2019年4月18日
ポルトガルは聖木曜日の今日から日曜日(ところによっては月曜日)まで復活祭休暇になります。
復活祭に乗じて、今日はポルトガルでこの時期によく見かけられる「パォン・デ・ロ(pão de ló)」というケーキについてです。
日本語の外来語には多くのポルトガル語が見られます。カルタ、メリヤス、ボタン、コップ、パン、カッパ、キャラメル、テンプラ、ビロード、タバコ、金平糖と身近にある言葉でもこんなにたくさん挙げることができます。
この中には、語源から離れてほとんど日本語として一人歩きし定着したものもあります。例えばメリヤスがそうです。メリヤスはmeiasが語源でmeia=靴下の複数です。当時の靴下のポルトガル語がそのままメリヤスという生地名になったのでしょうか。
テンプラは日本では揚げ物を意味しますが、ポルトガル語のtemperarは、肉をやいたり、魚を料理したりするときに、塩、胡椒、レモンなどで「下ごしらえをする」という意味です。
少し面白いところですと、京都の花街「先斗町=ぽんとちょう」はどうでしょう。この名の由来の説は、オランダ語、ポルトガル語、英語が語源だと別れていますが、ポルトガル語のponto(=地点、終わり)が有力説だそうです。
厚かましくわたしの説を述べますと、もしかしてポルトガル語の「ponte」(=橋)」は関係ないか?です。
先斗町の側あたりは高瀬川が流れており、三條小橋 、 大黒橋 、材木橋を始め小さな橋がたくさんかかっています。橋がたくさんある花街で「ポント町」、という意味も考えられるのではないでしょうか。
さて、本題です。
南蛮菓子の「カステラ」がポルトガルから伝わったということは、あまねく知られるところです。フランシスコ・ザビエルを代表とするスペイン、ポルトガルの宣教師たちが日本にもたらしたと言われます。ところが、「カステラ」というお菓子、ケーキはポルトガルにないのです。こはいかに?
ポルトガル語にあるcastelaは強いて言えば、ポルトガルが独立する以前のイベリア半島北部、今のスペインにあったカスティーリャ王国castelaを指します。カスティーリャ王国は、キリスト教徒によるレコンキスタ運動、つまり、イベリア半島をアラブ人からキリスト教徒の手に奪回する戦いを推し進める主導国であり、後のスペイン国の中心になりました。
子どもたちが小さい頃、家族旅行で、アルタミラ洞窟画を見るために、スペイン北部にあるカンタブリア海に面したサンタンデールへ行く途中で、カスティーリャ地方を通ったことがあります。
その時に一泊した小さな町の店先で見かけたケーキが、色は濃い黄色だったものの、形も長崎のカステラそっくりでした。その地方の名前からして、もしかしたら、これが日本でいうカステラの出所ではないか?と思ったものです。
歴史を紐解けば、かつてはイベリア半島の南半分はイスラム教徒に支配されていました。ポルトガルも北部のギマラインスやポルトを中心とする「portucalense=ポルトカレンス」と呼ばれる伯爵領土にすぎない時代でした。
ポルトカレンスの貴族たちが、隣接する大国のレオン王国やカスティーリャ王国の姫君たちと政略結婚しないはずはありません。
カスティーリャ王国のお姫様がポルトカレンスに嫁いで来たときに、きっと料理やお菓子も一緒に持ち込んだことでしょう。カスティーリャのパン、pão de Castelaがやがて庶民の間の浸透し、形を変えて「パン・デ・ロ」のポルトガルのお菓子になり、定着した、という説。
日本のカステラによく似た、ポルトガル、アロウカ地方のパォン・デ・ロ
もうひとつの説は、日本に浸透しているものと形は違いますが、16世紀にポルトガル北部の修道院を発祥の地とする「パォン・デ・ロ(pão de ló)」というケーキです。
パォン・デ・ロ。真ん中に穴が開いている。直径26cm、高さ6cm。直径40cmのも中にはある。
「パォン」はパン、「ロ」は柔らかい絹織物のことで、焼き上がりのふわふわした感じを薄い絹の布地に例えて名づけられたと言います。パォン・デ・ロは小麦粉と砂糖、卵のみで作られますが、日本人にこのケーキの作り方を教えるときに、「卵白をお城のように高く十分に泡立てる」という意味で使った「encastelar(エンカステラール)」が語源に因む説が有力です。
もうひとつ、発祥がドイツ人の”Ló”という菓子屋が作ったという説です。
Lóという名前は、旧約聖書にも見られる名前「ロト」のドイツ語、ポルトガル語です。 ソドムとゴモラの町を神が滅ぼすときに、信心深いロトの家族に町をでるように、そして、決して後ろをふりむいてはならぬと伝えますが、ロトの妻は見たい欲望に逆らいきれず、とうとう後ろを振り向いたところが、一瞬にして塩の柱になったという有名な話がロトの物語です。
ドイツ系の貴族家系、ハプススブルグ家は16世紀には、強大な勢力を誇り、スペインを含むヨーロッパを手中に収め、皇帝の家系になりました。16世紀、ハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝、カール5世は、スペイン国王カルロス1世です。「ドイツのロト」が作ったケーキは、ハプスブルグ家とともにスペインへ、ポルトガルへと渡ったといいうのはどうでしょう。
17世紀の女流画家、ジョゼファ・デ・オビドスによって描かれた絵の中にカステラが見られる。
パォン・デ・ロ(pão de ló)は、かつては貴族や裕福な宗教関係者が口にし、庶民はイースターやクリスマスにのみ食べた贅沢なお菓子でしたが、現在では多種多様、大衆的なケーキになり、年中ケーキ屋の店先でみられます。
また、ポルトのダウンタウンにはパォン・デ・ロ専門の老舗「Casa de Ló(カーザ・デ・ロ)」がありますが、そこでは年お茶、赤ワインとともにで店内でそれを食べることもできます。
黄金の国ジパングを目指し、2年半の大航海を経て日本に渡来、秀吉も献上されたものを大いに喜んだとされるカステラ。ポルトガルからアフリカ、アジアへと通じた航路は、シルクロードを倣えば、さしずめ「カステラロード」と呼ぶことができますね。カステラロード航路に入る東南アジアでも、パォン・デ・ロ(pão de ló)の変化したものが見られるような気がします。
ポルトガルは聖木曜日の今日から日曜日(ところによっては月曜日)まで復活祭休暇になります。
復活祭に乗じて、今日はポルトガルでこの時期によく見かけられる「パォン・デ・ロ(pão de ló)」というケーキについてです。
日本語の外来語には多くのポルトガル語が見られます。カルタ、メリヤス、ボタン、コップ、パン、カッパ、キャラメル、テンプラ、ビロード、タバコ、金平糖と身近にある言葉でもこんなにたくさん挙げることができます。
この中には、語源から離れてほとんど日本語として一人歩きし定着したものもあります。例えばメリヤスがそうです。メリヤスはmeiasが語源でmeia=靴下の複数です。当時の靴下のポルトガル語がそのままメリヤスという生地名になったのでしょうか。
テンプラは日本では揚げ物を意味しますが、ポルトガル語のtemperarは、肉をやいたり、魚を料理したりするときに、塩、胡椒、レモンなどで「下ごしらえをする」という意味です。
少し面白いところですと、京都の花街「先斗町=ぽんとちょう」はどうでしょう。この名の由来の説は、オランダ語、ポルトガル語、英語が語源だと別れていますが、ポルトガル語のponto(=地点、終わり)が有力説だそうです。
厚かましくわたしの説を述べますと、もしかしてポルトガル語の「ponte」(=橋)」は関係ないか?です。
先斗町の側あたりは高瀬川が流れており、三條小橋 、 大黒橋 、材木橋を始め小さな橋がたくさんかかっています。橋がたくさんある花街で「ポント町」、という意味も考えられるのではないでしょうか。
さて、本題です。
南蛮菓子の「カステラ」がポルトガルから伝わったということは、あまねく知られるところです。フランシスコ・ザビエルを代表とするスペイン、ポルトガルの宣教師たちが日本にもたらしたと言われます。ところが、「カステラ」というお菓子、ケーキはポルトガルにないのです。こはいかに?
ポルトガル語にあるcastelaは強いて言えば、ポルトガルが独立する以前のイベリア半島北部、今のスペインにあったカスティーリャ王国castelaを指します。カスティーリャ王国は、キリスト教徒によるレコンキスタ運動、つまり、イベリア半島をアラブ人からキリスト教徒の手に奪回する戦いを推し進める主導国であり、後のスペイン国の中心になりました。
子どもたちが小さい頃、家族旅行で、アルタミラ洞窟画を見るために、スペイン北部にあるカンタブリア海に面したサンタンデールへ行く途中で、カスティーリャ地方を通ったことがあります。
その時に一泊した小さな町の店先で見かけたケーキが、色は濃い黄色だったものの、形も長崎のカステラそっくりでした。その地方の名前からして、もしかしたら、これが日本でいうカステラの出所ではないか?と思ったものです。
歴史を紐解けば、かつてはイベリア半島の南半分はイスラム教徒に支配されていました。ポルトガルも北部のギマラインスやポルトを中心とする「portucalense=ポルトカレンス」と呼ばれる伯爵領土にすぎない時代でした。
ポルトカレンスの貴族たちが、隣接する大国のレオン王国やカスティーリャ王国の姫君たちと政略結婚しないはずはありません。
カスティーリャ王国のお姫様がポルトカレンスに嫁いで来たときに、きっと料理やお菓子も一緒に持ち込んだことでしょう。カスティーリャのパン、pão de Castelaがやがて庶民の間の浸透し、形を変えて「パン・デ・ロ」のポルトガルのお菓子になり、定着した、という説。
日本のカステラによく似た、ポルトガル、アロウカ地方のパォン・デ・ロ
もうひとつの説は、日本に浸透しているものと形は違いますが、16世紀にポルトガル北部の修道院を発祥の地とする「パォン・デ・ロ(pão de ló)」というケーキです。
パォン・デ・ロ。真ん中に穴が開いている。直径26cm、高さ6cm。直径40cmのも中にはある。
「パォン」はパン、「ロ」は柔らかい絹織物のことで、焼き上がりのふわふわした感じを薄い絹の布地に例えて名づけられたと言います。パォン・デ・ロは小麦粉と砂糖、卵のみで作られますが、日本人にこのケーキの作り方を教えるときに、「卵白をお城のように高く十分に泡立てる」という意味で使った「encastelar(エンカステラール)」が語源に因む説が有力です。
もうひとつ、発祥がドイツ人の”Ló”という菓子屋が作ったという説です。
Lóという名前は、旧約聖書にも見られる名前「ロト」のドイツ語、ポルトガル語です。 ソドムとゴモラの町を神が滅ぼすときに、信心深いロトの家族に町をでるように、そして、決して後ろをふりむいてはならぬと伝えますが、ロトの妻は見たい欲望に逆らいきれず、とうとう後ろを振り向いたところが、一瞬にして塩の柱になったという有名な話がロトの物語です。
ドイツ系の貴族家系、ハプススブルグ家は16世紀には、強大な勢力を誇り、スペインを含むヨーロッパを手中に収め、皇帝の家系になりました。16世紀、ハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝、カール5世は、スペイン国王カルロス1世です。「ドイツのロト」が作ったケーキは、ハプスブルグ家とともにスペインへ、ポルトガルへと渡ったといいうのはどうでしょう。
17世紀の女流画家、ジョゼファ・デ・オビドスによって描かれた絵の中にカステラが見られる。
パォン・デ・ロ(pão de ló)は、かつては貴族や裕福な宗教関係者が口にし、庶民はイースターやクリスマスにのみ食べた贅沢なお菓子でしたが、現在では多種多様、大衆的なケーキになり、年中ケーキ屋の店先でみられます。
また、ポルトのダウンタウンにはパォン・デ・ロ専門の老舗「Casa de Ló(カーザ・デ・ロ)」がありますが、そこでは年お茶、赤ワインとともにで店内でそれを食べることもできます。
黄金の国ジパングを目指し、2年半の大航海を経て日本に渡来、秀吉も献上されたものを大いに喜んだとされるカステラ。ポルトガルからアフリカ、アジアへと通じた航路は、シルクロードを倣えば、さしずめ「カステラロード」と呼ぶことができますね。カステラロード航路に入る東南アジアでも、パォン・デ・ロ(pão de ló)の変化したものが見られるような気がします。