8月20日の日没後だったと思うが南西から東の空に奇妙な光が通り過ぎた。流れ星にしてはゆっくりで、人工衛星のようだがその光の後ろを七夕の短冊のような細い帯状の光が長く連なっていた。流れはやがて天の川に入り、頭上黒くそびえる知床の山を越えて消えた。不思議な光だった。あれはいったい何だったのだろう。
春から7回の知床エクスペディションは無事に終了した。最初の2回は観光船遭難の沿岸捜索を行い、羅臼側からカシュニの滝を往復した。3度目からは相泊から宇登呂まで岸近くを捜索しながら漕いだ。岬の波は時に危険なほど高かった。風も時々強く吹いた。雨も久しぶりに強かった。カシュニの滝では毎回遭難者のために黙祷した。今年は風雨の中での炊事に苦労した。特に出発地の相泊ではほぼ毎回のように雨が降り、傘をさしながらの米炊きだった。平らな床と雨をしのぐ屋根の下で寝られるのはありがたいことだ。番屋の使用を快く許可してくれた村田さんに感謝する。村田さんは78で私は75だ。もう潮時だなというのが私たちのいつもの会話だった。村田さんは昆布漁師だが最近は海が怖いと言う。それは私も同じだ。老いはやむを得ないが臆病になる。そして怠けたくなる。怠けてはならないというのが私の口癖になってしまった。
北海道では条例でカヤックの漁港利用が禁止されている。今から30年前、札幌や室蘭の海では漁港の利用を巡ってカヤッカーと漁業者のトラブルが続いた。漁師にも言い分がありカヤッカーにも言い分があった。カヤッカーの多くはアウトドアショップが主宰するクラブの会員であり、医者や弁護士など社会的地位が高いと自他ともに認める人たちとその取り巻きだった。ブームの高まりの中でカヤックやプレジャーボートは当然のように漁港を使った。しかしそれは漁師には迷惑な話だった。カヤッカーは国民の税金で作られた港の利用を当然の権利と主張した。道水産部は漁業者の利益を優先し、条例でカヤックの漁港利用を禁止した。漁港の斜路は漁民が磯舟を出し入れするために作られたという理由からだ。30年前と言えば全国で初めて公的なガイド資格制度、北海道アウトドアガイド資格制度ができた頃だ。その同じ時期に北海道は条例で遊びのカヤックの漁港利用を禁止した。役所は一方でアウトドア活動を政策としてあおり、一方でそれを規制した。それを縦割り行政の弊害と言ってもなんの解決にもならない。当時私もこの資格制度作りに関わっていた。条例が出来た時、道庁内でアウトドアガイド制度など将来の北海道観光を推進する立場の中心にいた磯田憲一さんに謝られたのを覚えている。いずれにせよ一度決めた条例を変えるのは容易ではない。
今日、多くの港で漁船の利用は減り続けている。それは知床も同じだ。原因は漁獲高の減少や魚種の変化、油代の高騰や漁業者の高齢化など様々だ。それなら頑なに条例にこだわらず、その地域の町村の権限で港という財産を有効に活用する方策を模索すれば良いのにと思う。そのほうが衰退する地域の活性化にプラスになる。現に岩手や宮城ではそのようにしている港も少なからずある。しかし北海道の条例は生きている。港には看板も立っている。だからそれを理由にカヤックを排除する漁師もたまにいる。しかし大方はそんな条例があることすら忘れている。また知っていてもよほどの迷惑がない限り札幌圏以外でカヤックを排除する漁師は少ない。
漁船は早朝2時にエンジンをかけ3時には出港する。それ以降であればカヤックの利用は可能だ。結局のところこの制度が作られる原因を作ったのはカヤッカーだったと思う。もちろん漁師の閉鎖性もある。しかし舟の準備をする横で当然のようにカヤックを並べて無神経にふるまえば、それが作業の邪魔になるか否かに関係なく、誰であっても面白くない。あの時代は札幌や室蘭の漁港でトラブルが続いていた。私たちには権利を主張する前に相手の立場を尊重する努力が足りなかったと思う。海を漕ぐのは自由だがそこには生活者がいる。かれらの理解を得て初めて私たちは漕げるし漁港も利用できる。私はそのようにして知床の海を漕いできた。
私はこの30年、条例を守って海岸から艇の出し入れをしてきた。カヤックにはそれが出来る。しかし近年、知床ではそれすら難しくなってきている。観光知床をうたい文句にするなら、せめてカヤックの漁港利用に便宜を図ってもらえたらと思う。出艇と上陸、そして車の置き場所の問題は顕在化し始めている。私はウトロの赤澤さんと圓子さん、相泊では大木さんと村田さんの理解を得て仕事をしている。しかし知床を訪れるカヤッカーはそれを知らない。彼らは突然やってきて無断で私有地に車を停める。だから時々問題が起きる。カヤックは世界遺産知床の適正な利用にあたると環境省も明文化し、知床財団では事故防止のために水路誌を頒布している。カヤックは公園のボートと同じように漕げば進む。その技術は講習会で学べる。しかし海は時に厳しい。シーカヤックにもっとも大切なのは「シーマンシップ」つまり海の常識だ。だがこれも経験と同様、講習会では学べない。単なる技術ではないからだ。
9月1日からロシア極東ではロシア、中国、インドなどの演習が行われている。6日からはロシア海軍の演習が日本海と択捉島など千島列島を中心に行われる。中国海軍もこの演習「ボストーク」に参加している。中国は台湾侵攻を視野に入れた参加だろうしロシアはオホーツク海をロシアの内海にするための作戦の一環なのだろう。千島列島はロシア原潜の太平洋への出口なのだ。ウクライナ戦争で疲弊しても大国ロシアは未だに覇権国家であろうとしている。プーチンのロシアはソビエト時代の再来を夢を見てウクライナを侵略し続けている。また戦術核の使用を脅しに使うだけでなく、辺境の中央アジアや極東の兵士、古い戦車などをはるばる列車で運んでいる。そして占領地ウクライナ市民をロシア辺境に強制移住させるだけではなく子供を親から引き離してロシア化しようとしている。古来繰り返されてきた民族浄化がまた行われている。
ロシア人に罪はない。テニス選手のメドベージェフが小声で言うように、戦争に反対し平和を望む国民は大勢いる。おそらく先日亡くなったゴルバチョフもそうだったろう。最後のソビエト共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフは東西冷戦を終わらせてソ連邦を解体した。私はロシア人を嫌わない。ロシア人は音楽好きだ。極東の漁師の若者や国境警備隊の兵士でさえストラディバリを知る人たちなのだ。ドクトルジバコを書き、ノーベル文学賞を受賞したボリス・パステルナークもそのような人だったのだう。しかし当時パステルナークは授賞式への出席を禁止され、その本は発禁処分となった。
多数の市民の無関心がこのような悪を台頭させる。日本も例外ではない。大政翼賛会や国防婦人会、あるいは統一教会が力を持つ社会を私たちは望むだろうか。盾の会の復活を望むだろうか。少なくとも私は望まない。しかしそのようなものを求める人が増えている気がする。ロシア人はどうだろうか。何よりもロシア人はウクライナの現実を知らされているだろうか。知ってはいてもモスクワのロシア人には他人事なのだろう。だからクリミアにバカンスに出かける。それは私たちも同じだ。しかし自由でいられることはありがたいことなのだ。本当の自由は金では買えず、失った自由を取り戻すのは容易ではない。
現在九州付近にある台風の影響で明日まで北海道も南東風が強い。北の海は大しけだ。今頃ロシアと中国の艦隊は択捉か国後の西岸に嵐を避けて避難しているのだろう。あるいは無謀にも嵐の中で演習をしているのだろうか。個人の政治的野心のために安倍晋三はプーチンと密約を結んだ。しかしそれはウクライナ戦争で反故になった。ヒトラーがゲルマン民族の優位性を誇りユダヤ人の絶滅を目指したように、プーチンもまたスラブ民族の過剰な自意識でそれに従わないものを抹殺する。優生思想が骨の髄まで染みこんだプーチンにとって、似通った価値観を持つ阿部晋三は与しやすい相手だったのだろう。
それにしてもなぜ政治家はファーストネームで呼び合いたがるのだろうか。私には理解できない。すでに遅いが私たちは国後だけでも日本に帰属できるようにロシアに働きかけるべきと思う。かってアメリカがそうしたように島を買い取ることも出来るかもしれない。アメリカはリンカーンの時代にロシア帝国からアラスカとプリビロフ、アリューシャンを購入している。
ともかく日本人は島がこれほど近くにあることを知らない。政治家も知らない。尖閣と竹島そして沖縄北方領土問題は、この国では当事者を除き常に他人事なのだ。相泊の村田さんと大木さんの親は択捉島からの引揚者だ。ここには引揚者がまだ大勢生きている。彼らは毎日父祖の島を見る。村田さんはもう自分が島に帰れないことを知っているかのように墓参で訪れた島の風景を懐かしそうに語る。
知床から戻って何日も経っていないのにそこに戻りたい自分に気づく。海上を走り回る竜巻のような強烈なブロー、岬を越える危険な航行、オホーツクの落日と国後からの日の出、秘密の潮切の水路、海賊湾、浅瀬を走り回るカラフトマスとそれを沢で待ち続けるヒグマたち、嵐の中の焚火、沖で出会う漁師との何気ない会話、壊れた艇の修理、参加者の笑顔。そんな光景が浮かんでは消える。すべてが得難い思い出だ。知床エクスペディションの仲間たち、田中幸恵、新井場隆雄、深澤達也、そして岩本和晃に感謝する。そして遠い昔にこの土地に生きたアイヌの人たちに敬意を表す。私たちは彼らの末裔なのだ。