ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

ドウロ川渓谷:先史時代の岩絵を見に1

2022-03-15 00:50:58 | ポルトガル旅行
2022年3月14日

帰省していた息子を連れ立って親子3人でポルトガル北部のドウロ川上流にあるFoz Coa(フォス・コア)の辺りを2日間回って来た夏のこと。Foz Coaの正式名はVila Nova de Foz Coaといいスペインの国境も近いところです。



地図から分かるようにドウロ川はスペインを水源としポルトで大西洋に流れ込む全長897mの川です。Douroはケルト語で「水」を意味すると言われます。



当初、今回のフォス・コア行きにわたしはあまり乗り気ではなかったのです。何しろ8月中旬のドウロ川上流は1年中でも最も気温が高い時期で通常は47~50度を越えると言われます。ドウロ川上流はこれまでに2度のクルーズのダム越えとSLの旅でTua(トゥア)まで行っています。

先月のシントラ歩きでうっかり手袋と帽子を持つのを忘れ、顔もそうですが長袖から出ていた両手もかなり日焼けしてしまい手入れに苦労しているところ、もうこれ以上は焼きたくないと、避けたい気持ちだったもののホテルの予約もしており夫に引きずられるような感じで出かけてきました。

お手伝いのベルミーラおばさんに五匹ネコの世話を依頼して火曜日の朝車を走らせること3時間少し。まずはVila Nova de Foz Coaにある考古学博物館(Museu deArte e Arquiologia do Vale do Coa)に到着です。



2010年夏にオープンした博物館の入り口。景観を損なわないように建物が地上に姿を現さない形で渓谷の斜面を利用して建築されています。



入り口を下へと下りる。


↓建物下のガラス張り面はレストランになります。


レストランでの昼食を長時間待つ羽目になり、岩絵を見に行くツアー出発地がそこから更に20分程の場所にあったので、結局博物館入館は叶わず。ドウロ川上流の景観をカメラに収め、急いで目的地に向かったのでした。


次回は岩絵の紹介です。

インフォメーション
開館時間:10:00-13:30 | 14:00-17:30
閉館:月曜日
所在地:Rua do Museu, 5150-610 Vila nova de foz Côa – Portugal

「橋の上の霜」と狂歌師

2021-11-04 03:25:44 | 日記
2021年11月3日

ずいぶん前のことだ。
外国人にとっても日本語が比較的聞き取りやすいとわたしが思った映画、「日日是好日(樹木希林主演)」を、日本語中級クラス生徒に見て欲しいと思って、youtubeで探していた時に、偶然目についたのが「橋の上の霜」という江戸時代のドラマだ。

題に惹かれて何とはなしに開いてみると、原作が平岩弓枝、主演が金八先生こと武田鉄矢で、1986年に放映されたとのこと。

どれどれ、と見ていくうちに、主人公直次郎が狂歌師だと言う。その親しい友人の朱楽 菅江(あけら・かんこう)の名を耳にして、あっと思った。

我がモイケル娘、院では中世文学を選び、狂歌師、山辺黒人(やまべのころうど)をテーマにした卒論に取り組んだのだが、その時に、狂名にはこんなおもしろいのがある、こんなヘンチクリンなのがある、と、話を聞かされたのである。それを思い出したのだ。

狂歌師はしゃれに富んだ狂名を号したと言われ、朱楽 菅江は「あっけらかん」から、頭光は「つむりのひかる」、元木網(もとのもくあみ)など(モイケル娘の受け売りなり。笑)、愉快な狂名が多い。

しからば、ドラマの直次郎とはと言うと、江戸の下級武士太田直次郎で、後に狂歌三大家と呼ばれた、朱楽 菅江、唐衣橘洲(からこもろきっしゅう)らと並ぶ残りの一人、狂名「太田南畝(おおたなんぽ)」更に「蜀山人(しょくさんじん)」と名を馳せる直次郎の若い頃、「四方赤良(よものあから)」と名乗っていた時代を描いている。

下級武士ゆえ金はなかったが文才があったのでパトロンが付き遊ぶ金にはことかかなかったが、吉原の遊女に入れあげ、ひょんなことから分不相応にも遊女を身請けしてしまう。しまいには自分の屋敷の離れに見受けした遊女を住まわせるという、なんともダメな男の話ではある。

後半は、そこそこに狂歌師としての名も売れてきたところで、

白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき
世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜も寝られず

と、狂歌で寛政の改革批判をしたと噂され、危うく首が飛ぶところであった。

この二つの狂歌は、高校時代の歴史で習ったのでよくそらんじている。が、まさか、こんな年月を経て、こういう物語のからくりがあったとは知らなかった。

さて、直次郎は上の2作については自作を否定している。取り調べまで行く以前に、朱楽 菅江のとりなしで、直次郎の歌を読んだ上司が感動し、おとがめなしとなる。その歌が、

「世の中はわれより先に用のある人のあしあと橋の上の霜」なのである。

太田南畝、または蜀山人(しょくさんじん)の歌にはこういうのもある

「世の中は幸と不幸のゆきわかれあれも死にゆくこれもしにゆく」

後に支配勘定に出世、文政6年(1823年)、登城の道での転倒が元で75歳で死去。
辞世の歌は、

「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」

最後まで狂歌の精神、ユーモアを忘れなかった太田南畝ではある。

下記、モイケル娘が、狂歌師院卒論に四苦八苦していた頃の我が日記を抜粋。以下

2015年2月9日 

去年の秋口からずっと、修士論文、狂歌師に取り組んできた我がモイケル娘ですが、しばらく前に口頭面接試験も終わり、なんとか院卒業にこぎつけそうです。

娘から送られた修論の一部を目にして即、「なんじゃいな?この黒人て?江戸時代に日本に黒人がおったとは思えないぞ」と言ったら、笑われた。
「おっかさん、コクジンじゃなくて、クロウドと読むのじゃ」。

そう言えば、江戸時代の狂歌師をテーマにとりあげて、数ヶ月、市立図書館や大学の図書館に通い詰めで、ほとんど悲鳴をあげんばかりの娘であった。それはそうだろう。大学4年間は英語系だったのを、いきなり院で近世日本文学だと言うのだから。

18歳までポルトガル生まれポルトガル育ちの彼女にしてみれば、英語、ポルトガル語、日本語のトライリンガルに、もうひとつ、「江戸時代の日本語」という外国語が加わるようなものです。

古文などは、週に1度の補習校の中学教科書で、「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」と言うようなさわりの部分を目にしたくらいで、知らないと同様の状態で取り組んだのですから、その大胆、かつ無鉄砲なるところ、その母の如し。笑

浜辺黒人なんて、「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ」の歌人、山部赤人(やまべのあかひと)のもじりではないか(笑)

狂歌は和歌をパロディ化したものらしい。そこで、ちょいとネットで検索してみると、あはははは。狂歌師たちの狂名に笑ってしまった。

朱楽菅江(あけらかんこう=「あっけらかん」のもじり)、
宿屋飯盛(やどやのめしもり)、
頭光(つむりのひかる)、
元木網(もとのもくあみ)、 
多田人成(ただのひとなり)、
加保茶元成(かぼちゃのもとなり)、
南陀楼綾繁(ナンダロウアヤシゲ)
筆の綾丸(ふでのあやまる)
↑これなどはしょっちゅうキーボードでミスタイプして誤字を出すわたしが使えそうだ。わたしの場合は、さしずめ、「指の綾丸」とでもなろうか(笑)

筆の綾丸(ふでのあやまる)は、かの浮世絵師、喜多川歌麿の狂名だという。中には、芝○んこ、○の中には母音のひとつが入るのだが、これなどには唖然としてしまう。

おいおい、モイケル娘よ、こんなヘンチクリンな狂歌師たちとその作品を相手の修論、資料が少ないともがき苦しんでいたなんてホンマかいな。腹を抱えて笑うのにもがき苦しんでいたんではないか?等と勘ぐったりしているのはこのおっかさんで、当たり前だが修論はいたってまじめに仕上げられている。この研究が生活にはすぐ役立たないが、そういう学業を教養と言うのかもしれない。高くついた教養ではあるが(^^;)

本日は長い拙文を読んでいただき、ありがとうございます。
なお、「橋の上の霜」を見たい方は、youtubeで検索すると、出てきます。

風立ちぬ、いざ生きめやも

2021-10-25 22:41:46 | 日記
2021年10月25日
 
「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、1996年に放映されたとある向田邦子ドラマ劇場シリーズのひとつ、「風たちぬ」のラストシーンで使われる言葉だ。

堀辰雄の小説、また近年ではジブリアニメで最初の部分がタイトルになっているが、わたしはどちらも読んでいないし見ていない。

今回Youtubeで見た上記のドラマでも「風立ちぬ」だけで終わっていたら、確認することもなかったと思う。わたしは「いざ生きめやも」に惹かれて意味を辿ろうとした。

すると、あらま、このフレーズは堀辰雄が翻訳したフランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の最後の連(?)にある始めのフレーズなのであった。

ヴァレリーのこの詩は長編詩なので載せるのを省くが、わたしの持つ詩集の翻訳には、

Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
「風が起こる・・・・・いまは生きねばならぬ」とある。(1969年出版マラルメ・ヴァレリー詩集) 人それぞれ感じることはあるだろうが、わたしには堀辰雄の翻訳の方が素晴らしいと思われる。

この詩の墓地はヴァレリーの生まれ故郷で、南フランスの地中海に臨んだ町セートだ。ヴァレリーの先祖の墓があり、彼自身もその墓に眠っていると言う。


Wikipediaより。ヴァレリーが眠る南フランスの海辺の墓地。

ところで、ヴァレリーの「海辺の墓地」で思い出したのが、長年過ぎてついにその詩にわたしがたどり着いた英詩の一行、「とどろく海辺の妻の墓」がある。以下に。

「とどろく海辺の妻の墓」

海の上で太陽が光を雲間に閉じ込められながら、かろうじて姿を見せている一枚の写真があります。



これは撮った写真を白黒にしてみたわけではなく、目まぐるしく天気が変化するロカ岬でスマホを利用して撮影したものです。暗い画像に、わたしはある詩の一行、「とどろく海辺の妻の墓」を思い出したのでした。

ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは詩人のみならず作家、翻訳家でもあり、エドガー・アラン・ポーの訳詩もしていました。

高校時代には、苦手な理数系の勉強はほったらかしに、フランス文学、ロシア文学、ドイツ文学の著名なものを図書館から借り出しては、外国文学の起承転結の明確なところにわたしは心を躍らし、片っ端から読みふけったものです。

そして、20歳頃にのめりこんだのに、松本清張シリーズがあります。「黒い画集」から始まり、清張の作品のかなりを読みました。
「社会派推理小説」と当時呼ばれた清張の作品は、大人の匂いがプンプンして、20歳のわたしは世の中の理不尽や犯罪に駆り立てられる人の心理を、こっそり覗いたような不思議な刺激を覚えたものです。 

それらの中でも特に心に残ったのは、霧の旗、砂の器、ゼロの焦点です。つい先ごろ、この「ゼロの焦点」をもう一度読み返す機会があり、思い出したのです。20歳の頃、気になりながら当時は調べようもなかった詩の1節がその本の中にあったことを。

In her tomb by the sounding sea. とどろく海辺の妻(彼女)の墓

訳が素敵だと今も思います。

戦後の混乱期の自分の職業を隠し、今では地方の上流社会で名を知られている妻が、過去を隠さんがため犯罪を犯す。やがて追い詰められた彼女が、冬の日本海の荒れた海にひとり小船を出して沖へ沖へと漕いで行く。その愛する妻をなす術もなくじっと見送る年老いた夫の姿を描くラストシーンに出てくる英詩です。

当時、この詩がいったい誰によって書かれたものなのか分からないまま長い年月が経っていたのでした。改めてこの本を読み終わりgoogleで検索してみようと思いつき英文でそのままキーワードとして打ち込みました。

おお、出たではないか!一編の詩に行き着きました。
この詩は、「Annabel Lee=アナベル・リー」と題されるエドガー・アラン・ポーの最後の作品なのでした。(詩全部をお読みになりたい方はWikipediaでアナベル・リーと検索すると出てきます)

「アナベル・リー」は、14歳でポーと結婚し、24歳で亡くなった妻、ヴァージニアへの愛を謳ったものだそうで、ポー最後の詩だとされています。

「とどろく海辺の妻の墓」は、その詩の最後の1節です。エドガー・アラン・ポーといいますと、わたしなどは、「アッシャー家の滅亡」の幽鬼推理小説家としての一面しか知らず、詩人でもあったとは、無知なり。

Wikipediaで検索しますと、ポーの大まかな人生が書かれていますが、残した作品に違わない(たがわない)ような激しい愛の一生を終えた人です。

50年近くも経ってようやく、「ゼロの焦点」のラストシーンと、このポーの人生の結晶である「アナベル・リー」の詩がつながったのでした。

ロカ岬の暗い画像から、リスボンの詩人フェルナンド・ペソア、そして、ポーのアナベル・リー、松本清張の「ゼロの焦点」のラストシーンにつながるとは奇遇なことです。

う~ん、これは清張ばりで行くと「点と線」が繋がったとでも言えるかしら。(註:「点と線」は松本清張の推理小説)

向田邦子のドラマからこんな話に及んだのですが、ドラマや推理小説から学べることが大いにあると感じたこの数日でした。
おかげで頭の疲れは治ったものの、ドラマの見過ぎで今度は目が疲れて、クマができたわけで。

何事も、過ぎたるはなお及ばざるがごとしでござる。

あの頃、ビアハウス1

2021-08-06 18:57:54 | あの頃、ビアハウス
あの頃、ビアハウス1

わたしが生きた時代:Always三丁目の夕日

2019-09-29 11:16:48 | 映画
2019年9月29日

「三丁目の夕日」はもう何年前になるでしょうか。ブログ友ちゅうさんと話が盛り上がったことがあり、ネットでそのオフィシャルサイトを何度ものぞきながら、観たいなぁと思ってきた映画のひとつです。涙腺が弱いわたしは、ホームページのノスタルジックな音楽を聴いただけで、胸がいっぱいになりました。カーニバル休みを利用して今日もう一度観て見ました。


三丁目の夕日 画像はWikipediaから。

原作は1955年から1964年までの東京近郊にある「夕日町三丁目」を描いた漫画とのこと。わたしの8歳から17歳までの昭和が背景で、東京タワーが、まだできるかできないかの時代です。

この映画の町並み、アスファルトではない土の道、オート三輪車、キューピー、フラフープ、タバコ屋の「新生」にいたっては、名前を耳にしてあっ!です。久しく忘れていたいたことでしたが、亡くなったわが母が愛したタバコの商標だったのを思い出しました。

青森から列車で上野に着く集団就職の「六子」ちゃん。中学時代のわが友にもこうして集団就職列車で石川県に行った人がいます。なんだか切ないのです。

映画の中心のひとつとなる「鈴木オート」には、母の9人兄弟の中でも一番出世したといわれる弘前の我が叔父の「マツダオート」と姿を重ねてしまいました。モダン生活の三種の神器(じんぎ)と言われた、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が少しずつ、一般家庭に浸透していったのもこの時代です。

わたしも初めてのテレビは、この映画の中にあるように、ご近所へ観に行かせてもらったものです。

子ども時代から10代の終わり頃まで自分が生きたのがこんな時代だったとの思いで見るものですから、たまらなく懐かしく、ちょっと感傷的になりました。

わたしが我が子達へのメッセージとして書き留めているエッセイ「昭和時代の思い出:思い出のアルバム」があります。この映画が1955年から1964年までとうたってありますが、丁度その1964年の夏に、わたしは今回の映画を見た懐かしい思いとは別の、挫折したような心地で東京の夕日を眺めたことがあります。

後のわたしの歩く道を決めることになった出来事ですが、この夏の落胆はのしかかる岩のように大きかったです。翌年からのわたしは、これまでの多くの人とのつながりを断ち切ったようなところがあります。

今にして見ればそこまでしなくてもよかったと思われるのですが、若さゆえ、そうすることで新しい道を自ら切り開くのだとの思いがあったような気がします。

A君という中学時代からのペンフレンドが東京にいました。1964年、高校生活最後の夏、東京の新聞専売店の配達体験中の休みの日を見て、手紙にある住所を頼りに、なんの前触れもなしにわたしはそのペンフレンドを訪ねたことを覚えています。いいのか悪いのか、思い立ったらぱっと行動に移す、落ち着きのない、そんなことを繰り返す10代の頃でした。

Aさんとその時どんな話をしたのか、その後どうなったのか、何年も文通していながら、いい加減なことにわたしはよく覚えていないのです。1964年の夏前後の記憶を、1964年の江東区の夕日がさらって行ってしまったのか。

「おいおい!優さん、それはないぜ、ったくもう」とAさんの声が頭のてっぺんに落ちてきそうです。はい。
落ちてきそうだというのはちょいと現実味があるでしょう?実はそのAさんとは偶然が偶然を呼ぶ形で、ほぼ半世紀ぶりに、再会し、文通もメールの形で再開したのですが、もちろん、ひっそりと色っぽく文を交わしてるわけじゃ、ございません。

だいたいが物事をうまく隠したり、嘘をついたりができない性分です、「半世紀ぶりで昔のペンフレンドが見つかった!会ってくるよ!」と夫、モイケル娘、(息子は母のこういうことにはあまり興味がなさそうでw)に宣言し、所沢に住む我が妹にまで、

「ねね。覚えてる?ペンフレンドのA君。今度会うんだべさ~」なんて派手に騒いだわけで。
「おまえさん、そろそろ少しは大人になったであろうか、人生は捨てたもんではないよ。」と、1964年に眺めた江東区の夕日が、あの頃をもう一度、今度は別な方面からちらっと見せんがために、姿を現したような、そんな思いにさせてくれた「Always三丁目の夕日」、いい映画でした。

「一期一会」(いちごいちえ)は茶道の精神性から来ることばですが、その説いているところは理解するとしても、「この人とは再び会うことはないだろう」と、常に一生一度、誠心誠意で接していると疲れてしまうわたしなどは、いいように勝手解釈しています。

わたしたちのただ一度の人生、一度は途絶えてもいつかどこかで再び遭遇し得る、点と点をつなぐ出会いもまた、一本の線となる。「一期とはひとつの人生、一会とはその人生で一本の線となる出会い」と
言えるかもしれないと。

ネット経由でわたしを見つけてくれたAさん、そしてブログ友や昔からの知り合いのみなさんは我が人生の「一期一会」です。ええ加減なところのあるspacesisではありますが、どうぞ今後もよろしくお願いいたします。

って、なんだい、こりゃ(笑) センチメンタルジャーニーじゃあるまいし、三丁目の夕日がこんな風になっっちゃいました^^;