ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

華麗なるお伽の城:シントラのペナ城

2019-04-29 21:16:33 | 海岸を散歩する聖人の旅行記
2019年4月29日

かつて避暑地としてポルトガル王侯貴族がこぞって離宮を建てたシントラ。中でも町を一望する山頂のペナ城のエキゾチズムは訪れる人を魅惑する。

19世紀始めにマリア2世女王の王配、ドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ家のフェルナンド2世は1755年のリスボン大地震以来廃墟と化していた岩山のペナ礼拝堂跡にネオゴチック、ネオマヌエル、ネオ・ルネサンス、イスラムの多様な建築様式を取り混ぜてファンタジーな王家の離宮ペナ城を建築する。



周辺には樹木を植えて大きな森へと変身させ現在では国内で最も美しい森とされる。90年代に修繕されて公にお目見えした際、ピンクと黄色に色塗りされた城を目にしたシントラ市民は度肝を抜かれたそうな。何しろそれまで見上げてきた城は灰色だったのだから無理からぬこと。


イスラム建築様式のオニオン・ドーム

外装に多くのシンボリックな装飾を施したフェルナンド2世だが、ピンクと黄色の色彩は建立期のオリジナルカラーだと言うから建造主の華麗なる遊び心がうかがえるというもの。城内は装飾も含め王家の美術品蒐集の館さながらだ。


上はペナ宮殿のシンボルの中でももっともミステリアスな「世界を創造するトリトン」像。

ペナ城は夫国王と長男を殺害されたポルトガル最後の王妃ドナ・アメリアが亡命寸前まで居城していたことでも知られる。1910年10月、共和国樹立の報せを城で受けた王家は即英国へ亡命。彼女がペナ城を再訪できたのはそれから35年後の色褪せた城だった。

王妃の悲運に比して、今、目にも鮮やかなペナ城は蘇ったように山頂にそそり立つ。世界遺産に登録されている。


エキゾチシズムとロマンチシズムのモンセラー宮殿と森

2019-03-06 16:19:38 | 海岸を散歩する聖人の旅行記
2019年3月6日

ポルトガルの西、シントラ旧市街から4キロの山中にモンセラーの森がある。
「モンセラー」の名の由来は、スペイン・カタルニア山岳地方の黒いマリア像があることで知られるモンセラー修道院で、その黒いまりあに捧げられた礼拝堂が16世紀にこの森に建てられたことから来る。



入り口にはキメラと呼ばれる仮装の動物一対があたかも森を護衛するかのように高いもんん上から入場者を見下ろしている。ミリに杯ってすぐ見えるのが巨大な岩戸「Vathekの門」だ。この象と門は英国の名門富豪で、しかもゴチック作家であったウイリアム・べックフォードの小説「ヴァテック(Vathek)」に因むのだが、それもそのはず、べックフォードは18世紀終わり頃、ここに住んでいたのだった。

広大な森を草木の茂るボタニックコースに沿っていくと、やがてなだらかな芝生の丘の上に華麗なドームをいただくピンクがかったエキゾチックな宮殿が姿を現す。


宮殿を今日の姿に改善したのは英国人富豪、フランシス・クックである。19世紀半ば、インドに造詣が深いクックは、朽ち果てていた館内外をイスラムの影響深い華麗なインド・ムガル帝国時代の建築様式に改築して一族の住まいとした。



2人の著名な英国人が造り上げ、それでいて英国雰囲気とは異なったモンセラー宮殿は、訪問者たちをしばし不思議なオリエンタルの世界に誘うことだろう。


J.K.ローリングも通ったカフェ・マジェスティック

2018-10-16 22:26:03 | 海岸を散歩する聖人の旅行記
2018年10月15日


J.K.ローリングも通った古き時代の芳香漂うポルトのカフェ・マジェスティックをご紹介したい。

ストリート・ミュージシャンや観光客、もちろん地元の人達でもにぎわうサンタ・カタリナ通りはブティックが林立する歩行者天国だ。

この目抜き通りのハイライトが1921年にオープンした112 番地の「マジェスティック・カフェ」。20年代には文人や芸術家たちが集い討論に花を咲かせたマジェスティックはベル・エポック時代の歴史を語る「ポルトのエスプリ」とも言えよう。


しかし、60年代に入ると時代の変化に抗えずマジェスティックは衰退。80年代に入ると市の文化遺産としてポルトっ子たちの関心を集めるようになり、10年の月日をかけてオリジナル内装の華麗なアール・ヌーボースタイルを見事に復元した。



洗練されたイタリアン・ルネサンス・スタイルのファシャーダ(入り口)をくぐると濃緑色のインディアン大理石のフロアに小さな白い大理石のテーブル、アンティーク椅子、木彫細工の大鏡が訪問者を別世界に誘う。



マジェスティックはシラク元大統領も訪れた内外著名人たちの御用達でもあった。著作界の現代のスーパースターJ.K.ローリングはポルトに一時期住んだことがあるが、その滞在中にマジェスティックがお気に入りで第一巻「ハリーポッターと賢者の石」の一部はここで書かれたと言われる。


ローリングがどのテーブルに着いてどの章を綴ったのかとエスプレッソカフェをすすりながら想像してみるのは魅惑的ではないか。

エンリケ航海王子の夢の跡

2018-09-21 09:57:36 | 海岸を散歩する聖人の旅行記
2018年9月21日

体調不調のため、更新の間を空けてしまいましたが、復帰です。
今回から、「海岸を散歩する聖人の旅行記」として新しいカテゴリをつくりました。訪れたポルトガルの町々を時々案内してまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

本日は、ポルトガル南部のアルガルブ地方にあるサグレス岬の要塞です。


ポルトガル大航海時代の礎を築いたエンリケ王子は英国人の血を引き、イギリスでも人気があるポルトガルの歴史人物の一人である。

サグレス要塞は15世紀にアルガルヴェ地方のラゴスを拠点にし、当時「不帰の岬」と呼ばれ船乗りたちに恐れられていたアフリカ大陸沿岸へ船を送りだし、国家事業として海外進出に乗り出したエンリケ航海王子の終の棲家になる。



テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団初代総長となったエンリケ王子は騎士団の富を資金源に新しい船の造船にも力を注いだ。キリスト騎士団員は独身でいることを求められ、グランドマスターの王子も生涯独身を通したが、ヨーロッパの小国ポルトガルに大航海時代という黄金時代をもたらしたのはこのエンリケ王子である。

末弟フェルナンド王子と共に北アフリカのタンジール攻略をするが失敗、フェルナンド王子は人質となり6年間の幽閉後アフリカで死す。

以後エンリケ王子はサグレスに引きこもり天体観測に専念し、ヨーロッパ各国、イスラム国からさえも航海知識者を招き航海教育に努めたと言われる。サグレスに王子の航海学校があったとされるのはこの所以であるが実際に学校そのものが存在したかどうかは明確ではない。



要塞の門をくぐるとすぐ左手に直径40メートルの羅針盤跡が見られる。サグレス岬を一周するには1時間半ほど。岬のコース途中の数箇所に設けられている航海時代に関するモニュメントも興味深い。







余裕があるならば夕刻の訪問を勧めたい。生涯独身、陸路の果ての断崖岬で大西洋に沈む夕日を眺め、星を求めたであろう孤高の人エンリケ航海王子の夢の跡が残照に見えるかもしれない。



エンリケ航海王子、1460年、サグレスにて没。
最後に、航海王子と異名を持つもののエンリケ王子は陸での計画に携わり、実際に航海には出なかったことを付け加えたい。