ずっと親とは疎遠だった。家を出られる年齢になったらどんな事をしてでも実家を離れるつもりでいた。大学入学を機にその通りになった。
母は子供を干渉するのが生き甲斐だった。子供の意向とは関係なく強制的に習い事をさせた。子供が大きな夢を抱いたりするのは許さない。自分が思った通りの学校に進み、きちんとした会社に就職して適齢期になったら親が満足する人と結婚し子供を産む。それが子供への望みだった。
子供から見た母は決して幸せそうには見えなかった。いつも節約して友達もおらず夫婦喧嘩も多かった。口癖は「子供のため」。ある時期から笑って親と話をした記憶がほとんどない。友達が家族と遊びに行ったり色んな話をすると聞いて、そんな家族があるんだと思った位。母が子供に話しかけるのは子供の粗探しをして干渉する時だけだった。
兄弟全員が家から離れた大学を選んだ。誰だって子供に寄り添わない、味方にもなってくれない、何かあれば責め立てる親と一緒に住みたくはない。全員私大に進学したので経済的には恵まれていたのだろうが問題の多い家庭だった。
英語を勉強したかったのもそんな家庭環境だったからだと思う。親とはとにかく距離を置きたかった。海外に住んで一生会えなくてもいいとさえ考えていた。
そんな干渉好きの母は現在認知症になり子供や孫の事も認識できない。ほぼ寝たきり状態。病気がわかった時家族は誰も自分が面倒をみるとは言わなかった。あれだけ本人は「子供のため」と干渉して近づこうと必死だったのに誰もが一緒にいる事を拒否した。
面会にはそれぞれが行ける時に行ったがコロナ禍でそれもできなくなった。症状も更に進み病院へ移された。現在許可されているのは玄関まで連れてきてもらって数分顔を見るだけ。兄から送られてきた写真には車椅子で目を閉じたままの痩せ細った姿が写っていた。ほぼ一日寝たきり、たまに目を開ける事もあるとの事だった。
母とはきちんと話もできないまま、親子として仲良くもならないままこういう状態になってしまった。
幼少期から思い返して、母はこの人生で幸せだったのかなと思う。子供が全員それなりに就職して結婚もしてそこそこの生活をしている、という意味では希望通りだったのかもしれない。
ただ、時代が違っていれば別の人生を歩めたのではないか。あの時代、今よりももっと結婚への重圧はあったろうし結婚したら子供がいるのが当たり前だった。夫婦関係が悪くても離婚は難しかっただろう。今の時代ならば自分に合った選択もあったのにと思う。
自分が成人した子供を持ってもおかしくない歳になったからこそ言える。母は子育てに向いていなかった。誰もが面倒を見るのを拒否する程、家族と良い関係を築けなかった。
外から見た私たち家族はごくごく普通の家庭だったろう。経済的にも問題なく習い事も沢山し、むしろ恵まれているように見えた筈だ。でも多少貧乏でも家の中が片付いていなくても愛情のある家庭で育ちたかった。くだらない話で笑い合いたかった。
こういう状況なので生きているうちにまた会えるかどうかは分からない。最期の時までそれ程長くはないだろうが。
親が亡くなって何年も経つのに立ち直れない人を知っている。正直そんな気持ちになれるのが羨ましい。母が亡くなる直後さえ、悲しい気持ちになるのかも分からない。最期は感謝の気持ちでお別れしたいが、お互いが生まれ変わる事があっても別々の道を歩みたい。