ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

人生はカラクリに満ちている(1)

2018-01-20 21:11:48 | 日本のこと
2018年1月20日

誰の言葉だったか忘れたが、60が近づく頃ともなると人間どういうわけか同窓会とやらが気になるのだそうだ。

気になるのは同窓会よりもむしろ同窓生だとわたしは思うのだが、その同窓会へのいざないのきっかけが、数年前、母校卒業後40数年もしてある日突然、わたしにはやってきたのである。

小学校、中学校、高校と、わたしの学校歴は西宮と大阪での中学校時代の1年を除いては弘前だ。小学校時代は究極の内弁慶だったわたしは(本当だってばw)、妹と隣近所の同年代の子供たちが遊び仲間で、学校内の友達はあまり記憶にない。

その隣近所も、下町の祖母の家に大所帯で住んでいたのが、時計屋をしていた叔父が、他人の保証人を引き受けたがためにとばっちりを受け、他人の借金を肩代わりする羽目になり祖母は泣く泣く家を売却して、大家族は離散となったので、あの頃のガキ大将時代(わたしは大将であった^^)の仲間たちが、今はどこでどうしているのか分からない。

中学時代の親友はいたが、中学三年生の1年間を転校して西宮、大阪で過ごしたのと、中学時代の友とは高校も違い、結局離れ離れになってしまった。

読書に没頭した高校時代は、もちろん人生を語り合った友人が幾人かはいたが、それも卒業後、大阪へ出たわたしは糸の切れた凧のように、消息を絶つようなことになってしまい、気がつけばいつの間にかヨーロッパの西の端の国、ポルトガルに居ついていた。

こんな風にして、弘前の同窓生たちとは半世紀近く交信することもなく来たのだが、ある日、何とはなしに、「Web 同窓会・ゆびとま」(現在このサイトはどうなってるのだろか?)にアクセスし、たった一人しか登録されていなかった。

記憶にない同期卒業生の上に自分の足跡を残して来たところが、登録していたY君からある日、「君を覚えています」とメール連絡を受け、そうして同窓生の口から口へと輪が広がり、それが機になって卒業後、行方不明を意味する空白になっていたわたしの卒業生名簿の住所欄は40数年ぶりに埋められることになったのだが、さてさて、この長い前置きに辟易しておられる方もおるでしょう。

しかし、本題はこれからなのであります。以下、2007年8月の日記を引用します。

亡くなった写真家の星野道夫さんは書いた。「人生はからくりに満ちている」と。今日、わたしはその言葉に改めて感じ入り、ひとり胸にジンと来ているのだ。

いつもの習慣通り、ある日の朝メールボックスを開くと高校時代の友から一通入っていた。彼女からは二日ばかり前にメールがあったばかりで、まだ返事を書いていない。書き忘れたことでもあったかな?と思い何気なく目を通したメールには、

「あすなろのママ(同じく同窓生で弘前の彼女のスナックあすなろは南校卒業生たちの集いの場となっている)にお願いされました。

あなたの中学時代の友人、森○江美子さんって覚えてますか?昔、手紙をもらったのだけど返事が書けないまま、住所も分からずずーっと気になって探してるとのこと、連絡欲しいそうです。」

近年メールを受け取ってこんなに驚かされたことはない。彼女の名をこんなルートで聞かされるとは、想像だにしなかったのである。

あの頃の彼女の呼び名を呟いてみる。13、4のわたしたちが浮かんで来て、懐かしいほろ苦い思いがこみ上げてくる。音信が途絶えてあれから幾星霜過ぎただろうか。

彼女は中学時代の仲良し友達三人の一人であった。中学2年でわたしは大阪に、彼女たちは弘前に。帰郷して受験した高校もお互いに違い、三人仲間のもう一人は、中卒後就職列車に乗り北陸へ。わたしたちは離れ離れになったのだ。

やがてわたしは大阪へ、森○は東京へ。その後、21の歳に大阪で一度再会したきりわたしたちはそれぞれの都会での生活に忙しく、いつの間にか音信を絶ってしまった。もう40年近くの歳月が流れてしまったことになる。

青い夢を、憧れを語り合いわたしたちはいつも三人でつるんでいた。歌真似もよくしたものだ。わたしの思春期の家出の片棒だって担がせた。

その友の名が、記憶の向こうから時を飛び越えて今わたしの目の前にやってきた。メールに記されてある電話番号のダイヤルを回す手が思わず震えました。

0081の047の○○○○・・・・

国際電話の向こうで呼び出し音が鳴っている。心臓がドキドキしている。

「もしもし」と受話器の向こうからあの頃と同じ、太い声。「森○江美子さんのお宅ですか?」と、わたし。
一瞬沈黙の後、「・・・あ!」と彼女の声。森○は、彼女の旧姓である。「わたし、袖」。

この一言で、「ぅわぁ~~~~~!」とお互い言葉にならない歓声をあげた。どのようにわたしに辿りついたかをかいつまんで友は説明する。

先ごろ、弘前で中学時代の同窓会があったので現在住んでいる千葉から出かけた。そこで集まったなかに「サンペイ」がいて(これがちっともわたしの記憶にない^^;)彼いわく、
「あの頃、袖に世話になった。会いたいなぁ」との話になった。その中に、同じ南高校卒業生でわたしを覚えている一人がいて、どうやら、袖は生きているらしい。あすなろのママが知っているかも、となり、スナックへ彼女たちは足を運んだ。

行くや、「うん。この春会ったよ。ほら、これ、袖からもらったのよ。」 こうこうしかじかあすなろのママに事情を話し、パソコンを持たないママは、わたしたとメールのやりとりをしている我が友にメッセージを託したのだと。

人の世は不思議な縁だな、とわたしはここまでの糸を手繰り寄せてみる。

もしも、わたしがかつてyubitomaの南高校卒業生欄に登録しなかったら、わたしを覚えていた同窓生の一人からメールをもらうことはなかっただろう。もしも、彼が他の同窓生たちに声をかけなかったら、わたしは京都で高校時代のかつての親友に会うことは勿論、懐かしい同窓生達に会うこともなかっただろう。

もしも、そのわたしのニュースが広がっていかなかったら弘前までわたしが出かけて36年ぶりに第一期生同窓会に顔を出すことはなかっただろう。もしも、あの時「明日には東京へ帰るから。」と2次会であすなろへ皆と一緒に足を運ばなかったら、そこで新たに今メールのやりとりをしいる友とはつながらなかったであろう。

もしも、・・・・このひとつでも欠けていたら、今日、中学時代の親友に巡り合うことは恐らくなかったことだろう。

かつて我が日記に書いたように、一つ一つの、今自分がすることはそれぞれが小さな点であって、それらがわたしたちの気づかないうちにどこかでつながり、一本の線になるのだと感じられる出来事にわたしは今日遭遇したのである。

このような人生のカラクリは、頭ではなるほどと思うだろうが、ある程度の年齢に到達しないと見えて来ないのかも知れない。

自分が残した足跡を誰かが辿り、いつかまた数十年も前の人との再会を喜び合えることがあるかも知れないだと思うと、人の世の不思議なカラクリに、震えを感じないわけにはいかない。

あまりの興奮に、うっかり結婚後の彼女の苗字を聞きそびれてしまい、手紙を送るのに、翌日もう一度国際電話を入れたのであった。

ー2007年の日記引用終わりー

とまぁ、こういういきさつで、中学時代の親友と40年ぶりに連絡がとれたのですが、後日談を明日にいたしますれば。
本日はこれにて。


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