あかん
だめかもしれん。
義父と私とは生き方や感じ方に差がありすぎて、心理的コンフリクトが凄い。
しんどい。
相手もそう思ってはいるだろうが、というところまで書いて、そう思ってはなさそうだな、と思った。
びっくりしたのは
「(私の夫)が〇〇と考えているのだとしたらそれは矯正しないといけないんだよ僕は」と言ったこと。
人には人の理屈があり、
人には人の感じ方があるのに、
「矯正しないといけない」とは
犯罪でもない
他人様に迷惑をかけているわけでもない。
ただ義父と感じ方が違う。
でもその感じ方は
嫌な言い方をすれば
義父のプライドや感情を損ねているから義父は矯正する権利がある、という理屈。
矯正する権利がある、の意味は、(私の夫)は1個人ではないということだ。
社会的常識に照らして非常識であるならば、それは非常識だよ、と伝えるのが1個人としての対応だと思う。
もっと伝え方をマイルドにするなら、〇〇と考えてみてはどうかな、とか、□□といわれてこう感じたから□□と言わないでほしい、とかだと思う。
これが彼の本質なんだな、と思った。
自分が自分自身の思想感情行動をコントロールできるのと同様、他人の思想感情にも当たり前に干渉できると思っている。(行動には干渉できるが)
我が毒親より強度は弱いし、他人に対する理解は深いが、私にとってのベクトルは二人とも近しいものがある。
不思議だ。
多分、それは義父自身が彼のお父さん(つまり夫の祖父)にされてきたことなんだろうな。
だから彼が彼自身の父親にされた時同様、夫は彼にとって望ましい感情を目指すのが当たり前である、という価値基準になった。(と部外者である私には見える)
これも血の因果なのか?
激昂することはなく表面は穏やかだが、その欲求は私にはよくわからないと感じることが多い。
また何かしらの他人に対する不満が怒りに転じやすく、その頻度が彼は高い。
そういう人とはできる限り一緒にいたくない。
他人との距離感というのは、
いい意味での他人に対する諦観というか諦めが必要なことであって、
例えば誰かが自分の望む水準で何かをできないことがあれば、努力不足の人もいるし、中には本当にできないという人もいるんだよね、という他者の存在を許容する必要があると思っている。
それが会社などの目的組織であれば、できない人を排除したり「怒り」につながる正当性は社会的には見出されるものだが、プライベートでは私にとっては親族血縁であっても疎遠になる要因になる。
私の心理的安全性を損なうあなたと、なぜ私が一緒に居なきゃいけないの?と思ってしまう。
(一応この私の感情は社会的には普通ではないということは認識してはいる)
大人なのでお互い付き合いをやめる気はないが、適正な距離感が分かるまでのコンフリクトは当分ありそうだな、と思っている。