ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

美しいわたしの日本:野だて傘

2017-08-31 23:38:52 | 家族の話
2017年8月31日

子供たちが小中学生だった頃の帰国はほぼ3年ごとで、国への想いも一入(「ヒトシオ」と読むのだよ、モイケル娘よ。笑)だっものだ。

「あれもあったらいいな、これも欲しいな」と、3年分の想いがあるので、帰国していざポルトに帰って来る段になると、滞在中に買い集めた物の荷造りで毎回四苦八苦していた。

二人の子供たちの分も合わせて、飛行機に送り込む手荷物は、エコノミクラスで60キロなのだが、とてもそんなものでは収まらなかったのがわたしたちである。

子供たちの日本語教育に必携の参考書やドリル類から、自分が読みたい本、文房具(鉛筆、消しゴム、クレヨンなどの筆記用具は日本製が俄然良質なのであった)、和食器類に及び、日用品に於いては当時はポルトガルであまり見かけなかったプラスティック容器、果ては洗濯バサミまで持ち込んで、夫や夫の家族は苦笑したものだ。

時が移り、ポルトガルがヨーロッパ共同体の一国となりネットの普及等で今では色々便利になり、値段に余り細かくこだわらない限り、大概の物は手に入るようになった。世界的な日本食ブームで醤油、ダシの素、酒等も近頃はポルトで手に入る。

それで、家族から「船便代に10万もお金をかけるなんて、中身とあまり変わらないじゃないの」と呆れられていたわたしだが、近年はそうやって船便荷物を日本から送ることもなくなった。

考えてみると、持ってきた和食器もどうも今一、洋風の食卓には合わない気がするし、第一、食材が違うので和食器に盛り付ける少量多種のおかずが食卓にたくさんのることはなく、せいぜい、ほうれん草のおひたし、白野菜の酢味噌和え、豆腐の揚げ浸しが一品くらいずつだ。和食器は専らわたしが手に持って眺めるだけのことが多くなった。

わたしは時々依頼されると日本文化展を開いたりする。なに、自分が長年少しずつ持ち込んで来た日本の小物をベッドの下の箱に仕舞い込んだままではもったいないので、素人がお披露目をするだけのことなのだ。

日本から持って来た物の中でも、わたしが思い切って持ってきたのが、これです!↓

唐傘、番傘と呼ばば呼べ(笑)、買った当の本人は「野点傘(のだて傘)のつもりなのである。
これを探し回るには3週間の滞在では無理!野だて傘もどきをネットで探すのも大変だったのだが、やっと見つけ、当がモイケル娘に事前に買って置いてもらったのだ。

危うかったのは、包んだ紙が丁度よかったのか、当時息子と娘が同居していたアパートに着いてみると、モイケル娘の猫たちが早速に爪とぎにしていたこと!「ひゃ~~!」と、猫立ち入り禁止の息子の部屋に移したので助かった。息子の部屋は音楽作曲のpc機器が色々おいてあるので猫が入っては何かと危険なのである。

野点傘(妻折=つまおれ、とも言う)は柄がずっと長いのだが、値段が安くて7、8万から16、7万円、お茶を点てる(たてる)わけでもないわたしが、ほいほいと買うものではない。 が、わたしはず~っと長い間、これが欲しかったのだ。「赤は日本の色」だとすら思っている。日の丸だってそうだ^^

そして、野点傘の何に惹かれたかというと、赤色もさることながら、広げた傘の中、上部のこれです!

安物の傘ですら、かがり糸のこの美しさには目を奪われます。

これを二本、ダンボール紙でぐるぐる巻きにして持ってきたのですが、日本人はよく手荷物を開けられて足止めを食いがちなポルトの空港、「O que isto?(それは一体なに?)」と、きっと呼び止められるだろうと思っていたら案の定(笑)
「日本の紙の傘です。展示会に使います。」と答えると、中を開けて見ることなく、す~っと通ることができた。その時だけはこの荷をほどいて開き、見せてあげたかったくらいだったが。
こんな伝統的な日本の美も日本に居たら気づかなかったかもしれないと、小さなこの発見に大人気なく得意げになったものである^^;

下の写真は2017年春に市立図書館における日本文化展示会の一部。野だて傘はこんな風に使っている。


シントラの秘境:コルクの修道院(1)

2017-08-30 15:07:16 | シントラ
2017年8月30日  

シントラ山脈には樹齢何千年もの樹木が生い茂っており、古くから「大地の気」が感じられる「聖なる月の山」と呼ばれてきた。

うっそうとした森の中の離宮や小宮殿が姿をのぞかせるシントラは、王侯貴族や芸術家を見要してきた町だ。 ここを訪れた詩人バイロンは「地上のエデンの園だ」と記述しており、シントラは今もその幻想的な華麗さで多くの人々を惹き付けている。

一般に「コルクの修道院」または「Convento dos Capuchos」と呼ばれる「サンタ・クルス修道院(Convento da Santa Cruz)」は、シントラの旧市街から8キロほど上った山中に無人でひっそりと建っている。

樹木と岩に囲まれた修道院へ道

セバスチャン王の顧問、 Álvaro de Castroの支援を得て、厳格な清貧主義で知られるフランシスコ修道士8人が住み始めたのは16世紀半ば。Capucho(カプーシュ)は頭巾のことで、フランシスコ派が頭巾のついた衣をていたことからこの呼び名が広まった。

岩の入り口をくぐるとかつては来訪を告げたであろう紐がついて鐘が見かけられる↓

修道院内はまるでミニチュアハウスのようで、人間が辛うじて起居できるスペースがあるだけだ。
山で拾い集めたコルク樫の皮と意思を利用して作られた修道院は、この自然とのハーモニーに溶け込むかのように質素である。

修道院内への入り口。全て近辺の森で拾い集めたコルクで造られたと言われ、ほとんど手がかけれれていない。

入り口天井に見られるダビデの星こと六芒星がいくつか見られる。


院内通路はわたしが始めて訪れた2008年にはなかったライトが取り付けられている。
 
 

現在の修道院の中庭↑と↓数世紀前の中庭。十字架が立てられた大きな岩をのぞいてはほとんど変化がみられない。下の図右に見えるのは礼拝堂で現在もそのまま残されています。

Wikipediaより

カプーシュ修道院は山の静寂さと祈りの中でひたすらスピリチュアルな黄金生活を求めた修道たちの遺跡である。

続きます。


親心

2017-08-29 16:36:53 | 家族の話
2017年8月29日 親心

子供と言うのは小さい時は小さい時の、成長したら成長したなりの親の心配がありますね。
偉そうなことを言っているわたしですが、こんなわたしをあの世で我が母はさぞかし可笑しがっていることでしょう。「お前さんにかけられた心労は、そんなものどころでなかった」と^^;

母は、尋常小学校しか出ませんでしたが、読書、音楽、映画好きでわたしや妹もそのDNAをしっかりと受け継いだと思います。その母の口からわたしは、一度も小言の類を聞いた記憶がありません。

わたしの思春期の父との衝突も、とばっちりを受けてきっと大変だったでしょうが、黙って見ていてくれました。中学時代の2度の家出も、無言無謀だった十代後半のさすらいの旅をした時も何も言わないでくれました。言ってもしたいことをする娘だと思っていたのかもしれません。

もし、我が子が今これと同じ事をしたら・・・と、この身をそこに置いてみると、あの頃の母の気持が手に取るように分かります。

金曜日の夜は、TGIF(Thank Good .It´s Friday!の米語略語で日本語の「花金」にあたる)だと言わんばかりに、都内で英語講師仲間と飲み明かすのだと言う息子、終電車に間に合ってるのか、酔っ払ってホームから落ちたりはしないか、はたまた、端の日本人と喧嘩はしないか」と、自分も心当たりがなきにしもあらずなもので、遠いポルトにいて気が気でならない。

娘が翻訳会社勤務の時は、夜9時10時までの残業がしょっちゅうあったので、「日本は世界一安全な国だ」などと言われたのは昔の話で、若い女性が一人、夜間、駅からアパートまで歩くなんて、いくらなんでも酷いと、帰路が心配で、そんな仕事は早く辞めてしまえ、としつこく言ったものでした。

子をあれやこれやと慮る(おもんばかる)親の気持ちを知るのに、随分長い時間がかかりました。

そして、息子や娘が頑張って時々ポルトガルに帰って来るのを目の前にして、19で故郷を後にして以来ほとんど帰郷しなかった若い時分の親不幸を悔いています。
「子を持って親の気持が初めて分かる」
「孝行したい時に親はなし」
「いつまでもあると思うな親と金」

これら全てをわたしは今実感しているのであります。
親心って切ないもんやなぁ。

 
子ども時代の我が子たち

成長した二人


アリとキリギリス

2017-08-29 01:17:44 | 日記
2017年8月29日 

休暇でポルトに帰省し、帰る間際までネコをからかって遊んでいた息子が再び日本へ行ったわけだが、9月からは講師の仕事をもう一箇所増やして、これでとうとうサラリーマン並みに月曜日から金曜日まで、5日間仕事でふさがった、と言う。

それを聞いて、「サラリーマンは9時から丸一日働くんだよ。お前の大学の講師の仕事は数時間だべ」と笑ったのだが、それでも彼にして見れば大きな変化だと言わなければならない。彼は彼なりに考えた末であろう、ネクタイを締めて「From 9 to 5」の一生に抗っているのである。

せっかく終えた大学のITコースを活かす就職は望まず、大学生時代に音楽を云々と言い始めたときは、趣味として続けるのは大いによしとするが、職業とするのは止めてくれと、夫とは違いわたしは反対したのである。

アーティストとしての道を極められるのは、運と真の才能に恵まれたホンの一握りの人たちである。
趣味で音楽をしながら一生生活できるほどの財産を子どもに残してやれないわたしたち夫婦だ。道は子供達が切り開かなければならないのだ。

どうしても夢を諦め切れない場合はいずれその道を歩き始めるであろう。その時こそ、誰に遠慮なく音楽の道を選べばいい。回り道になってもそれが本物である。と本人に言わなかったがわたしはそう思っていた。

日本で非常勤講師をしながらコンピューターを使っての好きな音楽作曲は今も続けているのだが、定職を望まない彼の将来は不安定である。

口さがない人には、「今また人生計画ってspacesisさん、そろそろ墓場にそろ~りと片足くらいは入りそうな歳なのでは?」と言われそうだが、私自身はいい気なもので、人生は分からない、まだこれからかも知れないなどと思ったりすることもある。

イソップの話にある「アリとキリギリス」はあまりにも有名で、今更披露する必要もないのだがちょっと。

夏の季節を歌って遊び暮らすキリギリスとは対照的に、暑い日差しを受けながら汗を流して冬の準備にせっせといそしむアリ。それを見て笑うギリギリスではあるが、やがて冬が到来し、食べ物もなく寒さに凍える日々に、思わずアリの家のドアを叩く。今度はアリが笑う番だ。

この教訓話にはなるほどと思わされるのだが、わたしはもうひとつの「アリとキリギリス」を知っている。もう40年近くも昔に、当時知り合った夫から贈られた英語版のサマーセット・モーム短編集に収められている「アリとキリギリス=The Ant and the Grasshopper」だ。

先のことに思い巡らし定職に就きせっせと働き貯蓄に精出している兄と、それとは全く逆にろくに仕事にも就かずその日その日を遊び暮らしている弟の兄弟がいる。

時々呼び出されては弟に金を無心される兄、その都度将来のことを考えろ、もっとまじめな生活をしろと説教を垂れる。兄はこの弟を心のどこかで見下げている。

ある日、呼び出され「ふん、またか」の気持ちで待ち合わせ場所に出向く。弟の話は金の無心ではなくて、先ごろかなり年上の大金持ちの未亡人と結婚したのだが、彼女が死んで大金、ヨット、ロンドンの家と田舎の別荘全てを相続した、という報告で、聞いた兄は、「It´s not fair!」と、悔し紛れに叫び、人生というものを呪うのである。

「へぇ~。人生って案外こんなどんでん返しがあるのかも知れない。」と納得いったようないかなかったような、そんな読後感をもった。

あれから40年近く、もちろんわたしは遊び暮らしてきたわけではないが、子供達の教育費は分不相応にかけたので、老後を考えて貯めたいにも貯めようがない状態でずっときたのである。

老後、何が一番必要かと言えば、金だ、と言ってはばからない人は周囲に結構いる。夫の年金以外、自分の年金なるものも入ってこようがないわたしは、この言葉を耳にすると、うなだれるばかりだ。

かと言って今更慌てて貯めようにも、定年もとっくの昔に過ぎたのでは貯めようがない(笑)そして、お金は確かに必要だが、「一番」という言葉に、心のどこかで反撥を感じるわたしがいる。

一度、TEFLEコース(英語教師)を取るので英文学の本を少し読むという息子に、「昔パパからもらった記念の本だから返してね」と貸した上述のモームの本、息子も「アリとキリギリス」は読んでいて、
老後は「パパがいるから、少しは大丈夫」と言うわたしの言葉に、
「ボクもそうだけどママもキリギリスタイプだね。」と息子に言われた・・・
そして「パパは典型的なアリタイプだ」と息子は付け加えるのである。

その通りです、息子よ。人生はunfair(アンフェア=不公平)なことの方がfair よりも遙かに多いのだ。
それに、アリとアリの夫婦なんて、しんどいかもよ。キリギリスとキリギリスもこりゃ大変だ。アリとキリギリス、これでなんとか夫婦の帳尻が合うというものよ^^

さいでございます。冬が到来したら夫と言うアリのドアを叩くわたしはキリギリスです~
そして、口さがない人には、「spacesisさん、そろそろ墓場にそろ~り片足くらいは入りそうな歳になるのでは?」と言われそうなこのギリギリス、人生の晩夏をもう少し謳歌しようと目論んでいるのでありますれば。

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日本語ロゴに夫と爆笑した

2017-08-27 19:28:05 | 日記
2017年8月28日

毎日ではないが、日本語教室の生徒やポルトガルの知人達相手に、塾と称してフェイスブックで日本文化や漢字、愛唱歌、ニュースなどの情報を載せている。

夏休み中なのと、生徒の漢字検定試験に向けての準備も兼ねて、彼らが興味を持ちそうな面白い漢字と言葉を選んでみようとネット検索していたのだが、よくあることで、いつの間にか本題を離れて目にした、外国人が着る日本語ロゴがいと可笑しく、夫にまで声をかけ二人して笑い転げていたのであった。

数年前にブルッセルを訪れた際、街を歩いていて目にしたブティックのショーウィンドーの日本語訳に「なんだ、こりゃ?」とカメラを向けて撮影してきたのに、こんなのがあったのを思い出し、やおら画像を引っ張り出してきた。


「極度乾燥(しなさい)」・・・(しなさい)ってなによ、(しなさい)って、と苦笑しつつ、正面玄関にまで回って写真を撮ってきたのだが、ブティックのロゴにも「(しなさい)」が入っているのには苦笑にすら困ったわたしであった。

以下、ネットで拾った、外国人が着るTシャツの日本語ロゴの写真をば。以下、画像はWikiから拝借なり。

 
       さいでございますか^^ 

 
大変でございますなぁ。        お励みください。

 
あらら、お大事に。       まぁ、よくあることではございます。

 
い、いや、あの、その、ご自慢は分かるんですが、大汗もので^^;


キャバクラと幕府がなんで「いい国」なん!


い、いいけど・・・言わんでもええがな(笑)
 
 
       なんだかなぁ・・・
 
 
いやぁ、お食事処でそれはないっしょ!↑「侍」とまちがっとらんか?酷い!!

おいおい、お前さんがた^^;


「寿司 さしみ」^^;ブルータス、お前もか!って、誰だったっけ、この人?(笑)
 

ダニエル君ねぇ、「Tokyoな」ってなんですのん・・・ま、確かに名詞に「な」をつけることで「な形容詞」になるにはなるが、これはちょっとねぇ。「Tokyo的な」でしょうが。


お、出ましたね、Superdryの「極度乾燥(しなさい)」(笑)

このSuperdry、英国の国際服飾で、「Superdry極度乾燥(しなさい)」がブランド名なのだそうです^^;び、びっくりしました・・・
「極度乾燥」製品は、米国のビンテージ生地と日本に触発されたデザイン、英国テーラーの三つ巴を組み合わせた製品である。極度乾燥ブランドは欧州、北米、南米、中東、豪州、アジアの40ヶ国に展開している。」(Wikiより)
今日ではポルトにも支店がでたんですけどね。

あははは。これは小気味いい。

外国人のTシャツロゴを楽しませてもらったのですが、逆も然りで、わたしたち日本人の英語ロゴも酷いのがあること確信です。昔、息子用に日本から買ってきたTシャツの英語ロゴに「Fry away」ってのがあり、「うは!」と思いましたっけ。そう言えば我がフラットの前のカフェ、「Take Way」と看板が一時出ていましたが、誰かが伝えたのでしょう、じき「Take away」に訂正されました。

気がつかないところで自分もヘンチクリンなロゴの入ったものを着たりしているかも知れないので、クワバラクワバラ。人様のことを笑えた義理ではありません。それにしてもいったいどんな人がこんな酷い日本語ロゴをTシャツにプリントするのだろうかと思わずにはおられない。

変な英語ロゴの多くは英語に疎い日本人が作るのだろうから、日本語ロゴもそれと同じように日本語をかじった外国人が作るのだろうか。それとも手当たりばったり、目に付いた日本語をプリントするってことだろうか? Or、漢字に対する自分たち(外国人たち)の感覚で選ぶのか。大笑いした後で思ったことである。お粗末さまでした。