ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

南国土佐を後にして

2018-03-31 22:41:13 | 思い出のエッセイ
2018年3月31日


桜の花咲く季節になると、わたしには台所に立ちながらふと口をついて出てくる歌が二つある。
一つは、美空ひばりさんの「柔」だ。

♪「勝つと思うな思えば負けよ 負けてもともと」
「奥に生きてる柔の夢が一生一度を待っている」
「口で言うより手の方が速い馬鹿を相手の時じゃない」
「往くも止まるも座るも臥すも 柔一筋夜が明ける」

この歌には人生の知恵と哲学が凝固されているとわたしには思われる。だから、食事を作りながら小節(こぶし)をきかしてこの歌を唸ると、わたしはとても元気になるのだ。演歌そのものは、わたしはあまり好きではないのだが、これは別である。

「柔」と歌う部分を、心の中で「自分の夢」に置き換えてみると、苦境に立ったときも、起き上がり頭(こうべ)を上げて、また歩き出せる気がするのだ。この歌に、わたしは何度も勇気付けられて今日まで来たように思う。

もうひとつは、「南国土佐を後にして」
「南国土佐を後にして 都へ来てから幾年ぞ」で始まるこの歌は、昭和30年代にペギー葉山が歌って大ヒットした。日中戦争で中国に渡った第236連隊には高知県出身者が多く、この部隊が歌っていた「南国節」をヒントに創られた歌だと聞く。

わたしの古里は桜まつりで有名な弘前である。それが何ゆえ「南国土佐」なのかと言えば、その桜まつりに関連する。

わたしが子供のころ、「桜まつり」等とは呼ばず、「観桜会」と言ったものである。夏のねぶたまつりと並んで、観桜会には、雪国の長い冬を忍んで越した津軽の人々の熱き血潮がほとばしるのだ。弘前公園内は3千本もの桜の花咲き乱れ、出店が立ち並び、木下サーカスやオートバイサーカスが毎年やって来ては、大きなテントを張った。

「親の因果が子にむくい~」と奇怪な呼び込みで、子供心に好奇心と恐怖心を煽った異様な見世物が不気味であった。公園内には演芸場が組み立てられ、津軽三味線やじょんがら節が流れた。

わたしが12、3歳のころ、その年の観桜会でNHk「素人のど自慢大会」の公開番組があり、わたしは生まれて初めて往復葉書なるものを買い、のど自慢大会出場参加に応募したと記憶している。どんな服装で出場したかはもう覚えていない。

しかし、今のようにお出かけ用の服など持っていなかったのだから、想像はつく。きっとあの頃いつもそうであったように、両膝っこぞうの出た黒っぽいズボンであろう。黒は汚れが目立たないのであった。

そして公園の演芸場で歌ったのが「南国土佐を後にして」である。聴衆に混じって見ていた母の話では、「出だしはとてもよかった。これはヒョットすると鐘三つかな」と親ばかにも期待したそうである。

ところがである。上がっていたわたしは後半がいけませんでした。伴奏より先走ってしまったのであります。「土佐の高知の播磨橋で」に入る手前で、鐘がなりますキンコンカン、いえ、二つが鳴りましたです。
恥ずかしさにうつむいて退場するわたし。

後年、客として遊びに通っていた大阪梅田のアサヒビアハウスでスカウトされ、アメリカ留学資金を貯めていたわたしは渡りに船と、バイトで歌うことになったわけだが、ポルトガルで晩御飯を作りながら今でも時たまこの歌を歌う。さぁ、こい!今なら鐘三つもらうぞ!と端迷惑にも、ついつい力を込めて大きな声を張り上げてしまうのであった。



あの頃ビア・ハウス:エピローグ「ビアハウスから39年後」

2018-03-30 12:34:46 | あの頃、ビアハウス
2018年3月30日

夫と初めて会ったのも、この思い出のアサヒ・ビアハウス梅田です。1977年6月30日でした。その日は彼の30才の誕生日でしたからよく覚えています。出会ってから2ヵ月後に、彼は広島大学病院研修生として広島へ移動したので、わたしたちは今で言う「遠距離恋愛」でした。会うのは月に一度か二度、わたしが広島に出かけたり、彼が大阪に来たりの逢瀬でした。

わたしたちが出会って半年後には、わたしは、アメリカ行きの目的金額を達成し長年の夢だった渡米の準備です。彼にも後押しされ、アリゾナのツーソンと言う学生町へ。距離を置いて国際結婚についてお互い考える期間を置くためにも、別れ別れになりました。が、結果として、わたしはアメリカ移住の夢を捨て、翌年、大学入学準備のESLコース(English as a Second Language)を終えるなり、日本に帰国しました。

わたしたちは結婚式は挙げませんでしたが、親友michikoと彼女のお父上二人に証人になってもらい、京都府伏見区役所に婚姻届を出したあと、このビア・ハウスで常連や会社の仲間たちが祝ってくれたのでした。

ビアハウス黄金時代の重役さん高松氏曰く、「なに、アメリカから半年で帰ってきたのと同じく、ポルトガルへ行っても、ゆうちゃんはまたすぐ戻ってくるさ。あははは。」

確かに時々戻りはしますが、あれから39年、結局「ふうてんのおゆう」はその名を返上して、海を隔てた向こうはアフリカ大陸があるというポルトガルで、二児に恵まれ子育てに専念したのも合ったという間で、成長した彼らは、日本を飛びだしたわたしとは逆コースを辿り、終の棲家を得たのでした。

旧アサヒ・ビアハウスをご存知の方、かつての歌姫こと「ふうてんのおゆう」は、日本からの遠国、ポルトガルにて、元気にしておりますゆえ、ご安心ください^^         

子供たちの話を少ししましょう。
わたしたちの二人の子供は現在、東京に住んでいます。息子はあちこちの大学で非常勤の英語講師をしながらコンピューターを使って好きなトランス音楽作曲活動をしていましたが、現在はその時間を翻訳仕事にあてているようです。

モイケル娘は、3年生で早稲田大学から北九州市立大学へ編入後、卒業し、3年間東京の企業に勤め大学院資金を貯めて、立教大学院で近世日本文学の狂歌を選科にし、2015年春に卒業しました。現在は、結婚しソフィア大学に勤めています。彼女はわたしの血を引き、ネコが大好きで、現在ネコ3匹と同居です。


わたしがよく口ずさんだビアハウスでの歌を子どもたちは知っています。音楽の道こそ選びません
でしたが、特に幼児期からピアノを習ってきたモイケル娘は抜群の音感を持っており、音楽愛好家でもあります。二人ともジャンルこそ違え、音楽を日常生活で楽しんだり、セミプロであったりしています。これも、音楽を楽しむことを培ったアサヒビアハウスでのわたしの血を引いているのだと、確信しています。

わたしの中でのアサヒ・ビアハウスは今も変わらず、少し薄暗くて、大理石柱があり、ヨシさんのアコーディオンと大先輩、宝木嬢の姿がホールに見え、常連たちが立ち飲み席で飲んでいる、あの光景なのです。それこそが、わたしの梅新アサヒ・ビアハウスです。目を閉じればあの頃の常連たちのそれぞれの持ち歌が今も聴こえて来るようです。

旧アサヒ・ビアハウスの仲間には、高松氏を始め、塩さん、歯医者さん、土佐さん、A.D.、葉室先生ご夫妻、タンゴのおじさん、マックと、もうアサヒには来るにも来られない人たちもいますが、みなさん、
きっと天上で再会し乾杯していることでしょう。このような素敵な思い出を残してくれたみなさんに心から感謝して,
Ein Prosit!


アメリカから帰国して再び歌い始めた頃

読んでいただきありがとうございました。

次回からは、アメリカ留学記を掲載します。

あの頃ビア・ハウス:「Auf Wiederseh´n 2」渡米準備

2018-03-28 15:43:10 | あの頃、ビアハウス
2018年3月28日
                     
何が大変といって、アパートの明け渡しほど、ややこしいことはなかった。
アメリカでの暮らしに必要な最小限の身の回り品をだけを残して、後は
全て処分しなければならなかったのである。

家具類は当然ながら、ステレオ、クーラー、冷蔵庫、電話、衣類、書籍etc.,(自慢ではないが、テレビは持っていなかったw)
売れる物はすべて友人知人、その他のつてで二束三文で換金したり引き取ってもらったりした。

その中でもどうしても処分しきれないものに、当時飼っていた「ポチ」というトラネコちゃん、そして、お気に入りの白いギターとLPたちがあった。キャッツ・スティーブン、ジャニス・イアン、スティーリー・ダン、中山ラビ、エディット・ピアフ、MJQ、サイモン&ガーファンクル、ジョン・デンバー、ジョルジュ・ムスタキ・・・どれもわたしの青春時代の心の支えになった音楽である。とても捨てられはしなかった。

ポチといえば、毎朝の出勤に、追い返しても追い返しても駅までついてきて、わたしを見送ってその後は、開けっ放しの台所の窓から
入り込み、日中ひっそりわたしの帰宅を待っているネコだったのである。これをどうして捨てられよか。

ポチも白いギターもLPも、近くに住んでいた「ミチべぇ」こと、会社の後輩であり親友のご両親宅で、いつ帰るともわからないわたしではあったが、預かってもらえることになったのだ。

白いサムソナイトの旅行かばん20キロの荷物がわたしの全財産である。その中にたった一枚、聴けるわけでもないのにわたしは大好きな「ジョルジュ・ムスタキ」のLPを忍び込ませた。

1978年1月19日、母、義弟、親友のミチべぇ、キャセイの我が友Davidに見送られて、当時の東京国際空港「羽田」から飛び立ったのです。

さらばアサヒ、さらば我が仲間たち、さらば我が、苦しくも楽しかりし大阪の青春。と言うわけで、「あの頃、ビア・ハウス」、yuko、アメリカへひとッ飛びと相成り、アサヒのステージ同様、今回を持ちまして取り合えずいったん幕をおろさしていただきます。

アサヒでの歌姫は、これで終わらず再び、アメリカからの帰国、そして、ポルトガルからの一時帰国時にカムバックするのでありますが、それは、またいずれかの折にでも。

このシリーズは、次回のエピローグで一件落着です。
最後に常連さんの一人が撮ってくれたお気に入りの白黒写真をば。


あの頃ビア・ハウス:「Auf Wiederseh´n 1(アウフ・ヴィーダーゼン)

2018-03-27 19:27:21 | あの頃、ビアハウス
2018年3月27日
    
♪ Auf Wiederseh'n,Auf Wiederseh'n,
  bleib nicht so lange fort
 denn ohne dich ist's halb so scho:n,
darauf hast du mein Wort.
Auf Wiederseh'n,Auf Wiederseh'n,
das eine glaube mir,
nachher wird es nochmal so scho:n,
das Wiederseh'n mit dir.

「アウフ・ヴィーダーゼン」とは、日本語の「さよなら」という意味である。
梅田アサヒビアハウスは6時から9時半までの営業時間内で、3度の30分のステージがあり8時半が最終ステージ。その最後のステージで先輩の歌姫、宝嬢とデュオで必ず歌ったのがこの曲だ。
       
アサヒに数あるドイツ音楽の中でも、わたしはこれがとびきり好きだ。ビアホールで見知らぬもの同士が、いつのまに肩たたきあい、ジョッキをぶつけあった乾杯し、あるいは大きな5リットルジョッキの回しのみに参加して、陽気に騒いで、最後にこのしんみりした
「アウフ・ヴィーダーゼン」で客のそれぞれが帰路につくのです。


「Auf Wiederséh´n」と歌い始めると、常連のだった、今は亡き土佐氏が必ずや客席から「アウフ・ヴィーーダーーゼーーン~」と合いの手を入れてくれるのだった。最後の歌「das Wiederseh´n mit dir」はゆっくりと盛り上げて別れのナレーションで締めくくる。

「みなさま、本日は当店アサヒ・ビアハウスにお越しくださいまして、ありがとうございました。本日のステージはこれにて終わらせていただきます。みなさまのまたのお越しを心よりお待ち申し上げております。アウフ・ヴィーダーゼン!またお会いしましょう!」 
    
この語りで一日のステージが終わるのであった。
1977年12月、足掛け4年のステージを通じて、アメリカ移住資金調達を達成したわたしは、これまでのOL生活にも、そしてこの愉快なビアハウスの歌姫生活にも別れを告げ、翌年1月、いよいよ長年の夢であったアメリカ移住への第一歩を踏み出したのだった。同時に、日本で出会った、後、夫になるポルトガル人の恋人ともとりあえず別れていくのでありました。

下記、英語版「アウフ・ヴィーダーゼン」こと「We meet again」です。


                   
アウフ・ヴィーダーゼン2に続きます。