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母の伝記 その2

2017-10-13 19:12:07 | 日記

前回から続く

母の本好きまでは書いた。ちなみに私が小学校低学年の時の母の蔵書は数冊しかなかったのでよく覚えている。
①キェルケゴール著「死に至る病」
②川守田英二著「日本ヘブル詩歌の研究」

①は広義の哲学書の部類にあたろうが、②はちと難解だ。
これはいわゆる日猶同祖論の研究書で、そこらのオネエチャンが読む本ではない。
当時の私では全く歯が立たなかった。

さて、女学校を中退した彼女は、ブラブラしていても仕方ないということで、
近所のレストランで、今でいうアルバイトを始めた。
マスターは岡田善六という方で、今後重要な役割を果たすことになる。

数年後、今度は縁談が持ち上がった。お相手は「あまちゃん」で有名な岩手県久慈市の在の〇〇四郎という人。
リンゴ農家だったのではないか。
だがこの結果は短期間で不幸なことに。都会育ちの彼女がそもそも農村になじめるはずもない。
子供はいなかったはず。もしいたらたいへんだ。私の相続時の書類が猛烈に増えるだろうから。

はたちそこそこで実家に帰った彼女は、得意のソロバンをいかして経理の仕事をしたらしい。
新橋辺のホテルにいた時のことを、私に話したものだ。
昭和20年3月10日の東京大空襲のあと、下高井戸からの電車は京王線も玉電も止まっていたから、歩いて出勤した。
渋谷から宮益坂を上がって、青山通りを表参道の交差点に来たとたん、黒焦げの死体の山から発せられる異臭にむせ返ったとか。
まだ片付けも始まっていなかったのだ。
道路いっぱいに広がっている「粗大ゴミ」の山をまたぎながら、どうにか数時間かかって勤務先にたどりついたという。

戦争が終わって、奥田の家にも平和が訪れた。
弌正は数年前、当時日活を乗っ取った堀久作一派の支配に嫌気がさして、多摩川撮影所所長代理兼台本課長の椅子を捨て、辞表を叩きつけたのだが、
戦後は得意の英語を生かして立川の進駐軍に職を得たのである。
おかげで、食糧難の時期にも一家は飢えとは無縁。PXでいくらでも買えたはず。

凉子は28歳になっていた。
「いつまでも一人でいてもしょうがないだろう。俺が婿さんを世話するか」
岡田善六は旧知の一正に話を通した。
今度の縁談の相手は、〇〇豊といい、終戦時は満鉄撫順炭鉱の課長で、月俸500円の高給取り。
彼女よりは12歳年長である。

豊は、戦後は得意の中国語で、在満居留民団の団長みたいな立場だったが、ようやく帰国したところ。岡田家の離れに仮寓していた時期だ。
つまり岡田善六は、豊の親戚が経営する大連のレストランでコック修業をした関係で、豊のことを以前からよく知っていたのだ。

縁談自体はスムーズに進んだが、厄介な問題が持ち上がった。
豊は満洲時代すでに結婚しており、戸籍上は子供がいるのだが、敗戦の混乱で散りぢりになり、母子の生死は不明である。

「失踪宣告をするしかないか」
通常は7年かかるのだが、特別の混乱時ということで、5年で許可が下りた。
そのせいで、凉子の入籍も、私の出生届も若干遅れたという事情。

一家はとりあえず下高井戸の奥田家に落ち着いた。私もそこで生まれたのだ。
昭和25年のことである。



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