むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃(もも)の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地(だいち)の底の黄泉(よみ)の国にさえ及んでいた。 何でも天地開闢(かいびゃく)の頃(ころ)おい、伊弉諾(いざなぎ)の尊(みこと)は黄最津平阪(よもつひらさか)に八(やっ)つの雷(いかずち)を却(しりぞ)けるため、桃の実(み)を礫(つぶて)に打ったという、――その神代(かみよ)の桃の実はこの木の枝になっていたのである。
この木は世界の夜明以来、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけていた。花は真紅(しんく)の衣蓋(きぬがさ)に黄金(おうごん)の流蘇(ふさ)を垂らしたようである。実は――実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実は核(さね)のあるところに美しい赤児(あかご)を一人ずつ、おのずから孕(はら)んでいたことである。
むかし、むかし、大むかし、この木は山谷(やまたに)を掩(おお)った枝に、累々(るいるい)と実を綴(つづ)ったまま、静かに日の光りに浴していた。一万年に一度結んだ実は一千年の間は地へ落ちない。しかしある寂しい朝、運命は一羽の八咫鴉(やたがらす)になり、さっとその枝へおろして来た。と思うともう赤みのさした、小さい実を一つ啄(ついば)み落した。実は雲霧(くもきり)の立ち昇(のぼ)る中に遥(はる)か下の谷川へ落ちた。谷川は勿論(もちろん)峯々の間に白い水煙(みずけぶり)をなびかせながら、人間のいる国へ流れていたのである。
この赤児(あかご)を孕(はら)んだ実は深い山の奥を離れた後(のち)、どういう人の手に拾われたか?――それはいまさら話すまでもあるまい。谷川の末にはお婆(ばあ)さんが一人、日本中(にほんじゅう)の子供の知っている通り、柴刈(しばか)りに行ったお爺(じい)さんの着物か何かを洗っていたのである。……
この木は世界の夜明以来、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけていた。花は真紅(しんく)の衣蓋(きぬがさ)に黄金(おうごん)の流蘇(ふさ)を垂らしたようである。実は――実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実は核(さね)のあるところに美しい赤児(あかご)を一人ずつ、おのずから孕(はら)んでいたことである。
むかし、むかし、大むかし、この木は山谷(やまたに)を掩(おお)った枝に、累々(るいるい)と実を綴(つづ)ったまま、静かに日の光りに浴していた。一万年に一度結んだ実は一千年の間は地へ落ちない。しかしある寂しい朝、運命は一羽の八咫鴉(やたがらす)になり、さっとその枝へおろして来た。と思うともう赤みのさした、小さい実を一つ啄(ついば)み落した。実は雲霧(くもきり)の立ち昇(のぼ)る中に遥(はる)か下の谷川へ落ちた。谷川は勿論(もちろん)峯々の間に白い水煙(みずけぶり)をなびかせながら、人間のいる国へ流れていたのである。
この赤児(あかご)を孕(はら)んだ実は深い山の奥を離れた後(のち)、どういう人の手に拾われたか?――それはいまさら話すまでもあるまい。谷川の末にはお婆(ばあ)さんが一人、日本中(にほんじゅう)の子供の知っている通り、柴刈(しばか)りに行ったお爺(じい)さんの着物か何かを洗っていたのである。……