新宿クレッシェンド第5弾 新宿セレナーデ
2009年2月17日~2009年2月21日 原稿用紙605枚
最も古い用法でありながら
こんにち口語に残っている「セレナーデ」は
親しい相手や、その他の称賛すべき人物の為に
夕方しばしば屋外で演奏される音楽を指す
2009/02/17 AM11:00 原稿用紙で159枚
2009/02/18 AM05:00 原稿用紙で289枚
2009/02/18 AM11:00 原稿用紙で348枚
2009/02/18 PM22:10 原稿用紙で400枚
2009/02/19 AM00:00 原稿用紙で412枚
2009/02/19 AM07:00 原稿用紙で457枚
2009/02/20 AM05:00 原稿用紙で492枚
2009/02/20 AM09:00 原稿用紙で543枚
2009/02/21 AM07:20 原稿用紙で605枚
裏ビデオ屋『マロン』のある雑居ビルへ到着する。
ここは本当に如何わしいビルだった。地下には北方のいる事務所と裏ビデオ屋『マロン』がある。
一階は一円ポーカーゲーム屋の『グランド』と、同じく横にもゲーム屋があった。このゲーム屋は中国人専門で、数年前、殺人事件が怒った店である。何でも一人の女を巡って喧嘩になり、大きな刃物で腹を刺されて死亡したという事があったようだ。しかし現在もひっそりと営業はしている。
二階はヤクザの事務所。沖田会という大きな組の事務所で、隣の店舗は『バカラ』専門の『カジノ』。
三階は他の裏ビデオ屋の倉庫と、別のヤクザの事務所、笹倉連合がある。同じビル内に二つも違う組の事務所があるのによく問題が起きないものだ。それだけは感心する。
四階には『プチマリオコーポレーション』という横文字の会社が入っているが、話に聞いたところによると『出会い系サイト』を運営している会社らしい。その隣は看板も何もない事務所だが、ここはクレジットカードを偽造しているという噂を聞いた事がある。
どっちにせよこの雑居ビルほど、歌舞伎町らしい呪われたビルはないだろう。まともな会社など一つも入っていないのだ。
歌舞伎町という街は非常に面白い街で、ゴミを出す際分別など一切しない。生ゴミもビンも缶もすべて同じゴミとして扱うのだ。コンビニエンスストアなどで売られるゴミシールを買い、ゴミ袋にそれを貼る。ゴミ袋の大きさによって値段は違う。それだけで業者は何も言わずにゴミを持っていく。
ただこのビルだけは話が違った。ビルの外に七十リットルのポリバケツが二つ置いてあり、どの人間もゴミはそこへただ放り投げるだけだった。袋にも何も入れず、そこへ何でもかんでも捨てるのみ。ゴミシールなんてまったく関係ないのだ。それでも業者は無言でゴミを引き取りにくる。俺まで便乗してそのまま普通にゴミをポリバケツに捨てていた。
一度だけゴミ箱を無視して通過した業者がいた。ちょうど運悪くそれをビルから出てきたヤクザ者に見られた。そのヤクザは業者の車を強引に停め、「何でおまえらはうちのゴミを持っていかねえんだ、コラッ」と脅した現場を見た事がある。
たまたま歌舞伎町で飲んでいた俺は、ゲーム屋の『グランド』へおみやげを持っていこうとビルへ向かう。すると二十歳そこそこのガキが『グランド』の入口のドアに向かって小便をしていた。「おい、何してんだ、このガキが!」と俺は後ろから蹴りを入れる。確かに『グランド』の入口は、まるで営業していないかのように目立たない。看板だって出していない。だからといってドアに小便を掛けていいという訳ではない。
ちょうど階段からヤクザ者が三名出てきて「ん、神威さん。どないしましたんや?」と俺に声を掛けてくる。「いや、このガキが『グランド』のドアに酔っ払って小便してましてね」と答えると、「なんちゅうガキや、コラ!」とヤクザまで怒り出した。
ガキは震えながら『グランド』のドアの掃除を奇麗に水拭きまでして終わると、一目散に走って逃げた。
俺の働くビルは、こんなビルなのだ。
話は少し前に戻る。
プロレスで左肘を故障し、ホテルでバーテンダーを始めた俺。しかしそこには自分の居場所などなかった。ある同級生が歌舞伎町で亡くなり、それを知った俺は、自然と新宿歌舞伎町へ行った。そこで出会った裏稼業のゲーム屋。気づけば長い歳月を掛け、俺は水を得た魚のようにこの街に馴染んでいった。
いつの間にか『ワールド』というゲーム屋の店長になり、毎日を必死に生きた。
最後のほうは腐るほど金を抜き、使い切れないぐらいの額を稼いだ。しかし何だ。金本来の使い方などよく分からない俺は、妙にイライラして無駄な事しか使えないでいた。稼いだ額のほとんどを飲み屋や風俗で使い、週末は大金を競馬に賭けて費やした。パチンコやスロットで十万円を溶かすのは時間が掛かる。しかし競馬だといくらあっても変わらない。大きく金額を張る事で刺激を覚えた俺は、馬鹿みたいに金額を賭け、そして負けていった。
馬鹿が金を持つと、ロクな事に使わない。この俺がいい例である。
どのくらいここで働いてきたのだろう。五年ぐらいだろうか? 俺は貸し物件となった元『ワールド』の目の前に立っている。ヒビの入った袖看板を眺めながら、俺はボーっと一番街通りにいた。もうあんな大金が懐に入ってくるチャンスなんて、今後ないだろう。
思い出すと、色々な事があったなあ……。
ここ何年かの思い出が、目を閉じると浮かび上がってきた。
「随分と俺も、ここで成長したよな……」
独り言を呟いてみる。
さて、これから俺はどうしたらいいか考えねばならない。歌舞伎町へ来た時は二十五歳。こんな俺はもう三十歳になっている。従業員たちは他の仕事を見つけ、すでに働き出している。また一からの出直しだ。
地元でまともな職を見つけるか。それともまだ、この街でひと踏ん張りしてみるか……。
答えはとっくに決まっている。俺はこの街が好きだ。少し休んだら、また戻ってこよう。
これから自分自身の身の振り方を考えなくてはならない。
歌舞伎町時代、知り合った店へ顔を出して雑談をしている内に、日が暮れてしまった。喋り疲れ、帰るのも面倒なので新宿のサウナに泊まる事にする。
ジャグジーに入り、全身にまんべんなく泡が当たるように体を動かす。何ともいえない気持ち良さだ。さっきまでの疲労感が無くなっていく。最近のサウナは設備が豪華だ。思わず感動してしまう。一時間ほど浸ていたせいか、指先がふやけていた。
腹も減ってきたので風呂から出て飯を食べる事にする。
「注文は何にする?」
サウナの食堂に行くと、いきなりおばさんがオーダーを聞いてきた。まだメニューすら見てないのにせっかちなおばさんだ。
「ハンバーグってありますか?」
「あるよ、当店特製ハンバーグ。うちの大人気メニューだよ。それにするかい?」
「あー…、じゃあ、それでお願いします」
特製ハンバーグ…。とても素晴らしい響きだ。ハンバーグマニアの俺にとって、堪らない響きだった。期待と想像で俺の胸は破裂しそうだった。
煙草を吸いながら、ハンバーグが来るのをワクワクしながら待つ。グラスに入った水を一口含み、新聞を手に取った。記事を眺めていて自然と求人広告欄に目が止まる。
『急募 喫茶 日払い 一万五千 ダークネス』
俺が歌舞伎町で初めて働いたポーカーのゲーム喫茶。まだこの店がある事にビックリした。右も左も分からない状況で、必死に頑張ったなと思い出し、当時を懐かしく思う。
あれからどのくらい経ったのだろうか。
両オーナーの鳴戸と水野はどうしているのか。
思えば俺の歌舞伎町生活は、新聞の求人広告を偶然見てから始まった。そう思うと感慨深いものがある。
一本の煙草も吸い終わらない内に、キッチンからさっきのおばさんが、片手に皿を持って歩いてきた。おいおい、いくらなんでもちょっと早過ぎないか……。
「あい、お待ち」
皿に盛り付けられたハンバーグを見て、一瞬泣きそうになった。真空パックのお湯で温めればOKというハンバーグを皿に乗せただけだったからだ。よくスーパーとかで売っているものと変わりはない。
値段を見ると千円になっている。よくもまあ、こんな代物でそんな代金を取れたものだ。ある意味感心してしまう。ひと口食べてみた。当然というか、見た目と一緒で味も予想した通り酷かった。
サウナの雑魚寝は苦痛だ。横にいた奴のイビキがうるさくて、よく眠れなかった。歯ぎしりする奴もいれば、寝ながら屁をこいている奴もいる。
立ち上がって横にいる奴の寝顔を見ると、よだれを垂らしながら大イビキを掻いていた。面を見ていると、ムカムカして顔面を蹴飛ばしたくなってくる。でもしょうがない。これがサウナというものだ。
それよりも明日から仕事をどうするかだ。明日…、帰るまでに決めないと、何の為に歌舞伎町へ来たのか意味がない。色々思案を巡らせるが周りのイビキや歯ぎしりが邪魔して、余計にイライラするだけだった。
再度風呂場へ行き、大好きなジャグジーに入って気分転換をする。俺ってこんなに風呂が好きだったっけ?。
ジャグジーを出てサウナ室に入り腰掛けると、隣に座っていたオヤジがいきなり声を掛けてきた。
「おや、おまえ確か『ワールド』にいた……」
誰だろう…。どこかで見た記憶があるような無いような。でも俺があの店で働いているのを知っているぐらいだから客だろうか。
「こんなとこで何してるだよ」
「あっ、北方さんですか?」
以前『ワールド』へたまに来ていた客の北方だった。いつもメガネを掛けていたので、外した状態だと気付かなかったのである。
「え~と、名前は……」
「神威です。神威龍一です」
「ああ、神威って名前だったっけ。今日はここで泊まるのか?」
「ええ」
「そうか、じゃあ今日辺り『ワールド』へ打ちに行くとするか」
「いや、それがですね…。大変言い辛いのですが、お店、閉めてしまったんですよ」
普通なら驚くはずなのに、北方の表情がにこやかに変わった。
「そうか…。おまえ、次の仕事、決まってるのか?」
「いや、それがまだなんですけど……」
「良かったら、うちに来るか? ゲーム屋もやってるし、ビデオ屋もやってるぞ。他にも色々やってるけどな」
「例えばどのような仕事なんですか?」
「海外だと、観光客相手のガイド会社。それに金融業、もう辞めたけど、北海道でカジノとかだよ。あの店で、おまえの働きぶりは見ていたからな。もし、良かったら来るだよ」
北方からの誘いは、俺にとって渡りに船だった。求人を見て一から探すより、ちょっとでも俺の事を知っているところのほうが働きやすいだろう。
「ぜひお願いします。でも何関係の仕事を自分はするんですか? 歌舞伎町に来て、あの店がほとんどでして……」
「うーん、今こっちで空いてるのがゲーム屋とビデオ屋かな。まあ、おまえ器用そうだし色々とやってもらいたいな。なあに、問題ない。簡単な仕事だよ」
「自分はこれからどうすればいいですか?」
「そーだなー…。履歴書持って、明日の五時に歌舞伎町来れるか?」
「ええ、問題ないです」
ゲーム屋の客としては多少セコく、うるさい客だったが、案外面倒見のいい人なのかもしれない。これで俺の心の中は一気に明るくなった。
「おいおい、ボーっとしてどうしただよ?」
「い、いえ…。何でもないですよ」
慌てて頭を起こしながら北方のほうを向く。見るつもりなどまったくなかったが、頭を起こす際に北方の息子が偶然目に入る。とてもじゃないが、もし俺がこの大きさだったら自殺するかもしれないと思うほど、北方のはとてもちっちゃかった。
風呂から上がり、再びみんなが雑魚寝する場所へと戻る。見ず知らずの連中と一緒に寝るのは嫌なものだ。
目を閉じ、ウトウトし掛けると聞こえる歯ぎしり。まあ悪気があってワザとしている訳ではないので、怒る訳にもいかない。耳栓でも買っておけばよかった。
朝九時になると、俺はサウナの店員に起こされ店を出される。よく眠れなかったので、まだ目がショボショボしていた。
とりあえず一旦家に帰り、履歴書を書かないといけない。こんなものを書くだなんて、今まで想像もつかなかった。学歴や職歴、この年数を調べなきゃいけないのが非常に面倒である。夕方にはまた歌舞伎町へ、行かなければならない。やるべき事は今の内やっておこう。
履歴書を書き終えると、昨夜ちゃんと眠れなかったせいか睡魔が襲ってきた。時間的に余裕はまだまだある。横になり、軽く寝ておく事にした。
薄暗い湿った空気の屋根裏部屋……。
一台の古ぼけた黒いピアノが置いてある。
そこでピアノを弾く男がいた。背中から鬼気迫るものを感じる。もの凄い腕前なのは、ピアノをまったく知らない俺でも分かった。
髪の毛を振り乱しながら、一心不乱に弾く彼。自分の中にある魂や情熱、感情をすべて鍵盤に叩きつけているように見えた。音はそれらを反映し迫力のあるものになり、狭い空間をメロディが所狭しと駆けずり回っている。たまに演奏中、彼の咳をする声が聞こえた。
彼の演奏は、ピアノを弾く事がすべてと言っているようにも感じた……。
途中で彼は激しく咳き込み、演奏をやめた。きっと貧しい生活をしているのだろう。部屋の中には数枚の洋服と、ピアノしかなかった。数枚の洋服はどれもこれもボロボロだが、一枚だけ綺麗なスーツがあった。大事そうに彼はそのスーツを手に取る。口に手を当てたまま咳をしながら、屋根裏部屋を出て行った。
部屋に残された一台のピアノ。不思議とご主人様の帰りを忠実に待つ、番犬のように思えた。
綺麗なブロンド色の髪をなびかせて、彼は威風堂々と街の中を歩いていく。どこかの外国の町だろうか。通り過ぎる背景は見た事もない景色ばかりで、通行人も外人しかいない。
「デューク……」
花売りの女性が笑顔で、彼に近付く。彼の名はデュークというのか。
「これから演奏?」
「ゴホッ…、ああ……」
デュークは短く返事をして咳を繰り返す。
「あまり無理しないで……」
「……」
「デューク、頑張ってね……」
彼は軽く微笑み返すと、その子の前を通り過ぎていった。寡黙なシャイな性格のデューク。心の奥に優しさを秘めているようで、好感が持てた。さっきから咳ばかりしているのが気になるところだ。どこか具合でも悪いのだろうか。俺は彼のあとをつけた。
デュークがバーへ入っていく。酒でも飲むのかな。続いて俺も中に入ると、彼はカウンター席に腰掛け、マスターと真剣な表情で語り合っていた。
そこそこ広めのバーは、たくさんの客で賑わっている。奥にはちょっとしたステージのようなものがあり、グランドピアノが一台置いてあった。生演奏の店なのだろうか。俺はデュークから三席離れた場所に座り、酒を注文する。そういえば俺はこんな見知らぬ場所で、酒を飲みながら何をしているんだろう……。
マスターに向かってデュークが何か熱く語っている。今にも掴み掛かるんじゃないかってぐらいの勢いだ。
おどけた仕草でそれをいなすマスター。
デュークは諦めたように首を振り、軽く咳き込んでからピアノへ向かった。
騒がしかった店内が少しだけ静まる。ひょっとして彼はこれからピアノを演奏するのか? 普段ピアノ…、いや音楽にほとんど興味のない俺が、彼の演奏を心待ちにワクワクしている。
デュークは目を閉じながら、鍵盤の位置を指で確認しているようだ。
ふいに綺麗な音色がバーの店内を走り回る。デュークが奏でるメロディは、あれだけ騒がしかった店内を一気に静まらせた。客一人一人の視線がピアノを演奏するデュークに集中している。
ん、この曲は……。
どこかで聴いた事のあるクラシックだった。曲名は思い出せない。いや、はなっからそんなもん分からないか。それにしても、何て優雅に弾くのだろうか。俺は自然と目を閉じ、彼の演奏に聴き入った。
デュークの奏でるメロディは、優しい感情、そして時折、現状に対してのやるせない部分を爆発させるかのように鍵盤に叩きつけた。とても神秘的で力強く優しい演奏。
急に演奏がとまった。
彼は両手で口元を押さえ、咳き込んでいる。非常に苦しそうだ。
客席からブーイングが飛ぶ。デュークは雑音など気にせず、一礼だけして、またピアノを弾き始めた。
曲が始まると、ブーイングを飛ばしていた連中も静かになる。みんな、彼の演奏が聴きたいだけなのだろう。
綺麗な音に反して、彼の弾く姿からは楽しさというものが、まったく感じられなかった。ピアノを弾くという行為そのものが、自分の人生なんだと表現しているように思えた。
ハッと目を覚ます。
さっきのは夢だったのか……。
自分の部屋の天井を見て、すぐにそう思った。リアルで生々しい夢だった。あの風景の世界を…、俺は自然と受け入れていた。
デューク……。
彼の夢を俺は何故見たのだろう。不思議な気分だった。今までこんな夢は見た事がない。それなのに彼の気持ちが何となく理解できた。
時計を見ると、昼の三時を回っていた。さて、そろそろ出勤する時間だ。
午後四時半に西武新宿駅へ到着する。北方との約束の時間まで三十分ほど余裕があった。少し早いが電話を掛けてみる。
「おう、早いな。もう来たのか」
「少しは余裕を持とうかと思いまして」
北方は今自分のいる事務所の位置を口頭で説明してくれ、これからそこへ向かう事になった。
街を歩いていて気付いたのが、初めて歌舞伎町に来た時と比べると、ポン引きも不思議と俺に声を掛けてこなくなった事だ。この街に慣れたせいなのだろうか。
確か北方の事務所は東通りと平行する隣の細い道と言っていた。自分では分かっていたつもりだが実際探してみると、中々見つからないものである。
せっかく早めに着いたのに、無駄に時間だけが過ぎていく。こういう時は恥とか思わず素直に電話すればいい。
「もしもし、神威です。すいません、今、言われた近辺に来ているとは思うのですが、いまいち場所がよく分かりません」
「何だ、今どこにいるだよ?」
「今日は休みみたいですけど、近くに大きなスーパーがあって、その裏側の通りです」
「ああ、そこは休みじゃなくて、とっくに潰れてるだよ。そうか、今いる通りの四階建ての茶色いビル見えるか?」
辺りを見渡してみると、目と鼻の先にある。こんな近くだったのか……。
「ええ、そのビルの地下一階に行けばいいんですね?」
「そうだ」
言われた黒いビルを改めて見てみるが、ビルと呼ぶには少しお粗末な感じがするひと気のない建物だった。一階には両サイドに店舗が入っているが、何の職種かすら分からず、怪しい雰囲気が漂っている。しばらくこの街にいるが、中でもここ辺りは特に異様な感じがした。俺は恐る恐る階段をゆっくり慎重に降りる。
「おう、案外早かったじゃねえか」
声が下から聞こえてくる。地下一階にある事務所のドアが開いていて、北方が顔を出していた。
「どうも、お疲れさまです」
「履歴書は持ってきたか?」
「ええ、これです」
「まあ、中に入れ。そこのソファに座ってろ。どれどれ……」
北方は俺の履歴書をじっくり見ている。
「三十歳なのか。もっと若いかと思っただよ」
事務所の中に入ると事務机と椅子が各二つずつあり、それ以外には小さなテレビぐらいしか置いてない殺風景な部屋だった。
灰皿には煙草の吸殻が山盛りに積まれ、床を見ても埃やゴミがすごい。この人はまったく掃除とかしないのだろうかと疑うほど汚れていた。
とりあえず椅子に座る前に灰皿に溜まった吸殻をゴミ箱に捨てる。俺も特別綺麗好きって訳じゃないが、この状態のままここで働く事を考えると鳥肌が立ってきそうだ。
「おまえ、プロレスをやっていたのか。どうりで他の奴と違うと思っただよ。何て言うか…、そうだな、新宿に染まってないというか……」
「そんな事ないですよ。充分この街に染まっています」
ゲーム屋時代、番頭役の浅田さんと組んで行った抜き行為。一日二万五千円から七万五千円の金を給料とは別に手に入れていた。従業員たちとも共同して新規伝票を偽造し、毎日数千円抜いてもいる。給料とは別に……。
「色々とやってもらう事はあるからな」
「よろしくお願いします」
煙草のチェリーをポケットから取り出して、北方はうまそうに煙を吐き出す。今どきこんな銘柄の煙草を吸う人も珍しい。
「とりあえず俺のいつもいる場所は主にここの事務所だな。このビルの上、一階が一円のゲーム屋。ここの隣のテナントがビデオ屋。ま、歌舞伎町だとこんなもんだな、俺がやってるのは。あとは実質、別にオーナーはいるけど俺が面倒見てるって感じだよ」
「すごい手広くやっているんですね。自分はどうすればいいんですか?」
「そうだな…、ゲーム屋の経験があるなら、上のゲーム屋で少し手伝いながらビデオ屋の仕事も徐々に覚えてもらうだよ」
「分かりました」
「まあいい、ついてくるだよ」
北方はいきなり立ち上がって事務所を出て階段を登り出す。結構マイペースな人みたいだ。俺は何も分からないので言われた通り、後ろをついていくだけだった。
地下の事務所の隣はビデオ屋になっていて、中を覗くと店員が暇そうにボーっとしていた。
階段を登り終わり、一度外に出てから北方は一階にある左側のテナントのドアに近付き、インターホンを押している。
カチャリと中から鍵の開く音がしてドアが開くと、まだ二十歳半ばの従業員が顔を出した。北方に促がされて俺はゲーム屋の中へ入る。
「あれ、何で山田がこの時間にまだいるだよ?」
「さ、さっき小阪さんから連絡有りまして、少し用事で遅れるみたいです」
「小阪はまた遅刻か?」
「何か大事な用らしいですよ」
「まあいいや…。今、須田が長期休暇とってんだろ? いつ頃あいつ帰ってくるだよ?」
「一ヶ月後です。まあ、ご覧の通り、早番は暇なんで自分一人でも大丈夫ですけど」
「おい神威、早番責任者の山田だ」
「あ、はじめまして…、神威龍一と申します。よろしくお願いします」
「山田です。よろしくお願いします」
「神威は、明日から一ヶ月間、人が足りないからこっちを手伝ってやってくれ」
「はい、分かりました」
今日いきなり面接のつもりが、早速明日から働く事になってしまった。こんな簡単に物事を決めてしまっていいのだろうか。少しばかり不安になる。
「神威は、山田とここの仕事の事ちょっと話したら、もう今日は帰っていいだよ」
「あ、あの…、明日から何時に出勤すればいいんですか?」
「おまえは早番だから、朝の七時にここに来い」
随分と半端な時間だ。今まで早番といったら朝の十時が普通なのに……。
七時に新宿じゃ、家を六時ぐらいに出ないといけない。しかしこの現状で文句を言っても仕方がなかった。
「分かりました。明日から頑張ります」
「じゃあ、俺は行くだよ」
北方が店を出て行くと、山田がすかさず話し掛けてくる。
「神威さんですよね?」
「ええ、早速明日から働く事になりましたけど、よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ。神威さんはゲーム屋の経験あるんですか?」
「ありますよ。ここと同じ一円のゲーム屋でした。かなり前ですが」
「失礼ですが、北方さんとはどんな繋がりなんですか?」
「北方さん、自分のいた店に、客としてたまに来てたんですよ」
「そうだったんですか。最近は、ここ『グランド』に北方さん入り浸りですけどね」
山田の口調には北方に対する嫌悪感が、少し含まれているような気がした。
「このお店、『グランド』って名前なんですか? 外を見ても何の看板も無いから全然解りませんでした」
「いえ、派手に営業してると、警察とか怖いじゃないですか。だからうちは看板とか外に出さないで、こっそり地味にやってんですよ」
以前俺が店長をしていた店『ワールド』では考えられない事だった。
「そういえば、早番って七時から何時まで仕事やるんですか?」
「うちは三交代制なんで、三時までですよ。中番が三時から十一時です。遅番が十一時から朝の七時までです。誰か休みの場合、各番が四時間ずつ残業するっていった感じですね。一日通常だと八時間で、日払い一万。残業込みの十二時間で一万五千円です」
俺が知っているゲーム屋は、昼と夜の十二時間二交代制だったので、三交代制に対して少し違和感があった。これから一ヶ月間は朝、最低でも五時半起きになるのが辛い。
「分かりました。では明日からよろしくお願いしますね。では失礼します」
何を考えたってなるようにしかならない。今はとにかく自分で動くしかないのだ。与えられた条件の中で、どれだけ自分の評価を上げられるか。まずそこら辺に重点を置き、頑張ろう。
目覚ましの音で目を覚ますが、さすがにまだ眠い。朝の五時半だから眠くて当たり前だ。
熱いシャワーの温度が体に沁みてジンジンくる。
今日は仕事初日の日。絶対に遅刻する訳にはいかない。
コーヒーを飲んで煙草を吸っていると、時計の針は五時四十分を過ぎていた。そろそろ職場に向かうとするか。
電車に乗ると、こんな早い時間でも結構な人数の乗客がいた。みんな大変なんだよなと勝手に感心して椅子に座る。一ヶ月間とはいえこれが毎日続くのかと思うと、うんざりしてきた。考え事をしながらいつの間にか寝てしまい、目を覚ますともう高田馬場だった。
「次は西武新宿ー、次は西武新宿ー。終点です」
駅に着いた時刻は六時四十五分。ちょうどいい時間だ。
こんな早い時間に歌舞伎町を歩くというのは不思議な感覚だった。人の通りもさすがに少ない。
北方の事務所のある通りに差し掛かる。相変わらず一階のゲーム屋『グランド』は、看板も出さずにひっそりと営業していた。俺は入り口の所にあるカメラ付きのインターホンを押してみる。
「おはようございます。今日からお世話になる神威です」
ドアがカチリと音を立てて開く。客は二人しかいないようだ。
昨日会った早番の山田が近寄ってくる。入り口から正面にあるカウンターの奥に、見た事のない従業員らしき人が二人、椅子に座って話しをしていた。
「よく起きられましたね。神威さんのところからだと六時くらいの電車に、乗ってくるようなんじゃないですか? 大変ですよね」
「そうでもないですよ」
「あ、紹介しときます。カウンターの奥にいるのが店長の醍醐さん。今、ホールに出てきたのが秋本さんです」
パッと見、秋本さんの方が年上だと分かる。醍醐さんは奥で難しい顔をしながら電卓を叩いて、何やら計算しているようだった。秋本さんが近寄ってくる。
「あ、はじめまして…。今日からお世話になる神威です。よろしくお願いします」
「はじめまして。うちは見ての通り、のんびりした店なんで、仕事は徐々に覚えていけば構わないですから頑張って下さい」
感じのいい人だ。店の中にいる二人の客はダブルアップで一、二回叩いて当たるとすぐテイクしながら遊んでいた。最初に働いた店『ダークネス』の店長新堂が、こういう遊び方をする客を『テケテケ』で、さらに少ししか金を使わないで帰れば『ケンチャン』なんだと言っていたのを思い出す。
「神威さん、ゲーム屋の経験はあるんですよね?」
「ええ、あります。INとかなら分かりますよ」
下手に『ワールド』で店長をしていたというのは伏せておく事にしよう。
「じゃあ、とりあえずINキーを渡しておきますね」
二卓に座っている客のクレジットがゼロになっていたが、千円札を見ながら一歩入れるか、二本入れるか迷っていた。非常にじれったい客だ。千円や二千円なんてどうせすぐに溶けるのだから、さっさとINすればいいのに……。
「うぃ、入れてっ」
二卓の客は千円札をヒラヒラさせながら偉そうにしている。俺はダッシュで駆け寄り、金を受け取ってINを入れた。山田が呼んでいるのでカウンターの方へ向かう。
「神威さん、うちはこんな店なんで客もあんな感じなんです。そんなビシッてやらなくても大丈夫ですよ。気楽にやって下さい。それで三時になれば仕事、終わりですから」
何とも拍子抜けする店だ。客層も従業員もだらけている。
「客に呼ばれるまで、空いている卓に座ってていいですよ」
ここは仕事中、空いている卓に座ってもいいのか…。今までのゲーム屋とのギャップがあまりにもあり過ぎて戸惑いを隠せない。いい加減な店というイメージが俺の中で早くも定着しつつある。
三十分もしない内、テケテケの客は二人とも帰ってしまい、『グランド』の店内は従業員の山田と俺だけになってしまった。
俺はとりあえずテーブルの上を雑巾で拭き、掃除を始める。灰皿に吸殻が溜まっている卓もあるし、細かい所の汚れが目立つ。本来あまり綺麗好きとは言えないが、そんな俺でもこの店はだらしないと感じた。
昼頃になって、入り口のチャイムが鳴った。カメラで確認すると、社長の北方だった。
「おはようございます。今日から早速お世話になっています」
「おう、少しは慣れたか?」
「ええ、山田さんも親切に接して頂いているので問題ないです」
「おう、山田。いつもの」
「はい」
山田はキッチンに行き、コーヒーを淹れだす。遠目で見ていると、山田は砂糖を七杯入れて、さらにポーションクリームを四つも入れていた。明らかに入れ過ぎだ。俺はさり気なく山田に近付き小声で話した。
「山田さん…、少し砂糖とか入れ過ぎなんじゃないですか?」
「これでいいんですよ。北方さんのは…。これでいつも通りなんです」
毎回こんな大甘なコーヒーを飲んでいるのか…。年齢も五十歳ぐらいだし、いつ成人病になってもおかしくはないだろう。北方はコーヒーをうまそうに飲みながら、山田と店の件で色々話をしている。
「神威、おまえは三時に終わったら、下に降りて来るだよ」
「え? あ、はい…。何かあるんですか?」
「おまえはここ一ヶ月だけの専属だから、下のビデオ屋も仕事を色々覚えてもらわなきゃ、困るだよ」
「はい、頑張ります」
北方が店を出ると、時間は二時になっていた。あと一時間でゲーム屋の仕事が終わる。
「神威さんのお店にも、北方さんってよく来てたんですよね?」
「ええ、たまにでしたけど」
「北方さんって、神威さんの店ではどうでした?」
「どうでしたって、何がですか?」
「客としてみてですよ。ゲームの打ち方とかです」
「あ、北方さんですか? 一本ずつ入れるのが面倒でしたけど、奇麗には遊んでいましたよ。特に問題もなく」
「へえ、珍しいもんですね、あの北方さんが……」
「え、北方さんがどうかしたんですか?」
「神威さん…、その内分かると思うんですけど、これだけは言っておきますよ」
「え?」
「北方さん、金に関しては悪魔ですから気を付けて下さい」
「悪魔ですか……?」
山田は静かにゆっくりと頷く。俺には山田が何を言っているのかよく理解できなかった。
金に関して悪魔……。
金に対して執着心がすごいという事だろうか。仕事初日から変な事を聞いてしまった。三時になり、中番の従業員と交代で『グランド』を出る。
さて、次はどんな事をするのだろう。地下にある北方のいる事務所へ降りて行った。
地下へ行く階段を降りると、右手にビデオ屋があり左手に北方の事務所がある。ビデオ屋の従業員はテレビをボーっと眺めているだけで、俺の方を向こうともしない。パッと見でいい加減な奴だなと感じた。まあ、どっちにしても俺には関係ない事だ。反対側にある事務所のドアをノックする。
「すみません、神威です」
「おう、入れ」
「失礼します」
北方は脚を組んで椅子に座ってはいたが、妙にでかく感じる。北方はもともと身長が高い。見た感じ百八十五センチぐらいはあるだろう。しかしその身長を考えても椅子に座っている姿は高い。身長は高いが、特に上半身が異様に長いのであろう。このような体型を一般的に胴長短足とも呼ぶ。
髪型はちゃんと整えてないのか、パーマをかけてそのまま放置している感じで、だらしなさが見える。四角い黒ぶちのメガネを掛け、二重あごは醜く弛んでいる。
「とりあえず自分はどうしたらいいですか?」
「横にビデオ屋があったろう?」
「ええ」
「まずビデオ屋の仕事を覚えてもらうだよ」
俺も新宿にしばらくいたからビデオ屋の存在自体は知っている。無修正の裏ビデオを売っている店だ。だが、客として中に入った事は一度もなかった。
「分かりました。でも、全然仕事内容は分からないですよ」
「なあに、簡単だよ。誰でもできる仕事だ」
「はあ……」
「横で浦安って従業員がいるから、そこで五時まで二時間仕事教わってくれ」
「はい」
一礼して事務所を後にする。隣のビデオ屋は入り口のドアが開きっ放しなので声を掛けて中に入るが、そこで働く従業員浦安からの反応は何もなかった。
「すみません、あのー……」
さらに声を掛けても、まったく反応がない。心配になり様子を伺うと、浦安は仕事中なのも構わず熟睡していた。
「あのー…、浦安さん。すみませーん…。起きて下さいよー」
それでも微動だにしない浦安は、ある意味大物に感じた。背後に人の気配を感じる。
「おい、おまえは……」
北方が部屋に入ってくる。俺に構わずツカツカと浦安に近付き、いきなり頭を引っ叩きだした。
「おまえは仕事中、何をしてるだよ」
「イテテテ…、お、お疲れさまです」
「お疲れさまじゃないだよ。おまえは仕事中、何度寝るなって注意すれば分かるだよ」
「すいません、すいません……」
「すいませんは一度でいいだよ」
「痛っ、痛いですよ。勘弁して下さいよー……」
「うるさいだよ。口答えすんな。この馬鹿が…。売り上げはどのぐらい言ってんだ」
「え、えーとですね…。二万円です」
「この馬鹿が…。いつも居眠りばっかりしてるからだ」
再度頭を叩かれる浦安を見て少し可愛そうに思う。見た感じ年齢は四十代半ばだろうか。俺も十年数年経てば、浦安ぐらいの年齢になる。その時が来たとしても絶対にこうはなりたくない。
浦安が怒られている間、俺は店の中をグルリと見渡した。
壁の至る所に写真やエロ雑誌の切り抜きなどが貼られている。
「おい、神威」
「はい。何でしょうか?」
「こいつが浦安だ。こいつに仕事を色々教えてもらうだよ」
「はい。あっ、はじめまして、神威といいます。よろしくお願いします」
「じゃあ、俺は戻るからな。五時になったら一度顔を出せよ」
「はい、分かりました」
北方がこの場を去り、俺と浦安の二人になった。
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