玄関を開けると カーテンで閉めきった薄暗い2LDK 。
そこには、まだ、あの死体の残香が残っている気がした。
嫌な汗が、首を伝って落ちる。
恐々と部屋を見渡した僕は、
「あの場所」に、黒い肉塊が転がっているのをみた。
畳の上。
それが、生首だと判るのに、時間はかからなかった。
あの日。
ぶら下がっている彼女を降ろそうとしたとき、
腐敗しきった遺体から、首がもげてしまったのだと聞いた。
それが、コロリと転がって、顔がこちらを向いた。
青い眸に、焦点が合った時、僕は悲鳴を上げて、尻餅をついた。
「どうしました?」
紫さんが、僕を押しのけて、部屋に入ろうとしていた。
一応、ハウスクリーニングは、過剰なほどにしてある。
前の住人が、全てを置いて逃げたので、
大抵の生活備品はそろっている。
スリッパも、新品だ。
それを足先に引っかけて、紫さんが一歩踏み込んだ瞬間だった。
眩い光が、炸裂したような気がした。
思わず、目を逸らす。
その光の中で、声を聞いたような気がした。
『 アナタニアイタカッタ アエナカッタ キョウモ アエナカッタ … 』
その声を、横に裂くように、また、光が走る。
『 コエガ キキタカッタ デモ キコエナカッタ … 』
何者かの意識が、僕の中に流れこんでくる。
それは、先程の恐怖をかき消し、透明な、祈りに似た『想い』に代わっていた。
『キョウモ アエナクテ デモ マダ アイタクテ 』
ドウシタライイノ … どうしたらいいの … ?
「そんな時は、誰にも、あります」
独り言のようにつぶやいて、
紫さんは、カーテンを開け、窓を開けた。
どっと、風が入ってきた。
「誰にも、起こり得ることです」
僕は、立ち上がって部屋を見渡した。
空気が違う。先程と、違う。今までと、まるで違う。
「そんな哀しみに、命までくれてやるなんて、あなたは、愚かです」
紫さん、誰に、話しかけてるの?
あの、禍々しい雰囲気が、もうこの部屋にはない。
「角部屋って素敵…お隣のお庭が見える。ガーデニングがご趣味なのかしら。
素晴らしい、ブルーガーデン!」
今、季節は、春。
隣家の庭は、蒼い花に埋もれていた。
「こっちの窓からは、季節を待つ、田んぼが一面。いい風が入ってくる!」
紫さんが、興奮して叫ぶ。
「母さん、遠くに海が見えます」
凛ちゃんも、上機嫌だった。「お日様の匂いもします!」
「素晴らしい … 」
母と子が、窓の外に見惚れているうちに、僕は畳のシミを確認した。
何度、新しいものに替えても、ここには不気味なシミが浮き上がってくるのだった。
それが、ない。これは、どういうことだ?
もちろん、生首もない。
そこは、ただの、小奇麗な小さな部屋になっていた。
「この揃っている備品は、使っていいのですか」と、聞かれ我に返る。
「はい。もし、気持ち悪くないなら」
「大丈夫。とっておきのアイテムを持っています」
紫さんは、大きなトートバッグから、ペットボトルに入った水を取り出した。
それと、手縫いだろうと思われる手ぬぐい。
「これは、昨夜のブルームーンで精製した満月水。
この手ぬぐいは、わたしが心をこめて刺した花ふきん」
白いさらし布に、紺の糸で刺繍されている。
「美しい布ですね」
「刺し子の花ふきんと云うんですよ。かわいいでしょ。
この柄は、千鳥つなぎといいます。
これで部屋のもの全てを拭いてゆきます」
「凜も手伝う!」
凛ちゃんは、満月水と花ふきんを持って、台所に走ってゆく。
「あの、ここに住むつもりですか」
僕は恐々と聞いた。
今はまだ明るいけれど、夜になって、またアレが戻ってきたら…
「まずは、使えるか試してみていいですか」と、紫さんが云う。
僕たちは、とりあえず、冷蔵庫や電球を拭きはじめた。
それら電化製品も、はじめからきれいにしてはいる。
でも、満月水で拭いたそれらは、明らかに、
眩しさを増し、新品同様のようにきれいになった。
「使える」
と、紫さんが云った。「ここに、住まわせて下さい」
もちろん、僕に断る権利はない。
結局、母子は今夜からそこで暮らしはじめることになった。
「布団は? 布団まではありませんよ」
「ベッドが欲しいな」
「じゃあ、僕が付き合いますよ。軽トラもありますし。どうせ暇ですから」
そうして、僕らは、3人で買い物に出かける事になった。
再び玄関を閉ざすとき、なんの根拠もないことだけど、
この人たちは大丈夫かも知れないと思った。
田んぼに向いた窓辺に佇む女性がいた。
この部屋で腐り落ちたひとだ。
でも、その後ろ姿から、悲壮感もなにも感じられない。
彼女は、初めてそれに気づいたように、
窓の外を、一心に見ていた。
外は、春。誰もが待っていた、春だ。
僕は静かに扉を閉める。
それから、凛ちゃんにそっと問いかけた。
「君のママは、魔女なの?」
「ママは、神様よ。やっと、ここで神様らしく暮らせる」
嬉しそうに凛ちゃんが笑う。
「素敵なお部屋をありがとう、猫のお兄さん」
続く
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