ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

日々是好日(にちにちこれこうにち)

2018-09-24 10:26:52 | 日記

2018年9月24日
 
40代には数年偏頭痛に悩まされ、その薬は常時バッグに入れて持ち歩いたものです。が、そのうち治まり、50代に入ると始めて花粉症を経験し、毎年春には目の周りがカサカサに乾きましたが、それも数年後にはほとんどなくなりました。

肩の石灰性腱炎も当初はそれと知らず長い間痛みを我慢していたのが、ある夜、激烈な痛みに襲われ、翌日即、病院で腱板に針を刺して、局所麻酔剤の滑液包内注射をしたことがありますが、その気分の悪いことと言ったら、ありませんでした。嘔吐感に襲われ、危うく座っていたイスから転げ落ちるところでした。

その他、小さな傷はよくこさえましたが、幸い出産時を除いては入院したことがありません。その入院とて二人目のモイケル娘のときは、自宅に医者がいるということで、産んで2日目には退院したものです。

こうして70年の我が人生を振り返ってみると、比較的健康であったんだなと思われますが、今回の帯状疱疹のように、3週間以上にわたるチクチクする痛みが一日中続くようなことは経験したことがありません。

今だ完治とは言えないのですが、これにかかって4週間目に入る今日、やっと本来の日常生活にもどりつつあるな、の感です。
痛みやちょっとした病にでもかかろうものなら、つい、不機嫌になり人と口もきかなくなるアカンタレのわたしは、病気を抱えながら、日々、笑顔で過ごそうとする人は本当にすごい、強い心を持つ人だと心底思います。

健康であるというのは、自分の心がけ次第で毎日を気持ちよく送れるのだと、つくづく思った次第です。

さて、そういうわけで、先週土曜日からようやく日本語教室も始まりました。

この秋から、長年続けてきた市立図書館での日本語コースを一旦閉めると決心したのですが、いかんせん、13人の中級クラスがどうしても続けたいと言い出しました。一度は同僚のOちゃんに見てもらおうと思ったのですが、このクラスをもう少し良い方向に持っていけるかもしれないと、欲が出ました。

しかし、図書館を出たからには、場所をどうするかが大きな問題でした。 模索した結果、自宅での個人レッスンを長年受けている空手師範のマリオさんが、道場の一室を提供してくれました。習い事のロケーションはアクセスがよくないと生徒が通いきれないので、大事な立地条件のひとつです。いい具合に、道場はボアヴィスタのメトロの側にあり、この問題はなし。

部屋は13人の教室としては狭いのですが、ぜいたくは言えません。生徒にもそれを了承してもらい、
昨日から始まったクラス、10時半ころにもなると、空手を習うためにやってきた子どもたちの大きな声が響きました。
「Icchi ni san shi !」

即、丁度タイミングよく教えていた文法、「~ ところです」を使用して生徒たちに、

「今、空手が始まるところです!」(笑)


空手の掛け声も部屋のドアを閉めると、聞こえません。
という訳で、帯状疱疹も治りつつある中、心機一転、新しい教室でがんばりまっす!

タイムカプセルのラブレターとRosa Ramalho

2018-02-07 15:00:45 | 日記
2018年2月7日

今日はビアハウスの話を休みまして。

暇を見ては断捨離(だんしゃり)とやらをしている。捨てるまではいかなくとも、長い休みを利用して、普段手をつけない押入れや台所、整理ダンスの奥などの整理をする人も多いと思う。

既に鬼籍に入ってしまった義母の家に住んでいるアーティストの義兄もその一人で、どうやら、屋根裏部屋に上がって整理と決め込んだらしい。

新婚時代、6年ほど夫の母やおばたちと同居していたのだが、家には屋根裏の収納部屋があり、バスルームの天井の四角い扉から入る。かなり長い梯子(はしご)をもって上らないといけないのであった。

わたしも一度だけ上がったことがある。天井は低いが結構広さがあり、ベッドなどの古い家具や古着や古靴、その他、箱に入ったガラクタ類が置いてあった。アーティストの義兄は、時々そこに引きこもって作品制作に没頭したと聞く。屋根裏部屋の扉から直接折りたたみ式の梯子でもついてあれば、子供たちのかっこうの隠れ場、遊び場になり喜んだことであろう。その屋根裏部屋へ人が行かなくなって優に30年は経つであろう。

亡くなった義母の家は、我がフラットからすぐの所にある。別居して以来義母が亡くなるまで、夫は夜の食事後には毎日欠かさず彼女を訪ね、一日のひと時を共に過ごしていた。義母が亡くなった今も、独り身の兄に気遣ってか、夫は未だにその習慣を続けている。

ある夜、「ローザ・ラマーリュの陶土人形が入った箱が屋根裏部屋で見つかったよ。」と言って二つの古い段ボール箱を抱えて帰って来た。

ローザ・ラマーリュ(Rosa Ramalho。1888~1977)はポルトガルの著名な陶土人形作家で、その独特な作風から一目で彼女の作品だと分かる。ローザ・ラマリュは夫の患者であったと言う。彼女の作品がたくさん夫に届けられたのだそうだ。

祖母の家からわたしたちが引越しした時に持って来た一箱は車庫に入れて置いたところが、知らぬ間に泥棒に拝借されてしまっていたのだが、どうやら義母の屋根裏部屋にもあったらしい。


大小さまざまの陶土人形は宗教をテーマにしたものが多い。下はイエスの誕生シーンを表したクリスマスの置物で、これをポルトガル語ではPresépioと呼ぶ。高さ40cmほど。





下のCeia(=セイア=最後の晩餐。聖夜に発音が似ているのは興味深い。)は、同じくRR の作品でわたしの気に入りだ。サイズは50X30cm

この作品については面白い発見があり、後日、取り上げてみる。

下は夫の引き出しにひっそりと仕舞い込まれている珍しく色をかけていない茨の王冠を冠した「白いイエスさま」。

人形の横にはローザの頭文字RRが掘られてある。何かしら優しげで可愛らしさがにじみ出ているところに作者の人柄が感じられる。

さて、夫に、後で見ておいてと手渡されたダンボール箱の中身に、少なからず喜んだのでありましたが、整理するのに一つ一つ作品を箱から取り出していると、中にもう一つ小さな古い箱が入っていた。これもローザの作品かな?と思って開けてみると、出てきたのが↓


うは~、懐かしい!これは、ポルトガルの地を踏んで足掛け3年、行動的な息子を連れての初めて帰国の折、広い空港内、うっかり目を離して息子をどこで見失うやも知れぬ、と言うので買い求めた幼児用の紐です。35年程も昔のことです。

どれどれ、とその箱を開けてみると・・・・ん?ん?っと、だんなさん・・・・若い頃のわたしが送ったごっそりの手紙ではありませぬか・・・



航空便、絵葉書はわたしが住んだアメリカのアリゾナから日本に広島大学病院で研究していた後の夫へ、また他は日本での結婚後、日本にいたわたしからポルトガルに一足先に帰っていた夫へ。宛名が日本語で書かれてあるのは、大阪から夫の留学先広島の寮へと、どっさりの手紙の束・・・

大阪で知り合ってまもなく、わたしたちは大阪と広島、そして半年後にはアメリカと広島に、日本での結婚後しばらくはポルトガルと日本にと、当時は離れていることが多かったわたしたちでした。

アリゾナにいた頃は、3日にあげず手紙を送ったもので、我ながら、なんとまぁ、ぎょうさん(たくさん)書いたことであろうか; 誤解をといておくと、内容はラブレターとは程遠いもので(笑)アリゾナでの日々の日記、pcのない40年ほども昔のことで、つまりはブログの走りを夫に書き送っていたわけだ(笑)

夫、ご丁寧に全部取ってあるとは^^;いえ、今更、自分が英語で書いたものを読むなんてこと、気恥ずかしくて、読めやしませんて(笑)

英語で学校教育を受けてきた我が子たち、「おっかさん、このスペルが間違ってる、この英語の言い回しが可笑しい」と英文レターの過ちを指摘されるのが関の山になるであろうし、こればかりは我が子たちに読ませてみたい、なぁんてことは思いませんですよ(笑)

夫め、ひょっとして証拠固めにと・・・^^;う~~ん、困った、いかに処分しようか・・・と、考えあぐねているのであります。と、こういうわたしも実は夫の古い手紙は取ってあるんだった(爆)

それぞれ、思いのあった手紙はなかなか捨てられずに30余年。どっかとポルトガルの生活に根をおろして、独りで生きてきたような顔をして、偉そうに一人前に夫に振舞うことも多い近頃、思いもよらず、目の前に姿を現した自分の書いた若い頃の手紙を目の前に多少戸惑いを覚え、ちょっとばかり反省しているのである。

友よ、30年君を待ったのだ

2018-01-03 11:16:57 | 日記
2018年1月3日

昨日の続きになります。

今の若い人たちはどうか知らないが、大きな下宿やにいたわたしの時分には誰かの部屋に数人集まって人生論を戦わしたり、夜更けの下宿ビルの屋上や川原であれやこれやの話をしたりして、人生とは何かとみんな模索していたものだ。

そんな仲間同士の中から、何組かのカップルができたり恋のさやあてがあったり、友達ができたりしたと思う。そうした交友が一時的な間柄で終わってしまうこともあるが、ずっと友好が続くこともある。

わたしの場合、女同士がくっついてどこそこへ行くということはあまり性に合わないので、必然女友達はなかなかできないものである。わたしはよく一人ぽっちだったが「本」と言う友がいた。

生涯の友と呼べる人にわたしが出会ったのは、かなり遅く、27、8歳の頃で、彼女は当時勤めていた会社のわたしの後輩だった。わたしたちの性格はまったく似ていない。若い頃のわたしは性急なタチで、思い立ったが最後、なんでもすぐ行動に移さないと気がすまないタイプ。それに比べ彼女はチビのわたしとは正反対に背丈があり、なんともゆったりおっとりした性格だった。

ポルトガルに住むに連れて、だんだんと性急な部分が緩められ、角がとれたと言おうか、随分のんびりした性格になったわたしだが、彼女はと言えばずっとあの頃のままで、今では関西で木彫家として活躍しており、木彫り、漆塗りの教室も開いている。
家財道具の一切合財を売り払ってアメリカへいざ!と移ったときは、愛しの我が猫こと「ポチ」を彼女とそのご両親に押し付けた。彼女の家には誰も弾き手がいないと言うのに、我が愛用の白いギターも無理やり引きとってもらった。

わたしは自分の最も大切な二つのものを処分しきれず、もらってくれと頼み込んだのだ。

挙句の果て、アメリカ移住予定だったのを半年で大学留学をうっちゃって、今で言えば日本とアメリカの遠距離も遠距離、当時は恋人だった現夫が研修を終え、もうすぐ日本からポルトガルへ帰国するとの知らせを受けた際には、全財産の旅行カバンひとつをズルズルひきずって大阪へ引き返した。その時には、行く当てもないわたしを彼女とその2姉妹、そしてご両親が住むお宅へ居候させてくれた。

彼女だけでなく、彼女のご両親もまた、わたしのよき理解者であった。そのご両親は既に他界されたが、わたしたちは月に一度ほどの割で国際電話で少しおしゃべりをしたものだ。

わたしがポルトガルに嫁いで来た時、今ほどヨーロッパと日本は近い距離に感じられなかった。なにしろ、ポルトガルからの便は、ロンドン、パリなどの中継地で一泊しなければならなかったのである。
そう簡単に会えなくなろう、別れの時、わたしたちは約束したのだ。
「いつか、きっと一緒にアンダルシアを、アルハンブラ宮殿をたずねよう」と。

わたしも友も、ヨーロッパの端、ポルトガルのことなどまだ何も知らなかったが、スペイン、アンダルシア地方、アルハンブラ宮殿は、スペイン内戦、ロルカの本も興味深く読んでいたことから、わたしたちにとり遠い異国の地、憧れの地であった。

以来、わたしは我が家族とマドリッド、トレド、バルセロナは訪れたが、アンダルシアは夫にも「みちべぇ(友のこと)と一緒に行くのだから」と行かないできた。お互いに子どもが生まれ子育て専念、とても外遊などする余裕のないまま、数年のうちにはと言いながら、いつの間にか30余年が過ぎてしまっていた。


ある日のこと、久しぶりに国際電話で親友と話した。数年前にお姑殿を看取った彼女、今度は5月からお舅殿の面倒をみるため、同居することにしたと言う。これは仕方がござんせん。

で、わたしは少し考えたのです。
あと5年もしたら、みちべえはまだ60いくかいかないでまだピンだが、わたしゃ・・・おい!68だぞ!人生、明日のことは分からない。5年後も今のようにぴんぴんしているかは誰もいえない。そこで、みちべぇに恐る恐る尋ねました。

「み、みっちゃん~、アルハンブラ、どないするねん?」
「Sodeさん、一足先に行っててちょ。」
「ええのん?そんなら下見をするつもりで行って来るよ。で、みちべぇが来たらもう一度一緒にいこう!」

そうして、日本語教室も休校、当時1年間の契約でしていた大イベント。「Japan Week 2010」のコーディネーターのお仕事も休んで、ポルトから車をぶっ飛ばしアルハンブラ宮殿のあるグラナダ、ロルカが銃殺され埋められたと言われる田舎の地、そしてコルドバを、夢のアンダルシアを周ってきたのでした。

勿論、連れはみちべぇではなく、我が夫。方向音痴がまた、あっちへひょ、こっちへひょ、行くんやろなぁ。
「そっち、間違ってない?」なんて一言ゆうたらスネルから、黙ってついて行きましたが、方向間違ったのを知っていながら黙っているのって、結構しんどいのであります。

と、これが、憧れだったアンダルシア地方が隣国にあるというのに、訪問するのを30年も控えていた事情でありました。
本日もお付き合いいただき、ありがとうございます。

終活序曲:ロッカー式納骨堂

2017-10-31 10:23:14 | 日記
2017年10月31日

気のあった者同士、いつもの日本人の4人仲間で先週日曜日はポルトダウンタウンのレストランで昼食をしました。

私たちがよく利用するポルトガル伝統料理のレストラン「Solar Moinho de Vento 「風車」の意味。

ポルト在住期間が39年に入った長老のわたし(!)を始め、同年代二人、それに私たちから見るとまだまだ若いOちゃんと、各々、ポルトガル人の連れあい抜きの会食ですから、みな本音が出ること!その間柄ゆえ、久しぶりに会っておしゃべりするのが楽しいのです。

かつては子育て、子達の日本語教育等が我らの話題の中心でしたが、やがてその子どもたちも、Oちゃんのを除いては独り立ちし、うち、我がモイケル娘を含む3人は所帯を持ちです。長年共にポルト補習校に携わってきた同僚だったI氏には既に二人の孫がおり、「次はあんただね」と今回は囃し立てられて参りました。が、こればかりは天のみぞ知る。

それが近頃は話題の行き先が老後を越えてその向こう、つまり終活となるのが、近頃定番話題になって来た我らであります。仲間の一人が、実は時間的、距離的に墓守も大変なので兄弟で話し合った結果、日本での墓地を売ろうとしたところが、お寺から「では、土地を平地にして返してください」と言われ、その費用に200万円かかると言われた、とのこと、なんとまぁ!!

してみると、亡くなった我が母の実家、弘前にある先祖代々の墓もおじたちの連れ合いたちも分骨などして、現在墓守をする従弟も子供がいないもので、先の問題がもちあがっているのを耳にしましたが、核家族化し、少子化になり、古い慣わしが消滅しつつある事態が、都会のみならず田舎にも押し寄せているのだなぁ、と思わされた一件でした。

ポルトガルと言えば土葬の習慣でしたが、近年はCremaçãoと言って火葬を望む人が増えて来、習慣の変化はこの国にも色々現れてきています。で、今回わたしたちの終活話で持ち上がったのが、ロッカー式納骨堂です。

ポルトガル語でColumbário(コルンバーリオ)と言います。先祖代々の墓地があれば別ですが、それが田舎にある場合は、新しく墓地を買い求めたりするのですが、高いのです。何しろ横たわっているわけで日本のお墓のよりスペースが要ります。それで、近年出てきたのがこのコルンバーリオで墓地の一角にこんな感じで設置されています↓


columbario1.jpg

う~ん、あまり入りたくないな、と見た目に思ったものですが、同じポルトに子供たちが住む友二人と違い、夫とわたしの場合は娘はもう日本在住確定ですし、息子も今のポルトガルの状態では帰ってこない確立が高い。

ならば、誰も来ぬ墓地などあっても仕方あるまい、あるいはこのロッカーも要らないかもね、と夫と話していたのです。すると、ある日、突然夫が「買ったよ、将来の家」と言うではないですか(笑)

えー!、どこに?いつの間にそんなお金、持ってたの?と問うと、「だから、ほら、近くの墓地に」 がーーーん!
何が将来の家よ、冗談きついよ。聞くと義兄も義姉も同じブロックに買ったという。なんだかなぁ、と思いながらもさすが仲のいい兄弟だわい、と受け入れざるを得ないのでありました。

わたしたちからするとまだまだ若いOちゃんそっちのけで、60代の我ら(11月半ばまでかろうじてひっかかっているわたしだw)、レストランで食事しながらこんな話に盛り上がり、わーっはっはと時に大笑いしていたとは、満席の周囲の客たちはつゆ知るまい。

どうもどうも皆様、、本日は滅相もない題材でごめん遊ばせ。

実は明日11月1日、ポルトガルは「Todos Os Santos(All Saints Day)」にあたり休日、みなさんこぞってお墓参りをするのでありますれば。

本日はこれにて。

あの頃、ビアハウス:知床旅情番外編

2017-10-16 18:41:47 | 日記
2017年10月16日 

長年の友人知人には既知のことなのですが、1970年代の大阪時代はアメリカ留学の資金調達のため、梅田新道にあった「アサヒビアハウス」でわたしはパート歌姫をしていました。
その懐かしいよき時代については「あの頃、ビアハウス」と題して、当時のビアハウスに通いつめていた個性豊かな常連たちについて綴っています。

わたしの古巣「梅新アサヒビアハウス」は今では建て替えられたビルの同じ場所に「アサヒスーパードライ梅田」と名を変え、ビアソングが聴ける店として、往時の名残を少しだけとどめています。

が、目をつぶると浮かんでくる我が梅新アサヒビアハウスは、古い大理石の柱と手当てが行き届きピカッと光った年期の入った木製のテーブルと椅子、春秋常連たちで賑わうホール、アコーディオンとリズムボックスの小さなステージ、歌姫が歌うオペレッタ、ビアソング、その合間を縫ってカンツォーネやオペラのアリアを歌う常連たちの姿で溢れていました。

あれは、あの時代は幻想だったのか?と40年もたった今、ふと自分に問うてみたりします。ポルトガルでの日々は歳をとるごとに忙しくなっているような近頃のわたしですが、梅新アサヒビアハウスをひと度思い出すと諸々の思い出に一気に襲われ、しばしわたしを離すことがありません。

昨日のことです。フェイスブックでつながっている知人が投稿したYahooニュースに、え!と驚かされました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171015-00000030-mai-spo
<訃報>葉室三千子さん97歳=マスターズ水泳世界記録保持、とありました。

ご主人の葉室鉄夫先生とともにアサヒビアハウスの常連の一人で、皆して葉室ママと呼んでいたのでお名前が「三千子」さんだったなど知りませんでした。ご主人の葉室先生2005年にお亡くなりになっており、その後の葉室ママは「マスターズ大会(60歳以上を対象としたスポーツ大会)」で活躍なさっており、2014年には100メートル平泳ぎ95~99歳の部で世界記録を果たされたとのこと。このニュースを目にするまでわたしは全く知りませんでした。

葉室ママにはアサヒビアハウスで時々声をかけていただきましたが、親しいお付き合いはないのですが、ビアハウスでは、むしろご主人の葉室先生とよく歌をデュエットした思い出が大きいです。

今日は葉室ママを偲んで、直接の思い出ではありませんが葉室先生との思い出を再掲したいと思います。以下。

「あの頃、ビアハウス:知床旅情」

「知床旅情」は「琵琶湖周航の歌」とともに、わたしがアサヒビアハウスでよく歌った歌である。この歌はわたしの青春の彷徨の歌でもある。

数十年たった今でも「知床旅情」を歌うとき、心は19の歳の彷徨時代にもどるのだ。

♪知床の岬に はまなすの咲く頃
  思い出しておくれ 俺たちのことを
  飲んで騒いで 丘にのぼれば~

アサヒビアハウスでは「知床旅情」はベルリンオリンピック水泳競技ゴールドメダリストで常連の葉室鉄夫氏が披露する歌で、わたしも一緒にステージにあげられ、よく氏とデュエットをしたものだ。「♪君を今宵こそ抱きしめんと~」のところで、氏はそっとわたしの肩を引き寄せるだが、まことに紳士的な方であった。


だきしめんと~で、こういう具合に↑笑

加藤登紀子さんが歌って大ヒットした歌だが、実はこの歌、ヒットする以前にわたしは森繁久彌の歌として知っていた、好きな歌だった。

大学進学を諦めきれずグズグズしていたわたしは就職の機会も取り逃がし、お金もないのに高校卒業後上京したり帰郷したりの繰り返しだった。親の心配をよそにフーテンの寅さんの如くウロウロしていたのです。この親の心配はその後を経ても後を絶たず、イギリス、アメリカ、果てはポルトガルくんだりまで流れ着くこととなってしまったわけではありますが。

spacesis19の歳の9月、親に告げることもなく青森港から連絡船に乗り函館を抜けて汽車で札幌に辿り着いたのはもう夜であった。この時わたしは札幌の豊平川のほとりで生まれて初めて野宿とやらを経験するのでした^^;  

川のほとりに腰を下ろし、一晩中水の流れに聞き入って夜を過ごしたのです。 芭蕉の「奥の細道」のようだ、なんてとても気取っておられまへんよ。内地ではまだ残暑ある9月も、北海道では冬支度に入る月だということを、このとき知ったのである。 とにかく寒かったです・・・・

札幌には一月ほどいました。その間、行きずりの親切な人たちと知り合いになり、すすき野界隈の歌声喫茶に入ったりして知ったのが「知床旅情」と「白い思い出」だったと思う。後年、加藤登紀子さんが歌いヒットしたのを耳にしたときは、「ほぇ?」と思ったものである。

ちなみに、この歌は「地の涯に生きるもの」という知床を舞台にした森繁久弥主演の映画撮影のときに、彼によって作られ北海道から広まった歌だと聞く。

やはり、であります。「地の涯に生きるもの」は遠い昔、子供のころに学校の映画教室で見たのだが忘れられない映画です。春が来て再び猟師たちが知床を訪れるまでの長い冬の間、たった独り、番屋で猫たちと暮らす森繁演ずる老人が、流氷に乗って流されて行こうとする猫を救おうと、足を踏み外し氷の間から海に落ち、誰にも知られず命を落とす。忘れることができないラストシーンであった。

♪知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ おれたちの彷徨を・・・

わたしが19の頃は、知床はまだ人跡未踏のさい果ての地ではありました。

葉室先生については、2005年の日記に書いてあります。

2005年10月31日(月曜日)(1)

今朝はネットで小泉第3次内閣の記事を読み終え、何気なく下段へ目をやりますと、スポーツ欄で、知っている方の名前を見かけ、思わず「え!」と声を出てしまいました。

「ベルリン五輪の金メダリスト・葉室鉄夫さん死去」とありました。この年、女子競技では前畑秀子も(ラジオアナウンサーの「前畑がんばれ前畑がんばれ!」の声援があまりにも有名です)メダルをとったのです。

葉室先生は、我が青春のビアハウス時代のお仲間でした。昨年(2004年)の帰国時に、当時の仲間が集まってくれましたが、その時にはお目にかかれませんでした。でも、数年前に、ビアハウスの歌姫先輩、堺の宝嬢宅におじゃましたときには、随分久しぶりに電話でお話しすることができました。

温厚で笑顔が絶えない葉室先生でした。「あの頃ビア・ハウス:知床旅情」に少し登場していただいてますが、この歌は、先生がいらっしゃるときは、(しょっちゅういらしてましたがw)必ず歌われました。

「君を今宵こそ 抱きしめんと~」で、そぉっとわたしの肩を引き寄せるのです。いえね、これは、わたしだけではなくて、わたしが歌えないときは、先輩歌姫の宝嬢がこの役を仰せ使うわけでして^^。 要はステージでのサービスなのです。

奥様ともよくいらっしゃいました。

左から、ドイツ民族衣装を身に付けた我が先輩歌姫「宝木嬢」、葉室先生夫妻。

毎年ビアハウスで行われた「オクトーバー・フェスト」(ドイツのビア祭)では、普段の伴奏はヨシさんのアコーディオンだけなのが、この日はドイツの民族衣装をつけた楽団が入り、ドイツ領事、その他のドイツ人が入ったりと、まさに、ドイツ形式そのままのお祭になるのですが、このとき、乾杯の音頭をとるのは決まって葉室先生です。


1970年代、旧梅新アサヒビアハウスでの定例オクトーバーフェスト

何年か前に「文芸春秋」で偶然先生が書かれた記事を読んだことがありますが、ベルリン五輪で間近にヒットラーに会ったと言うことに触れておられました。

今朝は早速、宝嬢宅へ電話を入れてみましたが、返答がありません。恐らく彼女は、先生のご自宅の方へ行っているのでしょう。今年はアサヒ・ビアハウス黄金時代の店長だった塩さんに続き、葉室先生も、あちらのお仲間になられました。

知っている仲間が一人また一人と、地上から姿を消して行くのは、寂しいことではありますが、歌とビールをこよなく愛したみなさんです、きっと天上の星となり、彼岸の向こうで再会を祝って、「Ein Prosit ein Prosit der Gemutlichkeit!」(ドイツ語、乾杯!の意味)と杯をあげていることでしょう。


フェイスブックでつながっている件の知人とは、「また一人アサヒビアハウスの常連スターが逝かれましたね。
今頃、葉室ママを迎えてさぞかし天上のビアハウスは賑わっていることでしょう」と話したのでした。

あの頃の常連さんたち4分の3は天界で毎晩「Ein Prosit」と杯をあげているのが目に浮かぶようです。
葉室ママ、そしてみなさん、またあちらでお目にかかりましょう。