているんですか?」
 河合の声で現実に帰る。たかさんのブログ記事を読んでいて、自然とニヤけていたようだ。彼とは面識がないが、不思議と親近感を覚えた。
「いや、コメントとかをチェックしていたんだよ」
「まったく、こんな場所まで来て……」
「すまないねえ」
「まあ、確かに気になりますからね。コメントは……」
「お恥ずかしながら……」
「課長、飲み物どうします? 空になってますよ」
「ん、ああ…。でも、そろそろ酔いが回ってきたかな……」
「課長…。まだ、話をしてなかったじゃないですか」
「あ、そうだったね…。悪い悪い」
「軽いのマスターに作ってもらいますから、それを飲めばいいじゃないですか」
「ああ、任せるよ」
 再び、私は携帯を覗き込む。自分で思うのもなんだが、完全にブログ依存症の一歩手前だろうか……。
 だが、こんなに楽しいものなど滅多にない。
 家に帰ったら、うめさんにコメントを返さないとな……。
「なかなかいけますね」
 マスターが優しそうな笑顔で声を掛けてくる。
「次はサッパリとしたものがいいね」
「サッパリですか。ではスカイダイビングなんてどうでしょう?」
「任せるよ」
 次に出てきたカクテルは、真っ青な色をした大空を連想させるものだった。少し口をつけるとグラスホッパーより酒の度数が強いのを感じる。
「さっきのものよりはアルコール度数が強いですからね」
 青いスカイダイビングを見ていると、川に浮かんだ卓の姿を思い出してくる。そう、自然とあれから青いものはできるだけ避けていたように思う。卓が亡くなった川の事を思い出してしまうからだ。
「あれ、課長。どうしたんですか? 飲む勢いが止まっちゃいましたけど」
「……」
「大丈夫っすか?」
「あ、ああ……」
 店内では、アルルの女の第一組曲の第一曲である前奏曲が鳴っている。
「急に塞ぎ込んだように見えましたが、何かありましたか?」
 少し酔いが回ったようだ。私は下をうつむき、鼻で息を吸い込むと大きく吐き出した。
「いや、場違いな話になってしまうかもしれないが……」
「構わないですよ」
「実は私とみゆきの間には、佳奈以外にも子供がいたんだ……」
 何故卓の事を河合に話し出そうとしているのか、自分自身が不思議だった。
「……」
 妙に真面目な顔になる河合。
「卓っていう名でね。本当に可愛かった子なんだ。初めての子供、長男だったから、大事に大事に育ててね……」
「ええ」
「それがある日……。ある日…、何者かにさらわれ、一週間後、近所の川で水死体となって浮かんでいたんだ……」
「……」
 河合は何も言わなかった。
「今生きていたら、佳奈より四歳年上だから十四歳か…。中学生になっていたんだよな」
「その犯人は?」
「見つからない」
「もし、見つかったら?」
「分からない……。私は復讐よりも新たな命を求め、新しい幸せを築くほうを選んだのだから……」
「課長、今、幸せっすか?」
「ああ…、幸せだ」
「じゃあ、飲みましょう。飲んで辛い事は忘れるんですよ」
「そ、そうだな。すまん、湿っぽい話をしてしまって」
「何を言っているんですか。さ、一気に飲み干しましょう」
「ああ」
 スカイダイビングを一気に飲み干す。
「マスター、第二組曲のほうのメヌエットを掛けてもらいますか?」
「はい」
 少しして河合のリクエストした曲が掛かる。
「どうですか、少しは心が癒されませんか?」
「……。ああ…。いい曲だな、アルルの女って……」
 あと四、五年もしたら卓とこうやって一緒に酒を飲めた日が来たかもしれない。そう考えると何ともやるせない気持ちになる。
 横にいる河合にこんな話をして少々気まずい雰囲気を感じた。誤魔化すように携帯電話の画面を覗き込む。
「ん……」
 携帯の画面が滲んで見える。気のせいだろうか。画面だけじゃない。顔を上げると、カウンターに並ぶ、様々なボトルまで歪んで見えた。
「…………」
 横で河合が何か話しているが、何を言っているのかさっぱり聞こえない。あれ、景色が回っている。平衡感覚が……。

 ここは、どこだろう……。
 どうやら、私は布団で横になっているようだった。
 河合が私を介抱してくれ、どこかに泊めさせてくれたのだろうか。一瞬、目をあけようとしたが、まぶたが重く開かない。体を横に向けると、誰かにぶつかる。
 誰だろうか…。手探りで触ってみる。柔らかな心地よい感触。
 そうか、まだ、私は夢の中にいるのだ。
 目をつぶったままの状態で、私は隣にいる人間の体を色々触り始めた。小気味良い感触を思う存分、手の平でまさぐり感じる。
 隣にいる女性…。かなりいいスタイルの持ち主である事が分かる。今、触れている部分はお尻だろうか。そのまま手の平を徐々に上へと、ゆっくりずらしていく。
「う~ん……」
 寝返りを打つ声が聞こえ、慌てて手を引っ込める。
「……」
 私は馬鹿だ。これは夢なのだ。普段抑えている自分の雄としての本能を、介抱してしまえ。
 豊満な女性の胸。私は鷲づかみにして、揉み心地を楽しんだ。
 夢の中とはいえ、妙にリアルな手触り。これだけ触っているのに相手の女性はぐっすりと眠ったままである。
 女性独特のいい香りが漂う。いつもなら映像を見ているような感じなのに、何かいつもと違うなあ。
 まあいいか。せっかく夢の何だからゆっくり楽しもうじゃないか。
 寝たふりをしたまま手探りで服の合間に手をすべらせる。きめ細やかな肌触りが非常に心地良い。徐々に手を上まで動かすとブラジャーの淵まで到達する。あとちょっとで肝心な部分へ指先が届く。ブラジャーと肌の合間へそっと指を差し込むと、豊満な乳房の上を慎重に進ませた。あとちょっとで乳首に触る。
 その時だった。
「ぐっ……」
 背中に激しい痛みが走る。思わず声が漏れる。
「俺の女に何をやってんだよ?」
 聞き覚えのある声が聞こえたかと思うと、また、背中に痛みが走った。
 あまりの激痛に目を開く。
「課長、あんた、何をしてんすか?」
 見慣れない背景と、河合の顔が、目を開いたばかりの私の瞳に映っていた。
 夢ではなかったのか?
 慌てて寝ている女性の衣服の中に入れていた手を引っこ抜く。
「……」
 よく、思い出せ。昨日、仕事が終わって河合と酒を飲んで……。
「ぐわっ」
 また、私は河合に足蹴にされる。
「俺の女に、今、何をしてたんだって、さっきから聞いてんすよ。俺は……」
 布団の上に倒れた私は、そのままの体勢で横を見る。見知らぬ女性が、鼾を掻きながら寝ていた。この女性が、部下の河合の彼女だというのか…。いや、普通に考えて当たり前だろう。ここは河合の部屋なのだから……。
 だんだん現実を理解していくごとに、体に鳥肌が立ち始める。酒に酔った勢いとはいえ、私は取り返しのつかない事をしてしまったのではないだろうか……。
 倒れた私の胸ぐらを強引につかみ、立たせる河合。
 いつもの見慣れたニヤけ顔ではなく、もの凄い怒りの形相で私を睨んでいた。ちゃんと、目を合わす事などできなかった。
「す…、すまなかった……」
「課長…、ふざけんで下さいよ。人の女の体を弄んで、すまないのひと言で済ませるつもりなんですか?」
「い…、いや……」
「どう落とし前をつけるんですか?」
「落とし前って……」
「分かりました。じゃあ、俺も覚悟を決めます……」
 河合は部屋の隅にある、電話のある方向へ向かっていく。
「お、おい…。河合君」
「なんすか?」
「本当にすまなかった。私が悪かった……」
「いや、いいっすよ。別に…。もう覚悟、決まりましたから……」
 投げやりな河合の喋り方。非常に気になった。
「覚悟を決めたって?」
「時間、見て下さいよ。今、何時ですか?」
 私は、部屋の中を見回し、背後の壁に掛かる時計を見る。
「……」
 時刻は朝の十時を回っていた。完全に会社は遅刻だ…。いや、そんな事よりも昨日から私は家に帰っていないのである。ヨレヨレになったスーツのポケットから、携帯を取り出すと、家からの着信が何十回も掛かってきた履歴があった。
 前門の虎、後門の狼とは、こんな状況をいうのだろう。
「俺がこれからどこへ電話しようとしているか、分かりますか?」
 心臓が悲鳴を立てるように大きな音で動いている。考えられるのは、家か…、もしくは会社へ…。どちらにしても、そんな事を言われたら、私の人生は終わりだ。
「ま…、待ってくれ…。頼む…。お願いだ……」
「課長の人生…。部下の彼女に手を出した最低男として、レッテルを貼られるんですよ。会社からも、家族からも……」
 リアルに想像できた。頭がおかしくなりそうだ。
「お願いします…。それだけは、勘弁して下さい……」
 必死に頼んだ。妻や子供から、軽蔑の眼差しで見られるなんて、堪えられない。気付けば、床に額を擦りつけ土下座をしていた。情けないとかそんな感情は、どこにもなかった。ただ、ひたすらお願いした。
「何でもします…。何でもしますから……」
 懇願するように、河合の顔を見上げると、一瞬だけ口元をニヤリとしたように見えた。気のせいだろうか? いや、そんな事よりも、今は謝るしかない。謝って許しを乞うしかないのである。
「そんな事せんで、いいですよ。課長……」
「じゃあ……」
「俺の言う事を一つだけ聞いてもらえますか?」
「あ、ああ…。私にできる事なら……」
「場所を移しましょう……」
「待ってくれ…。その前に妻にだけでも連絡をとっていいか? 今頃、心配しているはずだ」
「何を言っているんですか、課長…。誠意が何も感じられないですね…。それなら俺から奥さんの方へ、報告しときますよ。俺の女の体を弄んだってね。溜まらないですわ。酒に酔いつぶれ、勘定だって俺が全部払い、それから背負って自分のマンションまで連れて寝かせていると、朝になって、人の女の胸をまさぐっているんですからね…。呆れて物が言えませんよ」
「頼むからやめてくれ!」
 悲鳴に近いような声が自分の口から出る。
「じゃあ、俺の言う通り、さっさと従って下さい。いいですか? 今の課長に選択権などないんですからね」
「……。はい……」
 負け犬となった私。主従関係は、この瞬間完全に入れ替わってしまったのだ。

 本当の窮地に追い込まれ、自分で何が一番大事なのかを思い知らされた。
 やはり、私の家族が一番大事である。みゆきと結婚し、佳奈を産み、ずっと築き上げてきたのだ。それが今、ほんの些細な事で、積み木が崩れるように、崩れ去ろうとしているのだ。卓が亡くなり一度崩壊しそうになったように……。
 男の本能とはいえ、自分の意識外での行動。
 本当に恐ろしいものである。
 世の中、キャバクラや風俗がなくならない訳である。男の本質をついた商売なのだから…。これで失敗をした男性が、どれだけ山の数ほど、いるのだろうか。
「何をボーっとしてんですか。俺の話を聞いてます?」
 河合の声で、現実に引き戻せられる。私は彼の指図に従い、駅前の喫茶店に来ていた。
「河合君のしてもらいたい事って、一体……」
「俺、課長の奥さん……」
「うちの妻が何だ?」
「メチャメチャタイプで、一度でいいから、やってみたかったんですよ」
 まったく悪びれもせずに、河合は笑いながら話していた。
「……」
 今この男は何を言ったんだ?
 理解するまでにしばらく時間が掛かった。
「聞こえなかったんすか? もう一度言いますよ。課長の奥さんと一回やらせて下さいよ。いいでしょ、それぐらい」
 こいつ、何て事を……。
 血液が頭にどんどん上昇していくのを感じる。
 気がつけば、私は立ち上がっていた。
「ふざけるな!」
「まあ、座って下さいよ。そんなに熱くならないで……」
「いい加減にしろ! 一体、どういうつもりなんだ?」
 私の返答を無視して、ポケットから携帯を取り出す河合。口元は相変わらずニヤけている。
「おい、私の言葉を聞いているのか?」
 それでも河合は、返事もせずに携帯電話をいじっている。殴りつけてやりたかった。しかしそれをした瞬間、私の築き上げた人生は終わりを告げる。
「これ、見て下さいよ」
 そう言いながら彼は、携帯電話を私に手渡してきた。奪うようにして携帯を手に持つ。画面には、どこかのブログ画面が出ている。

『忌み嫌われし子のスペース』 忌み嫌われし子
 面白激写画像ゲッチュッ!

 フハハハ…。世の中の諸君、元気でいるかな?
 この忌み嫌われし子が、下界にわざわざ降り、新しい記事を更新しにきてやったぞ。
 今日はあるサラリーマンをやっている男から、面白い写真が届いたのだ。この男の会社の上司。真面目で誰からも好かれる上司らしい。絵に描いたようなマイホームパパで、仕事が終わると真っ直ぐ帰る。
 そんな男が、ある日、何と家に嘘をついて、お触りパブへ帰り道コソコソと寄ったらしいのである。
 その男から、証拠写真なるものを受け取った。見てみると、その上司、真面目そうな面をしているのが分かる。それが、周りを気にしながら、店へ入っていく姿は、下手なお笑い番組などよりも、数段面白いだろう。
 みんなも見てみな。この例の上司の画像を…。笑えるだろ?

 何が忌み嫌われし子だ……。
 イライラしながら見ていると、目の前が真っ黒になった。
 携帯に映し出された画像…。それは私の姿であった。かろうじてモザイクが顔に掛かっているものの、見る人が見れば一目瞭然である。
「き、貴様……」
「俺じゃないですって……」
「ふざけるなっ!」
「まあ、おふざけで、写真提供したのは認めますけどね」
「……っ!」
 思い出した。
 確か最初に河合が携帯電話で見せてきたブログが、この「忌み嫌われし子のスペース」だった。危ない奴がこのブログを管理しているなと思ったが、明らかにこのブログの管理者は河合だろう。写真提供したなんて嘘っぱちもいいところだ。
「今、俺に怒れる立場じゃないでしょ?」
「……」
 こいつは、どこまで私をおちょくる気なのだろう。
 いや、おちょくっているというよりも、すべてここまでが河合の計画的なものだとしたら……。
 これまでの流れを思い出せ。
 よく考えてみる。
 最初、私にパソコンでブログをやりませんかと勧めてきたのは、こいつだ。
 まあ、それで今の私のブログが生まれた訳だが、河合は妙に家族の人間に好かれていた。ずっと好青年を演じ、みんなの機嫌をとってきたのだ。
 疎外感を覚えた私は、毎週水曜日、本来なら河合が家に来る日に、ストレスから断り、やるせない気持ちで帰るところをお触りパブに寄って現実を誤魔化した。
 店から出る時、河合に携帯で写真を撮られていた。この時点でおかしいと思えばよかったのだ。
 もう私には、ほとんど教える事がない。だから奥さんにパソコンを教えましょうという口実で、まだ我が家に通おうとしていた。
 昨日話があると言い私を誘った時点で、すでに罠だったのかもしれない。
 最近は飲む機会が減ったとはいえ、あれだけの酒で私が意識を失う…。考えてみれば、おかしい。薬でも盛られたのか?
 介抱してくれ、彼のマンションへ連れてきてくれたのはありがたかったが、何故私の寝ている横に、こいつの彼女が寝ているのだ。
 そして自分のブログ「忌み嫌われし子のスペース」に、わざわざ私の画像を載せておく。
 いきなり私の妻、みゆきを抱きたいと言い出す始末。
 すべてここまでが、河合の作為的なものなんじゃないのか?
 全身を怒りが覆う。
 このまま怒りに任せて、こいつの横っ面をぶっ飛ばしてやるか。
「フー……」
 軽く息を吸い込み自分を落ち着かせる。
 いや、駄目だ……。
 逆切れしたところで、私に落ち度があるのは間違いない。
 自分のブログに、私がお触りパブに入るところを載せているぐらいだ。まだ河合はその画像をどこかで保管しているだろう。
 ここまで用意周到な奴だ。
 きっと河合の彼女の胸をまさぐっているところだって、画像として撮られているかもしれないのである。
 寝惚けながらとはいえ、河合の彼女に手を出してしまった事には変わりはない。
 それらの画像を家族に、会社にばら撒かれたら、私はすべておしまいだ。
 言いようのない自己嫌悪。言い訳のしようがない。
 ガキじゃあるまいし、何故私はあんなになるまで酒を飲んでしまったのだ……。
「まったくアルルの女の主人公フレデリみたいっすよね」
「何がだ?」
「だって奥さんを愛してますみたいな事をブログじゃ書いときながら、陰じゃお触りパブに行くわ、俺の女の乳を揉みまくるわ……」
「う、うるさいっ!」
 確かにこいつの言う通り、俺は最低だ。
「さ、どうするんですか?」
「な、何をだ……」
「奥さんですよ」
「……」
「人生終わるか…。それとも一回だけ奥さんをレンタルするか……」
「……」
 嫌な選択を言ってくる河合。人の妻に対し、何がレンタルだ。みゆきはものじゃないんだぞ……。
「課長、答えないなら、別にいいですよ。俺は課長のした事をするだけですからね」
「ま、待ってくれ……」
「じゃあ、一回ぐらいいいじゃないですか?」
 一回とか、そんな問題ではない。モラルというものが、こいつにはまったくないのか。何を考えているのか、私にはさっぱり理解できないでいた。
 自分の保身を考えるのか…。それとも妻を一度だけ、献上してこの場をやり過ごすのか。
「わ…、私一人の問題ではない……」
「バッカだなあ~…。そんなの俺が課長の家に行った時、酒で酔わせてしまえばいいだけですよ。ぐでんぐでんにね」
 相手の事を何も気遣わない男。
 思いやりも何もない。すべては自分の快楽の為だけに、ベクトルが向いている。
「貴様…。人の妻を捕まえて、よくもそんな言い方を……」
「貴様? そんな言い方? 課長こそ、俺の女の体を勝手に触りまくって、よくそんな台詞が出ますね~」
「……」
 体の後ろで拳をきつく握り締めるぐらいしか、私にはできないでいた。
「埒があかないから、もういいです。奥さんの件は諦めます。その代わり覚悟して下さいね、課長」
「ま、待ってくれ……」
「都合いいんですよ。俺はさっきからね。自分をとるか、それとも家族をとるか…。それを聞いているんですよ。まあ、家族を守ろうとしても、課長自身が終わるから、守れませんけどね」
 みゆきが、この男に抱かれる……。
 想像しただけで、気が狂いそうになった。
「た、頼む…。少しだけ…。少しだけ考えさせてくれ……」
 必死に懇願した。河合は冷酷な笑みをしてから、口を開いた。
「何、ギャグを言ってるんですか? どっちにします?」
 疲れた…。思考能力が、どんどん低下している。もう、何も考えたくない……。
 五歳の時、父親は突然、私と母親を捨てて出て行った。高校に入って、母親に犯された。学校を卒業すると、母親も出て行った。
 残されたのは、両親の呪われた血だけ……。
 ああは、絶対にならない。そう思いながら、私は必死に頑張ってきた。
 妻のみゆきと子供を作り、家まで購入した。すべてが順調だった。
 河合が我が家に、来るまでは……。
 ずっと生まれた時から、忌み嫌われし子だと思っていた。生まれる事を望まれず、誰からも祝福されず……。
 こんな私が、幸せな家庭を築こうとしていたのが、間違いだったのか。
 だから息子の卓があんな理不尽な死に方をした。
 すっかりと憔悴しきったみゆき。
 もうあんな姿は見たくなかった。
 佳奈を産み、ようやく幸せな時がやってきたのである。
 やっと笑うようになったみゆき。それをこの男は抱くと言う。
 しかし、河合の欲望を断れば、家庭の崩壊がある。
 今、私が崩れたら、みゆきや佳奈はどうなるのだ。
 みゆきが酔って、思考能力がない時なら…。妻がその行為を分からなければ……。
「課長…。選択肢は一つしかないんですよ?」
「分かった……」
 今の私は、蛇に睨まれた蛙である。あがらう事も何もできず、ただ蛇に飲み込まれるのを待つだけの存在。
 河合は小さな器械を取り出して、私に見せた。
「今の会話、ちゃんと録音しときましたからね」
 吐き気が一気にきて、トイレに駆け込む。情けない姿で便器に顔を突っ込み、私はゲーゲー吐いた。嘔吐物と一緒に、涙も流していた。

 

 

8 忌み嫌われし子 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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