ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

アリとキリギリス 

2018-08-25 20:45:02 | 家族の話
2018年8月25日 
 
息子がまだリスボンに住んでいた頃のことで、かれこれ10年ほど前になる。
普段はメッセンジャーに上がってくると午後でも「ohayo」と向こうから声がかかり、「hoihoi」の母親の返事で始まるわたしたち親子の会話は、お互い今日も元気なのを確認するだけのようなもので、ほとんど長話にはならない。

それがある日、多分お互いに夏休みだということもあったのだろう、彼の好きな音楽作曲の話から人生論じみた会話に発展。息子がその頃したいことや、わたしの当時の職場についての話、これから先のわたしの人生計画にも話が及んだ。

「人生計画ってspacesisさん、そろそろ墓場にそろ~りと片方の足くらいは入りそうな歳になるのでは?」と、口さがない人には言われそうだが、私自身はいい気なもので、人生はまだこれからだと思っている。

わたしの第一の人生は、ほろ苦い思い出が多かったポルトガルに来るまでの時代。これは、時折思い出してはエッセイに綴っている。第二の人生は、ポルトガルでの子育て時代とその頃に及ぶ土曜日の補習校の職場時代。そして、第三がこれまで自分が思って見なかった方向にひょっとすると展開するかも知れないこれからの人生。

第三の人生は、その後補習校を退職し、1年をかけてコーディネーターをしたポルト市と国際親善協会共催の2010年、Japan Weekの大仕事、現在携わっている日本語の先生と日本文化紹介のボランティア展示会や子供向けに影絵を作成して上映することにつながったている。

息子はと言えば、せっかく終えた大学のITコースを活かす就職は望んでいないようだ。大学時代の3途中で音楽を云々と言い始めたときは、趣味として続けるのは大いによしとするが、職業とするのは止めてくれと、音楽の道に行くことに賛成した夫とは違い、わたしは反対したのである。

アーティストとしての道を極められるのは、運と真の才能に恵まれたホンの一握りの人たちである。趣味で音楽をしながら一生生活できるほどの財産をわたしたち夫婦はとても子どもに残してはやれない。道は子供達が切り開かなければならないのだ。どうしても諦め切れない場合はいずれその道に入るであろう。その時こそ、誰に遠慮なく音楽の道を選べばいい。回り道になってもそれが本物である。と本人には言わなかったが。

その1年、息子はリスボンで週三回の中学校の非常勤講師をしながら生活費を稼ぎ、他の時間は音楽に費やしてきた。生活はギリギリであるが、それでもエンジョイしているとは本人の言。定職を望まない彼の将来は、少し不安定ではあるが、今しかできないことを楽しんでいたようだ。

イソップの話にある「アリとキリギリス」はあまりにも有名で、今更披露する必要もないのだが。

夏の季節を歌って遊び暮らすキリギリスとは対照的に、暑い日差しを受けながら汗を流して冬の準備にせっせといそしむアリ。それを見て笑うギリギリスではあるが、やがて冬が到来し、食べ物もなく寒さに凍える日々に、思わずアリの家のドアを叩く。今度はアリが笑う日だ。

この教訓話にはなるほどとうなずかされるのだが、わたしはもうひとつの「アリとキリギリス」を知っている。

もう40年以上も昔に、当時知り合った夫から贈られた原語でのサマーセット・モーム短編集に収められている「アリとキリギリス=The Ant and the Grasshopper」だ。

先のことに思い巡らし定職に就きせっせと働きいて貯蓄に精出している兄と、それとは全く逆にろくに仕事にも就かずその日その日を遊び暮らしている弟の兄弟がいる。時々呼び出されては弟に金を無心される兄、その都度将来のことを考えろ、もっとまじめな生活をしろと説教を垂れる。兄はこの弟を心のどこかで見下げている。

ある日、呼び出され「ふん、またか」の気持ちで待ち合わせ場所に出向く。弟の話は金の無心ではなくて、先ごろ大金持ちの未亡人と結婚したのだが、その年上の妻が亡くなり莫大な遺産が転がり込んだということである。

この時の兄の「I´ts not fair!」の悔し紛れの叫びが分からないこともないが、わたしは、「へぇ~。でも人生って案外こんなものかも知れない。」と納得いったようないかなかったような、そんな読後感をもったものだ。

ポルトガルに来てから40年、もちろんわたしは遊び暮らしてきたわけではないが、先を考えて貯めたいにも貯めようがない状態でずっと今日まで来ている。子供達の教育費には分不相応にかけたので、金額にすればひと財産にはなるであろう。
老後、何が一番必要かと言えばやはり金だ、と言ってはばからない人は周囲に結構いる。夫は別だが、どこからも年金の入ってこようがないわたしは、この言葉を耳にするとうなだれるばかりだ。かと言って今更慌てて貯めようにも、70を過ぎてでは仕事をしているものの、大して貯めようがない。
そして、お金は確かに必要だが、「一番」という言葉に心のどこかで反撥を感じる時分がいる。

TEFLEコース(英語教師)を取るので英文学の本を少し読みたいという息子に、「昔パパからもらった記念の本だから返してね」と貸した上述のモームの本だった。息子も「アリとキリギリス」を覚えていて、
「パパがいるから、少しは大丈夫」と言うわたしの言葉に、
「ボクもそうだけどママもキリギリスタイプだね。」と息子に言われた。
そして「パパは典型的なアリタイプだ」と彼は付け加えた。

その通りです、息子よ。
しかし、人生はunfair(アンフェア=不公平)なことの方がfair よりも遙かに多いのだ。それに、アリとアリの夫婦なんて、しんどいかもよ。キリギリスとキリギリスもこりゃ大変だ。
アリとキリギリス、これでなんとか帳尻が合うというものではないか。

冬が到来したら夫と言うアリのドアを叩く、わたしはキリギリスです。そして、このギリギリスはまだ人生の晩夏を謳歌しようと目論んでいる。

判子に見る日本社会の縮図

2018-04-14 22:48:20 | 家族の話
2018年4月14日


子供たちが学校時代に書いた絵やプロジェクト作品は、月日が経ってから何かの拍子に物置部屋の奥からひょいと顔を出し、引っ張り出して見ていると、いつの間にやら、時間の経つのも忘れて見入ってしまうことになる。

息子と娘の作品が我が家にはたくさん保存されてある。それらの多くは大きい絵で、捨てるにも忍びない。かと言ってこのままでは整理がつかない。
   
そこでわたしはそれらの作品をデジタルカメラに撮って保存することを思いついた。そうすると、場所も取らないし原作が変色したり傷んだりしても心配せずに済む。

色々な絵やプロジェクト作品の中で、わたしが傑作だと思うものの一つに娘が書いた、ある図がある。

モイケル娘が16歳頃に補習校でスピーチした、「(日本社会に於いて)自己主張はどこまで許容されるか」に使用して聴衆を笑わせた図だ。わたしはこの絵を見るたびに「あっはっはっは!」と笑わずにはいられない。ほんと、これ、ツッコミがうまいのである。そう思うのは親バカのわたしだけでしょうか(笑)
    
国語教科での敬語、謙譲語の学習を通じて、日本社会で自己主張は果たしてどの程度まで許されるものなのか、という彼女の疑問とリミットについて自分の体験から、日本とポルトガルを比較して作文を書いたようだ。全文を載せるわけにはいきませんが、この図を提示する文の箇所を抜粋して見ました。(娘、事後承諾^^;)
    
以下抜粋。
      
ー日本社会について色々調べていたら、ある日会社内でのおもしろい習慣をインターネットで発見しました。
書類などで判子を押すとき、「偉くない人」から「偉い人」の順で判子の大きさが変わるというのです。

全員が社内で判子を押し終わったところ、捺印欄の左側の一番小さい判から少しずつ印鑑の直径が大きくなってゆき、最後の一番エライ人の判はなんと欄からはみ出て堂々と自分の偉大さを誇示しているではないですか。そこに載せられていた図をみたときは思わず笑ってしまいました。ー
     

抜粋終わり。
     
右上がりに判子が大きくなっていく図を、本人は自分の好きなようにアレンジして、こういう具合に仕上げてみたようです。


                      ↑↑↑
課長欄外太い矢印の下、「少しえらいので調子にのっていばってみた「出る判子は打たれる」の下には、「この人は降格決定」とある^^;  

この仕上げを見せられた時には、ひとしきり大笑いした後、思わず「モイちゃん、ほんま、あんたうまいこと書く!」と我が子ながら感心してしまった。
 
会社社会にどっぷり浸かっていると、当たり前のこととやり過ごしてしまうこの判子社会縮図。う~んとわたしはうなってしまうのである(w)実に「言いえて妙」だ^^;大阪の堂島にあったオフィスで勤めていた頃は、会社の角印と所長の印が大きいのは知っていたが、部課長の印にまで気をつけて見た覚えもなし。いたってのほほんとしたタイピストであったわたしだ。

こんな何気ないことではあるが、モイケル風に物事を面白おかしく捉えられるたら、時には世知辛い世の中も「わっはっは」と笑って少しは気楽になれるかも知れない。こんなところは何事も深刻に思いつめないポルトガル人かたぎかな?と思ったりする。

我が苗字と家紋

2018-03-23 13:32:03 | 家族の話
2018年3月23日 

今日は「あの頃、ビアハウス」は休んで、我が家の苗字について。


娘が日本に住み始めた当初のこと。
「まいこ様、お届けものです!」と宅急便配達人に「さま」つけでドア越しに呼ばれたモイケル娘だそうな。苗字に「さま」づけは分かるがファーストネームに「さま」をつけて呼ばれたらはわたしだってちょっと戸惑う(笑)

あ、言っちゃったよ、モイケル娘の日本名を・・・ま、いっか。本人も自分のブログエントリーで白状してるから(笑)

娘いわく、一瞬、ファーストネームに「さま」づけは新手のサービスの類かと思った。が、すぐに苗字の漢字が読めなかったのではないかと気づいたそうだ。「エリカさま」じゃあるまいしと、その話を聞いてぷっと吹いたわたしだが、さもありなん。我が姓の漢字はさほど複雑ではないのだが、漢字検定試験では準一級の出題範囲になる。

考えてみれば子供の頃から今に至るまで、同姓に出会ったことはない。昔、東京や大阪の電話帳で遊びがてら我が姓をひいてみたことがあるが、やはり見つかることがなかった。さほどに珍しい苗字なのかと思っても当時は由来も何も調べようがなかったのだが、今にしてみれば母の生存中にもう少し家系について聞いておくべきだったと後悔している。

家系を知ったからといって現在の生活がなんら変わるわけではないのだが、ひょっとして「やんごとなき際(きわ=身分←モイケル娘用です)」に辿りついたりなどしたら生活態度には多少の変化があるかも知れない。てなことが到底あるとは思えないが、そんな面白いことを空想しながら家紋を探ったのは数年前だ。

さて、ここからはわたしのメモとして記録したく、取り上げてみたいと思います。

きっかけは母の遺品の紋付であった。結婚して苗字が変わった妹は持つわけにも行かず、結婚した現在でもそのまま苗字を継いでいるわたしがいただくことになった。ポルトガルでは結婚後、実家の姓と夫の姓のふたつを名乗ることができる。ファーストネームも二つ以上持つ人が多く、苗字にいたっては三つ四つがあったりして、長たらしいことこの上ない。

さて、何年も前になるが、知人のギャラリーにて個人で日本文化展示会を開いたときに衣装ケースに仕舞いっ放しにしていては形見も気の毒に、いっそのこと展示に使おう、と引っ張り出したのがこれだ。



妹から本家の紋はこんなのだと名前を知らされていたのだが、いかんせん、そんなことに全く無関心で来たわたしだった。が、この時初めて着物に付けられた父方の美しい家紋を目にして俄かに興味をもったのである。



検索してみると、これは「丸に揚羽蝶」というのだそうで、平家一門に愛用された紋として知られるとある。わたしは青森県弘前出身としているが、父は岩手県雫石町出身で、わたしも一時本籍はそこにあった。

雫石に平家一門の家紋とはと疑問に思い、ひょっとすると平家の落人伝説はないかと更にさぐっていくと、出て来ました。「岩手県岩手郡雫石町平家落人伝説」。

かつて、N○K大河ドラマ「平清盛」で崇徳上皇と後白河天皇の権力争いの保元の乱が放映されたが、源平ともに親子兄弟、叔父甥の一族が敵味方に分かれての血族の争い。負けた崇徳上皇についた清盛の叔父忠正の三男、通正の奥方は密かに逃れて後に生まれたのが平衝盛。後に雫石に居を構え名を戸沢氏と称したと、これもやはり平家に関連する面白い説でる。

家紋は武士の時代が終了して、結構自由に使うことができたとも言われる。我が父の実家は雫石町の更に在所の百姓だったような記憶があるので丸に揚羽蝶の家紋だからとて、先祖が平家に関係する家系だとは夢思わないが、在所の人間としては随分と優雅な家紋を選んだものだと、なんだか可笑しみが湧いてくる。

家紋と珍しい我が苗字を辿ってみたら、平安時代初期の歴史にまで遡って歴史の勉強をすることになり中々に楽しかったのである。

と、ここまで書いて思い出したことに、父の実家には大きな裏山があり、その山は父と叔父兄弟の所有であった。うだつのあがらない地方競馬の騎手だった父は若いうちに自分の持分だった山の一部を二束三文で売り払ってしまったと聞く。

在所にあった百姓の家屋としては父の実家は意外と大きく、わたしが成長してからも敷地で小判が見つかったという話も記憶しているから、もしかしたら在所では少し名が通っていたのかも知れない。一時期父と住んだ6歳の頃以来60年以上も雫石には足を踏み入れていない。

ネット検索の情報なのでどの程度の信用度があるかは疑問だが、我が苗字は全国で26~31人とのこと、これが家族単位なのか個人別なのかはっきりしないのは残念だが、個人単位だとしても日本全国たったの124人ほどが同姓だということになる。

ポルトガルではローマ字にするとうっかりロシア人もどきに間違えられたりすることもある我が苗字だが、できれば子供たちに継いでもらえたら嬉しいものだと、わたしもいつの間にかそんなことを思うような年代に入った。

モイケル娘の「まいこ様」からこんな話になりました。

ではまた。

我がモイケル娘の狂歌師たち

2018-03-03 20:05:16 | 家族の話
2018年3月3日

今日はビアハウスの話はお休みで、家族の話です。

2015年、秋口からずっと修士論文、狂歌師に取り組んでいた我がモイケル娘が口頭面接試験も終わり、なんとか院卒業にこぎつけた頃のことです。

娘から送られた修論の一部を目にして即、「なんじゃいな?この黒人て?江戸時代に日本に黒人がおったとは思えないぞ」と言ったら、笑われた^^;
「おっかさん、コクジンじゃなくて、クロウドと読むのである」。

そう言えば、その頃は江戸時代の狂歌師をテーマにとりあげて、数ヶ月、市立図書館や大学の図書館に通い詰めで、ほとんど悲鳴をあげんばかりの娘であった。それはそうだろう。大学は英語系を卒業したのを、いきなり東京にある大学院で近世日本文学だと言うのだから、母は度肝を抜いてひっくり返りそうになったのである。18歳までポルトガル生まれポルトガル育ちの彼女にしてみれば、英語、ポルトガル語、日本語のトライリンガルに、もうひとつ、「江戸時代の日本語」という外国語が加わるようなものです。

古文などは、週に1度の補習校の中学教科書で、「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」と言うようなさわりの部分を目にしたくらいで、知らないと同様の状態で取り組んだのですから、その大胆、かつ無鉄砲なるところ、その母の如し(爆)

浜辺黒人なんて、「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ」の歌人、山部赤人(やまべのあかひと)のもじりではないか(笑)

狂歌は和歌をパロディ化したものらしい。そこで、ちょいとネットで検索してみると、あはははは。狂歌師たちの狂名に笑ってしまった。

朱楽菅江(あけらかんこう=「あっけらかん」のもじり)、
宿屋飯盛(やどやのめしもり)、
頭光(つむりのひかる)、
元木網(もとのもくあみ)、 
多田人成(ただのひとなり)、
加保茶元成(かぼちゃのもとなり)、
南陀楼綾繁(ナンダロウアヤシゲ)
筆の綾丸(ふでのあやまる)←これなどはしょっちゅうキーボードでミスタイプして誤字を出すわたが使えそうだ。わたしの場合は「指の綾丸」とでもなろう(笑)

筆の綾丸(ふでのあやまる)は、かの浮世絵師、喜多川歌麿の狂名だという。中には、芝○んこ、○の中には母音のひとつが入るのだが、これなどには唖然としてしまう。

おいおい、モイケル娘よ、こんなヘンチクリンな狂歌師たちとその作品を相手の修論、資料が少ないともがき苦しんでいたなんて、さもありなん。腹を抱えて笑うのにもがき苦しんでいたんではないか?等と勘ぐったりしているのはこのおっかさんで、当たり前だが修論はいたってまじめに仕上げられている。この研究が生活にはすぐ役立たないが、そういう学業を教養と言うのかもしれない。高くついた教養ではあるが(^^;)

気がつけば、ポルトガルの高卒国家試験受験結果を携え、東京の大学を目指して日本へ行ったモイケル娘だが、早や13年が経つ。今では3匹のネコ(2匹は保健所から引き取り、もう一匹は九州で見かけた野良ネコを東京まで運んだというのである)、連れ合いがおり、派遣の品格でも学んでおるのだろう(笑)


上の写真の頃は、今日の子どもたちの教育結果を予想できるわけもなく、ひたすら子育てを楽しんだ時期だった。

思えば、補習校中学校の卒業式答辞で、「わたしは日本へ行くのではありません。日本へ帰るのです」と読んで、わたしを始め出席していた人たちを驚かせたモイケル娘であったが、それも一昔以上も前のことになり、彼女の夢は実現して日本定着13年。

息子よ、娘よ、若いうちは失敗を恐れるな。失敗のない人生こそ、失敗であるぞ。いつもポルトから応援しながら見ている母である。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。ではまた

我が東京息子の日本語

2017-11-10 13:26:42 | 家族の話
2017年11月10日 

息子も娘も30を超えましたが、昔から言われる通り、幾つになっても子は子。親にとっては可愛く、気にもなる存在です。

そんな訳ですから、日本とポルトガル、遠く離れたわたしたち親子は、わたしがパソコンをよく知らないままではありますが、昔の仕事柄、タイピングが速いので、親子でスカイプを通じて文字会話をするのはしょっちゅうです。

娘は大学生だった頃、また、息子は時間的に余裕があった日本の生活が始まった頃には、毎日のように親子でおしゃべりをしたものですが、その頃に比べ、それぞれ仕事を持っている子どもたちです、娘は共稼ぎの現在、息子は少しは将来のことを考え始めたのか、大学の英語講師の仕事を増やし、なにやら日常生活が忙しくなったようです。

そんな中でも、ポルトガルに住むわたしたち親を気にしてか、以前のように毎日ではないにしろ、スカイプで結構頻繁に声をかけてくれる子どもたちです。

さて、昨日のこと、息子曰く、「今日の仕事、あがった。二度も電車の方向間違ったアホ(笑)」と来た。「ふ、二日酔いじゃぁないのん?」と言う母親に、「平日や次の日仕事がある日は飲まない」。

ふむふむ、いい心がけじゃ。もう家なの?と聞くと、「えへ。帰宅前にちょっと一杯ひっかけてる」
おい!花金は明日だよ。平日や次の日仕事がある日は飲まないと言った矢先ではないか(笑) すると、たまたま明日は仕事がないのだそうだ。なぁんだ。

「帰宅前にちょっと一杯ひっかけてる」なんて、すっかり日本のサラリーマンもどきではないの、と実は苦笑した母でありました。そうしてみたら、こんなことがあったなぁと、息子のリスボン時代のことを思い出したのでした。以下。

2007年 「ボク」から「わたし」に

リスボンに住み、(ヘンチクリンなw)音楽作曲をしたいからと言って、定職に着いていない我が息子、非常勤英語教師とwebデザインを請け負ってのカツカツの生活をしている。外食は高くつくからと、ほとんど自炊である。

気になるので、お金は足りてるのかと時々聞くのだが、送金頼むなどの言葉は息子の口からは出ない。

娘もそうだが、息子も時々、言葉を教える時のコツのようなものをわたしに聞いてくる。
「生徒が疲れてるみたいで授業にのってこない」「自分が日本語を理解できるのを知っているので、日本人生徒はついつい日本語を求めがちだ」などなどだ。

人に教えるということは、マニュアル通りにすればいいというものではない。資格があっても豊かな経験がないといい授業は難しいのである。息子も娘もその点では「先生1年生」だ。大切なことは、どうしたら生徒が学んでくれるかと色々工夫する熱心さを持っていることだとわたしは思っている。その情熱がやがて自分独特の授業を編み出すことになる。

もちろん、基本指導を元にしての上である。わたしも今日自分なりの教授法ができるまでは、使ってみてはボツにしたアイディアがどれほどあるか知れない。息子よ、娘よ、もがきながら常に前進したまえ。

さて、その息子、電話で話していて、新発見したことがあった。

これまでずっと彼は、「ボク」をつかっていたのに、あれれ?なんと「わたし」に切り替わっているではないか!

先だってわたしが語学授業の参考にと送ってあげた「Japanese for Busy People](ビジネスマンを対象にした日本語教本)を読んでみたようで、その影響ありかな?

息子が「わたし」なんてやってると、「アンタねぇ。」とは、おっかさん、やりにくい。でも、一チョ前の人間と話してるみたいでなんだか面映かった。

「わたしは、もう一度日本語を勉強しようかと思ってるんだけど・・」って来た時には、思わずプッと噴出しそうになったぜ、息子よ(笑) クックックと内心笑いながらも、幾つになってもこうして学習したことを使って見ようという息子の心がけに、どこか嬉しく思う母親である。 ――



小学校1年生から中3まで、週に一度の補習校で学んだ国語は、学年が上に上がるにつれ漢字も語彙も段々怪しい状態になって行き、高校部がなかったもので、卒業後はほとんど日本語の読み書きから離れてしまった息子です。

リスボン大学へ行ってからはそれに拍車をかけ、話すことからも遠ざかりましたが、補習校で培った国語は日本に住むことで少しずつ蘇り、日本語から英語、ポルトガル語への翻訳も副業で受けている息子は、現在も日本語を独学しています。

日本で生まれ育ったわわたしにとってもそうなのですが、言葉は永遠に勉強の連続だと思います。日本語に限らず、英語もポルトガル語も然り。これで終わり、ということはない。学べば学ぶほど、教えれば教えるほど奥が深く、面白くなるのであります。

「帰宅前にちょっと一杯」なんて表現は、仕事が終わったらまっすぐ帰宅」のポルトガル語にはないからね。来年の帰国には、息子よ、二人して、どこぞへちょいと一杯ひっかけに行こうか!