(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)
〇創世記4章1-26節 人類最初の子供と最初の殺人 2024年10月31日
人が自分で善悪を決めることにした結果の恐ろしさが、この章にさらに記されています。最初の人間アダムとエバの間に子供が生まれました。最初の男の子はカイン(ヘブル語:カーナー、「得る」という意味)、二人目の男の子はアベル(息、虚しさという意味)と名付けられました。なお、カインはアラビア語で、鍛冶屋、槍という意味があるそうです。
事の発端は、二人がそれぞれ神様に捧げものを持ってきたことでした。カインは土の実りを持って来て、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来ました。神様はアベルとその献げ物に目を留められたが、 カインとその献げ物には目を留められなかったと記されます。それでカインは激しく怒って顔を伏せました。なぜ、神様はアベルの捧げものだけ目を留め、カインのには目を留めなかったのか?これも諸説あり。新約聖書のヘブライ人への手紙11章4節では信仰によってアベルはカインより優れたいけにえを捧げたとされたと記されています。確かに「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」(4節)とありますから、一番良い初子を捧げたのを、主なる神様は「アベルとその献げ物に目を留められた」のでしょう。それに対して、カインは怒って顔をふせたのです。
神様はカインの心の内をご存じだったので、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(7節)と忠告をなされました。カインは、「自分だって一生懸命働いて、収穫できたものを捧げたのに、なぜ神は自分の捧げものには目を留められないか!なぜ、弟だけ認められるのか?」と不公平に思ったかもしれません。理由を神様に聞けばよかったのに、聞きづらいのか、それでその怒りの矛先を弟のアベルに向けられました。兄弟・姉妹というものは、とかく、家族のなかで、子どもという同じ立場で互いにを比較しがちです。比較することが悪いとは思いませんが、比較により、自分が高ぶつて他者を見下げたり、自己卑下して自己憐憫におちいり、他者を妬むという心の思いは、やがて行動に反映され、取り返しのつかないことになります。現代でも、殺人の動機は相手を妬む思い、もしくは見下されて悔しい思いで恨みを持つということだったり、妬みというのは何も良いものを生み出さない、恐ろしい感情であり、犯罪がおきる根であるといえましょう。
カインは怒り・妬みをコントロールすることができず弟を殺し、神様から「何ということをしたのか。… 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。」(10-11節)と言われます。呪われる者となって、どう生きて良いかわからなくなったカインに、神様は慈愛をかけられ、カインが殺されないよう印をつけて守られています。カインはもはや農業はできなくなり、さすらう者となりましたが、都市をつくり、彼の子孫は彼の名前のとおり「鍛冶屋」や、音楽を奏でる者がでてきたことが記されています。また、カインの子孫のレメクという人は、最初の一夫多妻制を始め、神様が定めた一夫一妻制という結婚の秩序を変え、無制限の復讐を始めました。
更なる人間の罪の拡大という暗く、悲しく、希望がないような人類のストーリーに、一筋の光が差し込みました。一度に二人の子供を失ってしまったアダムとエバに、もう一人の男の子が生まれたのです。セツという名で、そしてセツは子を産み、エノシュと名付けました。主の御名を呼び始めた、つまり主なる神様を礼拝し始めたのは、この時代であることが章の最後に記されています(26節)。人が何をしようとも、神様は続く希望を残されています。