聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

「レストラン」の由来:回復

2024-12-06 11:27:46 | 日記

 私たちは普段は家で料理を作って食事をしていますが、たまにレストランに行くことがあります。お客様がいらした時や、何か大きなイベントが終わったあとの「お疲れ様会」のような時に、自分たちで料理を作って後片付けをするということなしに、食事を頂きリフレッシュするという目的があります。歴史的に外食する文化は古代からあり様々な呼称はあるそうですが、「レストラン」という言葉は 18 世紀に、フランスのパリで店を出した人が看板に「胃を痛む者は誰でも私のもとに来なさい。元気にしてあげよう」と記し、スープ、鶏肉、ゆで卵などをお客に出したのが始まりだそうで、ラテン語の「レストラーレ」(以前の状態に戻す、回復する)が語源だそうです。どこかで聞いたことがあるフレーズ。さすがキリスト教文化の歴史が長いヨーロッパならでわですが、下記のイエス・キリストの言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」をもじったとされるそうです*1。

 外食であれお家ご飯であれ、食事を共にするということは喜びであり、食事をとることで心身ともに回復されます。しかし、現代は自然なままの食物を食べることが難しくなっている、つまり遺伝子組み換えをされた小麦、成長ホルモンを投与された鶏肉、大量の農薬つき果物・穀物と保存料つきの食糧が多く市場で出回り、また産地の偽造など、食の安心が危ぶまれ、それらが体内に蓄積されて健康に害を与えているでしょう。食べて「回復」どころか、健康を損なう可能性があります。利益を追求し、自然のサイクルを損なって、結局それが人間自身に帰ってくることを考えますと、これだけ進歩した科学技術と知恵をもってして、利益追求でなく自然にそった生活と経済の流れを可能にする方法を研究開発できないものかと常に思います。

 イエス様は、わたしたちが心身ともに疲れ、負のスパイラルにはまって疲弊してしまう弱さ、また他者のことより自分の利益を追求してしまう罪深さをご存じです。そこで「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いて下さっています。イエス様の所へ行くとは、イエス様を通して提供される神様の救いを信じることです。これを信じるにはまず「自分はなぜ疲れているのか?その結果どうなっているのか?」と自分自身に問うとよいでしょう。そして、神様からのメッセージが記される聖書を読んでいると、こんなに疲れ、虚しく、死んだら終わりの希望がもてない人生を送っているのは、自分が神様から離れていたからだと気が付くのではないでしょうか。もともと神様は人間を愛するために創られ、自然と調和した極めてよい状態に造られたと聖書に記されています*2。そして、人間がその神様から離れてしまうことを、聖書では「罪」と言います。神なしで自分で生きられるという高ぶり、その罪を自覚した時、それに対する救いがあるのか?と求めるなら、さらに聖書の言葉を読むと答えが示されます。「だれでも、求めるものは受け、探す者は見つけ、門をたたく者には、開かれる。」*3 とイエス様の言葉のとおりに聖霊の働きで信仰に導かれるからです。

 神様がわたしたちの罪を赦し、新しい命と希望を与えてくださるために御子イエス・キリストを地上に送ってくださりました。イエス様は私たちのすべての罪を負って代わりに十字架につけられて罰せられ、そのおかげですべての人の罪が赦されて、もとの状態、神様と共に信頼していられる平和な状態に回復:リストーレするようにしてくださったのです。そして、イエス様ご自身が3日後に死からよみがえられて、天に戻られたことで、キリストの救いを信じる者も死で終わるのではなく、永遠の命を与えられることが聖書に記されています。多くの疲れている人々、希望が持てない状態に悩む人々が、一時的なその場しのぎの回復ではなく、キリストを信じて休みを得、さらに魂の平安を得られる、つまり真の回復が与えられるよう祈り続けたいと願います。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 マタイによる福音書11章28-30節

 

*1「アレテイアー釈義と黙想 ヤコブの手紙 ペトロの手紙1,2 ヨハネの手紙1,2,3 ユダの手紙 ヨハネの黙示録」、日本キリスト教団出版局、2002年、184ページ引用

*2 創世記1章31節

*3 ルカによる福音書11章10節


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世界遺産:カッパドキアの隠れ場

2024-11-28 18:34:06 | 日記

  先日、テレビでトルコにある世界遺産、カッパドキアの岩窟群についての放映を見ました。この洞窟群は、2世紀初頭にローマ帝国からの迫害を逃れたキリスト教徒が建築した奇岩の中とその地下に至るまで洞窟内の住居や礼拝場所で、広大な地下都市の遺跡です。この遺跡群を見るにつけ、多くのキリスト教徒が全て手でこの岩山を掘り進めて作っていった労苦や、数世紀の間、ローマ帝国の迫害を逃れここに隠れ住んでいたことを思い感銘を受けました。当時彼らはローマ兵に捕まると、木に括り付けられて燃やされたり、競技場で獣に食い殺されたりと残酷な仕方で処刑されました。彼らがローマ皇帝を神として拝むことを拒否し、真の神のみを信じることを妥協しなかったからです。信徒たちはローマ帝国に対して反乱を起こしたり、戦ったりせず、捕まれば無抵抗で殺されていました。しかし、迫害されればされるほど信徒の数は増え続け、キリスト教が312年に公認され、392年ローマ帝国の国教となるまで、忍耐してこのような隠れ場にて生き延びてきたことをこの遺跡が語っています。

 イエス様が「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」*1、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」*2と言われ、攻撃してくる敵と戦おうとする弟子に「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」*3)と制し、復讐せず、悪をもって悪を返さないというのが聖書の教えです*4。一方で、命を狙う者から逃げ隠れするな、不正に対して黙って見て見ぬふりをするようにとは記されていません。ただし、すべての言動にはタイミングはあると思います。なぜなら、イエス様ご自身の生涯において、はっきり宗教家たちの偽善を糾弾する時、神の国が近づいたと福音を人々の前で公言する時、殺そうとするユダヤ人から身を隠される時、逮捕されて十字架にかかるまで彼らの暴力のなすがままに身を任されて沈黙されている時と、各々時があるからです。

 神様はご自分の愛する民を守られる方であることは、聖書を通して示されています。洞窟に長年見つからず隠れて信仰を継承できたのは、神様の守りの中にあってのことだと思います。同時に、信仰のゆえに殉教していった多くの信徒を神様は見捨てたのではなく、共に苦しみ、そして天という安住の地でかれらを迎えられるお方だと信じます。イエス様は弟子たちを世に派遣される時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われた約束が聖書に示されているので、たとえどんな状況にあっても独りではないと心が強められるからです。自分の無力・弱さを感じる時に、「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」*5とも使徒パウロにいわれた御言葉にも励まされます。更に、信じる者の心の内側に住まわれる聖霊が目には見えなくとも私たちに何を語るべきかを教え*6、私たちの心の内を私たち以上に把握して祈りを神様へとりなし、慰めを与えて助けて下さる、そんな聖霊の働きが私たちキリスト者の信仰の持続を助けくれているということを改めて神様に感謝したいと思います。

   「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け

          わたしの救いの右の手であなたを支える。」イザヤ書41章10節

 

*1マタイによる福音書5章14節

*2マタイによる福音書5章39節

*3マタイによる福音書26章52節

*4ローマの信徒への手紙12章17節

*5コリントの信徒への手紙二 12章9節

*6ルカによる福音書12章11-12節「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

 


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旧約聖書の学び 創世記7章

2024-11-28 13:51:25 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇11月28日(木) 創世記7章1-24節 洪水とノアの信仰の試練

 ノアは500歳の時に、3人の息子セム・ハム・ヤフェトを産み(5章32節)、その後神様に箱舟を造るように命じられました。神様の設計図によると箱舟のサイズは巨大で(6章16節、1アンマという表記の単位はおよそ45cm)、現代の潜水艦と同じような比率と大きさだそうです。そしていよいよ箱舟が完成し、神様はノアとその家族とつがいの動物たちに箱舟に入るように言われたのが、ノアが600歳の時ですから(7章6節)、約100年近くかけて箱舟を造っていたことになります。この100年間について聖書は何も記していませんが、ノアとその家族は周りの「悪いことばかり心に思い計っている」人々(6章5節)の中にあって、「何のためにこんな巨大な船を造るのか?」と何かしら馬鹿にされたり、妨害もあったのではないかと想像します。それでも、ノアはひたすら100年間、家族4人で、現代のような重機や材料もない時代に箱舟を建設していたのかと思うと気が遠くなるような忍耐の時だったと察します。ノアは神様への信仰を持って、この試練に耐えたのではないかと思います。また箱舟に入ってからも、40日40夜、地上の高い山はすべておおわれるまで雨が降り続き、その後も150日間、水で地上がおおわれていたことが記されています。つまりその間、ノアたちは箱舟の中で動物たちの世話をしながら、狭い空間の光もささないところで、じっと生き延びていたことを思うと精神的にもよく耐え抜いたと、この箇所から読み取れます。

 現代に生きる私たちは、ノアの信仰の試練と忍耐を模範とし、神様に委ねて信仰生活を歩んでいきたいと励まされます。特に、日本にように神道・仏教が多数派である国において、聖書の神様のことを伝えることは容易ではありません。実際、統計的にみても、キリスト教信徒の数は戦後から現代にいたるまで人口の1%を超えたことはなく、近年は宗教全般に対するアレルギーのようなものが日本には出来上がっているようです。特定の宗教を真剣に信じることが危ないかのような風潮。世界の宗教観とその歴史的見地からすると日本のこの風潮は理解しがたい話ですが、結局、日本人だけでなく人は皆自分が中心で、自分以外の大きな存在、自分を支配する存在は受け入れたくないのです。「神」呼ばわりされて高慢になり、自分の好き勝手に生き、いいところだけ宗教を利用し、今のことしか考えないように生きることを、メディアも加担していると言えます。そこに、ノアのように神に従うという発想はないのです。

 神様は洪水で世界を一度滅ぼされ、再び「水」では滅ぼすことはないとノアと約束をしました。しかし、現代の様子はノアの洪水前の時代と同じか、もっと悪が増していると思います。地球規模の自然破壊が進み、ネットを通しての犯罪がグローバル化し、人がAIによってさまざまなことを始め、そのうちにAIが愚かな人間を支配するようになる時代が来ると危惧される程に至ります。AIは神を信じる信仰は持てませんから、物事が神なしの人間の知恵で考えられることをデータ化され、分析され、実行に移されます。

 ノアの洪水の物語とノアの信仰は、神を信じて忍耐し命を得ることと、自分が神のようになり続け滅びることのどちらかの選択を、私たちに問うているように思わされます。神様は人が滅びることを望んでおられないし、同時に悪がはびこってほしくないため、御子イエス・キリストを私たちの罪からの救い主として、この世に送って下さりました。全ての人がキリストによって救われるように「あなたは命を選び」*なさいと神様は招いています。そのためにキリストの命という大きな代償が十字架上で払われていること、その大きな神様の恵みを感謝して、神様を信じて従っていきたいと願います。

*申命記30章19-20節参照


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旧約聖書の学び 創世記6章

2024-11-24 15:57:11 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇11月21日(木) 創世記6章1-22節 ノアは神と共に歩んだ

 「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(6節)神様は、ご自分が造られた人と生き物を洪水で滅ぼすことを決めた断腸の思い、それにいたる経緯が6章に記されています。「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」とあり、神の子らとは天使(神に仕える天的存在)のことを指すと解釈されますが、なんと天使が人間の女性とこどもをつくり、それがネフィリム(「巨人」70人訳)であり、大昔の名高い英雄たちであったと記されます。そして5章で記される900年前後生きてきた人類を、神様は「こうして、人の寿命を百二十年」にしたと記されます。天使というのは被造物であっても、突然現れたり、消えたり、天に神さまと一緒にいる様子などが旧約聖書には記されていますので、人間とは次元の違う被造物のようです。神の使いとして人間に現れ、メッセージを伝えていることが記されていますが、神様に逆らう天使もいたのでしょうか。

 5節「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」とありますが、人間の悪が増すだけでなく、1~4節で示される天使と人のハイブリッドのような存在も共に悪を拡大させるとなると、想像を絶する混乱と悪のまん延であります。11-12節「地は神の前に破滅していた。地は暴虐に満ちていた。神が地を見ると、果たして、それは破滅に瀕していた。すべて肉なる者が地上でその道を破滅させたからである。」(「旧約聖書Ⅰ(机上版)」岩波書店)とあり、このように全てが破滅してしまったら、一度全てリセットせざるをえなかったのでしょう。それでも、神様は自分が造られたものを滅ぼすことをどれ程悲しみ、苦しんだかが、6節で簡潔な表現ですが記されています。

 慈愛の神様は全て滅ぼすのではなく、ノアの家族と生き物のつがいをその再生のために残されました。エノクは神と共に歩み天に移されましたが、ノアは神と共に歩み(9節)、神様の計画を打ち明けられるまでに信頼されていました。ここでは「ノアは~と言った」と書かれていないので、つまりノアは何も言わずに神様の命令に従い、巨大な箱舟を家族と造りました。これもヘブライ人への手紙11章7節に「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」と信仰の人として記されています。ちなみに箱舟(テーバー)については、旧約聖書で唯一の同じ単語として、モーセの「葦の籠」がでてきます。モーセも籠の中でナイル川の水を通り、拾われて命を得、出エジプトという神の救いのためのリーダーとなりましたが、ノアとその家族は「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」 (ペトロの手紙1 3章20節)。さらに、3章21節で「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」と記されています。洗礼は一度古い自分が水に入って死に、そして水から上げられ新しく生まれることを表します。洪水と箱舟を通してノアたちが生き残って新しい時代を始めた出来事も、キリストによる完全な救いを指し示していると言えます。なお、聖書で初めて「契約」という言葉がでてくるのが18節です。聖書全体を通して、神様の契約の出発点にあるのは救いと言えましょう。


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旧約聖書の学び 創世記5章

2024-11-24 15:51:04 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇11月14日(木) 創世記5章   系図:一人一人の名前が神に記憶されている

この章は、アダムの系図として記されています。その系図の定式「~は○〇歳になったとき、だれだれをもうけた。 ~は、だれだれが生まれた後◎◎年生きて、息子や娘をもうけた。~はXXX年生き、そして死んだ。」により、セツの家系がどのようにノアに繋がったかの記録が記されています。聖書には、系図がいくつか記されていますが、一人一人の名前が神に記憶されていることを表しています。4章でもカインの系図が記されていますが、5章は4章とは別の資料(祭司資料)だといわれます。これらの人たちは寿命が900歳前後です。聖書以外の古代の記録、例えばシュメール人の記録では大洪水があったこと、また洪水以前の王として8人もしくは10人が揚げられていて、それぞれが平均して数万年統治していたそうです。古代ではが各人種とも先祖が長寿だったという伝説をもつようです。数え方の違いとの説もあり。いくら長生きしたとしても、必ず「死んだ」と記され、死が必ず人生にあることを強調しているかのようです。

 ところが、一人だけ、「死んだ」と記されていない人がこの系図の中にいます。エノクという人です。エノクは「神がエノクを取られたのでいなくなったと」記されています。旧約聖書及び初期ユダヤ教では人間の不死という思想があまりなく、「神が人を取り去る、いなくなる」は死の湾曲語法だそうです(詩39:14 イザヤ53:8参照)。一つだけ、預言者エリヤは火の戦車にのせられ昇天したという記録が列王記2 2章11節にあります。エノクには他の人には記されていない特徴「神とともに歩んだ」とあり、へブライ人への手紙11章5節に「信仰によってエノクは死をみないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。」と死を味わうことなくエノクは天に移されたとされます。

 ノアも「神と共に歩んだ」人として6章9節に記されています。ノアは「慰め、休息」という意味で、彼の父が「主の呪いを受けた大地で働く我々の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と名付けました。それ程、土地を耕しても収穫を得るのに労苦が大きかったので、土地の呪いが解け、人間がを耕すことの労苦から解放されることを願ってノアと名付けたのでしょう。続く章に示されるように、この名に託された切なる願いが、ノアによる新しい時代の始まりの予告となるのでしょう。


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