聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

礼拝メッセージ「永遠の命で、今を生きる」 

2025-03-18 11:53:04 | 日記

聖書箇所 ヨハネによる福音書3章13-21節

〇新たに生まれる
ヨハネによる福音書3章では、ニコデモというファリサイ人が夜にイエス様を訪ねてきた時の対話が記されています。イエス様はここで、新たに(上から)生まれること、水と霊から生まれる、竿の上の蛇を仰ぎ見ること、光の許へ来るという象徴を用いて、救いについての説明をされています。まずイエス様は人が神の国を見るには、新たに生まれなければならないと言われます。新たに生まれるということを文字通りに理解したニコデモに、また「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と続けられます。つまり一度目の肉対的な誕生だけではなく、2回目の新たな霊の誕生が必要であると。6-7節「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」と言われ、新たに生まれるということは、霊的に生まれることだと説明されます。新たな誕生は、霊によって生まれ、その誕生は未来をともないます。イエスを信じる者は神の命、永遠の命、豊かな命を得るからです。それは、生ける希望へと新しく生まれることだとペトロの手紙 1:3-4でも記されています。

 ではどのように、新たに生まれるのでしょうか。それはイエスを信じることであるとヨハネ3:16に記されています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
イエス様が神の御子であり、神が御子を賜物(プレゼント)として世(つまり私たち)にお与えになったほどに世を愛されたことを信じることです。イエス・キリストを通して私たちにもたらされる救いは、神様から賜物である御子を受け取ると永遠の命を受け、その人の生き方は、イエス様において示された神の愛において新たに形作られて生きます。この「新たに」と訳される原語(ギリシャ語アノーテン)は、「上から」との意味があります。上とは神からの意味にとれます。ですから、神から生まれたものは、神の子供とされ、その人の生き方が神によって変えられていきます。それがイエス様の十字架を通して、上から(神から)生まれる、再生された生き方です。与えられている永遠の命は、信じた「今」から始まって継続しています。ヨハネの福音書における永遠の命は、将来死んでから初めて与えられる命のことではなく、「今」信じているものが持っている命です。

〇新しく生まれることは神のミステリー:不思議
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」8節 イエス様は霊を風に例え、どこから来てどこへ行くか見えないのでわからないと言われます。風と霊は(ギリシャ語で)同じ原語です。つまり霊から生まれることは、不思議な事柄で、律法に詳しいイスラエルの教師のニコデモも理解できないように、人間の理解を超える不思議という面があるとイエス様は言われます。聖霊は、風のように目に見えないけれども、聖霊の働きというのは使徒言行録に記されているように、使徒・信徒達の活動を通して聖霊が力強く働いているとわかるのと同じです。
創世記で最初の人間アダムが神様との約束を破った時から、「食べたらあなたは死ぬ」と言われたように、神様から離れ、罪が人に入って以来、人は肉体的な誕生をしても霊的には死んだ状態でした。神様は、再び人が死から命へ移されるように、神様はイエスキリストを通して救いの計画を立てて下さりました。

使徒言行録2章38-39節 に「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
イエス・キリストを信じれば、聖霊を与えられます。これが、霊によって新たに生まれる、上から生きるものとなることです。

〇竿の上の蛇
 次に14節のモーセが荒野で蛇を挙げたようにと言われたことは、民数記21:4-9の出来事です。これは、出エジプトしたイスラエルの人々は荒野で神様に逆らい、その罪のゆえに神様は毒蛇を民の間に送り、その蛇にかまれ、多くの人が死にました。その時、モーセが神様に執り成しの祈りをすると、神様は青銅で蛇を作り、それを竿に掲げて、人々がそれを仰ぎ見るようにと命じられました。見るだけで命を得ると。信じて青銅の蛇を見た者は死から救われました。青銅は裁きを意味します。「罪の報酬は死」とありますように、私たちは罪という蛇にかまれ霊的に死んだ状態でした。人の子が上げられるとは、神の子イエス様が青銅の蛇のように、十字架で上げられて、私たちの罪の代わりに裁かれたことを指し示します。それは私たちを罪と死から救う神様の計画であり、十字架の上のイエス様を仰ぎ見れば命を得ます。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」モーセの竿の上の蛇は、イスラエルの人々に物理的命をもたらしましたが、十字架のイエス・キリストを信じる者は誰でも、永遠の命を与えられます。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」ローマ人への手紙6章23節

 また、「人の子が上げられる」とは、イエス様が十字架にかかることだけを意味するのではなく、イエス様が復活後、天に上げられるその栄光の昇天のことをも意味します。ですから、ヨハネの福音書で記すイエス様の十字架は、その死と復活と、昇天までの一連の出来事を示し、苦難だけでなく、イエス様の栄光を表します。

 イエス様を信じる者は霊的に新たに生まれ、永遠の命を今、生き、そしてこの体が亡くなった後、新しい体へと復活すると将来のこともイエス様は約束されています(ヨハネ6:39-40)。私たちの希望は、永遠の命を生きている今から将来の終わりの日へと続いていることは、この世において大きな励ましと慰めではないでしょうか。

〇光 
 イエス様はご自身をヨハネ8:12で「わたしは世の光である。私に従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ」と言われたように、19節からイエス様は救いについて、救われる者のことを、光であるイエス様の方に来る者と説明されます。17-18節で「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 」イエス様がこの世の来られたのは人々を裁くためでなく、救う為であり、すでに、人は罪を犯して裁かれている状態だと言われます。罪に裁かれている者がイエス様を信じれば救われます。その救いと裁きについての説明で光と闇の話をされます。救いを受け取るには光であるイエス様の方へ行く必要があります。自分の罪がその光によって赦されていることを信じて光にでるので、もはや暗闇から光へ移され、暗闇で隠れる必要はないのです。なぜある人は暗闇が好きなのか?光に近づけば、自分の罪がさらされるからであり、イエス様による救いを受け入れず暗闇にとどまり、光にいこうとしません。それが裁かれたままである状態です。しかし、光であるイエス様に行く者は、21節「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」と記されます。私たちが光の中を歩み、神様とイエス様と交わりをもつゆえに、真理を行えるように変えられていきます。その行い自体が、神様に導かれてなされているからです。ヨハネの手紙一 1:7でも、光の中を歩むことを説明しています。
 「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを持ち、イエス・キリストの血は私たちのすべての罪をきよめます」。

 このように私たちは御子イエス様を信じるだけ、つまり神様の賜物(プレゼント)を受け取るだけで、新たに生まれることができ、聖霊が与えられ、罪が赦され、神様との交わりの中に歩むことができ、徐々に真理を行うものへと変えられていくとはなんと幸いなことでしょうか。すべては、神様の一方的な愛であり、恵みによります。

 イエス様の救いは今でもすべての人に提供されています。十字架で死なれ、復活され、天に挙げられたイエス様を救い主として信じるだけです。そして、信じた私たちは、今、永遠の命に生きています。新たに生まれた者としての生き方をどう生きるのでしょうか。それは日々、神の言葉である御言葉に養われ、私たちの内に住まわれる聖霊の導きを求めて生きる、そして神様とイエス様との交わりを持ち、光の中を歩むことだと本日の箇所からも学ばされます。まだイエス様を信じていない人が多く、私たちはなんとか人々がこの神様の救いを受け取れるようにと執り成しの祈りをしつつ、私たちが自分たちが個人的に救いを受けて変えられた生きる姿勢を通して証しをし、イエス様の愛を現わし、新たに生かされている喜びと平和を示す者へと変えられていきたいと共に励ましあっていきましょう。


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「神の言葉で生きる」礼拝メッセージ

2025-03-10 10:51:35 | 日記

2025年3月8日 益子教会土曜礼拝でのメッセージ   聖書箇所 マタイによる福音書4章1-11節    

 イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、悪魔の誘惑を受けるため、霊に導かれて荒野へ行き40日40夜、昼も夜も断食をされました。「霊に導かれて」とありますから、このことは神様の計画として、イエス様が受けられたことがわかります。つまり誘惑を受けられる理由は、私たちが肉の体を通して生きる上で経験する誘惑(試み)を、人となってこの世に来られた、神の子イエス様が理解するためでした。なぜなら、イエス様は、私たちを神様に執り成して下さる仲介者、偉大な大祭司だからです(ヘブル2:17-18)。神と人とを仲介できる存在は、両者の立場を理解できる神であり、人でもなければならないからです。

〇肉の欲求に霊的な力を用いさせようとする誘惑

 3節に、空腹のイエス様に、石をパンに変えろという誘惑ですが、試みる者はイエス様に「あなたの霊的な力を使って肉体的な必要を満たしなさい。あるいは、霊を肉体に仕えさせなさい。」と誘います。人は罪が入って以来、霊ではなく、肉の欲求が体と心を支配して生きる者となり、罪が拡大していき、現代にいたります。そして、肉は「今、すぐに欲求を満たしてほしい」と私たちの心に訴えます。イエス様は石をパンに変えることはできるでしょう。しかし、それをなさらなかったのは、私たちが肉の欲求に支配されるのではなく、神様に祈り、神様の方法で必要を満たされることを信じて委ねることを教えてくださっているからでしょう。イエス様は申命記8:3の「神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」と言われ、誘惑を退けました。

 この申命記の箇所の文脈は神様が、イスラエルの民の出エジプト後の荒野の40年の間というのは、彼らが神の民として神の言葉に従って歩むかどうか試す、信仰の訓練の時だと、主がモーセに言われた箇所からの引用です。神様が与えるマナは、安息日を除き毎日与えられ、その日に食べる分だけ集めるように神様は言われました。一週間、一年分ではないのです。私たちも、この世の歩みにおいて、日ごとに神の言葉によって霊的に養われ、御言葉に従って私たちが生きられるように訓練される時でもあります。先のことは神様に委ね、日々神様に信頼し、神の言葉(聖書の言葉の約束)を信じ、生活の中で自分の欲に従うよう試みを受けた時はいつも、御言葉による神様の愛、約束を思い出し、その誘惑を遠ざけていきたいと思います。

〇神を試みる誘惑

  次は、悪魔が御言葉を用いて誘惑します。「あなたが神の口から出るすべての言葉に従って生きるのであれば、その神の言葉にのとおりになるかそれを実証してみて下さい。宮の上から飛び降りて、詩編91:11-12にあるとおり御使いが助けるという徴を人々に見せて、自分が神の子であることを示しなさい。そうすれば、人々は神の子と信じるだろう。」と。奇跡を見せればイエスが神の子であることを証明できる、十字架に架かって死ぬ必要はないと、十字架への道を妨げようとします。この誘惑はイエス様に対する誘惑であり、救い主として十字架で命を捧げることを阻止し、他の簡単な、しかし効力のない救いの方法へと誘うものでもあります。

 宮から自ら飛び降りるという、わざと自分を危険や危うい状況に置いて、神が助けるかどうかと試すこと自体が間違っています。「あなたの神である主を試みてはならない」(申命記6:16)のです。この文脈は「あなたがたがマサ(試みという意味)にいたときしたように」とあり、このことは出エジプト記17章7節に示されている出来事です。「イスラエルの人々が果たして主は我々の間におられるのかどうかと言って、モーセと争い、主を試したからである」エジプトから神様により脱出させてもらったイスラエルの民は、神様の奇跡を何度も目で見、体験しても、神を信じなかったのです。「水がない、我々を殺すためにエジプトから導いたのか?」と不平を述べ、神がいるか試したのです。神への信仰があれば「水がないので与えて下さい」と祈ってお願いすれば、神様はもちろん必要を満たしてくださる方であるのに。

  イエス様は多くの病人を癒されました。その病人の誰もが、低い姿勢で癒して下さいとお願いに来ています。盲人たちが「ダビデの子、憐れんでください」とイエス様に癒しをお願いしたように、お願いする人々にはイエス様への信仰が働いています。この方なら神の力が働かれ、自分の病を、自分の苦しい状況から解放してくださると。そして、イエス様に近づいた人々は皆癒されたとあります。私たちは信仰による祈りを捧げることができます。

 フィリピの信徒への手紙4: 6-7に、「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」神様に不平を言って、疑うのではなく、信仰を持って、なんでも必要をお願いしていきたいと思います。そしてこの御言葉にあるように、私たちの心と思いがキリスト・イエスによって守られるという約束を思い出したいと思います。

〇神以外を拝む誘惑

  最後の誘惑で悪魔は御言葉をもはや使いません。「もしひれ伏して私を拝むなら、今この世の栄華を与えよう。」と。イエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」という御言葉(申命記6:13)で撃退しました。イエス様は律法のなかで一番大切な戒めはと尋ねられ、この申命記6章4-5節「イスラエルを聞け、我らの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」とお答えになりましたが、この後にこの申命記6章13節が記されています。つまり、全ての誘惑を退ける根幹の御言葉はこの「主なる神を礼拝し、仕えること」でありましょう。

 わたしたちは「私たちは偶像・他の神々なんて拝まないですよ」と思うかもしれませんが、過信は罠となり、その大丈夫だと自信を持つところを悪魔はついてきます。偶像とは、神様よりも大事な物、いつも頭の中で思い巡らし、心を締めているもの全てのことです。与えられた富や名誉、仕事の充実を、祝福として神様に感謝できます。それらがが悪いことではなく、それが偶像となって自分の思いを支配し、仕えてしまうことが問題です。実際、偶像を造り出しているのはわたしたち人間の罪であります。イエス様は、神と金に兼ね仕えることはできない。金持ちが神の国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るより難しいと言われるほど、この世の栄華の中にあって、神様と共に生きることは難しいことでしょう。

〇神は真実であることを信じる

 冒頭で、イエス様は十字架で私たちの罪の贖いとしてご自身を捧げられたたけでなく、私たちの弱さを理解し、神様に執り成して下さる偉大な大祭司、神と人との間に立つ、仲介者であり、両者を理解できる立場であることを述べました。イエス様は神でありながら、人となって私たちの弱さを理解して下さったのです。へブル人への手紙2章17-18節にこう示されています。

「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」

 試練と誘惑は同じ原語が使われます。例えば何か危機的なこと、試練が起こった時に、それが誘惑の機会として悪魔により用いられるからです。悪魔は私たちが霊ではなく、肉の思いで行動するように誘い、神様以外のものを頼れと、神様から私たちを離そうと誘惑します。一方で、その試練が神様の支配の中で起こっていることだと信じて神様にだけ助けを求め、導きを求めて祈っていくと、神様から離れるどころか、神様へより近づくことになります。その試練において私たちの信仰が試され、練られます。主の祈り「試みにあわせせず 悪より救い出したまえ」と日々祈ることができます。この祈りは、誘惑・試練の中にあって守ってくださいと求める祈りであり、誘惑・試練に打ち勝つことがでるよう神の助けを求める祈りであります。日々、試練・誘惑は私たちにやってくるものだからこそ、毎日祈る必要があると思います。

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」  コリント信徒への手紙1 10:13

この世に生きている限り誘惑に遭うことはあり、私たちは日常的に御霊に従うか、肉の思いに従うかが試されますが、上記のみことばの約束により、神様は真実であり試練に耐えられるよう逃れの道を備えてくださること、私たちの弱さを知る大祭司イエス様が助けて下さることを信じ、霊の導きで神の言葉で生きることを励まされます。イエス様は私たちの闘いをすでに戦って勝利してくださっています。そのことを信じ、神様にのみひれ伏し、ただ信じて その恵により頼み、今与え られているものを感謝して、神様に従っていきたいと願います。

                                             (引用 新共同訳聖書)


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旧約聖書の学び 創世記15章  信仰により義と認められる

2025-03-06 16:02:55 | 日記

〇3月6日(木) 創世記15章 (益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」の概要を掲載しています)

神様は当時75歳のアブラムに「あなたのうまれ故郷を出よ 父の家を離れて わたしが示す地へ行きなさい」「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。…」(創世記12:1-3)と言われ、具体的内容を言われていなくとも、その命令に従って、家族と一緒にカルデヤのウルという土地から旅立ち、カナンの地へ移住しました。その後、主はアブラムに「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう 」(創世記13:13-16)と言われました。15章ではその後、主なる神様は幻の中で、「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と言われました。そう語り掛けてくださった神様に、アブラムは思っていること:いっこうに子供が生まれない現実に対する思いを伝えることができました。すると神様はアブラムを夜、外に連れ出し「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」と。そして「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(6節)と著者は記しています。

この箇所は、新約聖書でパウロがローマの信徒への手紙とガラテヤ信徒への手紙で引用し、私たちも信仰によって義とされることを説明しています。信仰を持つのは私たち人間の側のことですが、そもそも信仰も、神様が恵により私たちに与えて下さる賜物です(エフェソ2:8)。私たちの方が信仰深かったから、神様が義と認めてくれたわけではありません。たとえ私たちが不信心な者でも、キリストのゆえに義と認めて下さると信じる信仰を神様は見て下さる(ローマ4:5)、なんという大きな恵みでしょうか。アブラムはその生涯において、信仰深いとはいえないような行動をとることもありましたし、この時も神様の約束を信じきれず、この先どうなるのかと、かなり不安になり落ち込んでいたかもしれません。ですから、神様が夜空の星を見せて、彼を励ましたからこそ、アブラムは心が引き上げられて、「よし、神様に信頼していこう!」と信仰へ導かれ、それを神様が義と認めてくださったと言えます。アブラムはこの時、天地を創造された神様の偉大さとその計り知れない力、また自分が小さい存在であることを、夜空を見て思わされたのではないでしょうか。神様には不可能はない、神様に全て委ねようと。

7節以下の記事も、神様が与えると約束される土地について、アブラムは神様に質問しますが、それに対して、主は契約をアブラムと結ばれます。契約には、双方に契約の履行義務がある種類がありますが、当時の古代オリエント社会で契約を結ぶときに、儀式がなされます。裂かれた動物の間を契約の双方ともが通るという儀式を行い、それはどちらかがその契約を破ったら、この裂かれた動物のようになることを約束するものです。しかし17節の煙を吐く炉と燃える松明だけが裂かれた動物の間を通ることは、これらが主の臨在を象徴し、契約を守り切れないのは人間の側であることを主なる神はご存じであるから、主だけが裂かれた動物の間を通り、契約違反の責任を取ることを示します。そして、主が御子イエス・キリストを十字架にかけて、私たちの契約違反の罪を彼の上に置かれ、罰せられることをここでもすでに指し示していると言えます。また主なる神様は、その約束の土地がいつ与えられるか(400年間子孫が奴隷となる期間の後)、どの場所か(18-21節)を、具体的に示されます。

本日の箇所より、主なる神様は私たちの盾となりいつも守って下さる方であり、アブラハムに示された恵みと救いを、今を生きる私たちへもイエス・キリストを通して与えて下さる、信仰さえも与えて下さる方であることを示され、感謝につきません。


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キリストが驚かれること

2025-03-02 09:22:56 | 日記

 身内の見方というのは、厳しくなりがちです。私の父は晩年牧師になる決意をしました。その頃の私は、牧師になる人の「自分の物差し」を持ち、父が牧師になると聞いた時は正直批判的でした。父が神様から召命を受けて自身を捧げていたこと、その献身に対し敬うべきだったと後に思いました。そして、神様の導きは不思議で、父の伝道の手伝いをしていたことが、自分自身が伝道者へと導かれるきっかけとなりました。私自身に関しても、不完全な欠けのある者で、伝道者としてふさわしくない者であり、「以前の私」もしくは「今の私」に躓く人がいるかもしれません。にもかかわらず、このような私であっても、伝道者になるようにとの神様の召命は変わりません。私は残る生涯、御言葉で人々に仕えるように呼ばれて、献身した者であるとして、神様が私の歩みを必ず成長へと導いて下さると信じます。

 聖書で、イエス様が人間のあることに驚かれると記されています。イエス様は故郷のナザレに行かれ宣教された時に、人々がイエス様につまずいたと記されています。そしてイエス様は「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」と言われ、「そして、人々の不信仰に驚かれた。」*1と。つまり、同郷の人々が、以前イエス様が普通に暮らしていたことを知っていたがゆえに、「ただの人ではないか」とみなし、神の子の力と権威を信じなかったのです。そのため、いつもイエス様が行われていた癒しの奇跡が、この郷里ではほとんど出来なかったとあります。他の町で人々は、イエス様に奇跡をおこす力があると信じてお願いし、皆癒されたと記されています。

 このように、イエス様のなさる奇跡と人々の信仰は関係があるようです。また、イエス様は「信仰が立派だ」と驚かれた場合もあります。異邦人(ユダヤ人以外の人)でローマ軍の百人隊長やカナン人の女性の信仰に対して彼らの信仰に驚かれました*2。一方、人々の信仰の有無に関わらず、イエス様の側で憐れみ、可哀そうに思って人々の病を癒されたり、パンを増やす奇跡をなさいます。私たちの態度がどうであれ、神様はご計画に基づき御業をなされますが、その過程に私たちの信仰を参与させる機会を与え、信仰を持って祈り行動するように招いてくださることは感謝です。

 私たちは、生活の中で、自身が願うことが神様のみ心にかなうかどうかもわからない時があります。祈ったことを忘れる場合もあります。しかし、私たちの信仰が薄く、御心がどうか不確かなまま祈ったとしても、内に住む聖霊が私たちの思いを超えて、神様に祈りをとりなして下さっているとの約束により*3、全て委ねることができるのは感謝です。下記のみことばの通り、信仰は目に見える、現実的に考えることを基にそうなると信じるのではなく、まだ見えていないこと、非現実的なことを「神様のみ心であればそうなる」と確信を持って、待ち望むことだからです。神様のすでになされた恵みの御業、イエス様の十字架の救いに感謝しつつ、これからも、神様への信頼を全て委ね、様々なことを互いに祈り合い、励まし合いたいと願います。

 

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」  へブル人への手紙11章1節

 

*1 マルコによる福音書 6章4-6節

*2 ルカによる福音書7章9節、マタイによる福音書15章28節

*3 ローマの信徒への手紙8章26節 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」 (引用 新共同訳聖書)


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救命のシンボル 竿の蛇

2025-03-01 13:51:28 | 日記

 私は病院に勤務していた時、患者さんを搬送する救急隊の方と電話もしくは直接話す機会がよくありました。彼らは受け入れ可能な病院を一刻も早く探さなければならず、特にコロナ時はどこも満床で、本当に苦労されている様子を目の当たりにしたものです。欧米、日本で救急車など医療関係のロゴが、棒に蛇が絡まっている絵であるのに気が付かれたことはあるでしょうか。

 聖書にこのロゴの由来の話が記されています。古代イスラエル人が、エジプトの国に寄留していた時、奴隷にされ虐待されて苦しんでいたところ、神様が人々をエジプトから脱出させ、モーセというリーダをたててパレスチナの土地へ移住するように導かれます。旅の途中、人々は荒野で水がない、食べ物がないと何度もモーセに文句を言い、ある時はモーセを殺そうとしたこともありました。その度にモーセは神様にお願いし、そして水や食べる者が与えられ、40年間の荒野での生活が神様によって養われました。ある時、不平を言い続ける民に神様は毒蛇を送られ、かまれた人々が死にました。そこでモーセは民の為に執り成して祈ると、神様は「青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げなさい。蛇にかまれた者が、青銅の蛇を見るだけで命を得る」と言われました。すると、かかげられた青銅の蛇を見た人は蛇にかまれても死にませんでした。このストーリーや他の伝承も合わさり、竿にからまる蛇のイメージが、救命のシンボルとなったようです。

 また、このストーリーは神様が全ての人々の救命のために、神の子であるイエス・キリストをこの世に送られたことを前もって現わす出来事であります。竿に上げられた蛇を見るだけで命が助かるように、十字架に架けられた(上げられた)イエス様を見上げ、自分の罪が赦されるために代わりに罰せられたことであると信じるだけで、永遠の命を得るからです。見ただけで、信じるだけで救われるなんて、と疑う人がいるかもしれません。しかし、神様が人間を救う為に計画されたことは、キリストが自分の救い主であることを信じるだけです。聖書での永遠の命とは、この体で永遠に生きるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じた時から霊的に新しく生まれ、神の子供としての新しい生き方が今、始まり永遠に続くことを意味します。同時に、将来この物理的な体が寿命で死んでも、魂は残り、新しい体へと、永遠に天で生きられる朽ちることのない体へ復活すると、イエス様は約束されました。

キリストを信じる者は、「今」、この世においてこの体で生きつつ、霊的には新しいものと変えられています。どのように新しいかというと、もはや今までの自分中心の生き方から、神様を信じて従い、キリストのような愛の性質へ、生き方へと変えられていく人生となることです。自分で努力して高尚な人格に変わろうとするのではなく、神の霊(聖霊)が信じる人の内に住んで導いて下さり、神様とイエス様と私たちを繋げてくださるので、もはや一人で頑張らなくてもよいのです。人にはできなくとも、神様の力でできます*。結果的に、信じる前と生き方や姿勢が変えられることになります。神様、イエス様、聖霊は目に見えませんが、目に見える信じる者同士(教会)を通して、御言葉(聖書の言葉)と祈りを通して、互いに励まし合い、慰めあい、時には誤りを指摘し合うことができます。このようなキリストを信じることによる神様と私たちとの交わりが、様々な試練があっても「今」を生きる者へ与えられるのは幸いです。そして、キリストの生き方、互いに愛し合う生き方へと導かれていきたいと願います。

 

「『そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである』。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 」ヨハネによる福音書3章14-16節

 

*'イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。 ' マルコによる福音書 10章27節


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