朝、庭に出ると、真っ白なお婆ちゃんが立っていた。
「お、おはようございます」
昨夜は、母さんが遅くに帰って来たから、私も寝不足だったけど、
その人の眼を見たら、パッと目が覚めてしまった気分だ。
「おはよう、凛ちゃん。はじめまして」
お婆ちゃんは、きれいな姿勢でお辞儀をする。
「私は、白水。貴女のひいばばよ」
「お婆ちゃん!?」
わたしが駆け寄ると、お婆ちゃんはふわりとわたしを抱きしめた。
植物の匂いがする。
「貴女が来てくれて嬉しいわ。ねえ、凛ちゃん。凛ちゃんは、
緑の指が欲しくないのかい?」
こんな大事な話、二人でしていいんだろうか。
でも、母さんはよく寝てるし。
「欲しいけど…、でも、友達と遊べないのは嫌だなあ。
学校にも行きたいし、母さんと旅行にもいきたいし、それに…」
「つまらぬことだよ」
お婆ちゃんは、静かだけど、ピシャリと云った。
「おばばの夢はね、この緑の指で、世界を救うことなんだ」
「えええ、世界を?」
「ここで修行をして、砂漠へ行くのさ。緑のない砂漠に、オアシスを作るの」
「オアシスってなあに?」
「植物と、水が溢れる楽園だよ。世界には、飲み水すらない人が沢山いるんだ」
聞いたことがある。泥水を飲んでいる女の子も、テレビで見たことがあった。
あれは衝撃だったな。わたしは、あんな汚い水は、飲みたくないなあ。
きっと、母さんが淹れてくれる紅茶も、おいしくならないだろうと思った。
「凜ちゃんも、おばばとこのお山で修行して、一緒に砂漠に行かないかい?」
「砂漠に…?」
「そう。沢山のひとの命を、貴女は救えるの」
それは、確かに凄いことだ。
でも。
わたしは、直ぐには答えられなかった。
そこへ、母さんが走ってきた。
「おばあ様! 直接凛と話すのはやめて下さいと、昨日云ったではありませんか!」
母さんが本気で怒っているのは、その声で判った。
「昨晩、あれだけ話をしたのに、私たちはまだ、話し合う時間が必要なんです!」
「時間の無駄さね」
お婆ちゃんは、一時も母さんを見ようとしなかった。
「お前の話を聞く気は毛頭ないよ。私の考えは変わらない。私が、この子を貰い受ける」
「そんなことが赦されるとでも? この子の母親は私。育てる責任があるんです!」
母さんが、半ば無理やり、お婆ちゃんの手からわたしを奪い取った。
「お前はとんでもない出来そこないだ。お前の母親も愚かだった。
緑の指の力を受け継ぐことすらできず、山を下って早死にした。犬死と同じことだ」
「母は、私をここまで育ててくれました。それに、私の神通力だって…!」
「穢れている。お前の力には闇が宿っている。神様ごっこはもう終わりにしなさい」
そこへ、宝山殿がやってきた。
「白様。こんな場で、ましてや、幼子の前でおよしなさい。紫殿もこらえるのです」
宝山殿は、私の手を取ると、有無を云わさず家の中へ戻った。
振り返ると、母さんと、お婆ちゃんがまだ云いあっていた。
「今夜も、貴女を尋ねます。話を聞いて下さい」
「無駄だと云ったろう。…場合によっては、怪我だけでは済まないよ」
ズキン。胸が苦しくなった。怪我では、済まない?
「お前が間抜けで、のこのことあの子をこの山に連れてきたのが運の尽きさ」
「私は、おばあ様なら理解を得られると、信じています」
わたしは、宝山殿の手をぎゅっと握った。
「怖いです。何故、お婆ちゃんはあんなに怒っているの?」
宝山殿は、わたしの頭を撫ぜると、温かいお茶を淹れてくれた。
「ひとの価値観はそれぞれだからね。二人の意見が合わなくても、それは不自然なことではないのだよ」
わたしと、宝山殿は向かい合ってお茶を飲んだ。
命が、わたしの膝の上に乗ってきた。
「白様の植物に作用する神通力は、神がかっている。
一時、この山の松の樹が、虫にやられて随分枯れ果てたのだが、
白様が、おひとりで死んだ樹々を蘇らせた。この山が豊かなのも、
白様の力のお蔭なのだ。彼女は、その力で、砂漠化した地球を救おうとしているんだよ」
「聞きました。わたしも一緒に行こうと、誘われました」
「あの方は、博愛主義なのだ。自分の人生を賭しても、困っているひとや、
この地球を救いたいのだよ。それは、並大抵の覚悟ではできるものではない」
しかし、と、宝山殿は言葉を続ける。
「きっと、紫殿は、凛殿の生活を、ありきたりな幸せを、望んでいらっしゃるのだろう」
「どっちが正しいの?」
「それは、先刻も云ったように、人それぞれだ。紫殿は、ただ普通の母親として、
凛殿の幸せを望んでいる。それは手前勝手な事では、決してない。普通の事だ。
人として、普通の事なんだよ」
その後の お婆ちゃんと母さんの話し合いがどうなったのかは知れない。
母さんは、昼過ぎに再び奥深い山に入っていた。
二人は、わたしの未来について、話し合っている。
ううん、戦っているんだ … 。
そう想うと、わたしは涙を止められなかった。
わたしは、どうしたい?
学校にも行かないで、このお山で修行して、お婆ちゃんと、砂漠を目指す?
それは、正直、とても魅力的な話だった。
でも … でも … どうして?
夏ちゃんの笑顔が、邪魔をするの。
「お土産? 木刀がいいな! 」
そんな事を云って笑った夏ちゃんと、遊びたい。
「ねえ、一緒にオレとテコンドー習おうよ、凛ちゃん!」
「オレも一緒に、凛ちゃんのお母さん、守ってやるよ…もちろん、命の事も!」
「オレ達、最強のコンビになろうぜ」
… 夏ちゃん。私がこのお山を離れられなくなったら、約束した事、全部ダメになる。
わたし、夏ちゃんに会いたい。
あの素敵なお家に帰りたい。
猫平さんや、商店街の人たちと、今まで通り、会いたい。
会いたいよ … !
わたしが泣いていると、宝山殿が、無言で頭を撫ぜてくれた。
わたしが決断できる事ではなかったのだ。
だから、母さんが動いた。
その時、母さんは、命を賭して、わたしの為に行動していた。
山中が騒然となったのは、日付が変わろうとしていた時刻だった。
山犬たちがけたたましく鳴き、宝山殿が家を飛び出していった。
山の何処かで、お婆ちゃんが死んだのだ。
眠れないわたしは、それでも子供は眠っていなさいという言葉に従って、
用意された布団の中にいた。
お山の人々が騒ぎ出す直前、ふいに、一緒に布団に入っていた命が飛び起きた。
命は、障子を開け放って月明かりを入れている窓の方を見て、毛を逆立てていた。
母さんに何かあったことは明らかだった。
「命、母さんを護って … わたしは、何もできない … 」
そう云うと、命は、わたしの鼻の頭を舐めてから、外に飛び出していった。
母さんが、ボロボロの雑巾のようになって戻ったのは、その3時間後だ。
家を飛び出していった命が、母さんを連れて戻ってきた。
わたしは、部屋を飛び出して母さんに駆け寄った。
着ている服はボロボロ。顔にも傷を負って、血が流れていた。
わたしは、母さんの左腕にある痣に気付いて、鳥肌がたった。
青黒い、文字のような痣…
「ああ … 凛、心配かけて…ごめんね。もう、心配はないから」
弱々しく笑う母さんに、嫌な予感がした。
お婆ちゃんは、死んだ姿で見つかったと、人々の押し殺した声で知った。
…顔は、完全に潰されて…、あれは、妖の力を使ったのだろうな…。
妖の、力。
… 魔道を、開いたのだ、あの女は…
母さんは、魔道を開き、妖魔を呼び寄せた。
わたしにはすぐ、理解できた。
「どうして…」
母の胸に顔を埋めて、云った。「どうして、お婆ちゃんを…」
宝山殿は、それを静かに見ていた。
母は、直ぐには答えなかった。
「普通に産んであげられなくて…ごめん、凛…」
わたしは、十分に、普通だよ?
母さん、何故、泣くの? 何故、お婆ちゃんを … ?
「でも、もう、心配ない … 、貴女は、普通に、生きられる … 」
それは、
どういう意味?
宝山殿が云った。
「魔道を開いたか、紫殿」
「はい …、 申し訳ありません … 」
「む…、そして、それは、閉じられたか? 」
母さんが、訴えるように宝山殿の腕を、掴んだ。
「申し訳ない … そこまでの余裕もなく … 」
わたしの脳裏いっぱいに広がったのは、閻魔大王の笑顔だった。…、何故?
「罪を犯してはならないと、…約束したんでしょう?」
熱に侵されたような表情で、母さんはわたしを見た。
「閻魔様と!! 人を傷つけてはならないと、ましてや、命を奪うなどという…!」
母さんの眸に、みるみるうちに泪が溢れた。
「これで、私は、いいの。私は、独りでも、大丈夫」
こんな時に、笑わないでよ、母さん。
ずっと、憧れて、想い焦がれてきた、閻魔様。
いい訳がないでしょう!?
「わたしの為に、あの約束を破ってしまったのなら」
わたしは、勇気を振り絞った。
「わたしが、閻魔様に赦しを乞う! 母さんは、わたしの為に罪を犯したんだって!
そう云うから!!」
「… 凛 … 」
母さんが、優しくわたしの頬を撫ぜた。
「私も、修行を積み、凛殿と一緒にあの聖域に参ろう」
宝山殿も云ってくれた。
でも、何故か、母さんは笑うだけ。
「私はもう、独りで大丈夫だから … 」
だからって、わたしは引かない。
「わたしは、決めたの。母さんを独りにはさせない」
宝山殿も、云った。
「私も、決めたよ。人の世は、複雑なのだと、物申すつもりだ」
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この地球は…
この地球に、住まう人々は、実に複雑な思考に支配されて、生きている…
そこには、どんな信仰も理屈も、通用しないことがあり得るのです。
「凜殿、一緒に参ろうか」
「わたしは、妖には慣れていません」
「大丈夫。今の貴女にしかできないこともある」
そう云われて連れて行かれた闇の中で、
わたしは初めて、闇から呼ばれた妖の姿を見た。
闇を、どこまでも深くする存在。
たった独りで、この山のこの聖域を呑みこんでしまうような、
深い深い、闇。
宝山殿が手渡した、弓。
目を見張るほどに輝かしい、光の矢。
全てを、浄化する矢。
少し重いので、彼の力添えも借り、山をさ迷い歩く、闇の妖を祓った。
放った光と共に、わたしの中の何かが、叫んだ。
それは、命の叫び。命の慟哭。命の執着、執念。
わたしがあげた叫びが、闇の妖の力を奪ってゆく。
痛々し気に響く、あの子の声。
ごめんなさい。
わたしの所為です、ごめんなさい。
そう、唱えながら …
わたしは、叫び続けた。
わたしは、元の世界に戻ります … 。
以上が、「高尾山事変」の全貌だ。
続く
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