ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

赤レンガの家並みと見所いっぱいのポルト・リベイラ

2019-04-11 22:35:59 | ポルト

2019年4月11日

リスボンから列車で橋を渡って入ってくると両脇に開けるドウロ川のパノラミックな展望にまるで「魔女の宅急便」の一シーンに出会ったような錯覚を味わうことだろう。


そのドウロ河畔がリベイラ(Ribeira=川岸)だ。世界遺産指定区域でもあり四季を通じて訪れる人々を魅了し続けるリベイラを下流から歩いてみよう。


casarios

左手上方には川に面して建ち並ぶ色とりどりのカザリオ(casario)と呼ばれる古い家々が見られ、天気のいい日にそこにたなびく洗濯物はポルトの風物詩でもある。川岸にはオープンカフェ、ポルトガル料理レストランの老舗や土産店もぎっし並べんでいる。また二重橋鉄橋のドン・ルイス一世橋が前方に美しい弧を描き、橋の上段を黄色のメトロがゆっくりと渡って行くのが見られる。


道の中ほど、壁に埋め込まれている「Alminha da Ponte(アルミニャ・ダ・ポンテ)」青銅版は1809年3月29日のナポレオン軍侵入時に対岸へ逃げようと押し寄せ川で命を落とした多くの市民の慰霊碑で現在でも鎮魂のろうそくが灯される。見逃し易いので要注意↓


橋のふもとの可愛いみやげ物や


二重橋、ドン・ルイス一世橋を渡って対岸の隣街、新しい観光スポットとして近年人気を集めるガイア河岸へ行ってみよう。


古くからのポートワインセラーが軒を並べる。見逃せないのはガイア対岸から眺める、赤レンガの屋根が段々畑のように重なった絵のようなポルトの最たる景色だ。



歩き疲れたらガイア河岸からテレフェリコに乗ってたゆとうドウロ川の絶景を眼下に橋を渡って旧市街に出るのもよい。



日没後のドウロ川も夜景が美しい。



ポルトの歴史はこのドウロ河岸から始まったとも言える。


ポルト・ファンタスティックなカーザ・オリエンタル

2019-02-03 15:47:42 | ポルト
2019年2月4日


先日、この店の前を通り、その変貌ぶりにあっと驚いた次第。



クレりゴス塔の横の広場にある小さな食料品店でポルトでも一番古い店の一つに数えられてきた「Casa Oriental(casa=家)」。 
「看板のイラストからもうかがえるように、ポルトガルがアジア、アフリカに領土を持っていた時代をしのばせます。1910年にオープン。店内は多種の香辛料の香りがします。

「Casa Oriental」はBacalhau(バカリャウ=干しダラ)の店としても知られ、店頭にはいつも大きなバカリャウが何枚もぶら下げられています。

「CHA, CAFE E CHOCOLATE」(お茶、コーヒー、チョコレート」と看板にうたってあり、写真でみられるようにぶらさがったバカリャウや果物も店頭で売られています。街の中心、ダウンタウンなのに昔ながらの庶民的な生活の一端がチラリ見られるのがポルトの魅力だ」かと思ったのがれこれ10年も前で、こんな感じでした↓



それが、2016年に改築のため閉鎖され、翌年新たにオープンしました。
Casa oriental Porto
店内の壁ぎっしりに並ぶのは、Saldinha(いわし)の缶詰なり。




缶詰に書かれた数字は年号です。この日、1947と1948(わたしと夫の生まれた年)の年号が入ったのを買ってみました。うっかり者のわたし、店員に「これ、今でも食べられるの?随分古いじゃない?」と聞くと、「いえ、年号はそうですが、これは今年生産されたものですから、大丈夫」ですって^^;

鰯の缶詰

見ると、`47年のわたしのには同年に生まれたDavid Bowie,Elton John、そして夫の`48年のにはGerard Depardieu, Cat stevensの名前が書かれています。味については開けていないのでまだ。一つが7ユーロとはちょっと高いな。


店内の奥天上には、黄道12星座が見られます。

↓こちらも天上にありますが、「Maquina do Tempo」、つまりタイムマシンの歯車だそうです。



Casa Orientalは「Valor do Tempo(Valor=価値、Tempo=time)」と、うたっていますから、なるほどです。

一階は鰯だけですが、2階にはBacalhau(たら)、さば、タコ、ツナなども揃えられています。



以前のようにバカリャウそのものや、その他の食料品が全て取り払われてしまったのは、古い店を知っている者からすれば残念ですが、これも時代の流れと受け入れるしかないでしょう。「新しい船は新しい者が動かす」です。

改築されたCasa Orientalの外装をカメラにおさめながら↓、モダンに変貌した店の3階の窓に干さた洗濯物とのミスマッチを目のあたりにし、あらら、これだけは昔と変わらずだな、と思わずクスッと笑ったのであります。


ポルトのボルサ宮に将軍家葵の紋!?

2018-08-24 16:14:55 | ポルト
2018年8月24日

これまでに何度か訪問したボルサ宮(Palácio da Bolsa)ですが、2014年から2015年に渡り、入り口に面した「ナショナル・パテオ(Pátio das Nações)」の壁画修復が始められたところ、一つの紋章の下から別の紋章が現れ、それが「日本の紋章」だとのニュースが流れました。

ニュースのその年1月に、わたしは雑誌記事取材のためにボルサ宮を訪れたのですが、「日本の紋章」が現れたのはその後の3月のようで、残念ながらその時は知らなかったわけです。

それがこの度、精密なレプリカが公開されたというので記事を読んでみると、なんと日本の紋章とは「葵の紋」のこと。


Wikiより

ポルトガル人の手によるものゆえ、デザインが多少違うような気がしますが、この紋章がなぜポルトの旧証券取引所のボルサ宮にあるのかという謎にぶつかります。

ボルサ宮の詳細については既に書いてありますので、後記で案内しますが、1842年に施工、完成まで70年近くを要しています。皇室の紋章である十六菊花紋でなく、葵の紋章があるということは、徳川時代にポルトと何らかの関わりがあったことになります。

ボルサ宮は完成まで70年を費やしたのですから、その間の歴史を調べてみました。

実はボルサ宮の葵の紋章ですが、昨日のクリスタル宮殿公園とかかわりがあったのです。

1851年の第一回ロンドン万博へ出かけたポルトのブルジョアたちや旧証券取引所関係者たちが、会場として建設されたクリスタル宮殿の素晴らしさ圧倒され、ポルトにも是非とそれを模倣して建設し、1865年にはそこでポルト国際博覧会が開催されました。

その際、欧米諸国に加え日本も参加しているのを知り、へぇ~と思ったのですが、クリスタル宮殿に目が行っていたもので、日本の参加については調べることもせずそのままになっていました。

1865年といえば、大政奉還がなされ徳川幕府の時代が終わる2年前です。ペリーの黒船来航により日本が開国して後の1860年に日本ポルトガル間では日葡和親条約と日葡修好通商条約が結ばれ、215年ぶりに通商が再開されています。

ボルサ宮のナショナル・パテオの上部にの壁に描かれてあるのは、当時、ポルトと深い関わりがあった国々の紋章だといわれ、件のポルト国際博覧会には、1962年に幕府が初めて欧州へ送った文久遣欧使節団が訪れたようです。

さすればこの使節団は福澤諭吉も含む38名となっていますから、大規模な使節団として、羽織、袴、まげを結った一行の姿は人々の記憶に残ったことでしょう。これで、とりあえずボルサ宮にある徳川家葵の紋の謎は一通り解けたと言えます。

それにしても、奇遇が重なり面白い謎解きができたものです。そして、今から150年ほど昔に自分が住むポルトに福澤諭吉達に日本の大使節団がしばし足を停めていたと思うと、静かな感慨が湧いてくるのであります。いやぁ、これだから歴史は面白い!

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。お時間あらば、ランキングクリックをしていただけると嬉しいです。

下記、ボルサ宮関連の過去拙ブログ記事です。クリックしてどぞ。

・「ボルサ宮1
・「ボルサ宮2
・「ボルサ宮:エッフェルの部屋
・「ボルサ宮:アラブの間
・「長崎ポルト姉妹都市30周年記念・ポルトぶらぶら歩き

宮殿がないのにクリスタル宮殿公園とはいかに?

2018-08-24 02:39:21 | ポルト
2018年8月23日

1851年のロンドン万国博覧会を訪れたポルトのブルジョアたちは、パビリオンとなったロンドンクリスタル宮殿の素晴らしさに感銘し、ポルトでもそれを建築しようとの計画で生まれたのがポルト・クリスタル宮殿協会です。

こうして、当時 Campo da Torre da Marca」と呼ばれていた現在のクリスタル宮殿公園にロンドン万博の宮殿を模倣して造られたのがポルトのクリスタル宮殿でした↓


Wikiより    
     
建築家はイギリス人のThomas Dillen Jones. 1865年にはこの宮殿でポルト国際博覧会が催され、ドン・ルイス王により開会式がなされました。


Wikiより

展覧会には、フランス、イギリス、ベルギー、ブラジル、スペイン、デンマーク、ロシア、オランダ、トルコ、アメリカに加え、日本も参加したと言われます。



しかし、残念なこと1952年の「ローラーホッケー・ワールドカップの会場にするため、1951年に宮殿は解体され、その址に建てられたのが、スポーツパビリオン、つまり現在のローザ・モタ・パビリオンです。



クリスタル宮殿の中央のドームがパビリオンの天井に取り入れられ、往時の宮殿をかろうじて偲ばせ、現在は公園にクリスタル宮殿とその名残をとどめているのです。

して見れば、1851年の第一回万博会場となったロンドンのクリスタル宮殿も博覧会終了後、取り壊しを惜しむ声が上がり、ロンドン郊外のシデナムに移設され、後、庭園、コンサートホール、博物館などが併合した複合施設として活躍したそうですが、19367年に焼失。現在はクリスタル・パレス駅として、名前が残っています。


ロンドンのクリスタルパレス。Wikiより

ポルトのクリスタル宮殿は規模的にこれに及ばないものの、ロンドンのように、取り壊しではなくてどこかに移設してほしかったなぁと、思うのでした。


異国でのお盆

2018-08-04 19:11:14 | ポルト
2018年8月4日 

取上げるには少し早いのですが、夏休み中ゆえ家族旅行にでかけることもありますので、ブログにあげそびれるかもしれないと思い、綴っておきます。

終戦2年目にしてわたしは父の故郷である岩手県の雫石に生まれたのですが、子供時代から高校を卒業するまでのほとんどは青森県の弘前(ひろさき)で過ごしました。

時々、その弘前での20年近くの日々を思い出すのですが、一番最初に胸に浮かんでくるのは、「我が家は一貫していつも貧乏だったなぁ」という思いと同時に「けれど、なんて当たり前な、のどかな時代だったろう」ということです。

この頃の思い出話は、興味のある方はこちらで読んでいただくとしまして、

随分前になりますが、8月の時節柄、日本語教室の二人組みの生徒さんに「お盆」の話をしようとしたら、その一人が、

「せんせい、その言葉、知っています。トレイ(tray)でしょ?」と言います。

「お、エラい、よく知っていますね、その言葉。」と、まずは褒めておき(笑)「今日話すのは、そのお盆ではなくて、祖先の霊を祀る日本の行事のお盆です。」 もっとも語源は先祖の霊に食物を供えるのに使った「トレイ、お盆」から来るとの説もあるのですがね。

外国語を学ぶには、もちろん文法も大切ですが、その国の歴史や習慣を知ることも重要だとわたしは思うので、日本語クラスでは機会があれば、日本の行事や習慣の説明を試みます。外国語を学ぶことはその国の文化を学ぶことでもあります。未知の世界の扉を開けることに他ならないとわたしは思っています。

さて、日本の伝統行事では、ポルトガルとは習慣が違うわけですから、説明に色々手間取ったり、意表をついた質問が出されたりして、こちらがハッと気づかされることも時にはあったりします。自分が実際にその行事の経験があると、説明も生き生きとして、授業は盛り上がり、その余韻がわたし自身を当時の思い出にも誘うわけです。

わたしが子供の頃、お盆というと、必ずしたのが家の玄関前での「迎え火、送り火」でした。
灯かりを目印にご先祖さまの霊を「お帰りなさい。こちらですよ。」とお迎えし、送り火は、また来年までね、とお送りするのです。

祖母の家では、割り箸を二本ずつ交互に組み合わせて高くし、それで迎え火、送り火をしていました。

先祖の墓参りには、霊魂があの世とこの世を行き来するために、きゅうりやナスに割り箸を四本刺して、馬、牛の形にした「精霊馬(しょうりょうま)」と呼ばれるものを作って持参し供えました。こんな感じです↓



(画像はwikiより)

9人兄弟で長兄は戦死、残った8人兄弟の一番上がわたしの母でした。南部出身の父は、家族を放ったらかして地方競馬の騎手として岩手県盛岡市に住んでいましたので、母とわたしと妹の3人は祖母の家に、叔父叔母たちと同居し、14、5人の大家族でしたので、墓参りや、月見、お正月の餅つきなどの家内行事は賑やかで大変なものでした。

叔父や叔母がやがて独立して、祖母の家も事情で売り払わなければならなくなり、大家族はちりぢりになって後も、お盆には、それぞれが家族を連れてお墓参り、大勢が墓前で顔をあわせることになったものです。

お墓が清掃されているのや、お供え物がすでにあるのを目にしては、「千城(叔父の名前)がもう来た」などという母の言葉をよく耳にしました。

そうして時代が過ぎ、いつの間にか、一族が揃って顔をあわせるのは、結婚式か葬式になってしまいましたが、母も含め叔父や叔母もみな、ご先祖さまのお仲間入りしてしまった今は、何しろポルトガルに住んでいるもので親戚と顔を合わせることも無くなりました。

お盆が来るたびに、意味も分からず遊びながら精霊馬を作り、祖母や母、叔父や叔母たちと一族が連れ立って、墓参した子供の頃が思い出されます。

そうそう簡単に日本へ帰れない異国にいるわたしは、毎年8月になると、遠い昔のお盆を思い出し、心の中で迎え火送り火をたき、今日まで無事に生きてこれたことをご先祖さまに感謝いたします。