ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

ダン・ブラウン、キンタ・ダ・レガレイラを訪れる!

2017-10-23 08:28:33 | シントラ
2017年10月23日 

2007、2008年以来、確認のために何度も訪れて来たシントラのキンタ・ダ・レガレイラ(レガレイラの森)を、今回はダビンチ・コードシリーズの著者ダン・ブラウンが訪れました。



ニュースではダン・ブラウンがレガレイラの森にある「ダンテ新曲の井戸」の石の扉から入り、Fantastic!すごい!と連発する映像が流されました。


ダン・ブラウン氏にはトマールのテンプル、キリスト騎士団修道院をも是非訪れて関連したミステリー本を書いて欲しいものだと切望するわたしです。

キンタ・ダ・レガレイラを別ブログで取り上げたのは日本語では恐らくわたしが初めてではないかと思います。シンボルが一杯のすごい森なのだと発信していたところが、今では多くの訪問客の中に日本人ツーリストもたくさん見られるようになりました。

実はわたしの中では、キンタ・ダ・レガレイラはまだ不完全な案内に留まったままで、本当の追っかけ、推理はこれからだと言えます。ここ数年、ポルトガル語のディアス先生と週に一度、ポルトの歴史本を読んでポルトガル語を勉強して来たのは、最終的な目的がキンタ・ダ・レガレイラについて出版された原語の本を読むことにあるります。

幸いにディアス先生は神学を勉強なさり宗教には詳しい方で、わたしのヘンチクリンな質問にも付き合ってくださる。下記の分厚い本を一緒に読んでいただこうというのがわたしの目論見なのですが、果たして同意してくださるかどうか。現在読んでいる二冊目のポルトの「通り」の歴史本完読後に、持ちかけるつもりでおり、いいよ、と言っていただけたとしたら、恐らく来年には読み始められると見ています。



ミステリアスな事も去ることながら、この9月に訪れたバチカン、システィナ礼拝堂の天井画を描いたミケランジェロのように、カトリックが支配した近世のヨーロッパで、神秘主義やメーソン、エルメス主義、錬金術などの異教に傾倒する人たちがどのように自分たちの信条を隠しつつ表現して生きたかに、わたしは大いに興味を持ちます。

キンタ・ダ・レガレイラは、そういった時代を生きぬいた、カトリックからするとPagan(異教徒)とされた人達がシンボルを使用することにより分かる人には伝わるようにと、あまたの秘密が刻み込まれたポルトガル随一の摩訶不思議な森です。

実は日本のバブル期に青木建設が一時期所有し住居として使われていたことはあまり知られていませんが、なぜ買い取ったのか、いったい誰が住んだのか、この辺も大いに興味があるところです。

この秋から、これまで日本語教室で使用してきたテキストが少し物足りなく感じられ、自ら文法説明と口語、短作文練習を含めたものを作成し始め、その仕事に追われてブログ更新が遅れたりしていますが、ダン・ブラウンのレガレイラ訪問で再び探求したい気持ちが再びググッと持ち上がって来ました。

新情報も加えて再度書いていきたいと思います。

シントラ:エドラ伯爵夫人のシャレー(3)

2017-09-20 09:00:00 | シントラ
2017年9月20日

前回の続きです。

ドン・フェルナンド2世は1885年に69歳で亡くなります。
その遺言で、シントラにあるムーア人の城やペナ城を含む森など自分の全財産をエリゼに遺すわけですが、これはさぞかし騒動になったことでしょう。ドン・フェルナンド2世の死後、エリゼはこの小さなシャレーに住みますが、後にこの二つの城はドン・カルロス1世(ポルトガル王国最後から二人目の暗殺された国王)に、エドラ公爵夫人ことエリゼ・ヘンスラーから買い取られ王国のものになります。

同時に、エリゼはシントラを去り、一人娘のアリスとともにリスボンに住むのですが、娘アリスについては、ドン・フェルナンド2世との間の娘かどうかは不明だとの説があります。エリゼにはドン・フェルナンド2世と結婚する前にすでに娘がいたと言われていますが、二人が知り合ったのは1860年、そして結婚したのが1869年ですから、アリスがドン・フェルナンド2世との間の娘であることは十分考えられます。

カトリックの国、ポルトガルはわたしが来た頃にはまだ離婚が認められていませんでしたから、19世紀のポルトガル社会で結婚前に生まれた子供については、どのような扱いになったか想像がつくというものです。エリゼの庶民出身であるのと、正式な結婚以前の娘の誕生は王家にいざこざを起こす可能性があり、それを回避しようとして二人の間の正式な子供としなかったのではないか。と、わたしは推測するのですが、真実はいかに。


後年のドン・フェルナンド2世とエリゼ(Wikiより)

1929年にエリゼは92歳でリスボンで生涯を閉じます。ポルトガル最後の国王だったドン・マヌエル2世と、前ドナ・アメリア王太后は1910年の革命でイギリス、フランスへ各々亡命しており、ブラガンサ王朝は崩壊し、ポルトガルは共和国になりました。庶民出身とは言え王家とゆかりのあるエリゼの葬儀に、亡命先からの帰国は禁じられていましたので、二人とも代理を送っています。かつての王妃に礼を尽くしたということでしょう。

エリゼは自分の墓石について遺言を下記のように遺していました。

縦横4メートルの土地を買い シントラ山頂にあるのと同じ十字架(Cruz Altaと呼ばれる)を墓石のトップに置くこと、十字架のサイズは墓地の大きさに比例すること、墓石には「ここにドン・フェルナンド2世王の寡婦、眠る。1836年生誕」と刻むこと。


シントラ山頂の薔薇十字です(Wikiより)登山できますが、わたしはまだ行っていません。

下がエリゼ・ヘンスラーの墓地。リスボンのプラゼーレス墓地(Cemitério dos Prazeres)に彼女は眠っています。


エリゼことエドラ伯爵夫人に関する記録は少なく、オペラ歌手から王妃になった彼女の生涯に少なからず興味を持つわたしですが、ここまでの調査に時間を費やし、やっと少しだけ綴ることができました。

同じく、明治時代に一般庶民からオーストリア=ハンガリー貴族と結婚して伯爵夫人になった日本女性、クーデンホーフ光子がいますが、夫の死後、相続した財産を巡り一族と裁判沙汰になるも勝訴して伯爵家を取り仕切った光子に比べて、伝記もなく歴史から忘れ去られたようなエリゼ伯爵夫人の生涯について、いつかもう一度焦点をあててみたい気がします。

エリゼ・ヘンスラーとシャレーについては、今回で終わりです。読んでいただき、ありがとうございました。
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シントラ:エドラ伯爵夫人のシャレー(2)

2017-09-18 10:00:00 | シントラ
2017年9月18日

庶民の出とは言え、エリゼは元摂政、国王であったフェルナンド2世の妃です。(この頃は次男のドン・ルイス1世が国王)どんなにか豪華なシャレーであろうかと期待するところですが、ご覧あれ。なんとまぁ小さな、そして可愛いらしい!エリゼの故国スイスのアルプスとアメリカの田舎の山荘をイメージして、彼女自らが手がけたデザインです。1869年に建築されました。


ドアや窓枠、ベランダなどにはコルク材が使われています。


窓に小さなローズが絡んでロマンチックなこと!

ここで少しフェルナンド2世についてメモしておきたい。
当時のポルトガル王家の決まりでは、王配、つまり女王の夫はプリンスというタイトルでした。
これは現在のイギリスのエリザベス女王の夫、プリンス・フィリップが例に挙げられます。イギリスと違うところは、女王との間に子供が生まれた場合、女王の夫には国王の称号が与えられるという点です。

実は、女王ドナ・マリア2世はドン・フェルナンドとは2度目の結婚なのです。最初の夫はドイツのロイヒテンベルグ公アウグストですが、結婚後間もなく肺結核で急逝、女王との間に子供は生まれませんでした。ドナ・マリア2世17才にとっては再婚のドン・フェルナンド2世19才との結婚17年間に、二人の間にはなんと11人の子供が生まれています。(うち、4人は誕生後死亡)。

よって、ドン・フェルナンド2世は第一子が生まれると同時に国王の称号を得ますが、摂政として国政を行った時期が長いのです。ドン・フェルナンド2世は女王の政策を多方面でサポートしたと言われます。陶芸、水彩画も趣味で芸術面に造詣が深いフェルナンド2世は人々から「芸術王」の別称を与えられています。

また、彼は中世から存在する錬金術の叡智を持ち、後のフリーメーソンにも影響を与えている秘密結社「薔薇十字団」のグランドマスターだったとも言われます。そうして見ると、ドン・フェルナンドが精魂込めて造りあげた不思議な雰囲気を持つペナ城はなるほどと頷けます。

余談ですが、薔薇十字団員として名を馳せるせる人に、18世紀、ヨーロッパで多くの伝説を残したサン・ジェルマン伯爵がいます。彼はフランスを中心に活躍しました。哲学者ボルテールをして「決して死ぬことがなく全てを知る人」と言わしめています。

わたしが20代に読んだ本では、サン・ジェルマン伯爵は歳をとらない。周囲が知らないうちにいつのまにか何年もどこかへ姿をくらますのだが、再び姿を現しても歳をとっていない。ヒマラヤへ行くらしい、と書かれてあったのを覚えています。サン・ジェルマン伯爵については調べてみると色々面白い物語があると思いますので、興味のある方は検索してみてください。
 
さて、シャレーの内部です。
広い間はなく、部屋のインテリは統一されておらず、どの部屋もそれぞれ特徴をもっています。


天井には薔薇十字団のシンボルである大きな薔薇の花が見られる


レースを思わせる青と白を貴重にした部屋

シャレーの四方にあるベランダからは、遥か彼方に海や山頂のムーア人の城、そしてこんもりとした森の上に姿を見せるペナ城が眺められます。この小さなシャレーは、身分の低さゆえに周囲の蔑みを受けたであろうエリゼにとり、息苦しい宮中生活からの逃避の場でもあったことは想像に難くない。ドン・フェルナンドとエリゼはよくこのシャレーに留まったようです。

して見れば、二人ともポルトガル人ではなく異国の人です。エリゼは多言語を話すことができたと言われますし、ドイツ出身の彼女、きっとドイツ語も話せたことでしょう。オーストリア人のドン・フェルナンド2世とは言語の面でも意思にこと欠かなかったと思います。

さて、その後の二人はどうなったのかと気になるところではありますがこれは次回にしましょう。

シントラ:エドラ伯爵夫人のシャレー(1)

2017-09-16 10:53:46 | シントラ
2017年9月16日 


Chalet de Condessa d´Edlanの入り口

「Chalet」はスイスアルプス等で見かけられる山荘のことです。 

「エドラ伯爵夫人のシャレー」はペナ城(後日案内します)を取り囲む広大な森の中に造られましたが、1999年に山荘は火災被害を受けて、長い間放置されていました。修復され一般公開されたのは2011年です。


エドラ伯爵夫人については面白い歴史話がありますので、本日はまずそれを取り上げてみます。

「エドラ伯爵夫人」と言うタイトルは夫人がドン・フェルナンド2世と結婚する際にもらったものです。ドン・フェルナンド2世は19世紀のブラガンサ王朝、ドナ・マリア2世女王の王配(女王の配偶者のこと)です。オーストラリア人でハンガリーの名門貴族のドン・フェルナンド2世は、1755年のリスボン大地震以来荒れたままになっていたペナ城に惚れこみ、今日の姿に造り上げた人でもあります。

34歳の若さで亡くなったドナ・マリア2世の跡を継いだのは、後継者のペドロ王子がまだ13歳であったため摂政となりました。15年間寡夫を通した後、運命の女性、エリゼ・ヘンスラーという女性に出会います。

エリゼはスイス生まれで、アメリカ、パリで教育を受け、スカラ座でも歌ったことがあるオペラ歌手でした。


エリゼ・ヘンスラーことエドラ伯爵夫人の肖像(wikiより)

1860年2月のこと、エリゼはポルトのサン・ジュアン国立劇場で、そして4月にはリスボンのサン・カルロス国立劇場でヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」に出演しました。見ていたフェルナンド2世はこの25歳の美しい歌手、エリゼにたちまち恋に落ちます。エリゼは歌手というだけではなく彫刻、絵画、建築など芸術にも博識で非常に教養のある女性でした。

ドン・フェルナンドはエリゼと正式に結婚し妃に迎えたいと言うのですから、さぁ、大変。この頃は、前述のペドロ王子が王位を継いだものの24歳の若さでほ崩御、次男のドン・ルイス1世が王位に着いていました。王位、摂政を退いていたとは言え元国王と庶民、しかも歌手が相手だという身分違いのこの結婚にはどれほどの障碍があったことでしょう。これは結婚前日にようやくエリゼに「エドラ伯爵夫人」と言うタイトルが王の甥によって与えられたことからもかります。、また、ポルトガル王家の歴史から忘れ去られていたということからも分かります

しかし、ドン・フェルナンド2世、御歳53歳にて1869年6月10日にリスボンのベンフィーカでエリゼ・ヘンスラーとの結婚にこぎつけます。進歩的な思想ゆえか恋ゆえか。フェルナンド2世が手がけた異国風の不思議な様式のペナ城を見ると、自由な想像力を持ち合わせた王だったということが窺えます。


シャレーのある森からはまるでお伽話にでも出てくるようなペナ城が見える。

さて、宮廷生活では生きた心地もしなかったであろうエリゼは、やがてガーデニングという趣味を同じくするフェルナンド2世の協力を得て、北アメリカやニュージーランドなど世界中から植物を集め土地の特質を生かしたペナ公園の造庭の乗り出します。この中には日本からの杉も植えられています。

やがて、フェルナンド2世はこの森に小さなシャレー建てて、二人の住処とします。

次回に続く

シントラの秘境:コルクの修道院(1)

2017-08-30 15:07:16 | シントラ
2017年8月30日  

シントラ山脈には樹齢何千年もの樹木が生い茂っており、古くから「大地の気」が感じられる「聖なる月の山」と呼ばれてきた。

うっそうとした森の中の離宮や小宮殿が姿をのぞかせるシントラは、王侯貴族や芸術家を見要してきた町だ。 ここを訪れた詩人バイロンは「地上のエデンの園だ」と記述しており、シントラは今もその幻想的な華麗さで多くの人々を惹き付けている。

一般に「コルクの修道院」または「Convento dos Capuchos」と呼ばれる「サンタ・クルス修道院(Convento da Santa Cruz)」は、シントラの旧市街から8キロほど上った山中に無人でひっそりと建っている。

樹木と岩に囲まれた修道院へ道

セバスチャン王の顧問、 Álvaro de Castroの支援を得て、厳格な清貧主義で知られるフランシスコ修道士8人が住み始めたのは16世紀半ば。Capucho(カプーシュ)は頭巾のことで、フランシスコ派が頭巾のついた衣をていたことからこの呼び名が広まった。

岩の入り口をくぐるとかつては来訪を告げたであろう紐がついて鐘が見かけられる↓

修道院内はまるでミニチュアハウスのようで、人間が辛うじて起居できるスペースがあるだけだ。
山で拾い集めたコルク樫の皮と意思を利用して作られた修道院は、この自然とのハーモニーに溶け込むかのように質素である。

修道院内への入り口。全て近辺の森で拾い集めたコルクで造られたと言われ、ほとんど手がかけれれていない。

入り口天井に見られるダビデの星こと六芒星がいくつか見られる。


院内通路はわたしが始めて訪れた2008年にはなかったライトが取り付けられている。
 
 

現在の修道院の中庭↑と↓数世紀前の中庭。十字架が立てられた大きな岩をのぞいてはほとんど変化がみられない。下の図右に見えるのは礼拝堂で現在もそのまま残されています。

Wikipediaより

カプーシュ修道院は山の静寂さと祈りの中でひたすらスピリチュアルな黄金生活を求めた修道たちの遺跡である。

続きます。