聖書箇所 マルコによる福音書6章45-52節
〇主イエス様の力の源は父なる神へ祈ること
本日のイエス様が湖上を歩く出来事は、直前に、イエス様が飼い主のない羊のような群衆を深く憐れみ、教えられた後、その群衆にパンを増やして5000人に与えられるという奇跡をおこなわれたあとのことです。イエス様は一日中休む暇なく、群衆に仕え、非常に疲れておられたはずです。このような時にこそイエス様は一人になり、山で祈られていました。父なる神様と過ごすのです。主イエス様の力の源は父なる神へ祈ることであり、神様との交わりを通して得られる力です。
私たちも疲れた日、十分な休息やリフレッシュが必要です。それらは私たちの体と心に必要ですし、休みなく、プレッシャーの重くのしかかりながら働き続けると体も心も病気になります。神の御子であるイエス様が、神様との独りの時間を取られていたならなおさら、私たちキリスト者は特に、一人になって神様と向き合うこと、み言葉を読み、祈りと黙想の時間をとる必要があります。そんな時間はなかなか取れないと思うかもしれません。私たちは、忙しすぎる生活スタイル、経済の構造に組み込まれてしまっています。しかし、その中で何を最優先にするかは私たちに任されていますから、主との時間をつくることをお勧めします。
現代の人々は忙しすぎます。SNSで繋がろうとするのは、心の寂しさを埋めるため、SNS上でも人とのつながりを求めます。人々はますます孤独になり、何をしても心が満たされないのに、この世の一時的な興味楽しみで満たそうと探し求め、その虚しさに気がついている人がどれだけいるでしょうか。神様は、人を愛するために創られました。ですからその人の創造の目的を無視し、心の空しさを神様以外のもので埋めようとしても、満たされることはありません。人は神様との交わりにおいて、喜び、安らぎ、満たされるように造られているからです。ですから、神様と主イエス様との交わりのうちにあることは幸いです。祈りを通して、その交わりに入れて頂けるからです。祈りは聖霊がとりなしてくださいます。父なる神、子なるキリスト、そして聖霊が私たちの霊の部分、心の深い部分に触れてくださり、交わりを与えてくださることは幸いです。私たちがこの世の流れに流されて、影響されることから守られ、キリストを信じる信仰に立ち続けられるように、助けられるからです。またこの交わりは、キリストを信じる者同士の交わりへと広げられます。それが教会という集合体であり、私たちは信仰を自分だけで保てるほど強くありません。イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝である」とつながっているようにとい言われたよう、わたしたちはこの神様の愛の交わりにいつも、繋がっている必要があります。またそれを助けてくれるのが、一人一人に与えられている助け主、弁護者である聖霊です。
〇弟子たちを強いて船に乗せて向こう岸へ行かせた。
なぜイエス様は強いて船に弟子たちを乗せて私たちも気が付かないだけで、実は神様の奇跡は毎日私たちの日常に起きています。聖霊の導きによりその奇跡をとらえ、神様に感謝したいとで願います。また自分の心が頑なであることに気が付いて、主が全てをコントロールしておられると委ねようと、水の上のような、無理である状況においても信頼する一歩を踏み出していきたいと思います。最後にイエス様の約束の御言葉を読みます。送りだしたのでしょうか。おそらく、5000人のパンの奇跡で興奮している群衆との接触を弟子たちにさせたくなかったかもしれない。ヨハネによる福音書の並行記事では、このパンの奇跡の後、群衆がイエス様を王に祭り上げようとしていたので、一人で山に退かれたと記されています(ヨハネ6章15節)。群衆は、イエス様を単なる奇跡をもってパンを与え、病を癒してくれる人、ローマの圧政から救い出してくるメシアだと、彼らの熱狂的な動機で、イエスを王にしようとしました。それは神様の十字架の贖いの計画とは全く異なるものでした。この騒動に弟子たちを巻き込みたくなかったのでしょう。
弟子たち中の数人は漁師です。ですから彼らは仕事柄、どんな状況だと風が山から吹きおろし、風向きにより船を漕いでも意味がないこと、ガリラヤ湖の状況を良く知っている人たちです。今回イエス様は、夕方、弟子たちを強いて船に乗せて向こう岸へ行かせました。「強いて」とあるのは、もしかしたら弟子たちは舟を漕ぎだしたくなかった理由があったかもしれません。もしくは弟子たちは、イエス様と離れたくなかったから躊躇し、イエス様が強いたのかもしれません。イエス様が弟子たちが漕いでいるのを山の上から見た時間、湖上を歩かれた時間が夜中の3時過ぎだとすると、彼らは夕方から約8時間以上も逆風の中漕いでいたことになります。逆風の時は、舟を出さないか、途中から逆風がきたら舟を風に任せてどこかの岸につかせるのが賢明であることを、弟子たちは知っていたはずです。しかし、イエス様の「向こう岸に生きなさい」という命令に従って、漕ぎ続けていた。どんなに疲れてしまったことでしょう。
このように、イエス様に従って一歩踏み出すと、逆風が吹くことがあります。逆風とは私たちの生活の中での、予期せずしておきる、困難、試練、辛いことに例えられます。イエス様に従わない人々にも同様に試練困難は起こりますが、違いは、私たちがイエス様に祈り、その方向性で行きなさいと言われたことに従ったうえで起こる困難や試練には意味が与えられます。しかしその時主イエス様が「安心しなさい。わたしだ。」と、つまり「私があなたと共にいる」と励まし、必要な助けを与えて下さると私たちは信じます。イエス様は、逆風の中苦しんでいる私たちをほおっておかれません。かわいそうに思って、助けに来てくださいます。「恐れることはない」と言ってくださいます。私たちは、すぐに恐れてしまいがちです。信仰が薄い、弱い状態で、目の前の見える状況に驚き、神様が共にいて「安心しなさい」とささやいてくださっていることを聞き逃してしまうのです。マタイの並行記事では、弟子のペトロも水の上を歩こうとして、数歩後、波をみて恐れ沈んで助けられたことが記されています。私たちは、信仰を持っていても恐れて沈んでしまうことは多々ありますが、そこで主イエスが引き上げて助けてくださるということを思い出し、安心することができます。
時には嵐がおこり、神様、どうしてこんなことが起こることを許されるのか?という神様への訴え、時には怒りにちかい感情もでてきます。 先日、ある一冊の旧約聖書の中のヨナ書に関する本を読みました 。ヨナは預言者でしたが、神様の命令に逆らって船に乗り、嵐の海の中に投げ込まれます。しかし、彼は大魚の腹の中にて救われ、吐き出されて、神様の指示通りアッシリア帝国のニネベの町で「40日したらこの町は亡ぶ」と叫ぶと、人々が悔い改めました。すると神様はニネベの人々を滅ぼされることをやめるという憐れみ深い救いの業に対して、ヨナは怒ります。その本の著者の考察は、私たちも神様に向かって怒りをぶつけてよい時があると、それは、神様は全てをご存じであるという信頼の上の怒りという内容です。神の子であるイエス様ご自身も「エロイ エロイ レマ サバクタニ(わが神わが神どうしてわたしを見捨てるのですか?)」と、神様の御心、計画を知っていても、イエス様はその苦しみを神様に十字架上で叫ばれました。イエス様は罪を犯したことはないけれど、私たちと同じ人間の体を持たれ、同じ状況で苦しまれ、痛み付けられ、死への恐れを感じられたのです。神様がイエス様を見捨てられたから私たちが見捨てられずに、命を与えられて生かされています。私たちは、イエス様と違って、全人類の罪を背負って死ぬことを求められていません。しかし、おのおの生きていて、辛いこと、試練はあります。ましてや、交通事故等で、自分のせいで人が亡くなってしまったという負い目は一生ついてまわります。それらをイエス様が共に負ってくれるということを信仰で受け止めることができれば、前に進めるでしょう。人にも言えない恥ずかしいこと、苦しみを抱えながらも、ありのままの自分を神様にだけはだせる、そしてともにその辛さに共感して歩んでくださることはなんと大きな励まし、慰め、神様の愛の深さでしょうか。
〇私たちの心のかたくなさと主イエスの励まし
弟子たちは、イエス様と共にいて、目の当たりにしてきたパンの奇跡やその他の多くの癒しにも関わらず、未だにイエス様が誰だか理解できていないという心の鈍さを持ちます(52節)。以前に嵐がガリラヤ湖であったとき、舟の中にイエス様がともにいて嵐を静めたことを経験し、イエスから特別の教育を受け、奇跡をたくさん見てきても、弟子たちはイエスが誰だか理解できないため、「人が湖上を歩くはずがない、幽霊だ」と湖の上を歩かれるイエス様を見て驚愕し、恐れたのです。弟子たちは「心が頑なになっている」(口語訳)ので、イエス様が自然界を支配しておれる神であることをわからないのです。そのような心のかたくなさを、私たちも持つことがあるでしょう。
それにもかからず、イエス様は彼に従う者を見捨てられません。私たちの信仰が薄くとも、私たちの人生において共にいて、苦難を通過するのを助けてくださる方。「安心しなさい、わたしだ」は口語訳で「しっかりするのだ、わたしである。」と訳されます。「わたしだ」は、「わたしはある」という神様の名前であります(出エジプト記3章14節)。つまり、神である私があなたと共にいるのだから、安心しなさいと私たちにも言ってくださるので、私たちは、主イエス様によって与えられる平安に焦点を当て続けること、そして自分の心が主にあって平安であることを再発見していきたいと願います。
私たちも気が付かないだけで、実は神様の奇跡は毎日私たちの日常に起きています。聖霊の導きによりその奇跡をとらえ、神様に感謝したいとで願います。また自分の心が頑なであることに気が付いて、主が全てをコントロールしておられると委ねようと、水の上のような、無理である状況においても信頼する一歩を踏み出していきたいと思います。最後にイエス様の約束の御言葉を読みます。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネ16:33 (引用 新共同訳聖書)