聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

旧約聖書の学び 創世記3章

2024-11-24 15:46:04 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇創世記3章1-24節  人が神のようになりたいと欲するとき:罪の始まり     2024年10月24日

 この章は最初の人アダムと女(エバ:命)が、神様の創造の秩序を壊してしまうという悲劇、人間の罪の始まりが記されています。

 無邪気で無垢な人は、楽園のような何不自由ない環境で善い人ばかりに囲まれていれば、そのままでいられたかもしれません。しかし、神様が創られた生き物でもっとも賢い蛇が女を誘惑します。この蛇という存在が文字通り蛇という賢い生き物だったのか、悪魔が蛇の形をとって登場したのか、それとも象徴的存在なのかと諸説あります。とにかく、この蛇は女に巧妙に語り掛け、神様から言われたたった一つの禁止命令「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」を破ってしまいます。園に他にはたくさんの実が生えていて、好きに食べてよいと言われ、食物は満ち足りていたのに。

 人間にとって何が良いか、良くないかをよく知っているのは、人間を創ったメーカーである神様です(創世記1章31節,2章18節参照)。これによって、園の生活において人間は安全な状態に守られていたのですが、蛇の誘い「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」に刺激されて、女は神のように善悪を自分で決めたい、つまり神のようになりたいという思いが湧き上がってしまったのではないでしょうか。そして、男は直接神からこの禁止命令を言われ、その内容を正確に把握しているはずですが、女に反論もせず食べてしまいました。今やこの二人は自分自身のことは自分自身で判断し、決定するようになった。その結果が、まずは神に謝ることもせず言い訳と、他者への責任転換です。神様との信頼関係も失い、男と女の麗しい関係が破壊され、土地も呪われてしまいました(17節)。食べたら死ぬとは、神からの本質的な分離のことを意味し、体はある程度の寿命まで生きていても生きる意味も分からず、罪を拡大し、苦悩し続けることになります。善悪の木の実を食べるとは、人間が神から離れ「この体は、命は自分のものだから、自分が良いか悪いかを判断する」ということなのです。

 この暗い、絶望的なストーリーの中にも、神様のご自分が造られたものへの慈愛と人間への希望が示されています。まず、蛇の子孫の頭を女の子孫が砕く(15節)という神様の不思議なことばです。これは原福音ともされ、女の子孫、つまり人として生まれるイエス・キリストが、蛇の子孫:悪魔と死に勝利すること、そして罪を犯して神から離れてしまった人間を救うために神の御子イエス・キリストが十字架にかかられることを示していると言われます。

 神様が二人を園より追放したと(24節)とありますが、23節の原文は「人間はエデンの園から土地を耕作するために送り出した」のニュアンスだそうです*。  神様は裸で恥ずかしいと思っている二人に皮の衣を着せてあげて、自分たちの蒔いた種の刈り取りをすることになる、園の外での生活に送り出します。そこには、神様の心痛を伴う、愛を持って子を送り出す親の子への愛を感じ取れるのです。

*23節の「追い出す」と訳される原語(イシュラフ)は「派遣する、送り出す」という意味がある。大野惠三、「旧約聖書入門1 現代語りかける原初の物語」、新教出版社、2013年、P213引用


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