聖書箇所 ヨハネによる福音書3章13-21節
〇新たに生まれる
ヨハネによる福音書3章では、ニコデモというファリサイ人が夜にイエス様を訪ねてきた時の対話が記されています。イエス様はここで、新たに(上から)生まれること、水と霊から生まれる、竿の上の蛇を仰ぎ見ること、光の許へ来るという象徴を用いて、救いについての説明をされています。まずイエス様は人が神の国を見るには、新たに生まれなければならないと言われます。新たに生まれるということを文字通りに理解したニコデモに、また「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と続けられます。つまり一度目の肉対的な誕生だけではなく、2回目の新たな霊の誕生が必要であると。6-7節「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」と言われ、新たに生まれるということは、霊的に生まれることだと説明されます。新たな誕生は、霊によって生まれ、その誕生は未来をともないます。イエスを信じる者は神の命、永遠の命、豊かな命を得るからです。それは、生ける希望へと新しく生まれることだとペトロの手紙 1:3-4でも記されています。
ではどのように、新たに生まれるのでしょうか。それはイエスを信じることであるとヨハネ3:16に記されています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
イエス様が神の御子であり、神が御子を賜物(プレゼント)として世(つまり私たち)にお与えになったほどに世を愛されたことを信じることです。イエス・キリストを通して私たちにもたらされる救いは、神様から賜物である御子を受け取ると永遠の命を受け、その人の生き方は、イエス様において示された神の愛において新たに形作られて生きます。この「新たに」と訳される原語(ギリシャ語アノーテン)は、「上から」との意味があります。上とは神からの意味にとれます。ですから、神から生まれたものは、神の子供とされ、その人の生き方が神によって変えられていきます。それがイエス様の十字架を通して、上から(神から)生まれる、再生された生き方です。与えられている永遠の命は、信じた「今」から始まって継続しています。ヨハネの福音書における永遠の命は、将来死んでから初めて与えられる命のことではなく、「今」信じているものが持っている命です。
〇新しく生まれることは神のミステリー:不思議
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」8節 イエス様は霊を風に例え、どこから来てどこへ行くか見えないのでわからないと言われます。風と霊は(ギリシャ語で)同じ原語です。つまり霊から生まれることは、不思議な事柄で、律法に詳しいイスラエルの教師のニコデモも理解できないように、人間の理解を超える不思議という面があるとイエス様は言われます。聖霊は、風のように目に見えないけれども、聖霊の働きというのは使徒言行録に記されているように、使徒・信徒達の活動を通して聖霊が力強く働いているとわかるのと同じです。
創世記で最初の人間アダムが神様との約束を破った時から、「食べたらあなたは死ぬ」と言われたように、神様から離れ、罪が人に入って以来、人は肉体的な誕生をしても霊的には死んだ状態でした。神様は、再び人が死から命へ移されるように、神様はイエスキリストを通して救いの計画を立てて下さりました。
使徒言行録2章38-39節 に「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
イエス・キリストを信じれば、聖霊を与えられます。これが、霊によって新たに生まれる、上から生きるものとなることです。
〇竿の上の蛇
次に14節のモーセが荒野で蛇を挙げたようにと言われたことは、民数記21:4-9の出来事です。これは、出エジプトしたイスラエルの人々は荒野で神様に逆らい、その罪のゆえに神様は毒蛇を民の間に送り、その蛇にかまれ、多くの人が死にました。その時、モーセが神様に執り成しの祈りをすると、神様は青銅で蛇を作り、それを竿に掲げて、人々がそれを仰ぎ見るようにと命じられました。見るだけで命を得ると。信じて青銅の蛇を見た者は死から救われました。青銅は裁きを意味します。「罪の報酬は死」とありますように、私たちは罪という蛇にかまれ霊的に死んだ状態でした。人の子が上げられるとは、神の子イエス様が青銅の蛇のように、十字架で上げられて、私たちの罪の代わりに裁かれたことを指し示します。それは私たちを罪と死から救う神様の計画であり、十字架の上のイエス様を仰ぎ見れば命を得ます。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」モーセの竿の上の蛇は、イスラエルの人々に物理的命をもたらしましたが、十字架のイエス・キリストを信じる者は誰でも、永遠の命を与えられます。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」ローマ人への手紙6章23節
また、「人の子が上げられる」とは、イエス様が十字架にかかることだけを意味するのではなく、イエス様が復活後、天に上げられるその栄光の昇天のことをも意味します。ですから、ヨハネの福音書で記すイエス様の十字架は、その死と復活と、昇天までの一連の出来事を示し、苦難だけでなく、イエス様の栄光を表します。
イエス様を信じる者は霊的に新たに生まれ、永遠の命を今、生き、そしてこの体が亡くなった後、新しい体へと復活すると将来のこともイエス様は約束されています(ヨハネ6:39-40)。私たちの希望は、永遠の命を生きている今から将来の終わりの日へと続いていることは、この世において大きな励ましと慰めではないでしょうか。
〇光
イエス様はご自身をヨハネ8:12で「わたしは世の光である。私に従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ」と言われたように、19節からイエス様は救いについて、救われる者のことを、光であるイエス様の方に来る者と説明されます。17-18節で「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 」イエス様がこの世の来られたのは人々を裁くためでなく、救う為であり、すでに、人は罪を犯して裁かれている状態だと言われます。罪に裁かれている者がイエス様を信じれば救われます。その救いと裁きについての説明で光と闇の話をされます。救いを受け取るには光であるイエス様の方へ行く必要があります。自分の罪がその光によって赦されていることを信じて光にでるので、もはや暗闇から光へ移され、暗闇で隠れる必要はないのです。なぜある人は暗闇が好きなのか?光に近づけば、自分の罪がさらされるからであり、イエス様による救いを受け入れず暗闇にとどまり、光にいこうとしません。それが裁かれたままである状態です。しかし、光であるイエス様に行く者は、21節「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」と記されます。私たちが光の中を歩み、神様とイエス様と交わりをもつゆえに、真理を行えるように変えられていきます。その行い自体が、神様に導かれてなされているからです。ヨハネの手紙一 1:7でも、光の中を歩むことを説明しています。
「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを持ち、イエス・キリストの血は私たちのすべての罪をきよめます」。
このように私たちは御子イエス様を信じるだけ、つまり神様の賜物(プレゼント)を受け取るだけで、新たに生まれることができ、聖霊が与えられ、罪が赦され、神様との交わりの中に歩むことができ、徐々に真理を行うものへと変えられていくとはなんと幸いなことでしょうか。すべては、神様の一方的な愛であり、恵みによります。
イエス様の救いは今でもすべての人に提供されています。十字架で死なれ、復活され、天に挙げられたイエス様を救い主として信じるだけです。そして、信じた私たちは、今、永遠の命に生きています。新たに生まれた者としての生き方をどう生きるのでしょうか。それは日々、神の言葉である御言葉に養われ、私たちの内に住まわれる聖霊の導きを求めて生きる、そして神様とイエス様との交わりを持ち、光の中を歩むことだと本日の箇所からも学ばされます。まだイエス様を信じていない人が多く、私たちはなんとか人々がこの神様の救いを受け取れるようにと執り成しの祈りをしつつ、私たちが自分たちが個人的に救いを受けて変えられた生きる姿勢を通して証しをし、イエス様の愛を現わし、新たに生かされている喜びと平和を示す者へと変えられていきたいと共に励ましあっていきましょう。