聖書箇所 ローマの信徒への手紙8章26-30節
本日は、ローマの信徒への手紙8章より「万事が益となるように共に働く」と題してメッセージをさせていただきます。このタイトルだけをみますと、すべてのことが自分の益になってくれれば、なんと都合のよい話ではと思うかもしれません。私たちは、日々生活している中で、世の中の不条理なこと、戦争、犯罪の横行、災害、自分自身や家族の病、家族を失うこと、これらは辛いことであり、恐ろしいことでもあり、起こってほしくないと願い、よくないことが益になるとは考えにくいと思います。一方、人々が自分中心で考え、動いているため、これらの不条理は解決に至りませんし、またこの体はいつか衰え、死は避けられません。
多くの人々は自分の思う通りになるように、様々なその国の土着の神々に祈願します。しかしそれぞれの個々人の利益が相反するので、結果はどうなるのでしょうか?誰の願いだけかなえ、他の誰の願いをかなえないのか、どのような基準なのか、日頃の行いによるのか、と不明であるなかで、信頼する・よりどころにする神として真剣に信じているのでしょうか。ある人は結局自分しか信じられるものはいないと。しかし、どんなに優秀な強い人でも、自分はそんなに強く、万能ではないことを薄々気が付いているでしょう。また神を信じていても「神がいるなら、なぜこんなことが起こるのを許すのか?」といわれる方がおられます。突然の災害・事故で家族や家を失ったり、酷いことが起こればそうつぶやきたくなるのも理解できます。責める相手がいないので、神にその怒りを、悲しみをぶつけたくなるかもしれません。もちろん、神様はその思いを受け止めて下さる方であります。しかしまず認識しなければならないのは犯罪、戦争、環境破壊を起因とする自然災害は神様が起こしたのではなく、人間の自己中心的な利益追求のために引き起こしたことで人間の責任です。それでも、「なぜこのことが起こるのか?」という疑問に対して、私たちは「わからない」としか答えられません。一つだけわかることは、聖書で記される神様は愛と平和の神であり、悪の横行や、人間の病や死を望まれていないことは確かであります。
星野富弘さんというクリスチャンの方がおられますが、彼は中学校の体育の教師として赴任したばかりで、事故で頸椎損傷し、首から下はまったく四肢が全く動けなくなり、寝たきりとなりました。絶望の内にいる彼のところへクリスチャンの友人が聖書と、クリスチャン作家の三浦綾子さんの小説「塩狩峠」を持ってきたそうです。その小説を読んでから聖書も読む気になり、そして神様を信じ人生が変わったそうです。彼が口に筆をはさんで絵を書き、詩を詠み、多くの作品を作りました。この4月に78歳で天に召されたそうですが、彼の作品により、どれ程多くの人が励まされ、慰めをうけたことか彼には知る由もありませんが、他者の益となるように神様が彼を用いたことがわかります。私たちは、彼のような障害をもっていないし、彼のような才能がないかもしれません。自分の人生は、他の人にとって何の益にもならないだろうと思う方もいるかもしれません。しかし、それは自分だけの狭い視野でみているからわからないのです。神様の大きな視野では、本人がわからないところで、神様のご計画の中で総合的に共に働かせてくださっています。また、神様が一人一人にこの世での役割、計画を持っておられるので、人と比較することは意味がないことであります。
キリスト教でいう、福音(ゴスペル)とは善い知らせの意味です。聖書には、御子イエス・キリストの命を犠牲にするほど、私たち人間一人一人を大切に思っている唯一の、本当の神様のことが記されています。その神様は、人間を愛するために造り、自然も造りましたが、人間が神様から離れて、神を信じず自分中心の生き方を始めました。それを聖書では罪といいます。神様は、その人間の罪を赦し、神様と人間が一緒に、自然と調和して、平和に永遠に暮らせるようにするために、救いの計画を立てられました。それがイエス・キリストが人となって、この世にこられ、十字架で私たちの罪が赦されるために、代わりに罰せられ死なれました。しかし、3日後によみがえられ、弟子たちと会い、神の救いの計画を全世界の人々に伝えるようにと命じられて、天に戻られたのです。これがゴスペル、キリストの福音で、全ての人に知らされて、それを受け取ってほしいと神様は願われています。星野さんは、病床にあって、このキリストの福音を受け取り、信じたので人生が変えられたのです。
この福音は神様の恵みであり、全ての人へ与えられています。その恵を受け取るには、自分を創られた本当の神様を信じず、自分の思い描く神々(これを偶像とよびます)に祈願して神様から離れ、自己中心的に生きてきたことに気づき、「ごめんなさい、神様を信じます、キリストを私の救い主として信じます。」と、キリストを信じることを決めて口に出して言うことで、救われると聖書に示されています。この信仰を持って歩む者は今日のタイトルにあります、全てが共に働いて益となることを知ることができ、生きる希望が与えられます。
信仰とは希望をもつことでもあります。ヘブライ人への手紙11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあるように、望んでいる事柄を確信するとは、神様の取り計らいですべてのことを共に働いて益となるという、希望を確信することです。また見えない事実とは、希望は目には見えないけれども、キリストにある希望を聖書に記される御言葉で、それが事実であることを確認すること、これが信仰です。この信仰によってこの世を生きる者は、神様が私たちを愛していることを知っているので、たとえ、生きている間に困難や試練があっても、また祈ってもすぐに助けが与えられなくとも、自分の想像を超えた方法で、それも私たちが考える助け以上に良い方向に導かれると、神様に委ねることができます。
この信仰を保ち続けるために、必要な助けがあることが8章26節以下に記されています。つまり祈ることです。ではどのように神様に祈ったらよいのでしょうか。イエス様は、「私の名で、天の父なる神に祈りなさい」と言われましたので、形式はなんでもよいですが、「主イエスキリストの名で祈ります、アーメン」と私たちは祈りの中で言います。また、イエス様は主の祈りを、祈りの手本として教えてくださったので、どう祈ったらわからない時は主の祈りを祈るが一番よいでしょう。もちろん、祈りは自分の言葉で、子どもが自分の親に信頼してお願いするように、自由に自分の必要、他の人のためにも祈ってよいのです。神様は天のお父さんのような、親しく呼べる方だからです。今はイエス様は天において、私たちの祈りを、神様にとりなしてくださっていると記されています。ですから、イエス様の名で祈るのです。
困難な状況があまりにも複雑ですと、混乱し、何をどう祈ったらよいかわからない時があり、また祈ることもできないほど落ち込んでいる時があります。そんな時、内に住む聖霊が私たちの代わりに、神様の御心にそって神様へ祈って下さると、27節は記します。この聖霊は、キリストを信じると私たちの心の深いところに与えられ、同じ神の霊である聖霊は、私たちの心にすみ、私たちの代わりに、神さまに祈ってくれる方です。私たちの側にたって、私たちの思いを代弁して、うめいて、天の父なる神様にとりなしてくれます。。だから、「私は祈っていないから、神様は私のことを気にかけていない、ほおっておいているに違いない」と思う必要はないのです。聖霊が、私たちが意識していないところで、私の心の内を神様に祈り、とりなしてくれているというのは、なんという励ましでしょうか。
キリストを信じる者は、神様をその大きな愛と憐み、恵みに感謝し、何もできなくとも神様を愛そうと、つまり神様の計画に従おうと決めて、新しいあゆみを始めます。そのような人が、28節の「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」であり、それらの人びとの為には「万事が益となるように共に働くということ」の聖書の言葉の約束により知り、またその通りになったことの自分自身の体験より「知る」ことができるのです。神を信じていない人には、そのような楽観的な予測の根拠がないため、万事が益と働くとは思えないかもしれません。しかし、キリストを通して神を信じる者は、聖書に示される神様の約束に支えられ、励まされ、神様とのコミュニケーションである、祈りさえも聖霊のサポートを得て、様々な状況を乗り越えられ、希望を持って歩むことができます。
タペストリー(絨毯のような、色付きの糸が折り合わされている絵画)をご存じでしょうか。壁に飾ってありますと、見事な美しい絵として見えます。しかし、裏側はどうでしょうか。縫い糸が複雑に絡み合い、とても美しい絵とは見えません。今わたしたちの周りに起こっている出来事は、タペストリーの一部分、それも裏の部分しか見えなくて、完成に向けての過程にいる状態と例えられます。神様はこの人類と世界を創造された時に、完成の絵柄、つまり計画を持っておられます。その計画の過程で人間がその長い歴史の間に、自分たちの意思で様々なことがおこし、自分たちの意思で複雑にしたり、状況を絶望的にしたりしても、神様は最終的にいつか完成される絵柄を知っておられる、つまりタぺストリーの表面と裏面、両側の完成品を見ることが出来る方なのです。
私たちは、本日の聖書の約束、万事を共に働かせて、益となるようにして下さる神様に全てを委ね、将来の救いの完成の希望(29節「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」とあるように、将来体が贖われる、つまり復活の体が与えられること)を持ちつつ、聖霊の助けを得て、互いに励ましあい、祈り合い今週も歩んで参りましょう。