聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

憐れみ:断腸の思い

2024-07-28 09:33:45 | 日記

 先日、施設に入所している方の面会にご家族と一緒に伺いました。その方は、病が進行し自宅での介護が困難となって最近施設に入所されました。今までは食事を摂れていたのですが、ここ数日食べなくなり始めたそうです。こちらから話かけると、目を動かされて反応しているので、耳は聞こえていて、話したくても話せない状態でお辛いだろうと察します。元気だった時のことを思いだすと悲しい思いになります。皆で讃美歌を歌って、お祈りを共にしました。私にはこの方のために何もできませんでしたが、主イエス様が共にいて下さるようにと祈りました。

「憐れみ」と一般的に言うと、どうも上から目線で「可哀そうだな」というイメージを持つ人がいるかもしれません。一方「断腸の思い」というのがありますが、これは中国の故事、はらわたが裂けるほど母猿が子猿のことを思って苦しんだのが由来とのことです。聖書(新約聖書)での「憐れみ」、「慈愛」を表す単語(原語はギリシャ語)も同じで、「腸が裂けるような苦しみ」という意味が転じて憐みという意味になったそうです。また旧約聖書の原語ヘブル語で「憐れむ」は「子宮」という単語からきており、つまり出産の際の母体の子供に対する感情、慈しみの心という意味が「憐れむ」となる、そして神様が人間を憐れむときの表現に使われている単語だそうです。

 聖書に記録されているイエス様は、当時の政治的に虐げられ貧しかった民衆、治らない病を持つ人々、悪霊に取りつかれて苦しむ人々、「罪びと」と言われ社会から疎外され、同胞から差別されていた人々と積極的に関わり、「神の国」を宣べ伝え、彼らと食事を共にし、病を癒されました。イエス様の行動の動機は下記の箇所のように「深く憐れんで」と記されています。イエス様の憐みは単に可哀そうと思うだけでなく、その方々に寄り添い、共に苦しみ、そして助けるという慈愛の思いと行動を伴うものでした。その究極が、私たちが救われるために、ご自分の命を十字架で代わりに差し出したことに表されています。

私も以前、信仰から離れていて、辛く、惨めだった時、神様はかわいそうに思って、憐れんで下さり、はらわたが裂ける程の痛みをもって、共に苦しんで下さったからこそ、イエス・キリストによって私を救い出してくださったことを、深い感謝を持って思い起こします。私は神様の恵みを自分が受けるばかりで、表面的にしか他者を思いやっていなかった愛のなさを示され、悔い改めます。病にある人を思いやるだけでなく、差別で苦しむ人、「人と違う」「弱い」からなどでいじめられ、虐げられて辛い思いをしている方々のことをもっと気にかけ、共に痛みを苦しもうとするイエス様の心を少しでも持てたらと願います。

 

「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」 マルコによる福音書1章40-42節

(引用 新共同訳聖書)


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「武器で戦うというメンタリ... | トップ | 礼拝メッセージ 「キリスト... »

日記」カテゴリの最新記事