ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

アリゾナの空は青かった:「ケンタッキー・イン」

2018-05-22 08:25:26 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年5月22日

さすが紳士の国のイギリス人。
ギクシャクしていた仲とは言え、わたしが引っ越し先を探すとなると、内心はどう思ってか知りませんが、我が友ロブは少なくとも表面は何気ない顔で、あちこち一緒に行動してくれました。

まず、大学構内にある学生の情報交換場である掲示板で目星をつけた。ここへ行くと、いろんな情報が貼ってある。
「ルームメイト求む。月々○○ドル負担」
「当方女性。同性のルームメイト求む。個室あり。光熱費共同負担」
と言った具合です。

「ふむ。どれどれ、ここなんか値段もそんなに高くないし、大学からもこれまで住んだ927番地からも近い。それに女の子募集とあるぞ。よし、とりあえずここをあたってみよう。」

ということでロブと連れだって下見にでかけた一軒家。

呼び鈴を押すと、あ、あれ?出て来たのは若い男・・・
だって、女の子募集とあったぞ・・・おかしいなと思いながらもとりあえず、案内されたリビングに入った。

早速シェアハウスの話を聞いてみると、なぬ?寝室は一部屋しかない?あたしはどこで寝るのよ?
あんたはリビングのソファで寝て、わたしはその一部屋のベッドだって?冗談じゃないぜ。なんだそりゃ。危ないったらありゃしない。そんなんなら最初から掲示板に「当方、若い男だが女性求む」と書いてくれぃ!考えさせておくんなさい、とその場をそそくさと出た。

歩きながらロブいわく。
「Hey、Yuko、あそこ、止めといた方がいい。あの家に庭があったけど、ぜったい2、3人の女の死体が埋まってるぞ。」なんて、ニタニタしながら言うのである。それこそ止めてよね、ロブ^^;

そう言いながら歩いてぶつかったUniversity Boulevard。「Boulevard」はフランス語を語源とし、ブールヴァールと読むようだが、アメリカ英語では「ブールヴァード」だ。街路樹が側道が整えられて大通りを言う。 「空き部屋あり」と看板が出ている。「あそこを見てみよう」とロブと二人ドアと叩いてみたら、案内してくれたのは、そこの下宿人の一人、男子学生だった。

部屋は個室だ。よろしい。台所トイレは共同。うん。これもよろしい。しかし、シャワールームを見てびびった・・・西部劇の酒場の玄関の両開き扉、あるでしょ?客が出入りするたびに、前後にバタンバタンと開き閉めするちっちゃいの。あれなんですよ。あれがシャワールームのドアで、それが6つくらい並んでる。下手すると、いや、下手しなくたって見えるじゃん!男ならまだしも、いつ、誰がシャワーを浴びに入ってくるか分からない。そんな中じゃ、オチオチとシャワーも浴びていられまへん。け、けっこうでございますと、これもそそくさと退去した。

そうして入った同じ通りの数件向こう、2軒目の「空き室あり」の下宿屋。丁度いい具合に、おばさんが掃除をしていました。聞くと彼女がこの下宿屋の持ち主で、メキシコからの移民でこの一軒家を手に入れ、現在は下宿屋にしているとのこと。

ケンタッキーインの玄関

下宿人は12人おり、あと二部屋空き室がある。入っているのはみなアリゾナ大学の男子学生。個室にはベッドと机があり、バスルームも上階下階と2つずつ、4つある。もちろん、アメリカの一般家庭ならどこででも見かける普通のバスルームである。台所もかなり広い。自炊はもちろん自由だ。ちょっと高いと思うが、よっしゃ!ここに決めた。

玄関を入るとすぐに設けられている下宿生たちの郵便兼メッセージボックス


わたしが住んだ部屋。ギターは、音楽が何もないのはたまらないと、引越しするなりすぐ買い込んだものだ。


大通りに面したインのベランダで

こうして移った下宿屋は、その名も「ケンタッキー・イン」。わたしは、そこの13人目の下宿人で、たった一人の女子であった。

では、みなさま、次回に続きます。


アリゾナの空は青かった:927番地を後にして

2018-05-19 06:27:07 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年5月19日 

 
アリゾナ大学のキャンパスにて。どこまでも続く澄んだツーソンの青い空。

アリゾナ大学キャンパス内にあるカフェで、ひとり次の授業までの時間をつぶしていた時である。
およよ?と思ったら、あっと言う間に数人の若い日本人男子学生たちに囲まれてしまった。手紙を書いていた手を止め、何事かとキョトンとした顔で彼らを見上げるわたしに、ボスと思し召しき若造が(笑)、

「アンタさ、生意気じゃない?」
「日本人と交わらないって言うじゃん」と、おいでなすった。

わっはっはっは。おふざけじゃござんせん。

ツーソンに着いて大学に通い始めたころ耳にしたのが、「前期コースの日本人留学生が全員、ミセス・ネス(ESL校長)に呼ばれてしこたま大目玉を食った。週末のみならず週日までディスコやパブで遊びまくって成績劣悪。コースの修了書出さん。」という噂である。

1979年のことですから、日本はまだバブル経済に突入してない。そういう時期のこと。親のスネをかじった分際で、遊ぶのはまぁ人の金だからいいとして、勉強しないで何のための留学よ!と人事ながらわたしは苦々しく思っていたのである。

見た感じがちょっとだけわたしゃ若く見えると思って(笑)徒党を組んでちょいとヤキでも入れてやったらビビるとでも思ったんでしょうが、そうは問屋がおろさない。

このボスとはリスニングクラスで同じになり、メキシコ人の少々お高くとまった女子学生と言い合って、男が女に吐くべからざる「Fで始まる4文字」を公衆の面前で言い放った子です。自己主張を履き違えるとこんな風になる^^;あぁ、恥ずかしいw

オフィスの仕事が終わったあと、何年もかけてビアハウスの歌姫バイトで貯めたわたしの留学資金、彼らと行動を同じくしてとても遊んでなんかいられまへん・・・「危うし」エピソードでも書いたように、このころわたしは読解力クラスと作文クラスで必死こいていたのでありますもん。

で、実はシェアハウス内でもちょっとしたトラブルが、芽を吹き出しはじめていたのでした^^;アメリカでは「T.G.I.F.」(Thank God.It`s Fridayの頭文字をとったもので、ああ神様、金曜日だぜぇの意味。今なら「花金」と訳せるか)と言って、金曜日の夜は誰でもたいていどこかのパーティーにでかける。一人で行くのは少なく、たいがい誰かパートナーを連れて行く。パートナーは別に恋人でなくていいのだ。そこで独り者のロブはしきりにわたしを誘う。「金曜日の夜くらい息抜きしなよ」

最初のころは、時々お付き合いしたものの、週末も宿題等の勉強に追われ、ロブの誘いもほとんどお断りです^^;「アホか~~」と言われながら、この頃はどんな誘いも断っていました。今考えると、ちょっと意固地になっていたところもなきにしもあらず。

結果としては、ロブともギクシャクしていたのでありました^^;そこで考えた。ちょっと考えた。(よく考えるのだw)
うん。自分の部屋には机ちゅうもんがないし、それでいつも夜遅くまで大学の図書館での勉強を強いられる。これはこれで好きなのだけど、夜のキャンパスは危険なので女一人で歩くなとお達しが出ていた。

故に図書館で勉強するときは、ボディーガードも兼ねて必ず誰か男子学生を誘わないといけない。これもちょっとめんどくさくなっていたのでした。 よし、引越ししよう!spacesis、927番地を出ることになったのであります。

さっきの徒党を組んだ若造たちとの結論、忘れてましたw こちらはとっくにトウが立ってる遅まき留学生(笑)、理論整然です。わたしの言に返す言葉もなく、それでも空威張りで、彼らは肩で風だけはしっかり切って去ったとさ。(爆)

アリゾナ留学記:「ずっこけ3人組」

2018-05-17 04:21:30 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2-18年5月17日

「グリーンが来るよ。」
三週間ころ経ったある日、シェアハウスの友、ロブが言った。ブルース・グリーンは20歳を少しだけ過ぎた、とても若い友人で、彼は前年まで日本で交換留学生としてホームステイしており、たまたまわたしが通勤に利用していた京阪沿線に住んでいたのである。

ブルースとわたしの出会いは誠に偶然なものであった。当時わたしは留学資金を貯めんがため、梅新のビアハウスで歌姫のバイトをしていたのだが、ビアハウスを9時半で終わり帰宅につくと、よく同じ車両に乗り合わせる外国人がいるである。

午後10時ともなるとさすが電車の乗客は少なく、乗り合わせ客同士は、しようと思えばお互いにいくらでも観察できたw若くやたら背の高い、色が真っ白の典型的なアメリカ青年である。気をつけなくたって目立つと言うものだ。後で知った話だが、あちらもしょっちゅう乗り合わせるわたしの顔だけは知っていたようだ。

それが、ある日偶然アサヒビアハウスへ、ひょこっと本人のバイト先、語学学校の上司マーチンさん、そしてイギリス人の同僚、ロブとで現れたのだ。その時のわたしたち、アリゾナ大学でわたしがザワちゃんんを見つけた時と同じようにお互いを指差しあって「ウォー!」


ブルースが働く語学学校のグループ。右手前が校長のマーチンさん


かつての梅新アサヒビアハウス名物(現在は「アサヒ・スーパードライ梅田」と改名)、5リットルジョッキー廻しのみに挑戦するBruce君。 

そんな経緯もあってか初対面からロブとグリーンとわたしはすっかり意気投合、以後週末が来る度に3人でつるんでは、
「タコスとシャングリラが美味しいパブがある」と神戸へ、
「京都にビートルズって名前のビートルズ曲だけ聴ける店がある。すわ!」
「相国寺では観光客に座禅体験させてくれる。行こうよ!」という具合であった。ロブとグリーンのこの二人、背丈の差がありすぎてまるでサイモンとガーファンクルみたいで、それがとても面白かったwそのグリーンがミズーリーから車で数日かけて、ツーソンにやって来ると言うのだ。

そして、来ました来ました(笑) ミズーリーの片田舎の農家の子です、後ろが荷台になっている大きな車を運転してはるばるやってきたのであります。

久しぶりに顔を会わせたずっこけ3人組、早速砂漠へでかけて、前座席に3人腰掛け、アメリカはなんつったって車が運転できなきゃいけない、とわたしの運転練習(笑) 今はどうか知らないが「車を前進させられれば免許がおりる」と言われたくらい、当時のアメリカでは、自動車学校などに行かなくても運転免許がとれたのである。


ソノラ砂漠で。グリーンとロブ。これだけ広かったら、さすがの運転音痴のわたしも何とか運転できそうだと思ったのがまちがいだった。

「ここだと車がほとんど走らないし、突っ込んでも砂漠かサボテンだから、Yuko、心配するな」って、おいおい、みくびっちゃぁいけないよ(笑)とは思ったものの、情けないことにその通りで、何度もサボテンに突っ込みそうになり、横に座るブルースが慌ててわたしのハンドルを奪い取って切るのであった。終いには、「運転能力まったくなし!」と二人に太鼓判を押されたのでした。
(今はこのポルトガルで、わたしが奇跡的にもイッチョ前に運転しているとは、二人とも夢知るまい。笑)


サイモンとガーファンクル、おっと違った、RobとBruceでした。 


ソノラ砂漠の巨大なサボテンの前でグリーンと。これに突っ込んだら・・・^^;そしてこの背丈の差。ロブだけでなく、自分も同じくらいチビなのを忘れていたのであった(笑)              


夜ともなると、3人でわたしがこれまでに見たこともないデカいアメリカピザをたいらげ、当時上映中の人気抜群、「Saturday Night Feaver」を大学構内の映画館に見に行ったりしたのでした。グリーンはわたしたちの家のリビングのソファので寝、三日目に再びミズーリーのいつもの生活の場へと帰って行った。

三島由紀夫が「午後の曳航」の中で、ミズーリーのトピーカ出身の船乗りのことを書いてるのを教えてくれたのは、このグリーンである。そのミズーリーが彼のご自慢であったのだ^^

「ずっこけ3人組」はあれから35年、再会していない。

【追記】2012年1月に、ズッコケ3人組の一人、ロブと25年ぶりにフェイスブックを通じて連絡があり、わたしたちはネット上での再会を喜んだのでした。なんと、オマーンの大学で英語教授をしていたのでありました。


★一ヶ月ほど日本に帰国しておりましたので、更新が少し滞りました。ポルトに戻り、また更新を続けて参りますので、宜しくお願いいたします。


アリゾナの空は青かった:Tom Waits と ワルツリィング・マチルダ

2018-05-10 14:45:48 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年5月10日

前回のアリゾナ、ツーソン留学記で、アメリカの歌手、トム・ウエイツに因んで、もうひと話。

高校教師を退職したポルトガル人の友人、マリアさんが、時折自分が手がけた劇の脚色の話をしてくることがある。先日も話の弾みでわたしたちは日本語授業そっちのけで、30分ほど話が盛り上がったのだが、

「それでね、その場面にTom Waitsの歌を使ったのよ。」との彼女の言に、
「ま、待てぃ!トム・ウエイツってあのトム・ウエイツ?」

トム・ウエイツにあのもこのもないのだが、わたしがこれまでこのアメリカの歌手の名を引きあいに出しても、一人として知っている人に出会った験しがなかったのである。そして彼の歌を紹介すると、決まって聞かされるのが、「なんだ、この声?」という感想である。若いときからトムの声は酒とタバコで潰れたシャガれ声で、近年は歌うというより、語りと言った方が適していよう。

しかし、1970年代も終わりに渡米して、たった半年ではあるがアリゾナにいたわたしにとって、トム・ウエイツはノスタルジックでたまらない。目を閉じれば、ツーソンNorth 2nd Avenue 927番地のドアの向こう、裏庭に面し、遅い午後の光を取り込んだ空間の一隅で、くわえタバコにアンダーウッドタイプライターでパチパチ原稿を打っているハウスメイト、ジョンのシルエットが浮かび上がってくる。

「ワルツィング・マチルダ(Tom Trauberts Blues)」と「ニューオリンズに帰りてぇな」(I wish I wasin New Orleans)」は、トムのシャガれた声が却ってジンと染みていいのである。(↓わたしの持つ1976年版Small Change LPジャケット裏のTom Waits)


tom waits

♪疲れちまってよ。
 月のせいじゃねぇんだ、身からでたサビってことよ。
 また明日な。おい、フランク、2、3ドルばかり貸してくんないか?
 To go waltzing Matilda,waltzing Matilda,
 You´ll go a waltzing Matilda with me. 
(spacesis訳)


今日は英語で書かれてあるWaltzing Matildaの解釈なのです。

このワルツィング・マチルダがどうも意味がつながらなくて、長い間気になってきたのだ。「2、3ドルばかり貸してくんないか?マチルダとワルツを踊りにいくのによ」と、考えてみたのだが、それだとMatildaの前に前置詞withが入らなければならないではないか。英語の部分2行目のように。

マリアさんと話すことで、久しく忘れていた疑問を思い出したのである。

トム・ウエイツが編曲して引用しているワルツィング・マチルダは、今はどうか知らないが、わたしが若い頃はよく耳にした歌で、オーストラリアの第二の国歌とも言われる。渡米の資金調達のために、わたしは、昔バイトで大阪梅新のアサヒ・ビアハウスの歌姫をしていたことがあるのだが、よくこの歌をリクエストしたのが日本人の奥さんを持つオーストラリア人のマーチンさんだった。時にはステージに彼やアメリカ人の友人ブルースを呼び出して一緒に歌ったりもした。


アサヒ・martimgreen

♪Once a jolly swagman camped by a billabong  
  昔、陽気な放浪者が池の側にキャンプをはった
 Under the shade of a Coolibah tree       
  ユーカリの木の下で、
 And he sang as he watched and waited till his billy boiled
  ブリキ缶の湯沸しが煮え立つのを待ちながら歌ったとさ
 You'll come a waltzing Matilda with me     
お前が俺と一緒にくるのさ、ワルツィング・マチルダよ

「a waltzing Matilda」とはswag(山の放浪者が携帯する今で言う寝袋?)を背負いながら放浪すること、と見つけたり!

Matildaは、紀元前300年頃からエルバ川北方に移住し始めた民族(主にドイツ人を指す)の逞しい女性の代名詞。同時に、移動するワンダーラー(Swagies)達に同行し夜は侘しい彼らを暖める女、妻の意味もあることから、放浪者が携帯する毛布、寝袋等の荷物をMatildaと呼ぶに至ったらしい。(興味のある方はこちらを参照。英文です)

そう言えば、当時わたしが勤めていたオフィスの本社のアメリカ人、ボブ君が、「この歌は英語を話す僕らもなんだか意味がよく分からない不思議な歌なんだ。」と言っていたのを思い出した。

オーストラリアの「Matilda」の意味は分かったが、それでもトム・ウエイツの「2、3ドルばかり貸してくんないか?To go waltzingMatilda=旅に出るのによ」では、まだしっくり来ない。昔のこととは言え、2、3ドルでは旅には出られまい。

ねぇ、トム。あんたの歌ってあんたの心の中のように、分からないのかね?と思わずトムの口調で呟いてしまう本日のspacesisでありました。

ちなみにワルツィング・マチルダは、かつてわたしがチャット・ルームでお開きの合図として流してたものです。本日の色々な検索で、トムもこの曲をライブのトリに使っていたようです^^

また、日本のテレビドラマ「不毛地帯」のエンディングに流されていたと聞きます。
一編聴いてみてもいいかなと思われる方は、下記でどぞ。



   
本日もお付き合いいただき、ありがとうございます

アリゾナの空は青かった:アリゾナ・ノスタルジー

2018-05-05 20:52:06 | 日本語教室
2018年5月5日

エッセイのタイトルに「ツーソン留学記」と堂々と掲げているものの、あつかましい(笑)

後にその訳を明かすのですが、移住するつもりで渡ったアメリカ大陸でしたが、志を翻し、実は半年で日本へと、とって返したわたしでありました^^; しかし、このわずか半年のアリゾナ生活は、その後のわたしの人生の指針になり、方向づけしてくれたような気がします。

たいしてお金は持っていなかったので、帰国すると決めた後も、思い出の品物は皆目買いませんでした。「これが若き日に訪れたアメリカの記念品だぜ。」と、だから、しみじみと手に取って眺めるものはほとんど皆無。あるのはこれのみです。



ツーソン周辺にはインディアン保護地区がある。シンプルなインディアンアート細工が施された銀のバングル。奮発して4つ手に入れたが、ひとつは我がモイケル娘が今は保持する。

アリゾナの思い出は、茫洋とした記憶のなかで漂っては、時折ひょこっり姿を現す。その時に決まって脳裏で流れてくるBGMが、トム・ウエイツの「Waltzing Matilda」であり、「 I wish I was in New Orleans」だ。

ハウス・シェア仲間の一人、ジョンはエピソード②でも、ちょこっと言及したツーソンのカレッジの歴史講師です。夜間授業をしており、日中はというと、いつの日か自分の歴史本を出版したいと原稿を書いているだった。


8時半からの大学のESL授業を終えて帰宅する午後、927番地のドアをあけると、直ぐがリビングルーム、それに続くダイニングホール、そして、その向こうにある裏庭に面した縁側のような小さな細長いスペースがジョンのお気に入りの場所だ。タバコをくわえ、アンダーウッド・タイプライターを打っている。ノミ市ででも買ってきたような、旧式のステレオに載せられ、家中いっぱいに流れているLPレコードのトム・ウエイツ。ジョンがいつも聞いていた音楽だ。


このドアの向こうに・・・

   ♪あぁ、ニューオリンズにいたらなぁ
    夢に見えるようだぜ
    みんなと腕組み合って
    バーガンディーのびん持ち 酒盛りをする・・・(spacesis勝手訳)

この歌とアンダーウッド・タイプライターを打つパチパチとした音は不思議に融合し、夕闇が迫りランプシェードの薄明かりの中に浮かび上がる、痩せた背中を少し丸め、前のめりになったジョンの姿は、まるで一枚のシルエットのように、今でもわたしの心に残っている。

ジョンに誘われて、わたしは一度彼の夜間の歴史講義を聞きに、カレッジへ行ったことがある。(←偉そうに書いてるが、なにを隠そう、内容は皆目分からなかったのだ^^;) それはアダルト・スクールと言われる、アメリカ特有の夜間学校コースの一環で、様々な職種の人が、居眠りもせず講義を真剣に聞いていた。

今でこそ、日本でも一部の大学の門戸が一般社会人に開かれ始めているが、これは35年も前の話で、授業料も日本のそれとは比べられないほど安く、多くの人が受講できるようになっていた。アメリカの教育制度の豊かを当時のわたしは感じずにいられなかった。やる気のある者には、チャンスのドアが開かれる。そのドアを押すか押さないかは自分次第である。少なくともあの頃のアメリカはそんな風に思われた。

その時、初めて「あぁ、アメリカに来たのだ。」と震う思いに襲われたのだった。

トム・ウエイツ「ニューオーリンズに帰りてぇ」。トムのダミ声はご勘弁。しかし、聞きなれるとすごくいい感じが出てるように思われてくる不思議な魅力があります。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。