ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

夫の買い物、わたしの買い物

2024-08-25 20:15:00 | ポルトガルよもやま話
2024年08月某日
 
水曜日のことだ。起きだしてきた夫が、今日は日本語レッスンがあるのかと聞いてきた。通常なら朝はマリアさんのオンラインレッスンをするのだが、前日、彼女から所用がある故との連絡でキャンセルになっている。それで、その朝、わたしはハイパーマーケットへ食糧買い出しに行くつもりだった。

夫の水曜日は、退職以前まで消化器科の長を務めた国立病院での定例会議出席か、もしくは元同僚との昼食会と決まっている。

で、「朝、行くのなら一緒に行こう」との申し出だ。夫を伴って買い出しに行くのは、重い買い物荷物をフラットに運び上げるには助かってありがたいのだが、実は却って疲れを覚えたりするのである。

大きな買い物カートを押し、店内をいつものコースでパッパとわたしは回るのだが、夫と一緒だと夫のコースになるのだ。それだと買い物予定が狂い、買うべきものを忘れたりすることが度々起きる。買い物メモを持てばいいのだが、今のところ、わたしは頭にメモでき買い忘れはあまりない。カートを進めるのがいつもの自分コースであれば、だ。

連れだってスーパーへ行くときは、夫もついでに自分のとか義兄の買い物とかしたりするので、時間もかかる。夫が買い物する時は、品物を手に取りじっくり書いてあることを読んだり、他の製品と見比べたりするので、それも時間がかかるんである。本当は賢い主婦たるもの、そうであるべきなのだろう。 が、近年は買い物そのものを楽しめなくなったわたしは、パット手に取りサーっと店内を回って終了させる。

「い、いや、一人で大丈夫だよん() なんだったら午後でも行けるし」と取りあえず返答しておき、朝のうちに行っておこうとこっそり身支度し終えたところで、「行ってくる~」とドアノブに手をかけるや、「ちょい待ち。一緒に行くよ。昼食は1時からだから」と夫。

ガク!来るんかい!そこで、これまで言わなかったことを言ってみた。
「あのね、一緒だとわたしのコースを変えることになるので、よく買い忘れするんだよね。」
「じゃ、君の後ろを歩くよ」と夫の苦笑い。

カートを押す夫を後ろに控えての買い物も好きではない。もし、自分がああやってカートを押しながら人の買い物に付き合うとしたら、多分イライラは普通度を超えるであろうからだ。しかし、夫はそのタイプではないらしい(苦笑)

結局、連れだって買い物に行くことになった。が、今回はわたしの一言が分かったようで、わたしのコースを黙って進めたが、やっぱりね、夫が後ろでカートを押してるっていうのは、気になってダメですな。

レジで買った物を袋に入れるのだって、重いものは三つの袋に均等に入れるように(自分が持つときに腕が痛まないように)、匂いのあるものは猫缶と一緒に、生ものは別の袋にと、ちゃんとわたしなりのルールがある。それがだ、ほれ、これを入れろ、それ、これをと、色々指図してくるから、結局最後には頭にくるんであ~る()

わたしは義母と6年間同居していたが、その間の台所、買い出しの仕切り主は彼女であった。夫からすれば、今は亡き母親を伴っていつも買い物に行っていたのだから、その習慣であろうか。

我ら夫婦は実に正反対の性格をなしており、よくぞまぁ、ほぼ半世紀を共に過ごして来られたものだとわたしは感心すらするのである。

暑いのにイライラはいかん。買い出しはできれば夫が同伴できない日にするっきゃないな、と腹を決めた昨今である。てへ


黄金のままで

2024-01-28 19:20:35 | 映画
2024年1月28日

本を読んでいるとき、あるいは映画を観ているとき、その中でドキリとする言葉、記憶にとどめたいと感じさせられる言葉に出会うことがあります。

最近でこそ興味がある映画に出会わないので映画館で観ていませんが、わたしは大の映画ファンで、好きな映画は何度でも繰り返し観るタイプです。でも映画は観る人によって感じ方見方が違うと思うので評論もどきはしません。

かなり古い映画ですが、観たのは近年だという「The Outsiders」が印象に残っており、言語の本も取り寄せました。その中の折に触れては心に浮かんでくる詩をあげたいと思います。

映画は1967年に18歳で作家デビューしたS.E.ヒントン(女性)の同名小説を1983年にフランシス・コッポラが映画化したものです。下のポスターを見ると、パトリック・スエイジを始めトム・クルーズ、ラルフ・マッチオ(空手キッズの主人公)など後のハリウッドスターたちが揃って出演しています。

物語はオクラホマ州の小さな町が舞台、富裕層と貧困層の不良グループがいがみあっています。富裕層グループにリンチにかけられそうになった仲間のポニーボーイを救おうと、ジョニー(ラルフ・マッチオ)は対立するメンバーの一人を心ならずも刺してしまいます。

二人は町から離れた古い教会に身を潜めるのですが、ある日、美しい朝焼けを見てポニーボーイはロバート・フロストの詩を暗唱し、ジョニーはその詩に感銘を受けます。下がその詩です。

「Nothing gold can stay」 by Robert Frost

Nature´s first green is gold,
Her hardest hue to hold.
Her early leaf´s a flower
But only so an hour.
Then leaf subsides to leaf.
So Eden sank to grief.
So dawn goes down to day.
Nothing gold can stay.

萌えいずる最初の緑は黄金だ
その色を保ち続けるのは難しい
萌えいずる葉は花である
しかし、それはわずか一瞬だけだ
 
やがて葉は葉へとおさまる
エデンの園もそれと同じ、年を取り純真さを失い悲しみに沈んだ
そして、暁は終わり今日という一日が始まる

黄金のままであり続けるものはないのだ


フロストの詩が暗唱されるシーン

私たちが持つ純真さ、美しさは大人になるという避けがたい時の流れとともに失われてしまい、どんなものも黄金の輝きを放ち続けることはできない、とフロストの詩は最後に結んでいます。

美しいもの、青春、子供時代ははかないというメタファーでしょうか。
映画の終わりで、二人が隠れ家にしていた古い教会が火事になり、その中にいた町から来ていた子供たちを救い出したジョニーが大火傷を負います。

死に際にジョニー少年は、
あの詩のことをずっと考えていたんだ。あの詩が言っていることは、子供のころはみんな黄金なんだ、若葉の緑のように。すべてがまるで夜明けのように新しくて。大人になっても人生の大切なもの、最初の春のような自然の美しさや純真さ、その「黄金」を忘れないでくれ。「Stay gold」、「輝き続けよ、自分に誠実に生きよ」との言葉をポニーボーイに遺します。

歳を取り人生経験が豊かになると、つい小賢しい世渡り観を身につけがちですが、ジョニー少年が遺した「Stay gold」は、不器用な生き方になるかもしれませんね。

もしわたしが中学生のクラスを担当したら、授業でいっしょに読んでみたいと思われる本の一冊です。
青春時代のようなキラキラした輝きはもうないけれど、いぶし銀てのがあるな、なんて、またおアホなことを考えているのでありますが、貧困層グループの気持ちが哀しいくらいよく分かり、わたしにとっては切ない青春映画です。

スティーヴィー・ワンダーが主題歌「Stay Gold」を歌っています。



あの頃、ビアハウス1

2023-02-10 06:16:32 | ポルトガルよもやま話
あの頃、ビアハウス1

思わず舌を巻いた若者言葉訳枕草子

2022-12-29 20:38:01 | 
2022年12月28日 

「人間が発明した、破壊力を持ったありとあらゆる武器のなかで、もっとも恐ろしいのは、そしてもっとも卑怯なのは、言葉である。刃や火器は傷跡を残す。爆薬は建物や道路を破壊する。毒薬は後に検出される。言葉は、いっさいの痕跡を残さずに破壊することができる。」

ブラジルの作家、パウロ・コエーリュがその著書「Maktub(アラブ語で書かれてある、手紙の意味)」で書いているのですが、近頃、紙面やネットを賑わしている、知ってはいても自分は決して口にしないであろう日本語に実はうんざりしていたところに目にした言葉で、なるほどと頷かされたのでした。

「保育園落ちた、日本○ね」、「ダサい、ウザイ、ムカつく」など嫌悪を表す言葉を始め、国会で飛び交う言葉もとても教養ある議員が口にする言葉ではないんじゃないの?と思われる場面が増えて、暗澹とした気持ちになることがしばしばです。

明確に自分の意見を述べる分には賛成ですが、反対意見を述べたり、詰問するにあたっては、やはりその人の人格、教養が出てくるように思うのです。

イギリスの国会でのやりとりを見ていて思うのは、近頃の日本のようにグサグサと人の気持ちをえぐるような言葉はあまり使われていないということです。相手を攻めるに至っては、時にユーモアが入り、議会場にドッと笑いが渦巻く場面が度々見られます。笑いは緊張した場の重苦しい雰囲気を一気に変える潤滑油的役割をしてくれます。

醜い言葉で相手をののしり、低俗な言葉でいかにして相手をやりこめようかとする人間を目の前にするのは、気持ちのいいものではありません。見ていて却って嫌悪感を抱いたりするものです。もうホンマ、大の大人がこの状態かと、国会でのやりとりにはうんざりしていたのです。

「他人の振り見て我が振り直せ」、言葉遣いには重々気をつけなきゃ、と思っていたところでした、が、夕べ日本語授業の予習にと読んでいた「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」、第62番歌、清少納言の章で思わず、あっはっはと笑って、ハタと思ったことがあります。

夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ
―夜明け前にニワトリの鳴き声にかこつえてわたしを騙そうとしても、あなたとは決して逢いませんわよ―


Wikiより

これは、著者のねずさんの解釈によると、「浮気は許しませんよ」という歌とのことで、ほほぉ、と思って読み進めていくと、日本の中世社会を快活でノビノビと生きた清少納言という女性に触れ、更に彼女の作品「枕草子」にも少し触れています。

わたしも学生時代に暗記しましたが、「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる」と言うので始まる随筆集です。

ふむふむ、知ってるぞ、覚えてるぞ、と思っていますと、この枕草子の第28段「憎きもの」の部分を現役の女子高生に訳してもらったという下記の引用文があります。

――引用始め

お部屋にこっそり忍んで来る恋人を、犬が見つけて吠えるのって、すっごい憎ったらしくない?

あとね、ようやく密かに忍んで来てくれたのはうれしいんだけど、みんなが寝静まってお屋敷がシーンと静まり返っているのに、大いびきをかきながら寝ちゃうヤツ。 てか、絶対、まわりにバレバレじゃん><

それから、きっとバシッと決めようと思っるんだろうけど、大袈裟な長い烏帽子(えぼし)をかぶって忍んできてさ、慌ててんのか、烏帽子が何かに突き当たって大きな音を立てるヤツ。
なにそれ〜って思っちゃう(汗)。

それと、簾(すだれ)をくぐるときに、不注意で頭をぶつけて、「イテテテ!」って、大声をあげるような男って、サイテー。

あとさぁ、夜、忍んでくるとき、戸を開けるなら、少し持ち上げれば音とかしないのにさ、ヘタすれば軽い障子でさえガタガタ鳴らす男もいて、そーいうのって、なんかめっちゃムカつくよね。


――引用終わり

実に軽妙なノリで、もう脱帽的現代語訳です。上、文中の赤字部分は普段のわたしなら、「すっごい憎ったらしくない?」なんて、文法的に「すっごく憎ったらしくない?」でしょ!とか、「てか」ってなんでんねん、「てか」って。とか、最後の「めっちゃムカつく」などは、あきまへんで、と、ゼッタイ一言言ってたと思われる部分です。

いやもう、なるほどなるほどとひたすら感心する現代若者言葉訳でしたw さすれば、小見出しとも言える第28段「憎きもの」などは、現代語の「憎い」という意味合いからは離れているわけで、女子高生風に訳せば「ウザいもの」「ウザきもの」とでもなるのでしょうね。 ひゃ~、わたしとしたことが、使っちゃったよ、こんな言葉(爆笑)

いえね、自分は人との会話でこの手の若者言葉を遣うことはないでしょうが、それを使った訳が妙にピッタリ来るもので、枕草子が遥か昔の平安時代に書かれたものだとは思えないほど、いと、をかしく感じられたのでした。

若者言葉に対して少し認識を改めないといけないかしらん?

因みに、みなさま、ご存知かとは思いますが、平安時代は通い婚、つまり男女は同居せずに男性が女性を訪れる結婚の形が普通であったということを書き添えておきます。また、下記に枕草子第28段「憎きもの」の原文を掲載します。

忍びて来る人見知りてほゆる犬。あながちなる所に隠し臥せたる人の、いびきしたる。また、忍び来る所に長烏帽子して、さすがに人に見えじとまどひ入るほどに、ものにつきさはりて、そよろといはせたる。伊予簾などかけたるに、うちかづきてさらさらと鳴らしたるもいとにくし。帽額の簾は、ましてこはじのうち置かるる音いとしるし。それも、やをら引き上げて入るはさらに鳴かず。遣戸をあらくたて開くるもいとあやし。少しもたぐるやうにして開くるは、鳴りやはする。あしう開くれば、障子などもごほめかしうほとめくこそしるけれ。


クリスマスの贈り物談話

2022-12-19 18:08:15 | ポルトガルよもやま話
2022年12月19日

毎年のことだが、この時期の悩み事にクリスマスのプレゼントの買出しがある。

家族を始め、クリスマス祝いに集まる親戚の大人子ども、名付け親であればその子どもたち、それに常日頃お世話になっているお医者さん、お手伝いさんもいる。日本宛てに、テーブルワインを送るなどすると、中身より送料の方が高いということがざらにある。サービスは悪いが送料は高いポルトガルだ。

プレゼントはもらったら喜ばれるものをと、あの人にはこれ、この人にはこれと、一人ひとりの顔を思い描きながら買おうとするのだが、いよいよNatal(ナタル=クリスマスのこと)が切羽詰まってくると、それどころではない。とにかく人数分の数を揃えなきゃ、と相なりごった返しのショッピングセンター、書店を回ったりするので、体力たるやなかなかに消耗するのである。

息子と娘の学校教育が終わるまでは教育費にお金がかかっていたので、限られた予算でたくさんのプレゼントを用意するのは決して楽なことではなかったのだが、近年は「エイヤ!」という気分で少し奮発してみたりする。

するとまぁ、あららと言う間に、買い物はほぼ終了。あっはっは。買い物に時間がかかったのは、予算とにらめっこしながらだからなのだと、今更知ったというわたしである。

ポルトガルのボーナスは昔から給料の一カ月分となっているので、夫がまだ若かった頃は、ボーナスは全てクリスマスプレゼントに費やされていた。当時は行き来する親戚が多く、特に夫の母は9人兄弟だったので、その数たるは半端ではなかった。
夏は夏で、出たボーナスは家族旅行に費やしていたのだから、端から見ていたわたしは、いったいこれでどうやって貯金できるのだろうかと焦ったりしたものだ。



プレゼントはもらうより上げるほうが楽しいし嬉しい、と思うようになったのは近年のことである。わたしは夫からのプレゼント以外は(毎年、日本への航空券なのだわさ^^)、クリスマス、誕生日と言えどもなくても構わない。取り立てて、欲しいものはもうないといってもいい。いただいてどこぞに仕舞いこんでいるものがどれだけあるだろうかと思うともったいなくて、大人同士は気持ちだけでいいではないかの感がある。

そこで、随分前から夫にはプレゼントの対象は子どもだけにしないかと提案してあるのだが、夫の考えは違うようだ。また、子どもには日本のお年玉のようにお金であげるのはどうかと、再三夫に言ってきたのだが、これも受け入れられずに来た。

子供が小さいうちは物であげるのがいいが、たくさんのプレゼントの中にひとつ「お金」があってもいいのでは?物の場合、ダブルこともありうる。それに、わたしは長年チャイナフリー(チャイナ製品ボイコット)主義なので、ほとんどの子どもおもちゃがチャイナで作られるゆえ、そうでないおもちゃを探すのに苦労するのである。お金なら、子供が積み立てて将来何かに役立てることができようし、それで好きな物を買うこともできよう。

そう提案してきたのだが、その習慣がないポルトガルのことゆえ、夫はわたしの提案を受け入れてこなかった。が、若い子たちには、ついに日本からわたしが持ってきた「お年玉」袋に入れて渡すことになった。なにしろ、もうおもちゃを上げる年齢ではないし、かといって、身に着けるものも色々好みがあって、あげた物を喜んでもらえるとは限らない。図書券と言う手もあるが、それも本好きならではの話だ。そのうち、サントス家のクリスマス祝日には、大人へのプレゼントなしということもあり得るかしら?

なにしろ近頃は終活と称して断捨離を始めているわたしである。なのに毎年毎年、物が増えるのは困るのであります。欲しい人があればあげるのだが、それも気をつけねばならない。下手すると回りまわってそのプレゼントが贈った当人に渡らないとも限らない。クリスマスは色々気を使うシーズンでもあるのだ。