聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

旧約聖書の学び メルキゼデクの祝福 創世記14章より 

2025-02-20 12:32:04 | 日記

〇2月20日(木) 創世記3章 (益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」の概要を掲載しています)

 この章では、古代パレスチナ地方の王たちが連合軍を組み闘ったことが記されています。そこへ寄留者のアブラハムが巻き込まれた理由は、ソドムへ移住したロトの救出でした。ソドムの町の住民が連れ去られてしまったことを聞いて、アブラハムはロトとその家族を助けるために戦うことを決めました。彼と同盟関係にあった人々も含めて(13節)手勢は少数380人であったのにかかわらず、主なる神様が戦ってくださったので、奇襲作戦で敵をダマスコの北まで追いやり、奪われた財産と人々を全て取り戻すことができました。

 王たちとの闘いから帰ってきたアブラハムを迎えたのはソドムの王と、パンとぶどう酒を持って来たサレムの王メルキゼデクです。メルキゼデクは聖書で祭司として最初に言及された人物であり、アブラハムはメルキゼデクの優位性を認識し、彼に十分の一を捧げ、彼から祝福を受けました。メルキゼデクについては、旧約聖書では18節「いと高き神の祭司 サレムの王」と記されるこの箇所と、神様が将来の救世主の統治について語っている詩編110:4だけです。新約聖書では、へブライ人への手紙5-7章に記され、イエス・キリストがメルキゼデクと同じような、私たちの偉大な永遠の大祭司であることを説明するか所に記されています。彼は平和の王、義の祭司、つまり王であり祭司である、生まれも系図も何も示されず突然、アブラハムの前に「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。」と言って登場したゆえに、キリストの予表と解釈されます。ちなみにサレムはエルサレムの短縮形として知られています(詩編76:3) 

 アブラハムに助けてもらったソドムの王はアブラハムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言いましたが、彼はここで、メルキゼデクが示した神の称号を取り上げて、自分が助けた王たちから戦利品を一切取らないという誓いを神の前で立てました(23節)。おそらく彼は、エジプトから受け取った多くの富がロトと自分との間に多くの問題だけをもたらしたことを学んだからでしょう。ただし、アブラハムと共に戦った人々(同盟を組んでいた人々)に対しては分け前を与えるように配慮しています。このことから学べる重要な教訓は、神がなさったことに対する栄光を神だけが受けられるような方法をとりたいと、つまり自分や人の功績を誇る、褒めるのではなく、すべて神様がなさってくださったので、神様がすばらしいという態度でいたいと思います。


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反戦と人のハート(心)

2025-02-16 14:21:03 | 日記

 先日、退役イスラエル兵の在日イスラエル人ダニー・ネフセタイさんの講演会「なぜ戦争をしてはいけないの?」を聞きに行きました。彼は、全国各地でこのような講演活動を流暢な日本語でなされていて、イスラエル国の現状、そして現代日本で横行している戦争・軍備拡大の支持へのプロパガンダを知ることができ、戦争はなんとしてもしてはいけないと強く想わされる機会となりました。今、パレスチナでの紛争が続く中、彼が在日イスラエル人だからこそ、イスラエルを外から客観的に見、批判できる立場、そして日本を第三者的に見ることが出来、彼の発言は力強さを放っていると思いました。彼の結論は、平和を求める私たちのハート(心)が大切とのことでした。彼の講演の最後に平和の歌が流れました。その歌詞には、「祈りのことばをささやくな、むしろ平和の歌を歌え」(「シール・ラシャローム」より)とあり、神に祈るより、自身が立ち上がり、平和を求めるハート(心)を皆に持ってほしいとの思いが、歌に反映されているようでした。

 ダニーさんが言うように、武力では平和はもたらされません。しかし、人間は皆が同じハートを持っていないのが残念なところです。皆が同じ基準で善悪や正義の概念を持っていない為、一致できないという現実があります。もちろん多くの人は平和を求めています。しかし、多くの人は自分が正しいと思って、夫婦喧嘩をし、肉親で争い、友達同士で喧嘩することもあるでしょう。みな同じハートを持ってそれらの争いが全て和解されればよいのですが、決裂し、離婚、裁判、絶交ということの方が多いのではないでしょうか。私たちはどうしたら互いの違いを尊重しつつ、平和的に一致できるでしょうか。

 なぜ人は平和を望みつつ、争うのでしょうか。聖書の創世記の人の創造を読むと、人は神様と交わり(つながり、人格的関係をもつこと)を持つために創造され、神の似姿に造られ「極めて良い」ものとして最初は造られました。しかし、人は自分で善悪を決めたいと、神様から離れた生き方を選び、神様との関係が断絶し霊的な交わりが失われています。自分を創造した神の存在を否定する(これを聖書では罪といいます)ようになると、それが人間関係にも影響します。最初の人は神から離れるとまず、パートナー(女)に責任転嫁をし、最初の彼らの子供たちの間では、兄が弟を殺しました。嫉妬したからです。つまり人同士の信頼関係も損なわれてしまうのです。それ以来今に至るまで、善い心をもちながらも、自分の望むことを他者に配慮せず追求するようになり、自分の利益や思いが優先し他者と争う、それが家族・民族・国家同士の戦争となっています。人のハートは完全でないことがわかります。

 私は壊れたハートは、神様によって、つまり神様が救い主として、神様と私たちの関係を修復し(私たちの神を信じないという罪を赦し)、和解させてくださるイエス・キリストの十字架によってのみ修復される、平和を真に求められるハートに変えられると信じます。神様の創造は、イエス・キリストを信じる信仰が与えられ、その人がキリストのような神の似姿*1に(つまキリストのような平和と慈愛の性質に)変えられて、完成されることを将来に見据えておられるからです。

 私は「祈りのことばをささやき続けたい」と思います。「平和の歌」を叫んでデモ隊を組み、警察と衝突となったら、結局戦いと同じです。祈りなんて、意味がないという方がいるかもしれません。しかし私たちキリスト者が祈るのは、私たちの祈りを聞いている神様に力があることを信じるからです。私たちの信仰は、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」*と聖書に記されているとおり、信仰による祈りとは、わたしたちが神様に祈って望んでいること、つまり未だかなえられていない、目に見えていない事が、神様によっていつかかなえられ、事実になることを確認して祈っているからです。人が各々自分の願いを祈るのではなく、人が平和の神の御心(思い)を祈るから聞かれると信じます。神の思いは片寄りがなく、愛と平和と憐みがベースであり、キリスト者はそれを聖霊によって何が神の思いかを教えられます。まずはすべての人々が神様の愛をキリストを通して受け取り、キリストにある平和を共に祈り求める人が増えることを、祈っていきたいと思います。

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」  エフェソの信徒への手紙 2章14-16節

*1 コリント信徒への手紙2 4章4節

*2 ヘブル人への手紙 11章1節

 

 


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「空しさを満たす神の愛」日曜礼拝メッセージ

2025-02-16 09:48:21 | 日記

「空しさを満たす神の愛」     コヘレトの言葉 7章15-22節

 本日は コヘレトの言葉からメッセージを分かち合います。この書の著者はその中で「空しい」という言葉を39回も使用し、「太陽の下」には不条理なことが多く、人間の生は空しいという思想によってまとめられています。そして著者の結論としては、神を畏れ、戒めを守ることだ(コヘレト12章13-14節)と記しているようです。しかし、人間は神の戒めを全て守れるでしょうか?守れない人は空しいままなのでしょうか?
 
  なぜ空しいと感じるのか。その理由は創世記の人の創造を読むと、人は神にかたどって創造された(1:27)と記されていることからわかります。人間と他の生物の違いは、人間は神のかたちに似せて造られ、創世記2章7節で神の息(霊)が吹き込まれて人は生きる者となったと記されています。神は霊ですので、人間も霊を与えられることで、霊の部分で神様と交わりができます。つまり人は神様と交わりを持つために創造されましたが、罪により神様から離れた生き方をし、神様との関係が断絶しています。人がこの創造の目的(神との交わり)以外のことで、幸せや満足感、喜びを求めても空しいと感じてしまいます。ですから、コヘレトの著者は、知恵も財産も名誉も快楽も太陽の下では空しいと「なんという空しさ、すべては空しい」(1:1)、「短く空しい人生の日々を、 影のように過ごす人間にとって幸福とは何かを誰が知ろう」(6:12)と記します。神様は人間を愛するために創られ、最初に神によって「良い」ものとして創られましたが、神から離れ、自分の望むことを、他者に配慮せず追求するようになりました。自分を創造した神の存在を否定するようになると、人間同士の関係、自然との関係も壊れていきます。それが今に至り戦争を繰り返し、自然破壊を続け、自然災害につながります。15節のように不条理なことが世の中にはコヘレトにいわれなくとも、たくさんあります。
 
  コヘレトの著者は、7章15節で人生の不条理を語ります。若くして死ぬ正しい人と、長生きする悪人。私たちは、正しい人生を送れば、年老いて繁栄し、幸せに生きるべきだ、悪の人生を送る人は、早く死ぬことを期待し、自業自得と思ってしまいがちです。しかし、実際義人が早く死に、悪人が長生きすることもあります。人は正しい行いによって、善い報いを受けるとは限らないのです。アフガニスタンの人々の生活と平和に長年仕えた、医師の中村哲さんのような方が殺されてしまいます。戦争を続ける国の指導者は長生きし、独裁政治は続きます。武器商人は儲かるばかりです。しかし、人が人である限り、必ず終わりが来て、死に至るか、失脚されられる時が来るのは歴史が示すところです。エルサレムの王であり、富と知恵と権力を与えられ、人の人生をすべて見極めたというコヘレトの言葉は、箴言のような知恵を教える知恵文学に分類されます。しかしながら、彼の言葉はイエス様の教えという光でみますと、必ずしも正しいとは限りません。コヘレトがソロモン王だったとしたら、彼は700人の妻と300人の側女を持ち、彼女たちの異教の神を拝むようになり、晩年神様から離れてしまったからです。1000人の女性を妻に持つことは知恵がある人のすることではないし、狂気の沙汰であります。7章28節に「千人に一人として、善い女は見いだせなかった」と記しているのも、自身の愚かさの表れです。
    
   本日の箇所で知恵として適応できることもあります。例えば、私たちの日常生活で様々なこと、他者から感謝されるどころか非難されたり、報われないと感じることを言われたりすることがあると思います。そんな時21節「人の言うことをいちいち気にするな」というコヘレトの知恵の言葉を、思い出すと良いかもしれません。人の言うことに振り回されるのではなく、御言葉を通して神様はなんと言われているかを軸にして、他者の話しに耳を傾け、伝えるべきことを心の中で確認し、口にだしていくのが賢い対応ではないでしょうか。また22節のように、私たち自身も他人に対して、呪うことはしなくとも、悪気がなくいった言葉、態度を相手が悪くとってしまうことも多々あります。気が付いて謝る機会があれば、もちろん謝って和解させて頂きたいのですが、そうできない場合は、相手のことは神様に委ねるというのも知恵かもしれません。
 
   コヘレトの結論として、「神を恐れ、戒めを守る」ことと最後に記しています(12章13節)。しかしながら、わたしたち人間は、そうしたいと思っても、神様の戒めを守り切れない存在であることを、みとめざるを得ません。神を恐れ、神の戒めを全て守れたら、神の前に義とされるかもしれませんが、コヘレトの著者が観察して得た結論は、罪を犯さない人、つまり神の戒めを守り、悪をなさない人はこの地上にいないことです(20節)。もし、神の戒めを自分は守っている、だから、自分は神より正しいとされると考えるのは、律法学者、ファリサイ人たちの教えであり、律法主義となります。実際彼らは、戒めを完璧に守れていないのに、人には守るように教え、守れない人を裁いていたので、イエス様が手厳しく「偽善者」と彼らに言われたように、表面上戒めを守っていても、心の内側が守れていなければ偽善となります。
 
     このことは、私たち全てのものが、例外なく、救い主イエス・キリストを必要とすることに導かれます。神様はそんなわたしたちを救おうと、御子イエス・キリストをこの世に送って下さいました。使徒パウロも「正しい者はいない、一人もいない」とし、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる(ローマ3:10、24)と示しています。イエス・キリストを通して罪の赦しを受けることによってのみ、神様の恵みにより、無償で、行い(律法を守る)なしに義とされるという福音が私たちに示されていることは、幸いです。
 
     義とされるとは、神様との関係が正しくされるという意味です。罪の影響は常に神からの疎外です。罪はわたしたちを神から引き離します。こうして罪のゆえに、神様との関係が破綻してしまっている状態では、神様と交わりをもつことはできません。神様との関係を正しいものとしてくれるのが、イエス・キリストの十字架と復活の贖いです。そのキリストを通しての救いを信じれば、私たちは神様との関係が修復され、キリストのゆえに義と認められ、私たちは神様と御子との交わりの中で生かされるようになれると、ヨハネの手紙Ⅰ 1章4節にて「私たちがこれらのことをあなた方に書き送るのは、あなた方の喜びが満ちあふれるためです」と記されているように、私たちは神様との交わりにいるとき、喜びが満たされます。なぜなら、自分の存在の目的、愛されるために創られたという、神様との愛の関係、神様との親しい交わりにあり、さらにその神様と御子イエス様と聖霊との交わりの中で信じる者同士が共に生きることで、この世の空しいと思わざるを得ないあらゆる状況においても、神様の愛が私たちを満たしてくださるからです。
 
      具体的にこの不条理な世にあって、キリスト者と生きていく上で、私たちはどのような姿勢が問われるでしょうか?それは神様に自分自身を捧げることと、パウロはローマの信徒への手紙12章1-2節で勧めています。
 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
     
     神様は私たちの心を新たにして下さることができますし、変えることができますが、強制的になさらない方です。だから、私たちが自発的に、自分から「心を新たにして自分をかえてください」と求めれば、そうしてくださる方です。このようにして、自分を神様に差し出すことであり、毎週、日々、神様への礼拝として自身を捧げていきたいと願います。私たちの知識や思いでは、何が神の御心であるか、何が良いことで神に喜ばれるか、完全なことであるかはわからないものです。もし、私たちが神様に委ねず、自分の思いに固執して、自分で考え、自分で判断しようと先を急ぐと、なかなか心の平安を得るのは難しく、忙しく日々追われて過ごしがちです。聖霊によって神様が私たちに、どのことをすれば、もしくはしなければこの世に倣わないか、神様の思いは何かを教えていただけるのが幸いです。聖霊が神と御子と私たちの交わりをつなげてくださるからです。
   
       神様が私たちを愛していて、私たちにとって何が最善かを知っていると信じて委ねていきたいと思います。日々神の言葉である御言葉を読んで、空しい思いや、失望することから心を引き上げられて、忍耐し、前に進むことができると、互いに祈り合い、励ましあいましょう。私たちは信仰を独りで持ち続けられるほど強くありません。弱い者であることを知って、主にある兄弟姉妹と共に交わりを持つことは教会生活において大切です。イエス様の復活、昇天後の最初の教会の人々が守ってきたことは、皆で集まって「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。」と使徒言行録2章42節に記されていて、いつも私たちは、教会が戻るべき原点として、忘れないでいたいと思います。今週も、心の深いところで状況に左右されない、喜びに満たされ、平安を持つことができるように、御言葉を味わい、神様との時間を作り、祈っていきましょう。   (引用 新共同訳聖書)


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旧約聖書の学び「どこにいるのか」神の人への呼びかけ 創世記3章より

2025-02-13 14:48:05 | 日記

 〇2月13日(木) 創世記3章 (益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」の概要を掲載しています)

 この章では、エデンの園にいたアダムと女が、神様とのたった一つの約束(「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」17節)を破ることにより、創造主である神から離れ、神との関係が断絶してしまったという悲しいストーリーが記されています。女を誘惑した蛇とは誰か。「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。」と文字通り生き物なのか。それとも、黙示録20章1-2節「ひとりの御使…は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへび」と記される元御使い(天使)で神様に反逆した悪魔のことなのでしょうか。聖書の中で悪魔は時折登場しますが、悪魔は人間を神様から遠ざけ、糾弾し、嘘をつき、誘惑し、最終的には滅ぼそうとする存在です。無垢な女に、蛇は巧妙に偽情報を与え、自らの意思で神との約束を破るようそそのかし、女は魅力的な善悪の木の実を食べ、アダムも妻から与えられ、何の反論もなく食べた。蛇が誰であれ、蛇が誘惑したとしても、やはり、人がその情報により自分で判断し、神のようになりたいという欲望に抗うことができなかったことは確かであります。人の罪とは、神から離れ、神を否定する(信じない)ことです。その結果、体はすぐさま死にませんでしたが、神様と何の妨げもなく交流できていた霊的な状態が死んでしまいました。神様との関係の破綻は即座に人間同士の関係に影響し、二人は互いが裸であることを恥と思うようになり、また責任転嫁(神様のせいだ、女のせいだ、蛇のせいだ)が始まりました。言い訳をし、人のせいにすると素直に謝れなくなります。そして、神様の足音を聞いて、「怖くて」隠れます。

「あなたはどこにいるのか」神様はどんな思いで、人に呼びかけられたのでしょうか。あなたの居場所から、どこへ行こうとするのか?との心痛に満ちた響きを感じ取れます。あたかも新約聖書でイエス様が話された放蕩息子の譬えの中で、家を出て行った息子が帰って来るのを「どこにいるのか!帰っておいで!」と待ちわびている父親のようです。本来の人の居場所は、100%信頼しきって委ねている状態の安心した神との関係のあるところです。神様は、全ての人にこの呼びかけを投げかけ、ここへ戻っておいでと、何千年も待っておられるかのようです。

また、この章でもすでに神様の人への救済の計画を指し示すことばが、女の子孫と蛇の子孫(種)の間に敵意をおく(15節)と言われる中に示されていることに、希望の光が見えます。その女の子孫から救い主として御子イエス・キリストがお生まれになることを示すとされます。キリストの贖いにより、人の罪が赦され、神と人との関係が修復され、人が最終的にイエス・キリストのような似姿になるような新しい創造を神様は考えておられます。永遠の命は、ケルビムと火の剣に守られている命の木から人間が取って得られるのではなく、イエス・キリストの救いの業により与えられるという福音とへと、3章の最後はつながることから、ここにも神様の憐み深さ、慈愛、恵み深さが示されています。


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礼拝メッセージ 「安心しなさい。私だ。」

2025-02-09 09:22:28 | 日記

聖書箇所 マルコによる福音書6章45-52節 

〇主イエス様の力の源は父なる神へ祈ること

  本日のイエス様が湖上を歩く出来事は、直前に、イエス様が飼い主のない羊のような群衆を深く憐れみ、教えられた後、その群衆にパンを増やして5000人に与えられるという奇跡をおこなわれたあとのことです。イエス様は一日中休む暇なく、群衆に仕え、非常に疲れておられたはずです。このような時にこそイエス様は一人になり、山で祈られていました。父なる神様と過ごすのです。主イエス様の力の源は父なる神へ祈ることであり、神様との交わりを通して得られる力です。

  私たちも疲れた日、十分な休息やリフレッシュが必要です。それらは私たちの体と心に必要ですし、休みなく、プレッシャーの重くのしかかりながら働き続けると体も心も病気になります。神の御子であるイエス様が、神様との独りの時間を取られていたならなおさら、私たちキリスト者は特に、一人になって神様と向き合うこと、み言葉を読み、祈りと黙想の時間をとる必要があります。そんな時間はなかなか取れないと思うかもしれません。私たちは、忙しすぎる生活スタイル、経済の構造に組み込まれてしまっています。しかし、その中で何を最優先にするかは私たちに任されていますから、主との時間をつくることをお勧めします。

  現代の人々は忙しすぎます。SNSで繋がろうとするのは、心の寂しさを埋めるため、SNS上でも人とのつながりを求めます。人々はますます孤独になり、何をしても心が満たされないのに、この世の一時的な興味楽しみで満たそうと探し求め、その虚しさに気がついている人がどれだけいるでしょうか。神様は、人を愛するために創られました。ですからその人の創造の目的を無視し、心の空しさを神様以外のもので埋めようとしても、満たされることはありません。人は神様との交わりにおいて、喜び、安らぎ、満たされるように造られているからです。ですから、神様と主イエス様との交わりのうちにあることは幸いです。祈りを通して、その交わりに入れて頂けるからです。祈りは聖霊がとりなしてくださいます。父なる神、子なるキリスト、そして聖霊が私たちの霊の部分、心の深い部分に触れてくださり、交わりを与えてくださることは幸いです。私たちがこの世の流れに流されて、影響されることから守られ、キリストを信じる信仰に立ち続けられるように、助けられるからです。またこの交わりは、キリストを信じる者同士の交わりへと広げられます。それが教会という集合体であり、私たちは信仰を自分だけで保てるほど強くありません。イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝である」とつながっているようにとい言われたよう、わたしたちはこの神様の愛の交わりにいつも、繋がっている必要があります。またそれを助けてくれるのが、一人一人に与えられている助け主、弁護者である聖霊です。

〇弟子たちを強いて船に乗せて向こう岸へ行かせた。

  なぜイエス様は強いて船に弟子たちを乗せて私たちも気が付かないだけで、実は神様の奇跡は毎日私たちの日常に起きています。聖霊の導きによりその奇跡をとらえ、神様に感謝したいとで願います。また自分の心が頑なであることに気が付いて、主が全てをコントロールしておられると委ねようと、水の上のような、無理である状況においても信頼する一歩を踏み出していきたいと思います。最後にイエス様の約束の御言葉を読みます。送りだしたのでしょうか。おそらく、5000人のパンの奇跡で興奮している群衆との接触を弟子たちにさせたくなかったかもしれない。ヨハネによる福音書の並行記事では、このパンの奇跡の後、群衆がイエス様を王に祭り上げようとしていたので、一人で山に退かれたと記されています(ヨハネ6章15節)。群衆は、イエス様を単なる奇跡をもってパンを与え、病を癒してくれる人、ローマの圧政から救い出してくるメシアだと、彼らの熱狂的な動機で、イエスを王にしようとしました。それは神様の十字架の贖いの計画とは全く異なるものでした。この騒動に弟子たちを巻き込みたくなかったのでしょう。

 弟子たち中の数人は漁師です。ですから彼らは仕事柄、どんな状況だと風が山から吹きおろし、風向きにより船を漕いでも意味がないこと、ガリラヤ湖の状況を良く知っている人たちです。今回イエス様は、夕方、弟子たちを強いて船に乗せて向こう岸へ行かせました。「強いて」とあるのは、もしかしたら弟子たちは舟を漕ぎだしたくなかった理由があったかもしれません。もしくは弟子たちは、イエス様と離れたくなかったから躊躇し、イエス様が強いたのかもしれません。イエス様が弟子たちが漕いでいるのを山の上から見た時間、湖上を歩かれた時間が夜中の3時過ぎだとすると、彼らは夕方から約8時間以上も逆風の中漕いでいたことになります。逆風の時は、舟を出さないか、途中から逆風がきたら舟を風に任せてどこかの岸につかせるのが賢明であることを、弟子たちは知っていたはずです。しかし、イエス様の「向こう岸に生きなさい」という命令に従って、漕ぎ続けていた。どんなに疲れてしまったことでしょう。

 このように、イエス様に従って一歩踏み出すと、逆風が吹くことがあります。逆風とは私たちの生活の中での、予期せずしておきる、困難、試練、辛いことに例えられます。イエス様に従わない人々にも同様に試練困難は起こりますが、違いは、私たちがイエス様に祈り、その方向性で行きなさいと言われたことに従ったうえで起こる困難や試練には意味が与えられます。しかしその時主イエス様が「安心しなさい。わたしだ。」と、つまり「私があなたと共にいる」と励まし、必要な助けを与えて下さると私たちは信じます。イエス様は、逆風の中苦しんでいる私たちをほおっておかれません。かわいそうに思って、助けに来てくださいます。「恐れることはない」と言ってくださいます。私たちは、すぐに恐れてしまいがちです。信仰が薄い、弱い状態で、目の前の見える状況に驚き、神様が共にいて「安心しなさい」とささやいてくださっていることを聞き逃してしまうのです。マタイの並行記事では、弟子のペトロも水の上を歩こうとして、数歩後、波をみて恐れ沈んで助けられたことが記されています。私たちは、信仰を持っていても恐れて沈んでしまうことは多々ありますが、そこで主イエスが引き上げて助けてくださるということを思い出し、安心することができます。

  時には嵐がおこり、神様、どうしてこんなことが起こることを許されるのか?という神様への訴え、時には怒りにちかい感情もでてきます。 先日、ある一冊の旧約聖書の中のヨナ書に関する本を読みました 。ヨナは預言者でしたが、神様の命令に逆らって船に乗り、嵐の海の中に投げ込まれます。しかし、彼は大魚の腹の中にて救われ、吐き出されて、神様の指示通りアッシリア帝国のニネベの町で「40日したらこの町は亡ぶ」と叫ぶと、人々が悔い改めました。すると神様はニネベの人々を滅ぼされることをやめるという憐れみ深い救いの業に対して、ヨナは怒ります。その本の著者の考察は、私たちも神様に向かって怒りをぶつけてよい時があると、それは、神様は全てをご存じであるという信頼の上の怒りという内容です。神の子であるイエス様ご自身も「エロイ エロイ レマ サバクタニ(わが神わが神どうしてわたしを見捨てるのですか?)」と、神様の御心、計画を知っていても、イエス様はその苦しみを神様に十字架上で叫ばれました。イエス様は罪を犯したことはないけれど、私たちと同じ人間の体を持たれ、同じ状況で苦しまれ、痛み付けられ、死への恐れを感じられたのです。神様がイエス様を見捨てられたから私たちが見捨てられずに、命を与えられて生かされています。私たちは、イエス様と違って、全人類の罪を背負って死ぬことを求められていません。しかし、おのおの生きていて、辛いこと、試練はあります。ましてや、交通事故等で、自分のせいで人が亡くなってしまったという負い目は一生ついてまわります。それらをイエス様が共に負ってくれるということを信仰で受け止めることができれば、前に進めるでしょう。人にも言えない恥ずかしいこと、苦しみを抱えながらも、ありのままの自分を神様にだけはだせる、そしてともにその辛さに共感して歩んでくださることはなんと大きな励まし、慰め、神様の愛の深さでしょうか。

〇私たちの心のかたくなさと主イエスの励まし

 弟子たちは、イエス様と共にいて、目の当たりにしてきたパンの奇跡やその他の多くの癒しにも関わらず、未だにイエス様が誰だか理解できていないという心の鈍さを持ちます(52節)。以前に嵐がガリラヤ湖であったとき、舟の中にイエス様がともにいて嵐を静めたことを経験し、イエスから特別の教育を受け、奇跡をたくさん見てきても、弟子たちはイエスが誰だか理解できないため、「人が湖上を歩くはずがない、幽霊だ」と湖の上を歩かれるイエス様を見て驚愕し、恐れたのです。弟子たちは「心が頑なになっている」(口語訳)ので、イエス様が自然界を支配しておれる神であることをわからないのです。そのような心のかたくなさを、私たちも持つことがあるでしょう。

 それにもかからず、イエス様は彼に従う者を見捨てられません。私たちの信仰が薄くとも、私たちの人生において共にいて、苦難を通過するのを助けてくださる方。「安心しなさい、わたしだ」は口語訳で「しっかりするのだ、わたしである。」と訳されます。「わたしだ」は、「わたしはある」という神様の名前であります(出エジプト記3章14節)。つまり、神である私があなたと共にいるのだから、安心しなさいと私たちにも言ってくださるので、私たちは、主イエス様によって与えられる平安に焦点を当て続けること、そして自分の心が主にあって平安であることを再発見していきたいと願います。

 私たちも気が付かないだけで、実は神様の奇跡は毎日私たちの日常に起きています。聖霊の導きによりその奇跡をとらえ、神様に感謝したいとで願います。また自分の心が頑なであることに気が付いて、主が全てをコントロールしておられると委ねようと、水の上のような、無理である状況においても信頼する一歩を踏み出していきたいと思います。最後にイエス様の約束の御言葉を読みます。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネ16:33   (引用 新共同訳聖書)


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