聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

礼拝メッセージ 「万事が益となるように共に働く」

2024-11-09 12:43:48 | 日記

聖書箇所   ローマの信徒への手紙8章26-30節 

 本日は、ローマの信徒への手紙8章より「万事が益となるように共に働く」と題してメッセージをさせていただきます。このタイトルだけをみますと、すべてのことが自分の益になってくれれば、なんと都合のよい話ではと思うかもしれません。私たちは、日々生活している中で、世の中の不条理なこと、戦争、犯罪の横行、災害、自分自身や家族の病、家族を失うこと、これらは辛いことであり、恐ろしいことでもあり、起こってほしくないと願い、よくないことが益になるとは考えにくいと思います。一方、人々が自分中心で考え、動いているため、これらの不条理は解決に至りませんし、またこの体はいつか衰え、死は避けられません。

 多くの人々は自分の思う通りになるように、様々なその国の土着の神々に祈願します。しかしそれぞれの個々人の利益が相反するので、結果はどうなるのでしょうか?誰の願いだけかなえ、他の誰の願いをかなえないのか、どのような基準なのか、日頃の行いによるのか、と不明であるなかで、信頼する・よりどころにする神として真剣に信じているのでしょうか。ある人は結局自分しか信じられるものはいないと。しかし、どんなに優秀な強い人でも、自分はそんなに強く、万能ではないことを薄々気が付いているでしょう。また神を信じていても「神がいるなら、なぜこんなことが起こるのを許すのか?」といわれる方がおられます。突然の災害・事故で家族や家を失ったり、酷いことが起こればそうつぶやきたくなるのも理解できます。責める相手がいないので、神にその怒りを、悲しみをぶつけたくなるかもしれません。もちろん、神様はその思いを受け止めて下さる方であります。しかしまず認識しなければならないのは犯罪、戦争、環境破壊を起因とする自然災害は神様が起こしたのではなく、人間の自己中心的な利益追求のために引き起こしたことで人間の責任です。それでも、「なぜこのことが起こるのか?」という疑問に対して、私たちは「わからない」としか答えられません。一つだけわかることは、聖書で記される神様は愛と平和の神であり、悪の横行や、人間の病や死を望まれていないことは確かであります。

 星野富弘さんというクリスチャンの方がおられますが、彼は中学校の体育の教師として赴任したばかりで、事故で頸椎損傷し、首から下はまったく四肢が全く動けなくなり、寝たきりとなりました。絶望の内にいる彼のところへクリスチャンの友人が聖書と、クリスチャン作家の三浦綾子さんの小説「塩狩峠」を持ってきたそうです。その小説を読んでから聖書も読む気になり、そして神様を信じ人生が変わったそうです。彼が口に筆をはさんで絵を書き、詩を詠み、多くの作品を作りました。この4月に78歳で天に召されたそうですが、彼の作品により、どれ程多くの人が励まされ、慰めをうけたことか彼には知る由もありませんが、他者の益となるように神様が彼を用いたことがわかります。私たちは、彼のような障害をもっていないし、彼のような才能がないかもしれません。自分の人生は、他の人にとって何の益にもならないだろうと思う方もいるかもしれません。しかし、それは自分だけの狭い視野でみているからわからないのです。神様の大きな視野では、本人がわからないところで、神様のご計画の中で総合的に共に働かせてくださっています。また、神様が一人一人にこの世での役割、計画を持っておられるので、人と比較することは意味がないことであります。

 キリスト教でいう、福音(ゴスペル)とは善い知らせの意味です。聖書には、御子イエス・キリストの命を犠牲にするほど、私たち人間一人一人を大切に思っている唯一の、本当の神様のことが記されています。その神様は、人間を愛するために造り、自然も造りましたが、人間が神様から離れて、神を信じず自分中心の生き方を始めました。それを聖書では罪といいます。神様は、その人間の罪を赦し、神様と人間が一緒に、自然と調和して、平和に永遠に暮らせるようにするために、救いの計画を立てられました。それがイエス・キリストが人となって、この世にこられ、十字架で私たちの罪が赦されるために、代わりに罰せられ死なれました。しかし、3日後によみがえられ、弟子たちと会い、神の救いの計画を全世界の人々に伝えるようにと命じられて、天に戻られたのです。これがゴスペル、キリストの福音で、全ての人に知らされて、それを受け取ってほしいと神様は願われています。星野さんは、病床にあって、このキリストの福音を受け取り、信じたので人生が変えられたのです。

 この福音は神様の恵みであり、全ての人へ与えられています。その恵を受け取るには、自分を創られた本当の神様を信じず、自分の思い描く神々(これを偶像とよびます)に祈願して神様から離れ、自己中心的に生きてきたことに気づき、「ごめんなさい、神様を信じます、キリストを私の救い主として信じます。」と、キリストを信じることを決めて口に出して言うことで、救われると聖書に示されています。この信仰を持って歩む者は今日のタイトルにあります、全てが共に働いて益となることを知ることができ、生きる希望が与えられます。

 信仰とは希望をもつことでもあります。ヘブライ人への手紙11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあるように、望んでいる事柄を確信するとは、神様の取り計らいですべてのことを共に働いて益となるという、希望を確信することです。また見えない事実とは、希望は目には見えないけれども、キリストにある希望を聖書に記される御言葉で、それが事実であることを確認すること、これが信仰です。この信仰によってこの世を生きる者は、神様が私たちを愛していることを知っているので、たとえ、生きている間に困難や試練があっても、また祈ってもすぐに助けが与えられなくとも、自分の想像を超えた方法で、それも私たちが考える助け以上に良い方向に導かれると、神様に委ねることができます。

 この信仰を保ち続けるために、必要な助けがあることが8章26節以下に記されています。つまり祈ることです。ではどのように神様に祈ったらよいのでしょうか。イエス様は、「私の名で、天の父なる神に祈りなさい」と言われましたので、形式はなんでもよいですが、「主イエスキリストの名で祈ります、アーメン」と私たちは祈りの中で言います。また、イエス様は主の祈りを、祈りの手本として教えてくださったので、どう祈ったらわからない時は主の祈りを祈るが一番よいでしょう。もちろん、祈りは自分の言葉で、子どもが自分の親に信頼してお願いするように、自由に自分の必要、他の人のためにも祈ってよいのです。神様は天のお父さんのような、親しく呼べる方だからです。今はイエス様は天において、私たちの祈りを、神様にとりなしてくださっていると記されています。ですから、イエス様の名で祈るのです。

 困難な状況があまりにも複雑ですと、混乱し、何をどう祈ったらよいかわからない時があり、また祈ることもできないほど落ち込んでいる時があります。そんな時、内に住む聖霊が私たちの代わりに、神様の御心にそって神様へ祈って下さると、27節は記します。この聖霊は、キリストを信じると私たちの心の深いところに与えられ、同じ神の霊である聖霊は、私たちの心にすみ、私たちの代わりに、神さまに祈ってくれる方です。私たちの側にたって、私たちの思いを代弁して、うめいて、天の父なる神様にとりなしてくれます。。だから、「私は祈っていないから、神様は私のことを気にかけていない、ほおっておいているに違いない」と思う必要はないのです。聖霊が、私たちが意識していないところで、私の心の内を神様に祈り、とりなしてくれているというのは、なんという励ましでしょうか。

 キリストを信じる者は、神様をその大きな愛と憐み、恵みに感謝し、何もできなくとも神様を愛そうと、つまり神様の計画に従おうと決めて、新しいあゆみを始めます。そのような人が、28節の「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」であり、それらの人びとの為には「万事が益となるように共に働くということ」の聖書の言葉の約束により知り、またその通りになったことの自分自身の体験より「知る」ことができるのです。神を信じていない人には、そのような楽観的な予測の根拠がないため、万事が益と働くとは思えないかもしれません。しかし、キリストを通して神を信じる者は、聖書に示される神様の約束に支えられ、励まされ、神様とのコミュニケーションである、祈りさえも聖霊のサポートを得て、様々な状況を乗り越えられ、希望を持って歩むことができます。

 タペストリー(絨毯のような、色付きの糸が折り合わされている絵画)をご存じでしょうか。壁に飾ってありますと、見事な美しい絵として見えます。しかし、裏側はどうでしょうか。縫い糸が複雑に絡み合い、とても美しい絵とは見えません。今わたしたちの周りに起こっている出来事は、タペストリーの一部分、それも裏の部分しか見えなくて、完成に向けての過程にいる状態と例えられます。神様はこの人類と世界を創造された時に、完成の絵柄、つまり計画を持っておられます。その計画の過程で人間がその長い歴史の間に、自分たちの意思で様々なことがおこし、自分たちの意思で複雑にしたり、状況を絶望的にしたりしても、神様は最終的にいつか完成される絵柄を知っておられる、つまりタぺストリーの表面と裏面、両側の完成品を見ることが出来る方なのです。

 私たちは、本日の聖書の約束、万事を共に働かせて、益となるようにして下さる神様に全てを委ね、将来の救いの完成の希望(29節「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」とあるように、将来体が贖われる、つまり復活の体が与えられること)を持ちつつ、聖霊の助けを得て、互いに励ましあい、祈り合い今週も歩んで参りましょう。


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使命を果たす言葉

2024-10-20 17:11:35 | 日記

 今年は秋でも夏日が続くという、秋らしからぬ気候が続いたゆえに、秋の冷たい雨が降ると、ようやく例年並みの気温となったと感じます。神様は天から恵の雨を降らせ、冬には雪を降らせるように地球を創られました。雨と雪が、全ての人に(ある人の上だけ降らないということはなく)降り注ぐのは、それらが大地を潤し、植物の芽を出させ、生い茂って、人間と動物の食べ物を備える為であり、神様はそのように自然の循環を設定されました。与えられた自然の恵みを感謝しつつ、創世記に記されているように人は自然を守る、管理する役目を神様から与えられていることを、現代において警鐘的にも覚えておかなければならないと思います。

 神様は自然の営みだけでなく、神様の言われた言葉(御言葉)は、神様の計画されたことを成し遂げ、使命を必ず果たすと下記の箇所で言われています。神様は、神様の言われた言葉を聖書という形で目に見える、理解できる形で私たちに残してくれました。その聖書の中に記されている預言の言葉を読むと、まだ成し遂げられていない預言もたくさんありますが、昔神様の言われた言葉がその後その通りになっていると確認する箇所もたくさんあります。聖書は科学の記録ではなく、神の言葉として読む者が信じる、信仰の書です。神の御言葉には力があります。なぜならいつの時代に聖書の言葉を読んでも、読む一人一人の時期にかなって、その人に必要な神様のメッセージが伝えられ、希望・励ましとなり、慰めとなり、戒めとなり、信仰生活で必要な生きた言葉としてわたしたちの心に与えられるからです。

 また、イエス様の弟子のヨハネは、言(ことば)が人(肉)となって、わたしたちの間に宿られたと記しています。つまり言は神であり、神が人の形をとられこの世へ遣わされたイエス・キリストご自身であると聖書は記しています*。言であるイエス様は、私たち人間を救う神様のご計画のもとに、この世へ送られ、神様の与えたその使命を十字架の死と復活により果たされたからです。上記の箇所は預言者イザヤが、イエス様がこの世に人として生まれる約500年前に、イエス様の使命を預言していると言えるでしょう。

 神様の考えられること、神様の思いは、わたしたちの想像をはるかに超えます。神様の救いの計画を、全て相手が納得できるよう説明するのは困難です。しかしながら、私の力や説得力ではなく、御言葉自体に神様の力があり、影響力があることに希望があります。そしてはっきり御言葉が示している神様の計画は、イエス・キリストの命を犠牲にしてまで、何の働きもない小さな存在の私を救おうとし、神様を信じない罪を赦し、罪の縄目から解放し、神様の子供として天に迎えようと、また地上での生活をイエス・キリストの愛に倣って生きるように、聖霊が導いてくださるという救いの恵みです。私たちキリスト者は、この力ある御言葉をもっと多くの人に分かち合えればと願います。

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブル人への手紙11章1節)とあるように、希望とは望んでいる事柄です。見えない事実は、神様が見えなくとも、神様の計画が全て把握できなくとも、神様が全てを治めておられるという事実ではないでしょうか。この希望を毎回、御言葉で確信し、神様の真実を確認していきたいと思わされます。

「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」 イザヤ書55章11節

*ヨハネによる福音書1章1-5,14節


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「賜物を生かし互いに仕える」礼拝メッセージ

2024-10-13 10:09:48 | 日記

聖書箇所   ペトロの手紙Ⅰ 4章7-11節 

 本日は、ペトロの手紙Ⅰ 4章7-11節 「賜物を生かし互いに仕える」と題してメッセージをさせていただきます。このペトロの手紙Ⅰは 現在のトルコの地域の異邦人(ユダヤ人以外の人々)キリスト者の諸教会にあてて、弟子のペトロがシルワノという人を通して記した手紙とされます。この時代はすでに、キリスト教徒への激しい迫害が起こっており、このような苦難にあってもキリストの模範に従い、相手に憎しみを抱かず、報復を慎み、善を行い、キリストにある希望に固くたつように(2:13-19)と手紙の前半に記されています。内容的に、これから洗礼を受ける信徒にむけての説教として語られた内容ではないかとされます。

 7節「万物の終わりが迫っています」にあるように、世の終わりが近いことを思って、信徒同志の交わりを深めるようにとの勧めが記されています。終わりの時とは、神様の救いが完成するとき、つまり将来のことですが、同時に主イエスの十字架と復活の出来事により終わりの時は「すでに来ている」という意味も含みます。そしてその救いの完成は黙示録22:20にイエス・キリストが「然り、わたしはすぐに来る。」と言われているように、再びキリストが来られる再臨の時です。イエス様が復活されてから2000年以上の間、教会はこの暗い世の中にあって、上からの光を証しする群れとして立てられています。教会は先ほど述べました終わりの日が何かということを知らされていますし、たとえそれがいつ来るかは知らされなくとも、キリストの再臨の時が終わりの日だとしっているのは幸いです。なぜなら私たちは、キリストの十字架と復活のおかげで、キリストが再び来られた時裁かれることはなく、死から命へすでに移されています。もし、キリストを信じていなければ、希望もなく、ただ終わりの日がくるという、しかも自分がどうなるかわからない、裁かれるという恐れだけになるからです。これからも戦争や、災害、飢饉などが激しくなってくると、マスコミがその不安をあおり、人々は、キリスト者が騒がないで、平安でいられるのを見て、どうして平気でいられるのか?と尋ねられる時、その希望は何かを説明できるように備えておきましょうと、ペトロの手紙Ⅰ 3章15節にも示されています。それが、キリストの福音の証しとなり、その尋ねた人は救いに導かれるかもしれません。

7節後半「よく祈りなさい」、8節「心を込めて愛し合いなさい」と続きます。「心をこめて」とは、気分に左右されない愛で、根気強く、忍耐して相手に接することです。キリストの愛は、人間の状況や感情によって左右されるものではなく、神様から注がれる愛であり、その「愛は多くの罪を覆うからです」とあります。 箴言10:12 「憎しみはいさかいをおこす 愛はすべての罪を覆う」 とあります。

相手が何か自分に対してひどいことをしたとき、それを攻撃しかえすのではなく、可能な限り対話により相手の現状を知り、相手の魂のために祈り、神様にお任せすることができます。すると相手に罪が示されれば、神様によって悔い改めに導かれ、神様の赦しを受け取り、救いに導かれます。そのことが起こるよう、相手の祝福を祈り、悪に対して悪で返すことをしないように、上からの力を求めたいと思います。

 9節 「不平を言わずにもてなし合いなさい。 」お互い欠けの有る者同士、考え方も異なり、育ってきた環境もことなりますので、仲良し同志がみな教会のメンバーとは限りません。それでも、お互いがキリストにあって神の家族であり、神様に赦された者として互いに赦し合い、寛容な心をもって不平を言わないようにと、かえって互いにもてなしあおうと実践的な薦めです。

そして今回のタイトルにあります、賜物については10節「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 」についてですが、神様は私たち一人一人に賜物を与えてくださっています。賜物とは何か才能があること、得意なことがあって、それを教会の奉仕としてするという以上の霊的な賜物を示しています。コリントの信徒への手紙1 12:1-11節、28節をお読みします。

賜物はお互いに仕え合うために与えられる様々な恵みであり、一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の、教会の益となるためです。各自がその受けた恵みの賜物を教会の中で働かせるために与えられています。それは、キリストが十字架で命を犠牲にしてまで私たちを愛してくださったことへの感謝の応答であり、奉仕として「しなくてはならない」というような義務感で用いるものではありません。

 ペトロの手紙Ⅰ 4章に戻りますと、11節「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。」とありますが、この語る者とは、説教者、牧師です。説教者は、神様の御言葉を皆さんへ取り次ぐために、その与えられた賜物を用いて、神の言葉を語るにふさわしく語らなければなりません。私たち説教者は、神様から与えられるメッセージを受け取り、それを取り次ぎ、皆さんが受け取るという、つまり管のような役目の賜物として与えられています。ですから、聞く皆さんは、礼拝ごとに語られる神の言葉を毎週受け取り、その神様の御言葉が教会という小さな群れを造り変え、一人一人の信仰が新たにされることで、神様への愛の応答は持続されます。祈り・礼拝に参加し、賜物を用いて互いに仕えることは相互に、必要不可欠です。

 5-6節「務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 」 教会での奉仕の務めにはいろいろあります、働きにもいろいろありますが、それらは全て、神がお与えになったのは神様です。賜物とは何か目に見える奉仕だけで用いられるのではなく、目に見えない奉仕、たとえば祈りで支えることや、一言、聖書の言葉から励ましや慰めの言葉を相手にかけること、相手の話を聞くこと、これらも大切な賜物であります。

 ですから、それぞれの力、賜物に応じて、自発的に、神様への感謝の応答として奉仕できれば、健全な霊的状態といえます。もし、したくないのに、牧師から頼まれたから している、奉仕が重荷だ、礼拝に参加するのに喜びがないという状態であれば、立ち止まり、自分の心を探られたほうがよいでしょう:神様に、感謝しているか、救われていることを喜んでいるか、神様に信頼して祈っているか。これらの一つでもひっかかるのであれば、もしかすると、日常生活の様々な思い煩い、悩みを自分で抱え込んでいたり、誰かを赦せないという思いがあって、神様のこれらの恵みに目を留めることを忘れ、心が暗く、苦い思いが生じてしまっているかもしれません。そしてそれが他者との人間関係の問題へと発展していくものです。そのことに気づきがあたえられたら、まずご自分と神様の間の関係で、信頼と愛と、平安が与えられていることを御言葉をよむことで示され、信仰を再確認し、神様の力で信仰を強めて頂くことをお勧めします。

 教会の宣教は牧師だけがするのではなく、教会のメンバー一人一人が神様に愛され、その愛への応答として互いに仕えることで成り立ちます。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです(11節)とあります。教会はキリストの体で、私たち一人一人はその部分、器官だとパウロが例えているように、教会が喜びに満たされることを、ご自分の喜びとして、イエス様も神様も共有されます。だから、すべての素晴らしいこと、ほめるべきことは、人間ではなく、神様がすばらしいと、感謝して礼拝をささげられる、そのことで神様に栄光を返せるからです。

 最後にコリントの信徒への手紙1 12章12-27節 をお読みします。

  26-27節「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」とあるように、私たちは、キリストの体という、一つの体で互いが必要です。一人では信仰を持続できないし、互いに祈り合い、支え合い、何よりもまず、心を込めて互いのことを考え、配慮し、苦しみを共有し、喜びも分かち合い、みなで主とともに歩んでいきたいと願います。

引用:新共同聖書


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和解・和平を祈る

2024-10-06 18:41:31 | 日記

 10月7日。昨年、イスラエル国にハマスというテロリスト集団が奇襲攻撃を始め、それから戦争状態が一年経ちます。そもそもハマスはパレスチナの代表でもなく、正式な軍隊でもない、テロリストであることを日本のニュースは報道しません。いつもイスラエルが悪いと報道するのは、日本のニュースが反イスラエルの中東諸国の国営放送からその情報を得ているからです。いずれにしても世界の紛争が早く終わるように、平和のために、今、何ができますか?と問われると、両者とも戦いを早く終え、お互い和解するよう、人々が安全に生活できるようにと平和のために祈り続け、そして情報を識別し、マスメディアに操作されないようにと心がけています。

 一方、人は他国の大きな戦争の和平を求めながら、自分の周りの人と、職場のある人と、家族と和解していないことがありがちです。つまり自分のことは棚にあげて、遠い国の国際紛争について早く和解すればと思えてしまうのです。

 聖書は和解について、こう記しています。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 」 (1)実は、私たち人間は生まれた時から、神様に敵対しているのです。その敵対とは、人は自分を創った神の存在を否定し、信じないこと(これを聖書では罪といいます)、そして自分の思うままに生き、他者を傷つけ、自分も傷つけ、個人差があってもどこかで争いを起こす、もしくは関わりたくないので距離をおく、無視すると、実は自分は気づいていないだけで和解していない関係をどこかに持っている可能性があります。神を信じない罪から派生して、人間関係の争いが生じ、そして様々な罪に発展しています。一方、神を信じる者は、人間同士互いに愛し合いなさい、赦し合いなさいという、キリストの愛に倣って歩むものと教えに従おうと励まされます。

 神様は、全ての人間を大切に思い、祝福したいと、関係を修復したいと思われ、そこで世にご自分の御子イエスを送られました。その目的は、人が神に敵対してきたことを認め、その罪のためにイエスが十字架にかかられて死んでよみがえられたことを信じることで、全ての罪が赦されること、そして新しく生きることができるように心に聖霊が与えられ、地上で生きている間は、聖霊が正しい道へと私たちを導いてくださるので安心です。

 私たちキリスト者は、ヒューマニズム(人道主義)ではなく、キリストの愛が動機で、平和を求め、対話しようとし、祈り、行動します。なぜなら「まず、神様がわたしたちを愛して、キリストをこの世に送ってくださった」 (2)その十字架の救いの御業により、私たちはもはキリストに結ばれて生きるからです。神様の愛を受け、キリストを信じた者は、キリストの和解の言葉を他者に伝え、聖霊の働きにより平和を運ぶものとして、この世の中に派遣されていきたいと願います。

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(1ヨハネ4:19-21)

 

[1] コリントの信徒への手紙二 5:19

[2]ヨハネの手紙1 4:10

 


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地の果てまで

2024-09-17 22:16:53 | 日記

 若い時に、私は約一ケ月程スペイン・ポルトガルの一人旅をしたことがあり、そこでの空の色が、今迄見たことがない鮮やかな深い青色で非常に感動したものでした。ローマ帝国時代に現スペインは、イスパニアと呼ばれ、当時西の地の果ての国とされていたそうです。ちなみに日本は東の地の果て(極東)ですが、そんな遠い日本へ16世紀にキリスト教の宣教師が西の地の果てから来てくれたのだと、驚きと感謝を改めて思わされました。

 「私には夢がある I have a dream!」の演説で有名な、公民権運動を指導した牧師のマーティン・ルーサー・キング師は「破れた夢」という説教で、「人間の経験で最もつらい問題の一つは、自分の一番大きな希望が実現するのを生きて見られる者は、ほんの少数の者にすぎないということ」、それでも「無限の希望を固く抱いて、有限の失望を受け入れる」、「自分の破れた夢と真剣に対決しなければならない。」と言っています。これは使徒パウロが、イスパニアへの伝道旅行へ行くという夢、ヴィジョンを語っていた箇所(ローマの信徒への手紙15:24.28)からの説教の一部だそうです。パウロは「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録 1:8)と主イエス様の言葉を伝え聞き、地の果てまで伝道しようと志したのでしょう。残念ながら、聖書の記録にはパウロがイスパニアへ行ったという記録がなく、ローマで殉教したという伝承が残されています。神様はパウロに別の計画を持ち、彼の希望はその後、他の伝道者たちによって全世界へキリスト教が伝えられているという形で、今も実現中です。

 私たち人間が考え、計画することは必ずしもすぐに実現するとは限りませんし、道が閉ざされることもあります。挫折し、がっかりしますが、そこで止まらず、神様がすべて統括しておられることを信じ、神様のなさりたい事とその方向性をキャッチしていくことで、希望を固く抱けるのではないでしょうか。私たちの内に住む聖霊が私たちを導き、聖霊の力が注がれ、キリストの愛を知らない人に出会い、証しする機会が与えられるという、神様の救いの御業に参与させて頂けることを期待したいと思います。いつも救いの喜びを覚え、絶えず祈り、神様に感謝しながら*、今おかれた宣教の場所でキリストの愛を伝えていきたいと願います。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」  (使徒言行録 1:8)

*テサロニケの信徒への手紙1 5章16-18節


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