長田幹彦(1887~1964)の文壇での地位は限りなく低い。
大正期の流行作家との位置づけで、知っている人といってもせいぜい「祇園小唄」「島の娘」の作詞者という認識。
お茶屋に流連(いつづけ)て「遊蕩文学」ばかり書いていた上、戦後は江戸川乱歩と一緒に「降霊会」を主宰していたのではキワモノ扱いは避けられないか。
死んでも叙勲の対象にはならなかった。
ところで私は彼の孫を多分知っている。
昭和20年代、明大前のアパートに住んでいたころ、隣の部屋が長田さんだ。
親子3人暮らしで、父親が歯科医でしかも婿養子。
一人息子は私より一つ下。一緒にママゴトをした記憶がある。
それはともかく、幹彦のまともな伝記がないのは理解不能だ。
医事新報の昔の記事やスバル復刻版など、ネタには事欠かない。
彼のオヤジは北里柴三郎の昔の医者仲間だし、彼自身はNHKが放送開始したとき、放送作家のマネゴトまでやっていたのだから、今風に言えばマルチ人間。
まともに研究する価値は十分ある。
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