ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

百人一首を通じて学ぶ日本の歴史

2018-01-07 15:31:17 | 
 2018年1月7日

子どもの頃、トランブ遊びに替わりに親がよく遊んでいたので、花札の花合わせ遊びは知っている。
小さな一枚一枚の黒い縁取りのカードに、鮮やかな色彩の花が描かれているのを見ては、美しいと子供心に思ったものだ。少し厚めで裏が黒色の花札は、一枚一枚置くときのピシッと音がするような感覚も好きだった。

日本から持ってきた花札は、ここで遊ぶことはないが、日本文化展示会に使うことがある。その鮮やかさな色彩はポルトガル人たちの目をひくようだ。

花札が一式を48枚だとするのは、ポルトガルから伝来した「カルタ(carta)」もしくは「バラーリュ(Bbaralho)」と呼ばれる遊びカードが、一組48枚だったことから来ると言われる。後に、このカルタ、バラーリュは日本語で「トランプ」と呼ばれるようになったが、その語源はさだかでない。

さて、カード遊びと言えば、日本の代表として上げられるのに小倉百人一首の歌がるたがある。小倉百人一首は13世紀始めに京都の小倉山の山荘で、歌人藤原定家が8世紀から13世紀の間に詠まれた和歌を編纂(へんさん)したものだ。、それが江戸時代に入ると歌がるたとして広く普及し、現代に至る。


展示会用に日本から持って来た百人一首


歌がるたの経験はないが、百人一首の歌の何首かは知っている。恋の歌が多いなというのが、これまでのわたしの感想であった。





ところが、しばらく前に、「今の百人一首の解釈の多くは間違っている」と書いてあるのをネットで目にしたもので、どこがどう間違っているのか知りたいものだと好奇心が頭をもたげ、日本に住む娘に依頼して送ってもらった本が「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」だ。



サブタイトルに「千年の時を超えてあ明かされる真実」とある、国史研究家、小名木善行氏の著書である。小名木氏は、日本の良い話をブログ「ねずさんのひとりごと」で発信するブロガーであり、わたしはよく訪問する。

一週間ほど前から、夜寝床に入って寝入る前に読み始めたこの百人一首だが、一挙にその解説に引き込まれてしまった。ハードカバーの分厚い本なので、右親指の付け根に腱鞘炎があるわたしには、しばらく手に抱えて読むのが厳しい。夜寝る前に百人一首の1首と解釈を読んで本を置くことにしている。

小名木氏の解説には、文法解説もあるが、同時に時代背景の歴史を絡め、歌の詠み人の心情にせまっていく。なんだか、ミステリーを紐解いていくようで、わたしは大いに興味をそそられているのである。

例を上げると、百人一首のトップは、中大兄皇子こと、後の天智天皇の詠んだ、

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ」

は、通常、「小屋が粗末だから、わたしの着ている服が梅雨で濡れてしまったよ」が解釈だが、小名木氏は、「天智天皇ご自身が太陽が出ていない時間帯に、粗末な庵で、長時間、自ら苫(ござ)を編んでいたのであり、民と共に働く天皇、上に立つものから率先して働く天皇の姿」がうかがい知れる。世界史上でも類まれな偉大な天皇の和歌を、一番歌として定家は持ってきた、と解説している。



2番歌には、女性天皇、持統天皇の

「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」

は、究極の夫婦愛と日本人の死生観を歌ったものだと言う。そして、「日本」と言う国号を正式に決め発令したのはこの持統天皇だと解説にある。



ひとつひとつの和歌の解説は、その当時の歴史的出来事をとりあげ、まるで歴史を短編を読んでいるような気がすると同時に、目からウロコの解釈に驚くばかりだ。

久しく、ズシリと重さも読み応えもある一冊に出会った思いだ。

ロルカ、スペインの光と影

2018-01-02 13:10:35 | 
2018年1月2日

「別れの歌」

わたしが死んだなら
バルコンをあけておいて欲しい
(バルコンから、わたしはそれを眺めていよう)

刈り入れびとが小麦を刈っている。
(バルコンから、わたしはそれを感じていよう)

わたしが死んだなら
バルコンをあけておいて欲しい!

(ロルカ「歌集・1927年」より)

スペイン内戦初期1936年に38歳でフランコ将軍が率いるファランヘ党に銃殺されたアンダルシアの詩人フェデリーコ・ガルシア・ロルカの詩の一編だ。

ロルカの代表作はアンダルシアのジプシーを詠った「ジプシー歌集」が代表作だと言われる。ロルカはグラナダの出身であった。

アンダルシア地方のグラナダは、レコンキスタ運動と称するキリスト教徒がイスラム支配からイベリア半島国土を奪回する戦いで、15世紀にフェルナンド王とイザベル女王(コロンブスのパトロンでもある)がレコンキスタ運動の仕上げとして最後に陥落させた800年及ぶイスラム文化支配の首都である。

アンダルシアの語源は、5世紀にこの地を征服した「ヴァンダル人」でイスラム人に「アル・アンダルス」と呼ばれていたことから来る。グラナダはアラビア文化の香りを今に伝えていると言われる。

さて、上述のガルシア・ロルカなのだが、わたしは大阪にいた20代の頃へミングウエイがスペイン内戦に義勇軍として加わった当時の体験を元にした「誰がために鐘は鳴る」の延線上で偶然彼の名前を知り、しばらくは興味を持ってロルカについての本を読み漁ったことがある。

下の本は当時わたしが読んだ本の一冊。1973年出版のものだ。


ロルカは劇作家でもあり、彼の「血の婚礼」「イェルマ」「ベルナルダ・アルバの家」は映画化もされ彼の三大悲劇作品と言われる。ピカソや詩人のジャン・コクトーたちとも交友があり、銃殺のニュースは当時のフランス文壇にショックを与え、コクトーはロルカに捧げる詩を書いている。

歌え フェデリーコ
君の大きく開いた傷口

その傷口の廃墟の上に
真赤な星

傷口の最後の詩の赤いインクで
歌え フェデリーコ


グラナダ郊外でレジスタンスと共に銃殺されたロルカがどこに埋められたかは不明である。彼の逮捕銃殺の原因にはいくつかの説があるが、今回はそれを置くとして、これらの本を読んで20代だった当事のわたしが感じたことは単純に、独裁主義、ファシストは人間性を無視して怖いという思いだ。以来わたしは右も左も行き過ぎた思想には組したくないと思っている。どちらも行き過ぎると似たような状況を招くと想像するからだ。

こんな昔のことを思い出しながら、書棚から「ロルカ・スペインの死」を取りだした本をパラパラめくっていると、一枚の古い新聞記事の切抜きがページの間からハラリと落ちた。

広げてみると、故国スペインを捨ててフランスへ亡命し後、プエルトリコに住んで、1973年に亡くなったカタルニア出身の世界的なチェロ奏者「パブロ・カザルス」の死亡記事だった。


今再びスペインからの独立が持ち上がってきバルセロナを州都にするカタルニア地方だが、ここもまた、スペインの中では独特の文化を持ち、フランコの独裁政権下で抵抗してきた州である。カタルニアではスペイン語と異なる「カタルニア語」が公用語だ。

子どもたちが小学生のころ、わたしたちは家族旅行で車でバルセロナからピレネーを超え、南フランス地方を少し回ったことがあるが、宿泊したカタルニア地方のホテルや観光案内所には、カタルニア語のカードがあちこちに置かれていたものだ。

カタルニア出身には、建築家アントニオ・ガウディ、サルバドール・ダリがいるが、パブロ・カザルスもカタルニア出身だ。彼はスペイン内戦時に亡命し、フランコ将軍の政権をヨーロッパが認めたことに抗議して演奏活動停止を宣言する。

後、彼が94歳で故郷に思いを託して「鳥の歌」を弾いたときに、「わたしの故郷カタルニアの鳥は、ピースピースと鳴くのです」と語り「鳥の歌」のエピソードは伝説的となる。

イギリス人のジョージ・オーエルは、ヘミングウェイ同様、内戦時に人民戦線派に組し、その体験談を「カタルニア賛歌」として本を書いている。この本も持っていたのだが、どこかへしまった。そうそう、ついでに画家のパブロ・ピカソはロルカと同じアンダルシアの出身だ。

さて、少しお堅い話で始まりましたが、この20代の頃からわたしはスペイン首都のマドリッドよりもコルドバやグラナダをいつの日か訪れてみたいとずっと夢見ていたのです。

それが、今日こうして隣の国ポルトガルに住むことになろうとは、当時は思いもしなかったのだが、縁とは不思議なものです。

で、すぐ隣に住んでいながら、1979年にポルトに住み着いたわたしがやっとロルカのアンダルシアを旅したのは2010年になってからです。それまでずっと足を向けなかったのには事情があったのでして。

気を持たせるようですが、その事情とやらについては明日への続きということで。