聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

キリストが驚かれること

2025-03-02 09:22:56 | 日記

 身内の見方というのは、厳しくなりがちです。私の父は晩年牧師になる決意をしました。その頃の私は、牧師になる人の「自分の物差し」を持ち、父が牧師になると聞いた時は正直批判的でした。父が神様から召命を受けて自身を捧げていたこと、その献身に対し敬うべきだったと後に思いました。そして、神様の導きは不思議で、父の伝道の手伝いをしていたことが、自分自身が伝道者へと導かれるきっかけとなりました。私自身に関しても、不完全な欠けのある者で、伝道者としてふさわしくない者であり、「以前の私」もしくは「今の私」に躓く人がいるかもしれません。にもかかわらず、このような私であっても、伝道者になるようにとの神様の召命は変わりません。私は残る生涯、御言葉で人々に仕えるように呼ばれて、献身した者であるとして、神様が私の歩みを必ず成長へと導いて下さると信じます。

 聖書で、イエス様が人間のあることに驚かれると記されています。イエス様は故郷のナザレに行かれ宣教された時に、人々がイエス様につまずいたと記されています。そしてイエス様は「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」と言われ、「そして、人々の不信仰に驚かれた。」*1と。つまり、同郷の人々が、以前イエス様が普通に暮らしていたことを知っていたがゆえに、「ただの人ではないか」とみなし、神の子の力と権威を信じなかったのです。そのため、いつもイエス様が行われていた癒しの奇跡が、この郷里ではほとんど出来なかったとあります。他の町で人々は、イエス様に奇跡をおこす力があると信じてお願いし、皆癒されたと記されています。

 このように、イエス様のなさる奇跡と人々の信仰は関係があるようです。また、イエス様は「信仰が立派だ」と驚かれた場合もあります。異邦人(ユダヤ人以外の人)でローマ軍の百人隊長やカナン人の女性の信仰に対して彼らの信仰に驚かれました*2。一方、人々の信仰の有無に関わらず、イエス様の側で憐れみ、可哀そうに思って人々の病を癒されたり、パンを増やす奇跡をなさいます。私たちの態度がどうであれ、神様はご計画に基づき御業をなされますが、その過程に私たちの信仰を参与させる機会を与え、信仰を持って祈り行動するように招いてくださることは感謝です。

 私たちは、生活の中で、自身が願うことが神様のみ心にかなうかどうかもわからない時があります。祈ったことを忘れる場合もあります。しかし、私たちの信仰が薄く、御心がどうか不確かなまま祈ったとしても、内に住む聖霊が私たちの思いを超えて、神様に祈りをとりなして下さっているとの約束により*3、全て委ねることができるのは感謝です。下記のみことばの通り、信仰は目に見える、現実的に考えることを基にそうなると信じるのではなく、まだ見えていないこと、非現実的なことを「神様のみ心であればそうなる」と確信を持って、待ち望むことだからです。神様のすでになされた恵みの御業、イエス様の十字架の救いに感謝しつつ、これからも、神様への信頼を全て委ね、様々なことを互いに祈り合い、励まし合いたいと願います。

 

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」  へブル人への手紙11章1節

 

*1 マルコによる福音書 6章4-6節

*2 ルカによる福音書7章9節、マタイによる福音書15章28節

*3 ローマの信徒への手紙8章26節 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」 (引用 新共同訳聖書)


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救命のシンボル 竿の蛇

2025-03-01 13:51:28 | 日記

 私は病院に勤務していた時、患者さんを搬送する救急隊の方と電話もしくは直接話す機会がよくありました。彼らは受け入れ可能な病院を一刻も早く探さなければならず、特にコロナ時はどこも満床で、本当に苦労されている様子を目の当たりにしたものです。欧米、日本で救急車など医療関係のロゴが、棒に蛇が絡まっている絵であるのに気が付かれたことはあるでしょうか。

 聖書にこのロゴの由来の話が記されています。古代イスラエル人が、エジプトの国に寄留していた時、奴隷にされ虐待されて苦しんでいたところ、神様が人々をエジプトから脱出させ、モーセというリーダをたててパレスチナの土地へ移住するように導かれます。旅の途中、人々は荒野で水がない、食べ物がないと何度もモーセに文句を言い、ある時はモーセを殺そうとしたこともありました。その度にモーセは神様にお願いし、そして水や食べる者が与えられ、40年間の荒野での生活が神様によって養われました。ある時、不平を言い続ける民に神様は毒蛇を送られ、かまれた人々が死にました。そこでモーセは民の為に執り成して祈ると、神様は「青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げなさい。蛇にかまれた者が、青銅の蛇を見るだけで命を得る」と言われました。すると、かかげられた青銅の蛇を見た人は蛇にかまれても死にませんでした。このストーリーや他の伝承も合わさり、竿にからまる蛇のイメージが、救命のシンボルとなったようです。

 また、このストーリーは神様が全ての人々の救命のために、神の子であるイエス・キリストをこの世に送られたことを前もって現わす出来事であります。竿に上げられた蛇を見るだけで命が助かるように、十字架に架けられた(上げられた)イエス様を見上げ、自分の罪が赦されるために代わりに罰せられたことであると信じるだけで、永遠の命を得るからです。見ただけで、信じるだけで救われるなんて、と疑う人がいるかもしれません。しかし、神様が人間を救う為に計画されたことは、キリストが自分の救い主であることを信じるだけです。聖書での永遠の命とは、この体で永遠に生きるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じた時から霊的に新しく生まれ、神の子供としての新しい生き方が今、始まり永遠に続くことを意味します。同時に、将来この物理的な体が寿命で死んでも、魂は残り、新しい体へと、永遠に天で生きられる朽ちることのない体へ復活すると、イエス様は約束されました。

キリストを信じる者は、「今」、この世においてこの体で生きつつ、霊的には新しいものと変えられています。どのように新しいかというと、もはや今までの自分中心の生き方から、神様を信じて従い、キリストのような愛の性質へ、生き方へと変えられていく人生となることです。自分で努力して高尚な人格に変わろうとするのではなく、神の霊(聖霊)が信じる人の内に住んで導いて下さり、神様とイエス様と私たちを繋げてくださるので、もはや一人で頑張らなくてもよいのです。人にはできなくとも、神様の力でできます*。結果的に、信じる前と生き方や姿勢が変えられることになります。神様、イエス様、聖霊は目に見えませんが、目に見える信じる者同士(教会)を通して、御言葉(聖書の言葉)と祈りを通して、互いに励まし合い、慰めあい、時には誤りを指摘し合うことができます。このようなキリストを信じることによる神様と私たちとの交わりが、様々な試練があっても「今」を生きる者へ与えられるのは幸いです。そして、キリストの生き方、互いに愛し合う生き方へと導かれていきたいと願います。

 

「『そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである』。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 」ヨハネによる福音書3章14-16節

 

*'イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。 ' マルコによる福音書 10章27節


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