以前ギリシャのアテネに旅行に行ったとき、ルーマニア人教会の礼拝に参加したことがあります。その当時ギリシャには多くのルーマニア人が出稼ぎ労働者として在住し、彼らのための教会が現地にあり、この時日本人のグループ向けに日本人の宣教師が通訳をして頂き、礼拝に参加させて頂きました。そこで驚かされたことは、まず小さい子供も静かに座って、お母さんと礼拝に参加していること(通常子供は礼拝の途中で退席、もしくは最初から子供の礼拝として別に行われている)、そして女性が頭にハンカチみたいな布をつけていること、こんなにも大勢の若い家族が、異国の地にて彼らの母国語での礼拝を捧げるため熱心に集まっていることでした。女性の頭の布はかぶり物と言われ、女性が礼拝に出席する際に身に着けるべきものとして聖書に記されており*1、キリスト教でも宗派によってそのことを今でも守っている教会はありますが、現代の特にプロテスタントの教会では服装は自由であり、かぶり物を女性がつけることを守っているのは珍しいからです。
私は聖書を読むとき、その時代の社会を反映している慣習や差別的記述に関してはあまり深く考えずにいました。特に女性の地位は当時低く、頭数には数えられないし、公的な場での発言は許されていませんでした。しかし、使徒パウロはイエス・キリストの福音を宣べ伝える上で、革命的なことを記しています。人種、性別、社会的階級は一切なく、キリスト・イエスにおいて一つなのだと*2。そして、礼拝において女性も与えられた賜物を用いて発言(祈ったり、預言したり)できるという画期的なことを記しています*3。キリストにおいて、人は新しく創造され、神様の前に違いはなく、平等であるからです。一方で、当時の社会的身分の違いがそう簡単にひっくり返るわけではなく、パウロがそれにそった発言をしていることも彼の手紙に示されています。その一見矛盾とも思われる記述について、それはパウロの平和や秩序を大切にしていたゆえの、周辺社会への配慮だと思えるのです。しかしパウロはさりげなく彼の手紙に、地域教会で奉仕していた女性たちの名前を挙げています。それは大っぴらには言えなくとも、キリストにある新しい信仰共同体(教会)においては、女性の立場と使命は新しくされていることを控えめに表現しているのではないでしょうか。
パウロは、キリストの十字架によって、人間関係における敵意が滅ぼされ、キリストにおいて一人の新しい人につくり上げることで、平和を実現し、キリストを信じる者を一つの体として神様と和解させてくださったと記しています(エフェソ2:14-16)。キリストを信じる者は、自分たちが救いに与ることに留まらず、キリストの福音を知らない人々に伝える、つまり神との和解を勧める任務があります。キリスト者は、差別や敵意を廃棄したキリストの平和を世の中に運ぶ役目があります。その際、相手の社会背景、宗教、歴史を無視し、これが真理だと押し付けるやり方は、キリストの愛に根差していないでしょう。過去キリスト教の宣教にそういう時代があったことも否定できません。その反省とともに、違った考えを持っている人とまずは対話し、困っているもしくは虐げられた人々の話を聞く、そして平和に向けて共に働いていこうとすること、その上でキリストの福音を曲げずに伝えていくことが問われるのではないかと思わされます。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 (コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章17節) (引用 新共同訳聖書)
*1 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章2-16節
*2 ガラテヤ3:26-28
*3 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:5 14:1-5