聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

旧約聖書の学び 創世記4章

2024-11-24 15:48:41 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇創世記4章1-26節   人類最初の子供と最初の殺人  2024年10月31日

 人が自分で善悪を決めることにした結果の恐ろしさが、この章にさらに記されています。最初の人間アダムとエバの間に子供が生まれました。最初の男の子はカイン(ヘブル語:カーナー、「得る」という意味)、二人目の男の子はアベル(息、虚しさという意味)と名付けられました。なお、カインはアラビア語で、鍛冶屋、槍という意味があるそうです。

 事の発端は、二人がそれぞれ神様に捧げものを持ってきたことでした。カインは土の実りを持って来て、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来ました。神様はアベルとその献げ物に目を留められたが、 カインとその献げ物には目を留められなかったと記されます。それでカインは激しく怒って顔を伏せました。なぜ、神様はアベルの捧げものだけ目を留め、カインのには目を留めなかったのか?これも諸説あり。新約聖書のヘブライ人への手紙11章4節では信仰によってアベルはカインより優れたいけにえを捧げたとされたと記されています。確かに「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」(4節)とありますから、一番良い初子を捧げたのを、主なる神様は「アベルとその献げ物に目を留められた」のでしょう。それに対して、カインは怒って顔をふせたのです。

 神様はカインの心の内をご存じだったので、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(7節)と忠告をなされました。カインは、「自分だって一生懸命働いて、収穫できたものを捧げたのに、なぜ神は自分の捧げものには目を留められないか!なぜ、弟だけ認められるのか?」と不公平に思ったかもしれません。理由を神様に聞けばよかったのに、聞きづらいのか、それでその怒りの矛先を弟のアベルに向けられました。兄弟・姉妹というものは、とかく、家族のなかで、子どもという同じ立場で互いにを比較しがちです。比較することが悪いとは思いませんが、比較により、自分が高ぶつて他者を見下げたり、自己卑下して自己憐憫におちいり、他者を妬むという心の思いは、やがて行動に反映され、取り返しのつかないことになります。現代でも、殺人の動機は相手を妬む思い、もしくは見下されて悔しい思いで恨みを持つということだったり、妬みというのは何も良いものを生み出さない、恐ろしい感情であり、犯罪がおきる根であるといえましょう。

 カインは怒り・妬みをコントロールすることができず弟を殺し、神様から「何ということをしたのか。… 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。」(10-11節)と言われます。呪われる者となって、どう生きて良いかわからなくなったカインに、神様は慈愛をかけられ、カインが殺されないよう印をつけて守られています。カインはもはや農業はできなくなり、さすらう者となりましたが、都市をつくり、彼の子孫は彼の名前のとおり「鍛冶屋」や、音楽を奏でる者がでてきたことが記されています。また、カインの子孫のレメクという人は、最初の一夫多妻制を始め、神様が定めた一夫一妻制という結婚の秩序を変え、無制限の復讐を始めました。

 更なる人間の罪の拡大という暗く、悲しく、希望がないような人類のストーリーに、一筋の光が差し込みました。一度に二人の子供を失ってしまったアダムとエバに、もう一人の男の子が生まれたのです。セツという名で、そしてセツは子を産み、エノシュと名付けました。主の御名を呼び始めた、つまり主なる神様を礼拝し始めたのは、この時代であることが章の最後に記されています(26節)。人が何をしようとも、神様は続く希望を残されています。


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旧約聖書の学び 創世記3章

2024-11-24 15:46:04 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇創世記3章1-24節  人が神のようになりたいと欲するとき:罪の始まり     2024年10月24日

 この章は最初の人アダムと女(エバ:命)が、神様の創造の秩序を壊してしまうという悲劇、人間の罪の始まりが記されています。

 無邪気で無垢な人は、楽園のような何不自由ない環境で善い人ばかりに囲まれていれば、そのままでいられたかもしれません。しかし、神様が創られた生き物でもっとも賢い蛇が女を誘惑します。この蛇という存在が文字通り蛇という賢い生き物だったのか、悪魔が蛇の形をとって登場したのか、それとも象徴的存在なのかと諸説あります。とにかく、この蛇は女に巧妙に語り掛け、神様から言われたたった一つの禁止命令「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」を破ってしまいます。園に他にはたくさんの実が生えていて、好きに食べてよいと言われ、食物は満ち足りていたのに。

 人間にとって何が良いか、良くないかをよく知っているのは、人間を創ったメーカーである神様です(創世記1章31節,2章18節参照)。これによって、園の生活において人間は安全な状態に守られていたのですが、蛇の誘い「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」に刺激されて、女は神のように善悪を自分で決めたい、つまり神のようになりたいという思いが湧き上がってしまったのではないでしょうか。そして、男は直接神からこの禁止命令を言われ、その内容を正確に把握しているはずですが、女に反論もせず食べてしまいました。今やこの二人は自分自身のことは自分自身で判断し、決定するようになった。その結果が、まずは神に謝ることもせず言い訳と、他者への責任転換です。神様との信頼関係も失い、男と女の麗しい関係が破壊され、土地も呪われてしまいました(17節)。食べたら死ぬとは、神からの本質的な分離のことを意味し、体はある程度の寿命まで生きていても生きる意味も分からず、罪を拡大し、苦悩し続けることになります。善悪の木の実を食べるとは、人間が神から離れ「この体は、命は自分のものだから、自分が良いか悪いかを判断する」ということなのです。

 この暗い、絶望的なストーリーの中にも、神様のご自分が造られたものへの慈愛と人間への希望が示されています。まず、蛇の子孫の頭を女の子孫が砕く(15節)という神様の不思議なことばです。これは原福音ともされ、女の子孫、つまり人として生まれるイエス・キリストが、蛇の子孫:悪魔と死に勝利すること、そして罪を犯して神から離れてしまった人間を救うために神の御子イエス・キリストが十字架にかかられることを示していると言われます。

 神様が二人を園より追放したと(24節)とありますが、23節の原文は「人間はエデンの園から土地を耕作するために送り出した」のニュアンスだそうです*。  神様は裸で恥ずかしいと思っている二人に皮の衣を着せてあげて、自分たちの蒔いた種の刈り取りをすることになる、園の外での生活に送り出します。そこには、神様の心痛を伴う、愛を持って子を送り出す親の子への愛を感じ取れるのです。

*23節の「追い出す」と訳される原語(イシュラフ)は「派遣する、送り出す」という意味がある。大野惠三、「旧約聖書入門1 現代語りかける原初の物語」、新教出版社、2013年、P213引用


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旧約聖書の学び 創世記2章4-25節

2024-11-24 15:41:40 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇創世記2章4-25節  社会的存在としての人の創造

 創世記には、二つの資料からなる二つの創造記事が記されています。神様が天地を創造されたことには変わりがないのですが、二つの物語では創造の順序が異なったり、また創世記一章よりも、2章4節以下の方が人間の創造がより詳しく記されています。聖書はいくつかの伝承が記録され、それらが編集されて今の書簡になっているとされ、同じ出来事でも違った経緯で記されている部分があり、一見すると、矛盾があると思われる場合があります。しかし、聖書という書物は科学の本ではなく、信仰の本であります。人々が長い歴史の中で口伝の伝承が伝えられ、文字として記されていくうちに、二つの異なったストーリーが重なったとしても、先のものを取り消すことなく、両方とも残すというところが聖書の特色であり、両方を総合しての神様からの多面的なメッセージが記されているのだと思われます。この聖書が今の形として成立しているのは、人の作業の背景に、歴史の流れを超えて存在される神様の霊の働きによって書かれている*1と言えるでしょう。

 1章では簡潔に神様が男と女を神に似せて造られたとのみ記されていますが、2章はこうです。神様は男(アダム)を土(塵:アダマ)から最初に造られ、そして「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と、まずは動物を創られました。そして「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」ので、神様は男の側骨(あばら骨)を一本とって、それから女を創って男のところへ連れてきました。そして男はようやく自分と同じ人である、自分に合う助ける者を与えられ、女と名づけたと。

 エゼル(ヘブル語)という単語は、「助ける者、ヘルパー」と訳されますが、「応答する者」 という意味もあるそうです。男が先に造られた、だから後に造られた女性が男性に従属的であるという伝統的な、家父長制的な考え方がありますし、使徒パウロもそれにそった記述をしています*2。しかし、そのパウロが一方で、キリストを信じる者に男も女もないといっていますので*3、またこれも、聖書は多面的。女性は男性に「応答する者」とすると、上下関係・主従関係がない、パートナーとしての存在と見ることができます。女性も男性に助けられて生きる存在であることを否定できません。つまり、お互いパートナーとして助け合う存在であります。一方、社会の最小単位である家族の中にもリーダーシップをとる人が必要であり、それがないと二人以上の社会生活で秩序を保つのは困難であります。皆が平等であっても、皆がリーダーですと事がまとまらないからです。

神様は、人は独りで生きていけない、互いに助け合う存在として、人間を創造されました。家族という社会の最小単位として、夫婦の関係を最初の人間:男と女で造られ、二人は別々の個体であっても、心も体も一つになれる、お互いが信頼し合い、助け合う関係とされたことが記されています。ちなみに、イエス様は復活した人間について、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」*4と言われましたので、新しい創造にあって、復活の体では結婚もなく、天国で皆が新しい関係なのでしょうか。

*1「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」テモテへの手紙2 3:16

*2 礼拝のかぶりものについて コリント信徒への手紙1 11章7-9節

*3 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」ガラテヤ信徒の手紙3章28節 

*4 マタイによる福音書22章39節


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旧約聖書の学び 創世記1章~2章3節

2024-11-24 15:36:05 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

「初めに、神は天地を創造された。 」 創世記 1章1節 

 旧約聖書の最初に、神様は天と地を無から創造されたことが記されています。「光あれ」との言葉から始まり、神様が言葉を発すると、その通りに造られていきます。その文体は一定の形式:「神は言われた。~となれ。」、そのようになり、神はそれを見て「良しとされ」、夕べがあり朝があり、第一日目である、という文体が第一の日から第六の日まで続きます。  

 最初に光を創り、光と闇に分けて昼と夜という一日の単位を創られました。そして、大空(水)を上と下に分け、地と海を分け、そして植物、天体、水中生物・鳥、その他すべての生き物、最後に人間を創られました。神様は人間だけを神様に似せて、かたどって創造されたとあり、自然界の他の造られたものを治めるように命令。そして、7日目に神様は創造の仕事を離れて、安息なさり、この日を祝福し、聖別されます。これが安息日の規定として、必ず7日目に仕事を休むよう、またこの日を神様のために他の日から取り分けるよう、後に十戒の規定の一つとなり、守られています。また、キリスト教ではキリストが復活された日曜日を安息日として礼拝の日とし、現代でも世界的に週に一度休みの日というのはここから由来しています。

 人が他の生き物を支配するように命じられましたが、それは神が創られた天地とその命あるものを大切に管理するよう、神から委託された働き、責任であって、人間が好き勝手に枯渇するまで資源を採掘し、動植物を乱伐、乱獲することではないはずです。人が創造主である神から離れ、自分が神のようになろうとしたとき(これが罪の始まり)、神との関係も、人との関係も、自然と他の生き物とのかかわり方も全て破壊的になってしまったのではないでしょうか。地球温暖化、自然災害の増大と無関係とは思えません。

 しかし、この創世記を通して、神様の創造の秩序から始まり、それが人によって損なわれてしまっても、失われた人間の救い、被造物全ての回復、新しい創造をすでに神様は計画されていたということを、新約聖書に照らされた光によって、私たちは部分的に理解することが出来るのが幸いです。その新しい創造がなされるのは、神の御子イエス・キリストによってであり、人がその罪を認め、神様を信れば救われるように、キリストが十字架にかかって下さりました。キリストこそ神の似姿であり、キリストを信じた者はの霊の働きにより、主イエス・キリストと同じ姿に造り変えられていくと使徒パウロが記しています*。人はあくまでも人であり、神にはなれません。それでも、人がキリストの十字架の救いを通して救われ、新しくされ、キリストの愛の性質を持つように変えられていく、キリストが復活されたように私たちも復活の体が与えられるという希望があります。神はなぜ天地を創造されたのか。なぜ神は人だけ、ご自分に似せて造られたのか?この問いに対する答えのヒントは、最終的に、今のこの壊れてしまっている世界が新しくされ、永遠に続く愛と平和の神の秩序の世界がもたされることを、最後の書簡、黙示録にいたる聖書全体を通して示されている神の御言葉から得られるのではないでしょうか。神様の大きな計画を信じ、神の御心がなることを祈っていきたいと思います。

*コリントの信徒への手紙2 3章18節、4章4節

 


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水紋、波紋、投石し続けること

2024-11-20 14:51:31 | 日記

 京都の日本庭園を訪ねたことがあります。いわゆる枯山水と呼ばれ、水を使わず、砂や石で、水紋等を表現している情景の美しさに、その場にいて心が落ち着くようでした。一方、先月福島県の五色沼を訪れましたが、その各沼ごとに水の色が違い、その周りの山々との情景の美しさに驚かされました。やはり自然そのものの美や力が放つ効果は、枯山水もかなわないでしょう。

 水紋は水に小さな石を投げ込むと生じ、その波紋、波の和が徐々に幾十にも外側へ広がっていき、波は岸に着くまで、一方が他方を駆り立てながら延々と押し寄せます。小さな石の効果は大きいものです。ただ、しばらくすると水紋はなくなります。また次の石を投じない限り。

 キリスト教の宗教改革を起こしたルターは、「(キリストの)福音宣教は、水に投げ込まれた石のようなものである」*1と例えたそうです。当時、復活された主イエス様が、上記のみことば「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と弟子たちに言われました。そして使徒と呼ばれる弟子たち、また彼らから聞いて信じた信徒たちによって宣教が初められ、当時のローマ帝国内に急激にキリストの福音が宣べ伝えられ、クリスチャンが増えました。その過程で、迫害や、キリスト教国教化、形骸化そして宗教改革など様々な波乱万丈の出来事がありましたが、キリストの福音は説教者たちによって遠く世界のあちらこちらへと駆り立てられように広められ、福音を聞いたことのない人々へ知らされて、現代に至っています。

 しかし、重要なことはこの宣教活動は人だけの働きでは到底成し遂げられるものではなく、神様ご自身が宣教の業を共に成してくださるから、絶えず聖霊が働かれているから起こっていることです。神様は、私たちに宣教の業に参与するよう呼ばれ、そして私たちは各々の場所へ派遣され(海外とは限らず、国内の、つまり自分の周りの人間関係のあるところへ)、そして良い知らせ(福音)を伝えていくのに、主キリストが共にいて働いて下さっていることは大きな励ましです。マタイの福音書でのイエス様の宣教命令には「いつもあなたがたと共にいる。」とあり、伝道、宣教の働きは世の終わりまで続き、どの時代にも主イエスが私たちと共にいるという約束があります*2。

 この御言葉より、わたしたちが何かしていなくても、していても、うまくいかなくとも、神様は働き続けて下さることを改めて感謝する機会となりました。すぐに結果がでなくとも、私は小さな石を水に投げ続けるよう励ましを受け、さらなる神様の業がなされることを祈り求めていきたいと思います。

「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マルコによる福音書16章15節

*1 参照  Luther, Martin, and John Sander. Devotional Readings from Luther’s Works for Every Day of the Year. Augustana Book Concern, 1915, pp. 149–150(PDF).

*2「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイによる福音書28章19-20節


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