ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

日本語生徒と平家物語「扇の的」を読む

2018-09-27 18:04:06 | 日本語教室
2018年9月27日
 
週末のグループレッスンや出張授業除いて、日本語を習いに自宅に通ってくる生徒さんが数人います。年齢層は17歳から84歳まで。
今日はその中の、我が日本語教室で最高年齢の生徒さん、アルフレッドさんの話です。

彼の日本語学習暦はかれこれ17、8年になるでしょうか。自宅外でわたしが初めて教えた、とある小さな日本語教室で出会ったのが最初です。その時既に60歳を少し越えていました。1年少しほどして、その日本語教室は閉鎖に追いやられ、その後、アルフレッドさんは夫人と一緒に、ポルトの自宅をそのままにして、娘さん家族が住むドイツへ孫の世話の手伝いに引っ越して行きました。

引っ越した当時は、メールや葉書で連絡を取り合っていたのですがそのうちに音沙汰が途絶えてしまっていたところ、6年前のある土曜日に、日本語コースを開いていた市立図書館の教室にひょっこり顔を出したもので、まぁ、驚いたこと!

聞けば夫人が亡くなり、半年くらいずつ、ドイツ、ポルトを行き来している現在とのこと。そこで、もう一度日本語を教えてもらいたいとの申し出でした。ドイツにいた数年間は、親切な日本人のご婦人に文法はその方はできないので、わたしがお別れにとあげた日本の中学生の国語教科書を中心に、日本語の本を一緒に読んでいたのだそうです。

漢字検定試験は5級までパスしていますので、漢字の指導はしませんが、日本語中級の読解力テキストを中心に目下進めています。しかし、これだけでは飽きてくることもあり、間に時々、日本語での短編やエッセイを取りいれることにしています。

こういうときにわたしが取りあげるのは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、向田邦子の作品、太宰治の「走れメロス」、翻訳物になりますが、O.ヘンリーの「二十年後」などなどです。「蜘蛛の糸」などは仏教も関連しててきますので、背景を説明するのにこちらもとても楽しい勉強になります。

少し、難しいかな?と思いながら今回取り上げたのが、中学2年生の国語教科書にある「平家物語:扇の的」です。



その教科書には、かの有名な冒頭部分、
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 紗羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」
が、載せられていないので、そこから始めました。

現代文と古文とを照らし合わせての源平合戦屋島の戦い、那須与一が小船に揺れる平家方の扇を見事、射落とす場面ですが、アルフレッドさん、教科書にある鎧兜の名称についても質問してくるものですから、わたしも久しぶりに古文を勉強し直すと同時にやネットを活用して当時の平家方の衣装や日本古来の色彩の呼び名の勉強になり、さてもさてもいったい喜んでいるのは生徒か先生か、ではあるけれど、大いに楽し^^ 


ネットからのイラストも利用しました。

那須与一や平敦盛のエピソードは亡き母から昔話として小さい頃に聞かされていて記憶があるので、小難しい古文も何度も朗読して読み返しているうちに、なぁんとなく分かってきた、という高校時代のわたしではありました。

今回は教科書に載っている場面のみならず、那須与一のその後の説明を下のように試みてみました。

屋島のこの活躍にも拘わらず、与一は義経の手勢だったがため、合戦後、頼朝からの褒賞も少なく、頼朝の御家人だった梶原景時に、「忠義の侍とは、鎌倉殿のおんために射てこそ真の御家人。美しい女性が掲げた扇などを見世物のように射たとて、なんの自慢ぞ。武者の命を誰のものと思う。言語道断な」と、その誉れを罵倒されたとの話があります。与一はやがて出家し34歳で亡くなったとの説があります。

エピソード「扇の的」では、那須与一が見事、扇を射落とすところで終わるので、勢力を上げてきた源氏側の手柄話と捉えられがちですが、テキストにはできればこのことも余談として入れられていればいいのになぁ、与一のこのオチはいかにも「諸行無常」「哀れ」を語るではないかと思われるのですが、いかに。

とは、読後感としてアルフレッドさんと語りあったのでした。

アリゾナの空は青かった:アリゾナ・ノスタルジー

2018-05-05 20:52:06 | 日本語教室
2018年5月5日

エッセイのタイトルに「ツーソン留学記」と堂々と掲げているものの、あつかましい(笑)

後にその訳を明かすのですが、移住するつもりで渡ったアメリカ大陸でしたが、志を翻し、実は半年で日本へと、とって返したわたしでありました^^; しかし、このわずか半年のアリゾナ生活は、その後のわたしの人生の指針になり、方向づけしてくれたような気がします。

たいしてお金は持っていなかったので、帰国すると決めた後も、思い出の品物は皆目買いませんでした。「これが若き日に訪れたアメリカの記念品だぜ。」と、だから、しみじみと手に取って眺めるものはほとんど皆無。あるのはこれのみです。



ツーソン周辺にはインディアン保護地区がある。シンプルなインディアンアート細工が施された銀のバングル。奮発して4つ手に入れたが、ひとつは我がモイケル娘が今は保持する。

アリゾナの思い出は、茫洋とした記憶のなかで漂っては、時折ひょこっり姿を現す。その時に決まって脳裏で流れてくるBGMが、トム・ウエイツの「Waltzing Matilda」であり、「 I wish I was in New Orleans」だ。

ハウス・シェア仲間の一人、ジョンはエピソード②でも、ちょこっと言及したツーソンのカレッジの歴史講師です。夜間授業をしており、日中はというと、いつの日か自分の歴史本を出版したいと原稿を書いているだった。


8時半からの大学のESL授業を終えて帰宅する午後、927番地のドアをあけると、直ぐがリビングルーム、それに続くダイニングホール、そして、その向こうにある裏庭に面した縁側のような小さな細長いスペースがジョンのお気に入りの場所だ。タバコをくわえ、アンダーウッド・タイプライターを打っている。ノミ市ででも買ってきたような、旧式のステレオに載せられ、家中いっぱいに流れているLPレコードのトム・ウエイツ。ジョンがいつも聞いていた音楽だ。


このドアの向こうに・・・

   ♪あぁ、ニューオリンズにいたらなぁ
    夢に見えるようだぜ
    みんなと腕組み合って
    バーガンディーのびん持ち 酒盛りをする・・・(spacesis勝手訳)

この歌とアンダーウッド・タイプライターを打つパチパチとした音は不思議に融合し、夕闇が迫りランプシェードの薄明かりの中に浮かび上がる、痩せた背中を少し丸め、前のめりになったジョンの姿は、まるで一枚のシルエットのように、今でもわたしの心に残っている。

ジョンに誘われて、わたしは一度彼の夜間の歴史講義を聞きに、カレッジへ行ったことがある。(←偉そうに書いてるが、なにを隠そう、内容は皆目分からなかったのだ^^;) それはアダルト・スクールと言われる、アメリカ特有の夜間学校コースの一環で、様々な職種の人が、居眠りもせず講義を真剣に聞いていた。

今でこそ、日本でも一部の大学の門戸が一般社会人に開かれ始めているが、これは35年も前の話で、授業料も日本のそれとは比べられないほど安く、多くの人が受講できるようになっていた。アメリカの教育制度の豊かを当時のわたしは感じずにいられなかった。やる気のある者には、チャンスのドアが開かれる。そのドアを押すか押さないかは自分次第である。少なくともあの頃のアメリカはそんな風に思われた。

その時、初めて「あぁ、アメリカに来たのだ。」と震う思いに襲われたのだった。

トム・ウエイツ「ニューオーリンズに帰りてぇ」。トムのダミ声はご勘弁。しかし、聞きなれるとすごくいい感じが出てるように思われてくる不思議な魅力があります。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。


月下独酌

2018-01-13 00:12:22 | 日本語教室

2018年1月12日

日本語教室の話です。

我が生徒の最年長者83歳のアルフレッドさんとの日本語授業でのこと。

現在、二人で600ページ近くに及ぶ「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」を勉強しているのですが、9世紀から10世紀初頭にかけて生きた、在原業平の甥、大江千里(おおえのちさと)の23番歌を読み終えた時のことです。

在原業平とくれば、今で言う「イケメンもて男」。人気漫画のタイトルともなっている「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」の作者でもあります。また、古今和歌集に納められている業平の歌にはわたしの好きな、「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」もあり、優れた歌人だと言われます。

しかるに、このもて男の業平は小野小町を口説いて、実は振られていたのだそうですよ。この本で知ったことですが、単なる歌の解説に終わっていない点がこの本の面白い点で、アルフレッドさんとああだ、こうだと言い合いながら(ポルトガル語、英語でのディスカッションです)、楽しんで学んでいます。

さて、その業平の甥、大江千里の歌、

月見れば
千々に物こそ 悲しけれ
我が身ひとつの 秋にはあらねど

月を見上げると、心が千々にに乱れて悲しくなるなぁ。わたし一人の秋ではないのだけれど
(現代語訳:「ねずさんのねずさんの日本の心で読み解く百人一首」引用)

大江千里は漢学者でもあり、この歌も「燕子楼(えんしろう)」という漢詩が元歌なのだそうです。
下に読み下しを記してみます。

満窓(まんさう)の明月、
満簾(まんれん)の霜

被(ひ)は冷やかに、燈(とう)は
残(うす)れて臥床(ふしど)を払ふ

燕子楼(えんしろう)の中(うち)の
霜月(さうげつ)の夜

秋来(きた)つて只
一人(いちじん)の為に長し

この漢詩を機に、アルフレッドさんの提案で、李白の「月下独酌」なる詩を勉強してみました。下記、ネットで拾ったものです。

花間一壺酒  花間 一壺の酒
独酌無相親  独り酌みて相ひ親しむ無し
挙杯邀明月  杯を挙げて明月を邀へ
対影成三人  影に対して三人と成る
月既不解飲  月既に飲むを解せず
影徒随我身  影徒らに我が身に随ふ
暫伴月将影  暫らく月と影とを伴って
行樂須及春  行樂須らく春に及ぶべし
我歌月徘徊  我歌へば月徘徊し
我舞影零乱  我舞へば影零乱す
醒時同交歓  醒むる時同(とも)に交歓し
醉后各分散  醉ひて后は各おの分散す
永結無情遊  永く無情の遊を結び
相期獏雲漢  相ひ期せん 獏(はる)かなる雲漢に

漢字が分かる日本人にとって、漢詩はなんとなく意味がつかめますね。月と自分の影を相手に酒を楽しんでいる訳ですが、興味ある方はネットで検索していただくとして、普段は山で生活をし、日本語授業がある時にポルトに下りて来るアルフレッドさん曰く、「この詩はまるでわたしの山での生活を歌っているようです」。

聞けば、彼の山の家の周囲にはポルトガルでは見られない桜の木や銀杏の木が植えられ、ベランダからは月が昇ってくるのが見えるのだそうな。「いらっしゃい、いらっしゃい」と言われながらも、まだお邪魔していないわたしです。

この時わたしはかれこれ10年以上も昔、木彫家の我が親友の山房での一夜を思い出しました。日本庭園を前に、和室の縁側で向こうに見える山並みと煌々たる月を眺め、漬物を肴にして和歌山の地酒「黒牛」を飲みながら、ポルトガルの、そして、彼女の四方山話をお互いポツポツと夜通し語り合った忘れられぬ夜のことです。


庭から山を望む

気が付けば、いつの間にか二人で一升瓶を空にしていたのでした。それが不思議と酔うこともなく、「酒は静かに飲むべかりけり」とはこういうことかと思ったものです。



座敷の横の縁側で一晩中静かに杯を傾け。

 

漢詩の最後、「ともあれ月と影と親しく交友し、遥かな銀河での再会を誓おう」と訳せる「相ひ期せん 獏(はる)かなる雲漢に」は、胸にジンと響くものがあります。

この春の帰国では、3年ぶりに親友を和歌山に訪ね、この詩のにわか講釈を披露してまいりました。ワインよりも、ビールよりも、美味しいお酒を素敵な酒器でいただきたいと思うこの頃、ポルトではそうも粋真ッ線が、毎晩軽く日本酒を晩酌とする妹夫婦との再会も、帰国の楽しみの一つなのであります。

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。
ではまた。

カズオ・イシグロとわたしのボランティア活動

2017-10-08 09:56:49 | 日本語教室
2017年10月8日 

夫が運転する車中で「カズオ・イシグロが今年のノーベル文学賞受賞」のニュースが流れました。

「英国人と言ってるけどカズオ・イシグロって日本人の名前じゃない?」と夫が聞く。
そそ、日本人だったけど家族と英国に移って後に英国人の国籍を取得した作家よ。作品に映画化されたものがあるし、わたしは彼の短編「Family Supper」を読んだ事がある。日本人というよりむしろ英国人かな、と夫が知らなさそうなので、実は少しばかり自慢っぽく説明したのでした。

カズオ・イシグロという日系英国人作家をちょっとしたいきさつで知ったのはかれこれ10年以上も前のことです。

この区域の高校で先生をしている我がフラットの前に住む女性が、「英語を教える同僚がいて、教科書でフグという毒魚を食べる短編を授業でしたのだが、日本文化に生徒が興味を示している。誰か日本人を知らないかと聞かれた。ユーコさん、してもらえない?」と申し出があったのでした。

してもらえないかというのは、つまり日本文化紹介の授業です。それが2004年だったと思います。その時に参考にもらった教科書のコピーがKazuo Ishiguroの短編「Family Supper(邦題は夕餉)」でした。

作家の名前は初耳でした。話が来たときは、日本文学の英訳したものを授業で使っているのか、あまり褒めたものではないじゃないか、などと鵜吞みにしたのですが、調べてみると、この作家は幼児期に家族と渡英した帰化人とあるのです。

その作品がポルトガルの高校の英語教科書に載るなんて、名誉なことだなぁと感心し、結果、わたしは胸ドキドキの思いで、ポルトガルの高校生相手に初めて教室で英語で授業をすることになったのでした。

その後、更に2度に渡り同高校で毎年「Family Supper」の単元がやってくる毎に、ボランティア授業をしてきました。

これがわたしの日本文化紹介ボランティア活動の出発になったと言えます。そのような訳でわたしのボランティア活動とカズオ・イシグロは切り離せないものなのです。

彼の作品で映画化された「The Remains of the Day(邦題:日の名残り)」は、アンソニー・ホプキンス主演の旧英国の卿に仕える頑固なまでプロフェッショナルな黄昏時期に達した執事の人生を描いた秀作です。原作者の感性は日本人ではなくイギリス人そのものだと思いました。

下記、3度目のボランティア授業の様子を過去日記から引き出します。

2008年2月12日(火) 日本文化紹介ボランティア

行って参りました、高校でのボランティア授業。
夕べ午前2時まで下準備。それでも終わりきれず今日の午前中ギリギリまでタイプを打ったり、展示する物を引っ張り出したり。下が持っていったもの一式です。


左に丸めてある大きなポスターは我が同窓生が送ってくれた弘前公園の桜まつりの写真。その他、言葉で伝えるよりも目で見た方が分かりやすいものの大きな写真コピーも。

もちろん、夕べから今日の午前中ギリギリまでタイプした授業のための英文トラの巻き5枚もしっかりと^^
これを見て棒読みするわけではないのですってば^^;こうしてタイピングすることで話したいことがだいたい頭に入るのであります。



我が家から車で10分ほどのところのErmesindeという区域にあるリセウです。写真は校門を入った正面にある校舎の一部で、そこから校内に入りました。

「2年前に入った校舎と違うな?」と思いながら、ここでフランス語とポルトガル語を教えている友人から依頼してきたポルトガル人の英語の先生を紹介され、授業をしてもらう場所ですと、彼女に案内されたところが・・・↓ここ・・・



うげ!オ、オーディトリウムじゃないの!

そんな話は聞いていなかったぞぉ~。それにプロジェクターはあるが、わたしの好きな黒板がないではないか!簡単な漢字も三つ四つほど覚えてもらおうと準備してきたのに@@
家を出るときに自分の黒板を持っていこうかな?と一瞬その考えが頭をかすったのだが、やっぱり我が勘は正しかった^^;と、しつこく黒板にこだわるspacesisではある(その訳はこちら。笑)

ああだらこうだら言ったところで仕方がない。授業開始時間までの15分ほどの間に、持ってきた小物を並べ、弘前公園や京都の庭園、紅葉のポスターを壁に貼る。


小物は雰囲気を作るためにこんな風に並べて出来上がり。

「生徒さん、入りますよ。」と声がかかり、ゾロゾロ入ってきた生徒の数は70人ほど。後で聞いた話が3クラス合同だったそうで。これも予期してませんでした。てっきり2年前同様、普通の教室で20人ほどの授業だと思い込んでいたのです。

授業の内容は
1.日本の重要な行事。
2.日本が大きな技術発展を遂げた理由は?
3.日本文化と日本社会について。
4.日本社会が閉鎖的な理由
5.日本の物価
6.伝統的スポーツ、気候
7.フグについて。(授業の課題がイシグロ・カズオの短編「Family Supper」。この物語にフグが出て来る)等等。

ちなみにこちらは英語の授業は英語で行われますから、わたしも英語でとの依頼。しかし、今回資料作成でタイピングしてみて、スペルの訂正表示がい~っぱいでした。話すときはスペルを気にしないでいられるものの、これはいかん・・・

言葉は生き物。使わないと日々こぼれ落ちて行くことを実感。息子の日本語のこと、あまり言えません・・・

お喋りすること1時間ちょっと、終了後は花束と有名店のチョコレートを頂いて来ました。そして、前回J-ポップを紹介しようとチャゲアスの歌、「On your Mark」CDを持っていったつもりが、間違って別のを持っていき、ガーーンでしたので、今回は確認してラジカセごと持って行ったのですが、寝不足がためか、CDをかけること自体しっかり忘れておったのでした^^;

ポルトの高校生にJ-ポップを聴かせられるのはいつのことやら・・・

とまぁ、相変わらずトホホなわたしでありましたが、カズオ・イシグロ氏、ノーベル文学賞受賞、おめでとうございます。そして、小さなことですが、イシグロ氏の作品がきっかけで貴重な体験を得ることができた幸運に感謝するものであります。

日本語教室新学期始まります!

2017-09-26 10:21:41 | 日本語教室
2017年9月26日
 
行きが4時半起きのリスボン経由、帰りが午後1時発で同じくリスボン経由のローマ旅行でしたが、帰りは約1時間遅れのローマ出発で、慌てました。

リスボンからポルトへの便乗り換え時間が1時間半足らずです、順調に行けば問題ないものの1時間遅れの出発は、もうあかんではないの。こんなこともあろうかと、順調なら夕方6じにはポルト到着で必要ない外ネコ内ネコの食事の世話を、お掃除のおばさんには到着日の晩御飯も頼んであったのでした。

で、結果はと言いますと、リスボンにはポルト行き出発20分前に到着、ゲートを出たところでラストコールを聞き、駆け出しましたぞ。荷物がバッグだけだったから出来たものの、この歳で走らせられるのは勘弁してよ^^;

リスボン空港が小さかったのも今回はよかった、と言うことで、無事搭乗することができましたが、預けた荷物は勿論翌日配達になりました。たった5日間でしたがやたら疲れた今回のローマ旅行でした。

実を言うと、いつもなら旅行先にスマホを携帯し、フェイスブックやインスタグラムに、「ローマ、なう!」とか「コロッセウム、なう!」なぁんて写真の投稿をするのですが、出かける前に我がスマホ、2度目の画面真っ黒の故障と相成り、残念ながらその楽しみを奪われてしまいました。

が、考えてみれば、パソコン、スマホ、テレビ(ホテルのテレビは全てイタリア語吹き替えだったので全く見なかった)の液晶画面から目が開放され、ひたすらローマの街を歩き回り、ゆったりの夕食後、寝るという原始的な生活こそ、休暇というのかも知れません。

やたら疲れたのは旅行のせいではなく、疲労回復に時間を要するようになった己の年齢でござんしょか(笑)ローマ旅行については、おいおい綴って参ります。

さて、これで我が夏休みは終わり、ローマから帰宅するなりメール処理に追われ、昨日から日本語教室中心の通常の生活が再開しました。

今回はマンネリ化した日本語指導をなんとか脱皮してみたいと授業の進め方を変えるため、準備に時間がかかっていますが、生徒たちが「おろ?」と喜んで飛びついて来てくれることを願いながら、自分が楽しんでいたりします。

いざ、参りますわよ!