聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

旧約聖書の学び 創世記15章  信仰により義と認められる

2025-03-06 16:02:55 | 日記

〇3月6日(木) 創世記15章 (益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」の概要を掲載しています)

神様は当時75歳のアブラムに「あなたのうまれ故郷を出よ 父の家を離れて わたしが示す地へ行きなさい」「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。…」(創世記12:1-3)と言われ、具体的内容を言われていなくとも、その命令に従って、家族と一緒にカルデヤのウルという土地から旅立ち、カナンの地へ移住しました。その後、主はアブラムに「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう 」(創世記13:13-16)と言われました。15章ではその後、主なる神様は幻の中で、「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と言われました。そう語り掛けてくださった神様に、アブラムは思っていること:いっこうに子供が生まれない現実に対する思いを伝えることができました。すると神様はアブラムを夜、外に連れ出し「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」と。そして「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(6節)と著者は記しています。

この箇所は、新約聖書でパウロがローマの信徒への手紙とガラテヤ信徒への手紙で引用し、私たちも信仰によって義とされることを説明しています。信仰を持つのは私たち人間の側のことですが、そもそも信仰も、神様が恵により私たちに与えて下さる賜物です(エフェソ2:8)。私たちの方が信仰深かったから、神様が義と認めてくれたわけではありません。たとえ私たちが不信心な者でも、キリストのゆえに義と認めて下さると信じる信仰を神様は見て下さる(ローマ4:5)、なんという大きな恵みでしょうか。アブラムはその生涯において、信仰深いとはいえないような行動をとることもありましたし、この時も神様の約束を信じきれず、この先どうなるのかと、かなり不安になり落ち込んでいたかもしれません。ですから、神様が夜空の星を見せて、彼を励ましたからこそ、アブラムは心が引き上げられて、「よし、神様に信頼していこう!」と信仰へ導かれ、それを神様が義と認めてくださったと言えます。アブラムはこの時、天地を創造された神様の偉大さとその計り知れない力、また自分が小さい存在であることを、夜空を見て思わされたのではないでしょうか。神様には不可能はない、神様に全て委ねようと。

7節以下の記事も、神様が与えると約束される土地について、アブラムは神様に質問しますが、それに対して、主は契約をアブラムと結ばれます。契約には、双方に契約の履行義務がある種類がありますが、当時の古代オリエント社会で契約を結ぶときに、儀式がなされます。裂かれた動物の間を契約の双方ともが通るという儀式を行い、それはどちらかがその契約を破ったら、この裂かれた動物のようになることを約束するものです。しかし17節の煙を吐く炉と燃える松明だけが裂かれた動物の間を通ることは、これらが主の臨在を象徴し、契約を守り切れないのは人間の側であることを主なる神はご存じであるから、主だけが裂かれた動物の間を通り、契約違反の責任を取ることを示します。そして、主が御子イエス・キリストを十字架にかけて、私たちの契約違反の罪を彼の上に置かれ、罰せられることをここでもすでに指し示していると言えます。また主なる神様は、その約束の土地がいつ与えられるか(400年間子孫が奴隷となる期間の後)、どの場所か(18-21節)を、具体的に示されます。

本日の箇所より、主なる神様は私たちの盾となりいつも守って下さる方であり、アブラハムに示された恵みと救いを、今を生きる私たちへもイエス・キリストを通して与えて下さる、信仰さえも与えて下さる方であることを示され、感謝につきません。


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キリストが驚かれること

2025-03-02 09:22:56 | 日記

 身内の見方というのは、厳しくなりがちです。私の父は晩年牧師になる決意をしました。その頃の私は、牧師になる人の「自分の物差し」を持ち、父が牧師になると聞いた時は正直批判的でした。父が神様から召命を受けて自身を捧げていたこと、その献身に対し敬うべきだったと後に思いました。そして、神様の導きは不思議で、父の伝道の手伝いをしていたことが、自分自身が伝道者へと導かれるきっかけとなりました。私自身に関しても、不完全な欠けのある者で、伝道者としてふさわしくない者であり、「以前の私」もしくは「今の私」に躓く人がいるかもしれません。にもかかわらず、このような私であっても、伝道者になるようにとの神様の召命は変わりません。私は残る生涯、御言葉で人々に仕えるように呼ばれて、献身した者であるとして、神様が私の歩みを必ず成長へと導いて下さると信じます。

 聖書で、イエス様が人間のあることに驚かれると記されています。イエス様は故郷のナザレに行かれ宣教された時に、人々がイエス様につまずいたと記されています。そしてイエス様は「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」と言われ、「そして、人々の不信仰に驚かれた。」*1と。つまり、同郷の人々が、以前イエス様が普通に暮らしていたことを知っていたがゆえに、「ただの人ではないか」とみなし、神の子の力と権威を信じなかったのです。そのため、いつもイエス様が行われていた癒しの奇跡が、この郷里ではほとんど出来なかったとあります。他の町で人々は、イエス様に奇跡をおこす力があると信じてお願いし、皆癒されたと記されています。

 このように、イエス様のなさる奇跡と人々の信仰は関係があるようです。また、イエス様は「信仰が立派だ」と驚かれた場合もあります。異邦人(ユダヤ人以外の人)でローマ軍の百人隊長やカナン人の女性の信仰に対して彼らの信仰に驚かれました*2。一方、人々の信仰の有無に関わらず、イエス様の側で憐れみ、可哀そうに思って人々の病を癒されたり、パンを増やす奇跡をなさいます。私たちの態度がどうであれ、神様はご計画に基づき御業をなされますが、その過程に私たちの信仰を参与させる機会を与え、信仰を持って祈り行動するように招いてくださることは感謝です。

 私たちは、生活の中で、自身が願うことが神様のみ心にかなうかどうかもわからない時があります。祈ったことを忘れる場合もあります。しかし、私たちの信仰が薄く、御心がどうか不確かなまま祈ったとしても、内に住む聖霊が私たちの思いを超えて、神様に祈りをとりなして下さっているとの約束により*3、全て委ねることができるのは感謝です。下記のみことばの通り、信仰は目に見える、現実的に考えることを基にそうなると信じるのではなく、まだ見えていないこと、非現実的なことを「神様のみ心であればそうなる」と確信を持って、待ち望むことだからです。神様のすでになされた恵みの御業、イエス様の十字架の救いに感謝しつつ、これからも、神様への信頼を全て委ね、様々なことを互いに祈り合い、励まし合いたいと願います。

 

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」  へブル人への手紙11章1節

 

*1 マルコによる福音書 6章4-6節

*2 ルカによる福音書7章9節、マタイによる福音書15章28節

*3 ローマの信徒への手紙8章26節 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」 (引用 新共同訳聖書)


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救命のシンボル 竿の蛇

2025-03-01 13:51:28 | 日記

 私は病院に勤務していた時、患者さんを搬送する救急隊の方と電話もしくは直接話す機会がよくありました。彼らは受け入れ可能な病院を一刻も早く探さなければならず、特にコロナ時はどこも満床で、本当に苦労されている様子を目の当たりにしたものです。欧米、日本で救急車など医療関係のロゴが、棒に蛇が絡まっている絵であるのに気が付かれたことはあるでしょうか。

 聖書にこのロゴの由来の話が記されています。古代イスラエル人が、エジプトの国に寄留していた時、奴隷にされ虐待されて苦しんでいたところ、神様が人々をエジプトから脱出させ、モーセというリーダをたててパレスチナの土地へ移住するように導かれます。旅の途中、人々は荒野で水がない、食べ物がないと何度もモーセに文句を言い、ある時はモーセを殺そうとしたこともありました。その度にモーセは神様にお願いし、そして水や食べる者が与えられ、40年間の荒野での生活が神様によって養われました。ある時、不平を言い続ける民に神様は毒蛇を送られ、かまれた人々が死にました。そこでモーセは民の為に執り成して祈ると、神様は「青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げなさい。蛇にかまれた者が、青銅の蛇を見るだけで命を得る」と言われました。すると、かかげられた青銅の蛇を見た人は蛇にかまれても死にませんでした。このストーリーや他の伝承も合わさり、竿にからまる蛇のイメージが、救命のシンボルとなったようです。

 また、このストーリーは神様が全ての人々の救命のために、神の子であるイエス・キリストをこの世に送られたことを前もって現わす出来事であります。竿に上げられた蛇を見るだけで命が助かるように、十字架に架けられた(上げられた)イエス様を見上げ、自分の罪が赦されるために代わりに罰せられたことであると信じるだけで、永遠の命を得るからです。見ただけで、信じるだけで救われるなんて、と疑う人がいるかもしれません。しかし、神様が人間を救う為に計画されたことは、キリストが自分の救い主であることを信じるだけです。聖書での永遠の命とは、この体で永遠に生きるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じた時から霊的に新しく生まれ、神の子供としての新しい生き方が今、始まり永遠に続くことを意味します。同時に、将来この物理的な体が寿命で死んでも、魂は残り、新しい体へと、永遠に天で生きられる朽ちることのない体へ復活すると、イエス様は約束されました。

キリストを信じる者は、「今」、この世においてこの体で生きつつ、霊的には新しいものと変えられています。どのように新しいかというと、もはや今までの自分中心の生き方から、神様を信じて従い、キリストのような愛の性質へ、生き方へと変えられていく人生となることです。自分で努力して高尚な人格に変わろうとするのではなく、神の霊(聖霊)が信じる人の内に住んで導いて下さり、神様とイエス様と私たちを繋げてくださるので、もはや一人で頑張らなくてもよいのです。人にはできなくとも、神様の力でできます*。結果的に、信じる前と生き方や姿勢が変えられることになります。神様、イエス様、聖霊は目に見えませんが、目に見える信じる者同士(教会)を通して、御言葉(聖書の言葉)と祈りを通して、互いに励まし合い、慰めあい、時には誤りを指摘し合うことができます。このようなキリストを信じることによる神様と私たちとの交わりが、様々な試練があっても「今」を生きる者へ与えられるのは幸いです。そして、キリストの生き方、互いに愛し合う生き方へと導かれていきたいと願います。

 

「『そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである』。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 」ヨハネによる福音書3章14-16節

 

*'イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。 ' マルコによる福音書 10章27節


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旧約聖書の学び メルキゼデクの祝福 創世記14章より 

2025-02-20 12:32:04 | 日記

〇2月20日(木) 創世記3章 (益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」の概要を掲載しています)

 この章では、古代パレスチナ地方の王たちが連合軍を組み闘ったことが記されています。そこへ寄留者のアブラハムが巻き込まれた理由は、ソドムへ移住したロトの救出でした。ソドムの町の住民が連れ去られてしまったことを聞いて、アブラハムはロトとその家族を助けるために戦うことを決めました。彼と同盟関係にあった人々も含めて(13節)手勢は少数380人であったのにかかわらず、主なる神様が戦ってくださったので、奇襲作戦で敵をダマスコの北まで追いやり、奪われた財産と人々を全て取り戻すことができました。

 王たちとの闘いから帰ってきたアブラハムを迎えたのはソドムの王と、パンとぶどう酒を持って来たサレムの王メルキゼデクです。メルキゼデクは聖書で祭司として最初に言及された人物であり、アブラハムはメルキゼデクの優位性を認識し、彼に十分の一を捧げ、彼から祝福を受けました。メルキゼデクについては、旧約聖書では18節「いと高き神の祭司 サレムの王」と記されるこの箇所と、神様が将来の救世主の統治について語っている詩編110:4だけです。新約聖書では、へブライ人への手紙5-7章に記され、イエス・キリストがメルキゼデクと同じような、私たちの偉大な永遠の大祭司であることを説明するか所に記されています。彼は平和の王、義の祭司、つまり王であり祭司である、生まれも系図も何も示されず突然、アブラハムの前に「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。」と言って登場したゆえに、キリストの予表と解釈されます。ちなみにサレムはエルサレムの短縮形として知られています(詩編76:3) 

 アブラハムに助けてもらったソドムの王はアブラハムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言いましたが、彼はここで、メルキゼデクが示した神の称号を取り上げて、自分が助けた王たちから戦利品を一切取らないという誓いを神の前で立てました(23節)。おそらく彼は、エジプトから受け取った多くの富がロトと自分との間に多くの問題だけをもたらしたことを学んだからでしょう。ただし、アブラハムと共に戦った人々(同盟を組んでいた人々)に対しては分け前を与えるように配慮しています。このことから学べる重要な教訓は、神がなさったことに対する栄光を神だけが受けられるような方法をとりたいと、つまり自分や人の功績を誇る、褒めるのではなく、すべて神様がなさってくださったので、神様がすばらしいという態度でいたいと思います。


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反戦と人のハート(心)

2025-02-16 14:21:03 | 日記

 先日、退役イスラエル兵の在日イスラエル人ダニー・ネフセタイさんの講演会「なぜ戦争をしてはいけないの?」を聞きに行きました。彼は、全国各地でこのような講演活動を流暢な日本語でなされていて、イスラエル国の現状、そして現代日本で横行している戦争・軍備拡大の支持へのプロパガンダを知ることができ、戦争はなんとしてもしてはいけないと強く想わされる機会となりました。今、パレスチナでの紛争が続く中、彼が在日イスラエル人だからこそ、イスラエルを外から客観的に見、批判できる立場、そして日本を第三者的に見ることが出来、彼の発言は力強さを放っていると思いました。彼の結論は、平和を求める私たちのハート(心)が大切とのことでした。彼の講演の最後に平和の歌が流れました。その歌詞には、「祈りのことばをささやくな、むしろ平和の歌を歌え」(「シール・ラシャローム」より)とあり、神に祈るより、自身が立ち上がり、平和を求めるハート(心)を皆に持ってほしいとの思いが、歌に反映されているようでした。

 ダニーさんが言うように、武力では平和はもたらされません。しかし、人間は皆が同じハートを持っていないのが残念なところです。皆が同じ基準で善悪や正義の概念を持っていない為、一致できないという現実があります。もちろん多くの人は平和を求めています。しかし、多くの人は自分が正しいと思って、夫婦喧嘩をし、肉親で争い、友達同士で喧嘩することもあるでしょう。みな同じハートを持ってそれらの争いが全て和解されればよいのですが、決裂し、離婚、裁判、絶交ということの方が多いのではないでしょうか。私たちはどうしたら互いの違いを尊重しつつ、平和的に一致できるでしょうか。

 なぜ人は平和を望みつつ、争うのでしょうか。聖書の創世記の人の創造を読むと、人は神様と交わり(つながり、人格的関係をもつこと)を持つために創造され、神の似姿に造られ「極めて良い」ものとして最初は造られました。しかし、人は自分で善悪を決めたいと、神様から離れた生き方を選び、神様との関係が断絶し霊的な交わりが失われています。自分を創造した神の存在を否定する(これを聖書では罪といいます)ようになると、それが人間関係にも影響します。最初の人は神から離れるとまず、パートナー(女)に責任転嫁をし、最初の彼らの子供たちの間では、兄が弟を殺しました。嫉妬したからです。つまり人同士の信頼関係も損なわれてしまうのです。それ以来今に至るまで、善い心をもちながらも、自分の望むことを他者に配慮せず追求するようになり、自分の利益や思いが優先し他者と争う、それが家族・民族・国家同士の戦争となっています。人のハートは完全でないことがわかります。

 私は壊れたハートは、神様によって、つまり神様が救い主として、神様と私たちの関係を修復し(私たちの神を信じないという罪を赦し)、和解させてくださるイエス・キリストの十字架によってのみ修復される、平和を真に求められるハートに変えられると信じます。神様の創造は、イエス・キリストを信じる信仰が与えられ、その人がキリストのような神の似姿*1に(つまキリストのような平和と慈愛の性質に)変えられて、完成されることを将来に見据えておられるからです。

 私は「祈りのことばをささやき続けたい」と思います。「平和の歌」を叫んでデモ隊を組み、警察と衝突となったら、結局戦いと同じです。祈りなんて、意味がないという方がいるかもしれません。しかし私たちキリスト者が祈るのは、私たちの祈りを聞いている神様に力があることを信じるからです。私たちの信仰は、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」*と聖書に記されているとおり、信仰による祈りとは、わたしたちが神様に祈って望んでいること、つまり未だかなえられていない、目に見えていない事が、神様によっていつかかなえられ、事実になることを確認して祈っているからです。人が各々自分の願いを祈るのではなく、人が平和の神の御心(思い)を祈るから聞かれると信じます。神の思いは片寄りがなく、愛と平和と憐みがベースであり、キリスト者はそれを聖霊によって何が神の思いかを教えられます。まずはすべての人々が神様の愛をキリストを通して受け取り、キリストにある平和を共に祈り求める人が増えることを、祈っていきたいと思います。

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」  エフェソの信徒への手紙 2章14-16節

*1 コリント信徒への手紙2 4章4節

*2 ヘブル人への手紙 11章1節

 

 


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