私の母・〇〇凉子は、今年97歳で長野県の特養に入った。
これを機会に、私が知っていることを全部書いておく。
今のところ彼女の了解を取っていないので匿名とせざるを得ない。
以下、彼女のことを書く時には、ただ「母」と書く。
誰誰の母親というのは別人のことだ。
登場するのはほとんど故人なので、なるべく実名で書く。
生存者は仮名にせざるを得ないがお許しを。
記録のためで、読者を想定していないが、よかったらお付き合いください。
母は大正9(1920)年に、東京郊外の豊多摩郡で生まれた。
今その場所は23区内だが、当時は全くの田園風景である。
近所に渋谷川の源流部があるが、ここがかの有名な唱歌「春の小川はさらさらいくよ」の現地だ。
その両親は、父親が〇〇弌正、母親がキクといった。
父・弌正は奈良県で生まれたらしい。その父親は岡山藩御典医の息子で、弌正が8歳の時彼の生母と離別し
大阪の有名な寺の家付き娘に入り婿したので、奥田姓に変わっている。
一方、母親の方は旧姓が上法といい、秋田の山奥で1000年以上続いた旧家の出だ。
詳しくは辞典類をご覧ください。
父親弌正は大正初年海軍に志願し、第一次大戦に出兵した。
学歴から見習士官程度のスタートか。
除隊後6人の子供に恵まれたのだが、上から順に 一男、三保子、凉子、正行、嵯峨子、敏彦 となる。
母は3番目で、現在97歳だから、もう甥姪の世代が50~70代。
兄弟は順調に成長した。昭和初年に全員で撮った写真を見ても、実に快活そうである。
その後一家は下高井戸に転居した。
さて母は昭和8年頃女学校に入学したはずである。
聖徳学園の同窓会名簿にその名がある。
平成天皇がご生誕の年だから、お祝いの歌を歌わされた記憶があるという。「皇太子さま、お生まれなった」。
母は女学校の帰り、毎日映画を見ていたという。
当時父親弌正は、日活が経営する 新宿・帝都座 の支配人を勤めていたからだ。
裏口から入って、有名な洋画は全部知っているとも。
ところで、帝都座の入っているビルには、有名な「フロリダ」というダンスホールがあり、
弌正が年中つるんで遊んでいた相手は、まだ慶大生の「田辺君」である。
駅前の炭屋の息子である彼に、弌正は「これからは本屋だ、キミは本屋をやれ」とけしかけた。
すると彼は、本当に紀伊国屋書店を開業してしまったのだ。
「というわけだから、オレは責任があるんだよ、本は紀伊国屋で買え」
と、孫である筆者は弌正に命令されたのだった。60年前のこと。
母は女学校在学当時、人生に悩んでいたらしい。
「哲学者」というあだ名をたてまつられたことも。
そのためかどうか、女学校は中退してしまった。
以後いわゆる学校には行ったことがない。ただ無類の本好きなので、耳学問はけっこうなレベルにあると思う。
続
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