ただ、ただ、ぼくのアウトプットの場です。

厳密日記ではないけど、日記として記してます。毎週基本的に、火曜、木曜、土曜の午前中に更新します。

壁をなくなったのか??

2024-01-30 08:00:00 | 日記
先日、地域にて不登校に関するシンポジウム研修があったので参加してみました。そこで学んだこと、気づき等を記述していきます。

この研修は不登校とは何か?みたいな研修ではなく、医療と福祉と教育の「壁」はなくなったのか?というテーマの研修でした。不登校もそうですが、福祉や医療、教育に関しては、単体の機関一つで対応をしていくというのは、難しいです。例えば、お医者さんで家庭全体の問題に深く入り込んでいくことや、学校の先生が医療のことに深く入り込んでいくことは、実際難しいですし、場が混乱していくだけです。餅は餅屋にではないですが、専門分野は専門にされてる方に頼んだ方が無難です。ただ、お任せしていればいいや、というわけではなく「連携」が必要となってきます。連携を取ることにより、24時間べったりとそのケースに張り付いていなくてもよいわけですし、こっちの機関には詳しい情報があるけど、こっちの機関には情報が全然ないとか普通にあるからです。

また、支援者や機関によって、そのケースの見立てや見え方も変わります。例えば医療機関であれば、医学的観点からの見方、福祉的観点からの見方などバラつきがあります(一概には言えないですけどね)。どっちがいいとか悪いとかではなく、一点の考えだけでなく、見えない視点が必ずあるので、連携は本当に必要なんですね。

このように連携がケース対応をしていく上では「肝」となります。

さて、その連携ですが、医療も福祉も教育も連携がとても大切だと分かってはいるのに、連携、連携と謳われてうん十年。いまだにその大切さが言われております。逆にいうと、なかなか連携が進まない背景があるともとれます。

連携を遮るものは何か。それを壁と例え論じておりました。ひとえに壁と言っても様々な壁があると思います。高い壁。長い壁。厚みのある壁、見えない壁、などなど。それは人それぞれ壁の感じ方はあり、そのハードルは自分で高くしたり、低くしたりすることもできます。

ぼくは医療現場の人、お医者さんに連携を取るために連絡をすることもありますが、ちょっと緊張したり、今電話して大丈夫かなぁとか、ステータスのあるお医者さんと連絡とるのかぁと気が引けたりします。壁が高いと感じます。学校の先生や教育委員会の方とも連携を取ることもありますが、学校の先生は先生でやっぱり緊張します。病院よりかは低いけど、確実に壁を感じます。逆に他の機関ですが、日頃から連絡とれるような方は壁が低かったり、壁自体がなかったりします。ぼくがあまり認知していない事業所とかは、壁自体見えないかもしれません

このようにぼくが壁と感じてるということは、相手もぼくと連携とるのに壁を感じてるかもしれません。ぼく自身は特段悪い人でもないから大丈夫だと思うし(なにが?)、へらへらしてるし、頭もよくないのでハードルは低いと思ってるのですが、高い壁、薄い壁、それぞれ感じてる人はきっといるでしょう。

ではこの壁を取り払っていくにはどうしたらよいのでしょうか??結論を先に言うと、相手を理解していくということだと思います。本当に理解していくのは難しいので、理解していこうっていう意識ってことです。相手の人や相手の機関の強みと弱み。ぼくの強みと弱み。それぞれ理解し合い、知っていくという作業が必要なんだと思います。そのためには日々、まずは自身の強さや弱さを俯瞰的に見ていかないといけないです。

そのうえで、相手の強さや弱さ意識していく。相手の弱さのところを自分がフォローできないか。逆に自分の力が及ばないところを相手にフォローしてもらえないかとか、そのような連携を取っていくことにより、お互いの壁がなくなっていくと思います。

このような意識でいれば、例えばお医者さんに電話するときに、ただ単に「このケースについてですが、先生はどう思いますか?」みたいな連携の取り方ではなく、「ぼくの立場からだと、このような見解なんですが、医療の立場からみるとどう思いますか?」という聞き方になると思います。そうすれば相手も答え易いし、自分も相手も相手の立場や職種を尊重しつつ、強さも弱さも意識しつつ対応していけるのではないかと思います。

あと一つ付け加えるのであれば、立場とか職種とか抜きにして、1人の人対人との対話がやっぱり大切なんじゃないかなと思います。腹を割って本当の気持ちや思いを話すときもあっていいんじゃないかと思います。

今は昔と比べて飲み会とか、プライベートで対話する場面は減ってはきていますが、お会いする時間を設けて、腹を割って話しましょう!とい機会は必要だと思います。


壁を壊す特別な必殺技はないですが、自分の強さと弱さを知り、相手の強さと弱さも知る。そして、1人の人間として腹を割って話す関係性を作っていくことが壁をなくしていくことなんだと思います。

皆さんは壁をなくすために、どんな工夫をされてますか??簡単ではない作業ですが、これからも頑張っていきます。やるぞぉー!

仕事のゴールは?

2024-01-25 08:00:00 | 日記
さて、今回は仕事についてのお話しですが、期限が仕事のゴールになってないか?という内容でアウトプットしていきたいと思います。

これは、ぼくが毎日聴いているVoicyという音声アプリで、越川慎司さんがお話ししていた内容です。なるほどと思ったので、簡潔にアウトプットしていきます。

最近のいわゆる上場企業様の評価基準はプロセスではなく、成果に変化してきているとのことです。ただ、この成果。誰が決めるのでしょうか?それは自分ではなく、周囲の人。会社でいうと、上司や責任者の方。あとは先方のお相手やお客様など、この成果は周りの人によって評価されます。さらに成果とは、相手の期待値を越えて初めて得られます。

なので、冒頭の言葉に戻りますが、仕事は期限を守れば評価されるとか、自分の仕事だけこなしていればいいんでしょという仕事の姿勢は成果としては評価されません。仕事は期限を守ってはじめて、0なんです。守ったからといって評価がプラスにはなりませんし、逆に守れなければマイナスになります。その0ベースの上にどう期待値を越えられるかをゴールにしないと、成果という評価に繋がりません。期限というものをゴール設定してしまうと、こんなに一生懸命頑張ったのに!!と自分で思っても、評価としてら0なんです。やるせないですし、大切な時間ももったいないですよね。

そうならないためには、独りよがりの仕事をせずに、周りをまき込んでいくことが重要なポイントです。もっと具体的にいうと、ゴールの設定から周囲の人(上司や同僚、取引先など)と決めていくことです。それにはやはり、対話が必要です。誰ともコミュニティケーションを取らずに、仕事を進めていくとゴールにズレが生じます。周りの人と一緒にゴールの設定から決めていくことが、自分の評価、成果に繋がっていきます。

共有のゴール=評価、成果ということです。

さて、ここまでが主な内容でした。この話しを踏まえてぼくがどう考えたか、所見をお話したいと思います。

ぼくはそもそも仕事を作業と仕事の2パターンあると考えてます。作業は事務作業や考えなくてもできる流れ作業的なもの。それこそ期限に向けて淡々とこなしていけばよい作業です。では一方で仕事は何なのかというと、価値を生み出すものという考え方です。どちらが優れてるとかではなく、両方仕事には必要だと思います。このぼくの考えを越川さんのお話しと合わせていくと、仕事は周りの人とゴールの設定をしていく認識が必要であり、作業は期限というゴールに向けて、淡々と進めていくという認識です。

今、目の前にある業務が仕事なのか作業なのか。まずは見極めていく認識をもつこと。成果という評価を得たいのであれば、周りとゴールを設定していくという認識をもつことを意識していきたいと思います。いずれにしろ、独りよがりの仕事は結局評価はされないので、普段から見える化を意識していく方が得策ってことになりますね。

皆さんはゴールを周りと共有していますか?こんだけ頑張ってるのに!って思ってる人は、1度ゴールを周りと決めていくのがいいのかもしれないですね。それではまた!


あなたは何かに依存してますか?

2024-01-23 08:00:00 | 日記
今日は依存性って身近な問題だよねというアウトプットをしていきたいと思います。

依存性って薬物、アルコールとかありますね。最近では、若者(この言い方がもはやおやじ)にゲーム依存性ってものがあるみたいです。

依存性に対する皆さんのイメージってどんな感じですかね。一般的にはだらしないとか意志が弱いとか、自業自得とか、なんなら、どうせまた覚醒剤使うんだから、ずっと刑務所に入れておけばいいなど、とらかというとネガティブなイメージが強いのかなと思います。

でも、そもそも依存ってぼくも含めて誰でも何かに依存して生きているのではないかと思います。例えば、ゴミの山を横目に安価で便利な使い捨てプラスチックの多用。恋愛とか宗教とかも一種の依存です。環境にわるいとか、健康的によくないとわかっていても、生活を送るなかで便利なものにぼくたちは依存してます。

このように何かしらの依存をして生きているぼくたちですが、依存か続いてるなかで不利益が大きいことに気づかない、気づいているにもかかわらず、やめられない状態を依存性と呼びます。

その原因としてよく言われているのが、脳内報酬系と呼ばれる脳の働きであるということです。脳のなかには、側坐核と呼ばれる部位があり、そこは別名、快楽中枢とも呼ばれます。この快楽中枢はドパミンと呼ばれる物質が活性化するとドパドパ放出されます。それが快となりぼくたちに気持ちよさであったり、快感を与えます。

そして、快という感覚を求めてぼくたちはまた刺激を求めていきます。でも、このドパミンは同じ状況が繰り返されると分泌されなくなってきます。なので、量や回数を増やし快を求めていきます。これが依存性のからくりの一つです。

このように書くと快がすごく悪いことのような感じになってしまいますが、生きていく上で快という感覚はとても大事です。不快なまま生きていくと、精神的にも身体的にもいづれ壊れる日がくるでしょう。

では何が問題なのか。それはこの便利になった社会において、あまりにも簡単に快という感覚を得られるようになったことが根っこの問題として挙げられると思います。ネットも普及し、スマホ一つで入手することも、情報を得ることも、何かを買うことも簡単にできます。外に出れば24時間、お酒を買うことができます。そう考えると、依存性の人は本当にその人だけが悪いのか、その人だけの問題なのでしょうかと考えさせられます。

じゃあ、諸外国みたいにお酒は夜しか買えないようにしますとなったら、ぼくは嫌だ!と意見を述べると思います(笑)。

結局はもちろん個人の問題もあるとは思いますが、社会全体の問題であるという認識が大切であるというのが、行きつくとこなのかなと思いました。

その個人の問題からしても、成育環境も多分に影響を受けます。虐待や愛着障害も影響あるでしょう。学校や会社でのいじめも影響あると思います。個人的な因子は実は環境の因子とも密接につながります。依存性は遺伝しないと今のところは言われていますが、遺伝はなくとも連鎖はされる可能性はぼくは高いとみてます。

巷で最近騒がれている、オーバードーズ、YouTubeやSNSの承認欲求はじめ、依存性は今後ますます、多様化、複雑化していくと思います。これも社会と密接に繋がっているからです。

大切な視点は、依存性は特別なものではなく、ごく身近に存在する。それを前提条件として、家族や自分が陥った際に、如何に向き合っていくかを考えていくことなんだろうなと思いました。

最後まで読んでいただいた皆さんは、どのように考えますか?ぼくはこのブログを書いていくと、少なからずイイねを求めている自分に気づきます。ただの自分のためのアウトプットであると決めているのに。この欲求が満たされ、次の快を得るためにどんどん過激になっていく…のめりこんでいく…そんなぼくにならないよう気を付けます。

まぁ…そもそも読まれていないから大丈夫だな(笑)それではまた!

痛い人…。

2024-01-18 07:00:00 | 日記
40歳を過ぎると社会的な立場、より具体的にいうと、会社内での立ち振舞いが20歳、30歳代のときと同じというわけにはいかなくなってくるんだなぁと改めて思いました。

例えば、会社内で理不尽なことや、上司や会社の決定に不満があったときに、まだ若ければ、そのことに対して勢いに任せて意見を強く言ったり、上司にもっとこうすべきだ!とか論破までとはいかなくとも歯向かったりしたとします。確かにやり過ぎはよくありませんが、見方によっては若いのに意見をしっかりもってるとか、血気盛んでやる気があるんだなとか、若いからこそ許容される範囲が広いと思います。ただ、これが40歳にもなって、上司や会社の方針にイチイチ噛みついたり、勢いに任せて意見を言ってたりすると、これは若いときと同じようにはいかず、「ただの痛い人」「組織を乱す人」と評価はされにくくなります。若いときは評価され、期待されていても、ここを見定めていかなければその評価は下がり、伸び悩みます。

40歳を過ぎて求められるのは、調整力や理不尽ななかでも戦える力を持ち合わせているかなんだと思います。

会社の偉い人が立てた方針や事業に対して、これはやめた方がいいってイチ社員が言ったところで、結局方針は変わらずだし、それだったら最初からそのエネルギーを、その方針のなかで結果を出していく、または結果が出なくても頑張る姿を見せるエネルギーに使った方が明らかに得ですよね。それで結果がでなくとも、ぶーぶー文句たれてたヤツよりかは、ずっと評価は高いですし、あとあと結果的に意見を通しやすくなるのではないかと思います。

また、社会や会社には理不尽がまかなり通っており、そこに歯向かうエネルギーがあるのであれば、そのなかで戦うエネルギーに使った方が成長できるのではないかと思います。つまりは理不尽と戦うのか、理不尽のなかで戦うのかです。

ちょっとした言葉の違いですが、この差は雲泥の差があるのではないかと思います。理不尽はどの業種、どの仕事にも確かに存在します。理不尽はある意味ルールみたいなものでもあります。ただ、そのルールに対してこのルールおかしいから変えろ!とふっかけていったところで、このルールが嫌ならキミはどうぞ他のところに行ってくださいと言われたらもうそこで終わりです。その戦場にも行かせてもらえず力もつきません。

その一方で、理不尽のなかで戦う、つまりはそのルールのなかで戦うということは、戦場にも出れるし、様々試行錯誤しながら結果を出していくということになるので、経験という財産も積めるし、力もつきます。

大切なのは、この20歳代、30歳代のときに理不尽に対しておかしいと言って戦うのもありだとは思うけど、でも実は理不尽があるのは当たり前、そのなかで結果を出すという考えもあるんだよという考えを持っておくことなんだと思います。そしてその成果の結果がこの40歳代で出てきているのだろうと思います。

ぼくは痛い目にあって、このことを学びました。これからも自戒をこめて頑張っていきたいと思います!ビバっ!理不尽!の精神で挑んでいきます!それではまた👋

成長のスピード

2024-01-15 22:00:00 | 日記
最近、毎日アウトプットをしようと考えるだけですが、知らず知らずのうちに毎日得られる情報がないか探していることに気づきました。
#習慣ってすごい

インプットしていくなかで、どのような情報を得ていこうかは、皆さんはそれぞれ考え方があるとは思います。ぼくはというと、有意義そうな情報を選んでいるわけではなく、ジャンルみたいので選んでるわけではなく、どんなジャンルでもちょっと気になる情報があればインプットしていこうというやり方で学んでます。

そしてそのインプットをしていくなかで、先日こんな情報を得られました。

「成長が速い人」の共通点は…一度一旦アホになって、全て鵜呑みにする。らしいです。

確かに理屈っぽい人は、一つ一つに食い付くから時間かかってそうですよね。とりわけ社会に出ると、辻褄が合わないことやグレーなことや理不尽なことが多く起きるので、そこで一回一回「さっきこう言ってたじゃん!」とか「ここの辻褄が合わない!」とかでつっかえてたら、めちゃくちゃ仕事も遅くなりますもんね。小学生でも1+1=2でなんでこうなるんだと理屈っぽくつっかえてると、周りにどんどん置いてかれますもんね。

その一方で一度アホになり、教えてもらったことをとりあえず鵜呑みにしていき、あとから理屈や理由をつなげていく方が、経験も増えるし、吸収力は高そうです。

理屈っぽさや理論を大切にするのはもちろんわるいことではありません。でも、場合によってはわざと意識して鵜呑みにしていく方が成長スピードという点では良いのかもしれません。

ちなみにぼくは、お世辞にもお勉強ができるわけでもなく、理論や理屈なんてほど遠い性格なので、とりあえずアホみたいに一度聞いて取り組むことが自然とできていたかもなぁと思います。

それもあって、転職を繰り返してきたけど、それなりに結果は出せてきたのかなと今振り返ると思えます。

成長スピードが周りと比べて遅いなぁと思ったら、そんな視点で一度考えてみてもいいかもしれません。それではまた!