ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

7年前の「かあちゃん、地震がおきました」

2018-03-11 10:35:11 | 日本のこと
2018年3月11日 

東日本大震災から7年経ちました。3月11日は9・11と共に忘れることが出来ない日です。いても立ってもおられず、2011年4月に入るやそうそうと我が子たちの様子を見に帰国したのでした。

今日はあの日、あの頃を思い出し、祈りといざという時の心構えをわが子たちに持って欲しいがため7年前の日記を起こしてみたいと思います。

2011年3月12日

地震の被害にあわれたみなさまに、こころからお見舞い申し上げます。

我が子たちも所沢の妹たちも無事だったとは言え、ニュースで繰り返し放映される画像を見るにつけ、手放しで喜べない気持ちです。目を覆うばかりの惨状に愕然とし、泣きたい気持ちになります。みなさまのご家族、ご親戚、お知り合いの方々はご無事でしょうか。

昨日の午前中はいつもの日本語教室がキャンセルされていたので、前夜は新しいクラスの準備で少し夜更かししてしまい、いつもなら起床している時間にまだ寝入っていたのでした。

それが、7時半過ぎに電話が鳴り、こんな朝早い時間にいったい誰だろうと思いベッドから飛びおりて玄関ホールの電話を置いている所まで小走りに向かいました。

受話器を取るなり「あんた!東京が大変なことになっとるで!子供たちおるやろ!ニュース見てみー!」と大阪出身の友人の一声です。

同じ人からこれと同じ声の調子で、かつて突然の恐ろしいニュースを知らされたことことがあるの一瞬を思い出しました。1995年1月17日の関西大震災の時でした。

ギョッとして大慌てでテレビをつけると同時にパソコンのスイッチを入れました。朝からテレビをつけるなんてことは大事件でもない限り我が家ではまずありません。

そうして目に飛び込んできた画像に、しかも即それを東京だと思ったものでもうその後は大変でした。すぐ子供たちのケータイに電話を入れたもののつながらない、所沢の妹宅の固定電話もダメ。

今日本は何時よ!娘は?息子は?と不安は募るばかり。何度も何度もダイヤルを回せど応答なしです。ウェブ新聞で更なる情報を得ようと慌てふためいてパソコンに走りました。すると、スカイプで息子が「ママ、地震があった、こわかった」と、声をかけてきました。ケータイはつながらねど、ネットは大丈夫なのですね、こういうとき・・・

息子はその日仕事が休みで、地震が起きたとき、外で自転車を走らせていたそうです。急いで帰宅し、やったことが、なんと!3匹の猫たちをそれぞれのカゴに入れて外へ運び出したことだそうです。(あんたら幸せなねこやで!)

モイケル娘は?と聞くと、「まだ会社だと思う、けどケータイが通じない」と言う。ダメもとでケータイにメールを送ろうとメールボックスを開くと、モイケル娘からのメールの件名、

「かあちゃん、地震起きました」

この件名を見た瞬間、わたしの心臓はぎゅぎゅっとしぼみました!そして、短い文面を読んだ瞬間、安堵に胸をなでおろしたのでした。

まだ会社にいるが、都内の電車が全線ストップしているので帰れない。いわゆる帰宅難民になっていたわけです。

そのうち、「同期の人たちで歩いて帰ろうという話が出てる」と言うではないか。おいおい、待て!それは危険なことだよ。止めよ、とメールを打ったが、息子から「She's comming back. 家に向かってる」と入る。

「シ、シーズ カミング バックって、あんた!止めるのよ~」と叫べど既に遅し。

すると間もなしに娘からの返事、
「今歩いてる。心配しなくていいよ。グループで歩いてるから」こういうときは、余震もさることながら、狼男も心配なのだよ、おっかさんは!

思うに、我が娘、絶対ネコのことが心配で歩いて帰る気になったに違いない。同じ環境だったらわたしも同様のことをしていたこと確実であります。

夫も勿論起き出しておりましたが、気になるとて患者の仕事を休むわけには行かない。間もなく出勤しましたが、残ったわたしは、新しいクラスの準備も手に付かず、そのうち、友人たちから、親戚から、知人からと電話が一日中なりっぱなしです。

娘が一緒に歩いたグループは会社の寮の人たちで、実はその寮が偶然我が子たちのアパートの一つ駅違いのところにあるのだそうな。たまたま、社員に寮から築地にある会社まで、1時間ほどかけて自転車通勤をしていたツワモノがいたのだとか。それで道を知っていたので、皆で徒歩で、との決断を下したそうだ。

自転車で1時間が、歩いてなんと4時間半!たはーー!どんな靴でそんな長時間歩いているのだろうか、足、大丈夫だろうか・・・そんなことを思い巡らしながら、気が気でならず新しい出張日本語クラスを終えて帰宅し、息子から娘が家に無事たどり着いたことを確認して、ひとまず安心したのでした。

2011年3月20日

我が家にはポルトガル国内にいるたくさんの知人親戚から毎日のように子供たちの、日本の安否を気遣って電話がきました。

特に我が子たちを幼いころから可愛がってくれた夫の姉、子供たちからするとルイーザおばさん、そして84歳で現在地方の老人ホームで生活している夫のいとこのアルダおばさんは、涙声で毎日電話をくれ、わたしが「大丈夫!心配ないで!」と慰める側に(笑)

今回、計画停電を体験した方々も多いことでしょう。今でこそ、ポルトガルもそこそこに便利な生活を享受できるようになりましたが、わたしが来たころの38数年前のポルトガルはこんなものではありませんでした。

予告なしの停電、断水はしょっちゅうで、年末、新年にかけての三日間ほど断水に見舞われたこともあります。旧年の垢を体にまとっての正月なんて、物心ついて以来初めてではなかったでしょうか。

まだ、こどもたちが赤ん坊の時の断水もしょっちゅうで、当時は紙おむつがあまりなかったものですから、オムツを洗うのとオムツかぶれを防ぐために、常時気をつけて貯水の準備していたものです。

日本の便利な生活に慣れていたわたしは、エラい国に来てしまったと当時は少なからず思ったものです。そういう体験から、そんな時にも慌てないイライラしない忍耐力を学んだと思います。

子供たちも「停電だから今日はできませんよ」とわたしに言われ、それこそ「がびーーん」の体験を少しは覚えていることでしょう。
ですから、ポルトガルでは、まぁ、停電はままあること、小さな赤ちゃんや病気のお年寄りがいるわけではなし、数時間の停電は彼らはなんとでもなります。

ただ、停電に備えて懐中電灯がなかったというのは抜けておりました。モイケル娘いわく、「どこにも売ってない、ネットで見つけて注文しようとしたらもう売り切れだった」

さもありなん。我が家では停電用にと、キャンプ用のガス灯や懐中電灯、更にはろうそくまで暗闇でも常時手の届くところに置いてあります。豊かな文明生活を享受している、特に若い世代は恐らく懐中電灯など常備していない人が多いのではないかしら?

日本からポルトに来る日本人からは、よく不便だ遅れている、物事がちゃんと機能していない、などの不満を耳にしますが、全ての事物は二面性を持っていることを思い出していただきたい。文明の利器も同じです。自分が住んでいた生活環境をそのまま他国に持ち込んでは、その国での生活を楽しむことはできないし、国際感覚は学べない。

国際感覚とは語学ができることではなく、自国と他国との違いを学び、受け入れ、理解し合うことだとわたしは思います。

今日のポルトは雲ひとつない真っ青な空です。夕べは大きな満月が煌々と空にかかり、主のいない子どもたちの部屋にも窓から月光が差し込んでいました。大好きな音楽もこの一週間ずっと聴いていないことに気づいた今朝、久しぶりにモイケル娘の作曲した音楽を聴いています。

水が飲め、そこそこに食べ物があり、電気があり音楽がきける。会いたい人に会いたい時に連絡がとれる手段がある、そんな基本的な幸せがあるだけでも生きているという充実感を改めて感じさせられた一週間でした。

被災者の方たちはこれから苦難を強いられますが、どうか生きていることの幸せを噛み締め、再び立ち上がって欲しいと願わずにおられません。

2011年3月23日 笑っちゃいけないが、なんだか可笑しい

原発問題がまだ明確な見通しがついておらず、現場では今日も危険を承知で必死な作業が続けられています。ニュースを通して被災者たちのエピソードも聞こえてき、気の毒で涙が出てきます。しかし、人生は続く。日本人の、人間の生命力の逞しさを信じたいと思います。

「おっかさん、今日はパンが買えた!」とモイケル娘。日本は物が豊富だ、というより、豊富を過ぎて贅沢だとフッと思うことがあります。今回の被災地だけでなく、世界には食料不足に困っている人たたくさんいるのですが、贅沢に慣れてしまうことは怖い気もします。パンが買える喜びを、娘よ、覚えておいて欲しい。

計画停電だというのに、懐中電灯もろうそくもないという我が子達、懐中電灯をネットで注文しようとしたら品切れでないと言う。大阪の我が親友Michikoが食べ物を含むそれらの物資の差し入れが届けてくれました。

子供たちの住む区域、夕方6時から10時まで停電の今日、間もなくその時間がくるという前の少しの間、スカイプでモイケル娘と話しました。

おっかさん  懐中電灯、手元に用意してる?
モイケル   うん。ヘッドライトをつけてる
おっかさん  へ、ヘッドライト?
モイケル   そ。みっちゃんが送ってくれたのを頭につけてる。
        鏡で今自分の姿を見たら、マヌケだった^^;

↓こ、こんなんを頭につけてるんか、と思ったら、停電を待機しているのが気の毒だとは思ったが、おかしくてつい大声で笑ってしまった。
トーチ



笑っている間に停電が来た様で娘はスカイプから落ちていた。夫にもヘッドライトの話をし、このところ、わたしたち夫婦の会話はずっと心配な話題か津波の映像を黙って見るばかりでしたが、こんな小さなことだが久しぶりに笑った気がします。

長い記事になりましたが、時に思い出して気持ちを引き締める必要があると考えたのでした。息子よ、娘よ、いざという時の準備はしてるかい?


人生はカラクリに満ちている(1)

2018-01-20 21:11:48 | 日本のこと
2018年1月20日

誰の言葉だったか忘れたが、60が近づく頃ともなると人間どういうわけか同窓会とやらが気になるのだそうだ。

気になるのは同窓会よりもむしろ同窓生だとわたしは思うのだが、その同窓会へのいざないのきっかけが、数年前、母校卒業後40数年もしてある日突然、わたしにはやってきたのである。

小学校、中学校、高校と、わたしの学校歴は西宮と大阪での中学校時代の1年を除いては弘前だ。小学校時代は究極の内弁慶だったわたしは(本当だってばw)、妹と隣近所の同年代の子供たちが遊び仲間で、学校内の友達はあまり記憶にない。

その隣近所も、下町の祖母の家に大所帯で住んでいたのが、時計屋をしていた叔父が、他人の保証人を引き受けたがためにとばっちりを受け、他人の借金を肩代わりする羽目になり祖母は泣く泣く家を売却して、大家族は離散となったので、あの頃のガキ大将時代(わたしは大将であった^^)の仲間たちが、今はどこでどうしているのか分からない。

中学時代の親友はいたが、中学三年生の1年間を転校して西宮、大阪で過ごしたのと、中学時代の友とは高校も違い、結局離れ離れになってしまった。

読書に没頭した高校時代は、もちろん人生を語り合った友人が幾人かはいたが、それも卒業後、大阪へ出たわたしは糸の切れた凧のように、消息を絶つようなことになってしまい、気がつけばいつの間にかヨーロッパの西の端の国、ポルトガルに居ついていた。

こんな風にして、弘前の同窓生たちとは半世紀近く交信することもなく来たのだが、ある日、何とはなしに、「Web 同窓会・ゆびとま」(現在このサイトはどうなってるのだろか?)にアクセスし、たった一人しか登録されていなかった。

記憶にない同期卒業生の上に自分の足跡を残して来たところが、登録していたY君からある日、「君を覚えています」とメール連絡を受け、そうして同窓生の口から口へと輪が広がり、それが機になって卒業後、行方不明を意味する空白になっていたわたしの卒業生名簿の住所欄は40数年ぶりに埋められることになったのだが、さてさて、この長い前置きに辟易しておられる方もおるでしょう。

しかし、本題はこれからなのであります。以下、2007年8月の日記を引用します。

亡くなった写真家の星野道夫さんは書いた。「人生はからくりに満ちている」と。今日、わたしはその言葉に改めて感じ入り、ひとり胸にジンと来ているのだ。

いつもの習慣通り、ある日の朝メールボックスを開くと高校時代の友から一通入っていた。彼女からは二日ばかり前にメールがあったばかりで、まだ返事を書いていない。書き忘れたことでもあったかな?と思い何気なく目を通したメールには、

「あすなろのママ(同じく同窓生で弘前の彼女のスナックあすなろは南校卒業生たちの集いの場となっている)にお願いされました。

あなたの中学時代の友人、森○江美子さんって覚えてますか?昔、手紙をもらったのだけど返事が書けないまま、住所も分からずずーっと気になって探してるとのこと、連絡欲しいそうです。」

近年メールを受け取ってこんなに驚かされたことはない。彼女の名をこんなルートで聞かされるとは、想像だにしなかったのである。

あの頃の彼女の呼び名を呟いてみる。13、4のわたしたちが浮かんで来て、懐かしいほろ苦い思いがこみ上げてくる。音信が途絶えてあれから幾星霜過ぎただろうか。

彼女は中学時代の仲良し友達三人の一人であった。中学2年でわたしは大阪に、彼女たちは弘前に。帰郷して受験した高校もお互いに違い、三人仲間のもう一人は、中卒後就職列車に乗り北陸へ。わたしたちは離れ離れになったのだ。

やがてわたしは大阪へ、森○は東京へ。その後、21の歳に大阪で一度再会したきりわたしたちはそれぞれの都会での生活に忙しく、いつの間にか音信を絶ってしまった。もう40年近くの歳月が流れてしまったことになる。

青い夢を、憧れを語り合いわたしたちはいつも三人でつるんでいた。歌真似もよくしたものだ。わたしの思春期の家出の片棒だって担がせた。

その友の名が、記憶の向こうから時を飛び越えて今わたしの目の前にやってきた。メールに記されてある電話番号のダイヤルを回す手が思わず震えました。

0081の047の○○○○・・・・

国際電話の向こうで呼び出し音が鳴っている。心臓がドキドキしている。

「もしもし」と受話器の向こうからあの頃と同じ、太い声。「森○江美子さんのお宅ですか?」と、わたし。
一瞬沈黙の後、「・・・あ!」と彼女の声。森○は、彼女の旧姓である。「わたし、袖」。

この一言で、「ぅわぁ~~~~~!」とお互い言葉にならない歓声をあげた。どのようにわたしに辿りついたかをかいつまんで友は説明する。

先ごろ、弘前で中学時代の同窓会があったので現在住んでいる千葉から出かけた。そこで集まったなかに「サンペイ」がいて(これがちっともわたしの記憶にない^^;)彼いわく、
「あの頃、袖に世話になった。会いたいなぁ」との話になった。その中に、同じ南高校卒業生でわたしを覚えている一人がいて、どうやら、袖は生きているらしい。あすなろのママが知っているかも、となり、スナックへ彼女たちは足を運んだ。

行くや、「うん。この春会ったよ。ほら、これ、袖からもらったのよ。」 こうこうしかじかあすなろのママに事情を話し、パソコンを持たないママは、わたしたとメールのやりとりをしている我が友にメッセージを託したのだと。

人の世は不思議な縁だな、とわたしはここまでの糸を手繰り寄せてみる。

もしも、わたしがかつてyubitomaの南高校卒業生欄に登録しなかったら、わたしを覚えていた同窓生の一人からメールをもらうことはなかっただろう。もしも、彼が他の同窓生たちに声をかけなかったら、わたしは京都で高校時代のかつての親友に会うことは勿論、懐かしい同窓生達に会うこともなかっただろう。

もしも、そのわたしのニュースが広がっていかなかったら弘前までわたしが出かけて36年ぶりに第一期生同窓会に顔を出すことはなかっただろう。もしも、あの時「明日には東京へ帰るから。」と2次会であすなろへ皆と一緒に足を運ばなかったら、そこで新たに今メールのやりとりをしいる友とはつながらなかったであろう。

もしも、・・・・このひとつでも欠けていたら、今日、中学時代の親友に巡り合うことは恐らくなかったことだろう。

かつて我が日記に書いたように、一つ一つの、今自分がすることはそれぞれが小さな点であって、それらがわたしたちの気づかないうちにどこかでつながり、一本の線になるのだと感じられる出来事にわたしは今日遭遇したのである。

このような人生のカラクリは、頭ではなるほどと思うだろうが、ある程度の年齢に到達しないと見えて来ないのかも知れない。

自分が残した足跡を誰かが辿り、いつかまた数十年も前の人との再会を喜び合えることがあるかも知れないだと思うと、人の世の不思議なカラクリに、震えを感じないわけにはいかない。

あまりの興奮に、うっかり結婚後の彼女の苗字を聞きそびれてしまい、手紙を送るのに、翌日もう一度国際電話を入れたのであった。

ー2007年の日記引用終わりー

とまぁ、こういういきさつで、中学時代の親友と40年ぶりに連絡がとれたのですが、後日談を明日にいたしますれば。
本日はこれにて。

マキアヴェッリに学べ

2018-01-19 09:38:26 | 日本のこと
2018年1月19日

自分たちの国の運命を他国の軍事力に頼ってはならない。
(まるきり人の軍事力に頼ってる日本ではある)

全ての都市、すべての国家にとっては、領国を侵略できると思うものが敵であると同時に(うん、いるいる。それも大小3隣国だ!)それを防衛できると思わない者も敵なのである。 (いかにも!国内にも敵はあり
君主国であろうと共和国であろうと、どこの国が今までに、防衛を他国に任せたままで自国の安全が保たれると思ったであろうか。政治上の無能は経済上の浪費につながる。(ほんとにその通り!IMFやらODAやら外国人生活保護費やら、震災復興予算費流用やらの浪費をあげつらったらきりがない)政治上の無能はしばしば節約を強いる部門の選択を誤ることにつながる。
(ズバリ、過去の民主党レンホーの仕分け作業)

都市(国家)は、軍事力なしには存続不可能だ。それどころか最後を迎えざるを得ない。最後とは、破壊であるか隷属(怖いほどに感じる)である。

普通、人間は隣人の危機を見て賢くなるものである。 (チベット、ウイグルを見よ!)それなのにあなたがたは自ら直面している危機からも学ばず、あなた方自身に対する信ももたず、失った、または現に失いつつある時間さえも認識しようとはしない。運は、制度を変える勇気をもたないものには、その裁定を変えようとはしないし、天も自ら破壊したいと思うものは、助けようとはしない。助けられるものでもない。

個人の間では、法律や契約書や協定が、信義を守るのに役立つ。しかし権力者の間で信義が守られるのは、力によってのみである。 (口先と金のバラマキだけではダメ。慰安婦問題しかり

都市(国家)は全て、いかなる時代であっても、自らを守るためには、力と思慮の双方を必要としてきた。なぜなら、思慮だけでは十分でなく、力だけでも十分ではないぁらである。思慮だけならば、考えを実行に移すことはできず、力だけならば、実行に移したことも継続することはできない。したがってこの二つが、いかなる政体であろうと関係なく、政治の根本になるのである。この現実派、過去においてもそうであったし、また将来においてもそうであることに変わりはないであろう。(力のない正義は無力だということだ

竜に一人一人順に食われていくのがいやならば、竜を皆で殺すしかない。(脱亜論にのっとる

上記、まさに現在の我が国に向けたメッセージそのものに捉えられる。が、実はこれ、以前一気に読んだ本、塩野七生氏の「我が友、マキアヴェッリ」の中からの抜粋なのです。赤字はわたしの突っ込みです。

世紀のイタリア、ルネッサンス期のフィレンツェ共和国に使えたニコロ・マキアヴェッリはさほど裕福でない中流家庭に生まれ、高等教育、今で言う大学を受けていないノンキャリア官僚だったとのことで、このあたりから引き込まれて読んだところが、んまぁ、あたかも我が国の政治家たちに言って聞かせているような、上記のマキアヴェッリの言葉であります。権謀術数のマキアヴェッリと言われるものの、至極まっとうな言葉ではありませんか。

この当時のフィレンツェ共和国は、四方を海に囲まれた島国の日本とは地理的条件は違っているものの、現在の日本同様、繁栄力の反面、軍事力を持たず、いざというときには傭兵に頼っていたのです。政府の優柔不断ぶりを、会談に於いては若きチェーザレ・ボルジアをして「あなた方の政府は嫌いだ。信用ができない。変える必要がある」とまで言わしています。このあたりも今の日本政府にそっくりそのまま聞かしたい部分です。

ノンキャリアであるがため第二書記局書記官の職以上は望めず、それでも祖国の独立を守ろうとするマキアヴェッリの東奔西走にも拘わらず、フィレンツェ共和国はやがて滅亡するのでが、読み進めながら、フィレンツェ共和国の姿が我が祖国と重なり、暗澹とした気持ちに襲われます。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶとはドイツ初代宰相ビスマルクが言った言葉ですが、今の日本の政治家は、自国の歴史は愚か、世界の歴史に学ぶなど及びもしないのでしょうか。手がけるべきことも何一つ進められず、「近いうちに」と無責任は留まるところを知らない。ほとほと嫌気がさしています。

外から見てると、過去の歴史にもないような異様な姿に近年の日本が見えるのだが、気のせい、歳のせいであろうか。そうであることを願わずにはいられない昨今です。

「沈黙は金、謝罪は美徳」ではない

2017-09-27 18:52:10 | 日本のこと
2017年9月27日



「spacesisには政治が分からぬ。spacesisはポルトの一主婦である。けれども祖国に対しては人並みに敏感である。」とまぁ、今日は太宰治の「走れメロス」冒頭部分を拝借。

「沈黙は金、謝罪は美徳」は、日本国内でこそ通用することだと知ったのは、ポルトガルに住んでからです。
私たち日本人は、相手とことを構えるのを避けるため、ついつい「すみません」を安易に使いがちなのですが、国際社会においては、旅行者ならいざ知らず、いえ、たとえ旅行者であったとしても、ことに寄っては「ごめんなさい」は迂闊に使うものではないらしいのです。

「すみません、ごめんなさい」の言葉は、全面的に自分の落ち度を認めることを意味するもので、自動車事故などでも、そう言ったが最後、あとで言い逃れは効かなくなり、負担は全て最初に謝罪した者にかかります。

ポルトガルに住み始めた当時は「嫌!」と意思表示するのが、まったく苦手でした。これ以上はもうどうもならん、がまんならんというところまで行って、「嫌だ!」と初めて意思表示ができたのは、夫の家族や親戚とポルトガルに住んで四年も過ぎてからです。

嫌いです、を「余り好きではありません」と自然に口から出てしまう自分は、いくら外国のことを少し知っているとカッコつけても、典型的な日本人であると悟ったものでした。「ごめんなさい」や、少ししんどいけど頑張ってニコッと笑顔をつくることが、人間関係の潤滑油になると、信じて疑わなかったのですから。

もちろん、それが功を奏すこともありますが、肝心な問題点に来たときは、それではダメなのだ、少しも解決にはならないのだと数年もしてから理解しました。

今ならさしづめ、ブログに書いたりツィッターで呟いたりして鬱憤を晴らすことができるでしょうが、当時はパソコンなどなし。
国際電話も一年に一度するかしないかで、せいぜい手紙を親兄弟、友人たちにせっせと送るが関の山。 それでも手紙に愚痴は一言も書けませんでした。愚痴を書き始めても、それを読み返すうちに自分がその時の哀しい気持ち以上に惨めになるのです。

我が亡き母も愚痴をこぼさない、人の悪口を言わない人でしたから、そういうことを文字に表すのをわたしもよしとしませんでした。わたしのポルトでの最初の6年間の苦難を知る人は、ですから、夫を除いては誰もいません(笑)

自分の意見をはっきり表示するということは、そこにいる人たちがその習慣を身につけている場では、自分も非常にスッキリします。相手の考えていることも明確にわかりますし。そういう場でユーモアを使って相手をギャフンとやり込めることができればもう文句なしです。

わたしは日本人同士の間では、やはり日本人としての美徳を失わないようにしたいと思いますが、ポルトガル社会でとなると、少しはきつくならなければならないのかな?と思ったりします。

ただ、これをそのまま調子に乗って日本人社会に持ち込むとなると、今度は逆に摩擦が起こるわけです。

こういうことを経験を通して少し学んだもので、日本の政治家には国際社会に出たときに、国際マナーと言うか、国益にのっとった立場で議論が広げられるノーハウ、テクニックを学び、国内国外でのマナーのTPOを身につけてもらって、それを使いわけられたらいいのではないのかなぁ、などと思うのですが。

近年は安倍首相が日本人トップとして、なかなかに旨く国際社会で渡り合っているように見えます。それなのに国内のメディアの安倍叩きは安倍憎しの一筋で酷いものです。安倍首相の政策全てに同意するわけでは
ありませんが、国難ともいえる今、海外のトップと互角で談話できる日本人が誰かいますかいな?

「うるさいから、しつこいから、ま、この辺で謝っておきましょう、手を打っておきましょう。」などの安易な謝罪は、従軍慰安婦問題の根拠とされる河野談話でも見られるように、そのときは一旦治まったかのように見えても、国際社会では必ず後で大きなしっぺ返しとなって、こちらに撥ね返ってきます。

「しつこい」も言い様では、「粘り強い」になります。これも日本には身につけて欲しい点です。隣国たちのように巧みなロビー活動までできないとしても、国の威厳に関わることは、理論と証拠を示してエレガントに堂々と、しつこく打ち出して欲しいと思います。

今回トップに掲げた世界地図ですが、これを見て気づいたことがありますか?
実はこの地図、韓国のピョンチャンで行われる2018年の冬季オリンピック公式サイトに掲載されていたもので、日本列島が消えているのです。

韓国側は担当者の間違いで政治的意図はないと弁明していますが、地球上の普通あまり知られていない小さな国や新しく独立した国だと言うなら話は分かりますが、(それでも主催国としては失格です)日本は隣の国です。それが抜けるわけがなく確信犯に間違いないでしょう。これが逆に、日本が彼の国の消えている地図を載っけたら、どんな罵りを受けることか。

今回は発見後すぐ政府が是正要求して修正されましたが、慰安婦問題や南京問題、軍艦島問題もこんな風に国が「違うぞ、出されてる証拠に偽りがあるぞ」と反論の一つもしなかったことが、今日これらの問題をこじらせてしまった原因のひとつだとわたしは思っています。

その場しのぎのいい加減な謝罪や誤魔化しが後で大きなツケになって返ってくるのです。政府が反論しないことに、いつもイライラしているわたしであります。

なんではっきり「ここにこうして証拠書類がありますねんで。これらの証拠写真とされるものは全て捏造なんでっせ」と突きつけへんねん!歯がゆいったらありゃしません。

なんや、段々腹立ってきましたんで、今日はこの辺で。
ほな、また明日。


荻の上風 萩の下露

2017-09-05 17:09:28 | 日本のこと
2017年9月5日 荻の上風 萩の下露

Wikiより
8月と9月第一週は通常、休暇の日本語教室なのだが、我が最年長の生徒さん、85歳のアルフレッドさんの希望で今年は彼のみ8月も続けて来ました。故は、「この面白い百人一首の本を生きている間に終われるでしょうかね」と彼が漏らした一言です。

ドイツ系ポルトガル人のアルフレッドさんは既に何度か日本を訪れていて我が生まれ故郷弘前にも足を延ばしてくれています。2年前にはドイツ人の若い友人を伴い5日かけて熊野古道を歩き、わたしは先を越されて悔しがったものです。かほどに彼は大の日本ファンなのであります。

その彼が、わたしが読んでいた「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」を見て、一緒に読みたいと言い出し、それでは共に学びましょうと始めたのが昨年2016年の秋です。

前もってわたしが勉強しておき、彼が読む。その後、百人一首の歌人の背景と書かれてある「ねずさん(著者のハンドルネーム)」の歌の解釈を、もう一度わたしが説明する、という授業を週に一度してきて、昨日はやっと半分の第五十番歌に辿りつきました。 藤原義孝が詠んだ下記の歌です。

君がため 惜しからざりし命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
(君のためなら命さえ惜しくないと思ったが、今は君のためにこそ長生きしたいと思う)
ねずさんの本の受け売りですが、類稀な美男子で歌の才能にも恵まれた義孝は、疱瘡で外見を醜い姿に変えわずか21歳で夭逝したと言われます。

50番歌は恋の歌であると同時に作者が夭折したことで、残された人の悲しみをも内包することになったと解説されています。

さて、ここからが今日の本題なのです。この解説の中で義孝13才の時に作ったと伝えられる歌(和漢朗詠集)が紹介されています。

秋はなほ 夕まぐれこそ ただならね 荻の上風 萩の下露

下の句は「おぎのうわかぜ はぎのしたつゆ」と読みます。
荻の上風 
萩の下露

この下の句にわたしは興味を惹かれ、ちょっと比べてみることにしました。荻と萩は漢字も読みも似ており、うっかり者のわたしなどは最初同じように見えて冷や汗をかいたのですが、オギはイネ科ススキ属、ハギはマメ科で花をつけ秋の七草の一つです。

二つの似た漢字、言葉を並べ、上風、下露と「上下」の対比、更に風は地上を吹き露は萩の葉から滴り落ちると言う、これもとても面白い対句になっています。古来より荻は「上葉を揺らす風」、萩は「葉に置く露」を詠まれてきたといわれます。

俳人の長谷川櫂氏は「記憶する言葉」の中で、「日本語の中には人々の長い年月にわたるいくつもの思い出がぎっしり詰まっている言葉があります。例えば桜と言う言葉には、王朝貴族の喜びや悲しみ、江戸庶民の浮かれ騒ぎ、それに戦争の忌まわしい記憶までも畳み込まれています。言葉は記憶するのです。俳句を読むのは、季語に内臓された思い出を蘇らせることです。」と書いています。

秋に先駆けこのような美しい歌に触れ、日本語の七五調の「記憶するリズム」が自分の中に組み込まれているだろうことを感じたのでした。俗物のわたしは「ハギ」と言う言葉を目にして、恥ずかしながら一瞬「萩に猪」の花札を思い浮かべたことを白状しまして、本日はこれにて。


下記は百人一首に関連する過去記事です。よろしかったらどぞ。
★「百人一首を通じて学ぶ日本の歴史
★「生徒と学ぶ百人一首がおもしろい!」