ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

終活序曲:ロッカー式納骨堂

2017-10-31 10:23:14 | 日記
2017年10月31日

気のあった者同士、いつもの日本人の4人仲間で先週日曜日はポルトダウンタウンのレストランで昼食をしました。

私たちがよく利用するポルトガル伝統料理のレストラン「Solar Moinho de Vento 「風車」の意味。

ポルト在住期間が39年に入った長老のわたし(!)を始め、同年代二人、それに私たちから見るとまだまだ若いOちゃんと、各々、ポルトガル人の連れあい抜きの会食ですから、みな本音が出ること!その間柄ゆえ、久しぶりに会っておしゃべりするのが楽しいのです。

かつては子育て、子達の日本語教育等が我らの話題の中心でしたが、やがてその子どもたちも、Oちゃんのを除いては独り立ちし、うち、我がモイケル娘を含む3人は所帯を持ちです。長年共にポルト補習校に携わってきた同僚だったI氏には既に二人の孫がおり、「次はあんただね」と今回は囃し立てられて参りました。が、こればかりは天のみぞ知る。

それが近頃は話題の行き先が老後を越えてその向こう、つまり終活となるのが、近頃定番話題になって来た我らであります。仲間の一人が、実は時間的、距離的に墓守も大変なので兄弟で話し合った結果、日本での墓地を売ろうとしたところが、お寺から「では、土地を平地にして返してください」と言われ、その費用に200万円かかると言われた、とのこと、なんとまぁ!!

してみると、亡くなった我が母の実家、弘前にある先祖代々の墓もおじたちの連れ合いたちも分骨などして、現在墓守をする従弟も子供がいないもので、先の問題がもちあがっているのを耳にしましたが、核家族化し、少子化になり、古い慣わしが消滅しつつある事態が、都会のみならず田舎にも押し寄せているのだなぁ、と思わされた一件でした。

ポルトガルと言えば土葬の習慣でしたが、近年はCremaçãoと言って火葬を望む人が増えて来、習慣の変化はこの国にも色々現れてきています。で、今回わたしたちの終活話で持ち上がったのが、ロッカー式納骨堂です。

ポルトガル語でColumbário(コルンバーリオ)と言います。先祖代々の墓地があれば別ですが、それが田舎にある場合は、新しく墓地を買い求めたりするのですが、高いのです。何しろ横たわっているわけで日本のお墓のよりスペースが要ります。それで、近年出てきたのがこのコルンバーリオで墓地の一角にこんな感じで設置されています↓


columbario1.jpg

う~ん、あまり入りたくないな、と見た目に思ったものですが、同じポルトに子供たちが住む友二人と違い、夫とわたしの場合は娘はもう日本在住確定ですし、息子も今のポルトガルの状態では帰ってこない確立が高い。

ならば、誰も来ぬ墓地などあっても仕方あるまい、あるいはこのロッカーも要らないかもね、と夫と話していたのです。すると、ある日、突然夫が「買ったよ、将来の家」と言うではないですか(笑)

えー!、どこに?いつの間にそんなお金、持ってたの?と問うと、「だから、ほら、近くの墓地に」 がーーーん!
何が将来の家よ、冗談きついよ。聞くと義兄も義姉も同じブロックに買ったという。なんだかなぁ、と思いながらもさすが仲のいい兄弟だわい、と受け入れざるを得ないのでありました。

わたしたちからするとまだまだ若いOちゃんそっちのけで、60代の我ら(11月半ばまでかろうじてひっかかっているわたしだw)、レストランで食事しながらこんな話に盛り上がり、わーっはっはと時に大笑いしていたとは、満席の周囲の客たちはつゆ知るまい。

どうもどうも皆様、、本日は滅相もない題材でごめん遊ばせ。

実は明日11月1日、ポルトガルは「Todos Os Santos(All Saints Day)」にあたり休日、みなさんこぞってお墓参りをするのでありますれば。

本日はこれにて。

レストランにペットの犬同伴は可?

2017-10-30 23:21:00 | ペット
2017年10月30日 昨今、ポルトガルで話題になっているのに「レストランへの犬同伴」に関する条例設定の問題があります。


我が家は現在4匹のネコを飼っていますが、かつては犬のクラウディウやポピーと共に数匹のネコを同時にかった時期もあります。我が子たちは動物好きです。

息子はリスボン時代に2匹のネコの里親をし、ポルト帰省のたびに大事なギターとネコを連れてきて、我が家のネコたちとは馴染まず、ゲストルームを息子のネコが占領するという、なかなかに大変な状態でした。

我がモイケル娘にいたっては現在も3匹のネコを引き受けて以来かれこれ14年になります。娘が最初に引き取った二匹のネコはまだ自力でミルクを飲むこともできず、ちょうどわたしが日本へ帰国していたので、スポイルで数時間おきにミルクを飲ませたりして、その世話をするのにわたしも付き合ったものです。



また、わたしはと言えば、近所のジョアキンおじさんの畑のネコたちの餌運びをして、もう15年くらいにはなります。毎晩のことですから、これは夫も呆れ果て、すっかり諦めの心地でありましょう。自分が風邪などで寝込み、夫の夕食は作らずとも、ネコの餌運びだけは必ず起きて行くのですから、我ながらよぉやっとるわ。

かつて20匹ほどもいたジョアキンおじさんの畑の猫たちも動物愛護協会のボランティアが一匹ずつ捕まえては避妊手術を施し、コロニーに返すわけですが、気が付けば今は3匹だけになってしまいました。



こうなると、確かにノラ猫はいなくなるのですが、生態上それも考えものかもしれないと思ったりします。

家ネコよりも外のネコの方が餌代がかかるのでした。また、旅行や日本帰国の際には、家ネコ同様外ネコの世話も人に頼んでいくことになりますが、自分ができるうちは続けたいと思っています。

かようなわけで、わたしもワンニャンは好きで家族の一員のような気持ちで世話をしているのですが、さて、レストランやカフェへ連れて行くかとなると「否」です。

一つには衛生面です。自分のペットなら家の中に引き入れても自分が衛生面を判断すればいいというので済ませられますが、レストランとなると別でしょう。自分のペットが感染症にかかっていないと思っていても間違いということも有り得ます。犬のアレルギーがある人もいたりします。衛生面でペットがレストランにいるのはよくないと思う人は多いでしょう。

ポルトガルのTwiterなどを見てみると、やはり意見は反対も多いのでス。中には「レストランに入れる動物は死んだ動物だけだ(つまり肉類ですw)」などと書き込む輩もおり。

二つ目は、ペットを持つ人の権利はそれでいいとして、では、犬をレストランへ連れて行かない、犬は苦手だ、などの他の客の権利はどうなるのか、です。

三つ目、家族の一員だから一緒に食卓を囲むためにペットを同伴するのなら、ペットも共にレストランで食事をする?そうじゃないとすれば、美味しそうな食べ物の匂いが充満するレストランで、ペットは我慢を強いられることになるのではないか?それは極端に言えばそのうち虐待だと言い出すことにならないか?

四つ目、犬がいいとしたら、ネコはどうなのか?インコは?なぜ犬だけに特権が与えられるのか?

この条例が議会を通るとしても、恐らくレストラン経営者の決定に任せることになるのではないかと思いますが、入ったレストラン、ふと周りを見回せば、ワンちゃんだらけということを想像するのは、あまり嬉しいものではないとわたしなら思うのですが。

犬同伴の客を一日何人と限定するのだろうか。禁煙席、喫煙席のように犬同伴席、そうでない席と区別するだろうか。
あれこれ考えて、わたしはやはりレストランへのペット同伴はご遠慮願いたい、が、結論であるのだが、みなさまはいかに?

我が家の4匹ネコの2匹

IKEAのおもちゃベッドでご満足のクルルとペト。やがてベッドの取り合いが始まったのでありました。

ポルトの路地:Rua do Soto

2017-10-29 08:28:23 | ポルト
2017年10月29日 

久しぶりにポルトの路地をランダムに歩いて見ました。

ポルトの路地を歩いて写真を撮り始めてから、13年くらいになるでしょうか。 当時は人影もなく治安は大丈夫だろうかと心細い思いで歩いたものでしたが、「一度は訪れてみたいヨーロッパの街」のトップにポルトが選ばれた今、ツーリストの姿はこんな路地でもたくさん見かけられるようになりました。

今日は写真を掲載します。

ダウンタウンへ行く時に利用するメトロのイエロー線。





窓辺。下は同じ場所。昔ながらの人々の生活がうかがえる。


今日の路地はサンベント駅からドウロ川べりリベイラに向かう長い坂道、Rua Mouzinho da Silveira(Rua=通り)から、この噴水(ポルトガル語ではChafariz=シャファリス)がある小さい坂道を入るとRua do Sotoです。



Rua do Sotoは、川沿いのリベイラに下りて行く広い道、Rua Mouzinho da Silveiraに面しているのですが、この通りは19世紀半ばまで「Rio da Vila(ヴィラ川)」だったとわたしはポルトガル語のDias先生と読んでいる本で学びました。この通りの下を今も川が流れています。

どんな街も少しの歴史を知って歩くと俄然面白いものになりますね。






ダン・ブラウン、キンタ・ダ・レガレイラを訪れる!

2017-10-23 08:28:33 | シントラ
2017年10月23日 

2007、2008年以来、確認のために何度も訪れて来たシントラのキンタ・ダ・レガレイラ(レガレイラの森)を、今回はダビンチ・コードシリーズの著者ダン・ブラウンが訪れました。



ニュースではダン・ブラウンがレガレイラの森にある「ダンテ新曲の井戸」の石の扉から入り、Fantastic!すごい!と連発する映像が流されました。


ダン・ブラウン氏にはトマールのテンプル、キリスト騎士団修道院をも是非訪れて関連したミステリー本を書いて欲しいものだと切望するわたしです。

キンタ・ダ・レガレイラを別ブログで取り上げたのは日本語では恐らくわたしが初めてではないかと思います。シンボルが一杯のすごい森なのだと発信していたところが、今では多くの訪問客の中に日本人ツーリストもたくさん見られるようになりました。

実はわたしの中では、キンタ・ダ・レガレイラはまだ不完全な案内に留まったままで、本当の追っかけ、推理はこれからだと言えます。ここ数年、ポルトガル語のディアス先生と週に一度、ポルトの歴史本を読んでポルトガル語を勉強して来たのは、最終的な目的がキンタ・ダ・レガレイラについて出版された原語の本を読むことにあるります。

幸いにディアス先生は神学を勉強なさり宗教には詳しい方で、わたしのヘンチクリンな質問にも付き合ってくださる。下記の分厚い本を一緒に読んでいただこうというのがわたしの目論見なのですが、果たして同意してくださるかどうか。現在読んでいる二冊目のポルトの「通り」の歴史本完読後に、持ちかけるつもりでおり、いいよ、と言っていただけたとしたら、恐らく来年には読み始められると見ています。



ミステリアスな事も去ることながら、この9月に訪れたバチカン、システィナ礼拝堂の天井画を描いたミケランジェロのように、カトリックが支配した近世のヨーロッパで、神秘主義やメーソン、エルメス主義、錬金術などの異教に傾倒する人たちがどのように自分たちの信条を隠しつつ表現して生きたかに、わたしは大いに興味を持ちます。

キンタ・ダ・レガレイラは、そういった時代を生きぬいた、カトリックからするとPagan(異教徒)とされた人達がシンボルを使用することにより分かる人には伝わるようにと、あまたの秘密が刻み込まれたポルトガル随一の摩訶不思議な森です。

実は日本のバブル期に青木建設が一時期所有し住居として使われていたことはあまり知られていませんが、なぜ買い取ったのか、いったい誰が住んだのか、この辺も大いに興味があるところです。

この秋から、これまで日本語教室で使用してきたテキストが少し物足りなく感じられ、自ら文法説明と口語、短作文練習を含めたものを作成し始め、その仕事に追われてブログ更新が遅れたりしていますが、ダン・ブラウンのレガレイラ訪問で再び探求したい気持ちが再びググッと持ち上がって来ました。

新情報も加えて再度書いていきたいと思います。

振り返ればヤツがいる

2017-10-18 22:14:10 | 思い出のエッセイ
2017年10月18日 

「先生、ぼくのケンドー、見に来ませんか?」と日本語生徒のD君に誘われたのは何年か前になる。

昔、大阪の堂島で会社勤めをしていた頃、みんなが「ブーヤン」と呼ばれていた同僚Sの剣道稽古を見に行った時の「ヤー!ットゥー!」と強烈な印象が残っている。子供時代に棒っきれを振り回してチャンバラごっこに明け暮れたわたしは、ケンドーの名に惹かれ、夫を引っ張ってポルトの剣道場に行った事がある。

場所はBessaのサッカー場の隣、ボアヴィスタのパビリオン内です。その日は特別の稽古日で、リスボンから日本人の師範が指導に来ていました。



その日の稽古は面も胴もなし。二列に向かい合って並び、一技終わるごとにずらして対面する相手を変えて行きます。稽古場の両側の壁は一面鏡になっています。

これは神道、ひいては武士道につながる「鏡は人間の心の表現であり、心が完全に穏やかで、一点の曇りもないとき、そこに神明の姿をみることができる」を期しているのだろうかと、新渡戸稲造著「武士道」を思い出しました。

「ヤー!ットー!」の掛け声とともに、竹刀がバシンとぶつかる激しい稽古を期待していったのですが、それはありませんでした。みな、真剣に師範の動作を見、話に耳を傾け、動作はいたって静か。

静寂な稽古場に時折響く「ヤー!」の声は、時に自信たっぷり、時に自信なさげで、個人の気合の入れ方がそのまま出ていて、面白い。

ポルトガル女性が二人と、日本女性が一人(時々稽古相手に指導していましたから恐らく先生の代理)が、おりました。

さて、ここから本題です。

近頃ではさっぱり音沙汰がなくなったが、アメリカ、カリフォルニアに住み、中年になってから剣道を始めた友人がこんなことを言っていた。

「防具をつけてからと言うもの、死ぬ思いだ。こてー!と叫んで、しこたま手首を打ってくれる。痛いのなんのって、ほんとに頭にきて、竹刀を捨ててなぐりかかってやりたいぐらいなのだ。華麗どころか喧嘩ごしだ。」

「練習が長いと息が続かない(なんしろ中年だからね。笑)、足が動かない、汗びっしょりで頭痛が始まる。練習始めの早や打ち百篇でもう帰りたくなる。」

一緒に剣道を始めた長男が「お父さん、なんでそんなに苦しんでまで剣道へ行くの?」との問いに、アメリカ人の奥方いわく、「お父さんはね、仏教でいう苦行をしてるのよ!」(爆)

剣道を始めたきっかけはというと、ある日、多少出てきた腹を吸い込み、横文字新聞紙を丸めて子供たちと太刀さばきを競ったところが、おとっつぁん、気が入りすぎ、力任せ。それをまともに面にくらった息子が大声で泣き出し果し合い中止。

「いい年して、何ですか!」とまるで、小学生を叱る先生のごとき威圧と、こんなショウ-もない男となぜ結婚したとでも言いげな奥方の呆れ顔だったのだそうな(笑)

わたしは手紙で彼の剣道の話を読むと、昔、我がモイケル娘と取り合って読んだ「ちばてつや」の漫画、「おれは鉄兵」シリーズを思い出して、おかしくて仕様がなかったものだ。
 

Wikiより

「試合でさ、竹刀構えてしばらくシーンと向き合うだろ?それでよ、突然、デカイ声で、あっ!と言いもって、床に目を向けるのだ。すると、人って面白いぞ、釣られて相手も下をみる。そこを狙っておめーーん!」

おいおい、お前さん、それはだまし討ちじゃんか。することがまるで鉄兵そっくりだ、と言いながら、その光景を想像すると鉄平のハチャメチャな場面が思い出され、おかしいったらない。そ、くだんの彼も、鉄兵のようにチビなのではあった。

「剣道も人生も同じです。小さいとか歳だとか、言い訳はしないことです。数年前の少年部の日本チャンピョンは片腕の少年でした。」(片腕の少年チャンピョンの話は、わたしもどこかで読んだことがある)と自分より10歳以上も若い師範の話を聞き、以後、かれは奥方の毒舌、失笑にもめげずに遣り通すと決めたらしい。

企業家としてアメリカである程度成功したその後の彼の姿を、時折わたしはネットでグループ写真の中に見ることがある。今では剣道から拳法に移ったようだ。自分を棚に上げて言うのもなんだが、相変わらず小柄で髪も口ひげも白くなり、しかし、贅肉が見れらず、どことなしに飄とした感がしないでもない。

おぬし、何かを掴んだかなと思われる。この具合だと真夜中の酔っ払い国際電話ももう入ることはあるまい。やっとヤツからの真夜中の電話から開放され幸いだと思う反面、心のどこかで不意打ちの電話を待っている自分に気づき、少し寂しい気がしないでもない。