三河武士がゆく

日本史や地域のお話し。
特に幕末や戦史をメインにしています。

※順次HPからこのブログへ引越します

戊辰戦争拾遺 遅れた長崎丸と河津三郎太郎ら伝習砲兵

2023年06月28日 21時48分03秒 | 歴史
王政復古のクーデタの知らせが江戸に入り、幕閣は在京老中の要請に応えて、12月14日、兵の急速上京を命じた。この時、乗船として長鯨丸と長崎丸があがっている。長鯨丸は何度か出帆予定を変更しながら、23日に勘定奉行並、小野友五郎らを乗せて出帆していると思われる。しかし、長崎丸はさらに遅れて、砲兵頭並、河津三郎太郎(祐賢)、大砲差図役頭取、永持五郎次(明徳)ら伝習砲兵を乗せて、翌慶応4年1月2日に着坂したと思われる。河津ら伝習砲兵は14日、上京命令を受けているのだが、遅延の理由は何であったのか。

この伝習砲兵隊が、鳥羽・伏見の戦いの緒戦に間に合っていたとしたら、戦局に大きく影響したかわからないが、簡単に戦線が崩れることはなかったかもしれない。

この他にも旧幕府支援の兵が大坂を目指しており、大津方面から入京を図る旧幕府歩兵などもいた。さらに長崎丸が着坂した1月2日には歩兵一個大隊を乗せた順動丸が品川を出帆しているのである。

河津と永持は共に明治政府の陸軍に仕え、砲兵の大隊長を経て要職を歴任している。
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慶応3年12月の滝川播磨守と小野友五郎の上坂への疑問

2023年01月27日 18時07分13秒 | 歴史
慶応3年12月江戸薩摩藩邸焼き討ちがおこり、その報が大坂にもたらされたことで徳川慶喜の率兵上京が決定し、その先兵とこれを阻止しようとする薩長軍との間で戦いが始まった(鳥羽・伏見の戦い)のですが、この薩摩藩邸焼き討ちの報をもたらしたのが、大目付滝川播磨守(滝川具挙)と勘定奉行並小野友五郎(小野内膳正)と言われてきました。しかし、藤井哲博氏は昭和60年、『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』(中公新書)でこれを否定しました。しかし、すでに刊行後40年近くなろうとしますが、いまだに浸透していないように感じます。

それは、滝川と小野の上坂に関して言及している書が少ないことが原因となっていると思います。薩摩藩邸焼き討ち情報が大坂にもたらされた日も28日とするものが多いのですが、その根拠を示している資料は以外と少ないのも事実です。

松浦玲氏は『徳川の幕末』(筑摩選書、令和2年)で、『徳川慶喜公伝』を引きながら「管見の限りでは船と人物に整合性のあるものがない」と、問題点を指摘しています。
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牧野新次郎(康成)が、どうやって牛久保に戻ったのかが、わからない?

2021年11月30日 11時11分47秒 | 歴史
新聞で、岩瀬崇典氏の歴史小説、『渦巻いて 三河牧野一族の波瀾』(上巻)の発刊を知りました。

著者の岩瀬氏は、牧野氏の寄騎であった岩瀬氏と関係があるのでしょうか?

史料には限界がありますので、隙間を埋めて楽しませていただきたいと思っています。

私が、戦国牧野氏に興味を持ったのは、松野武人氏の『三河戦国伝 吉田城太平記』(1987年)を知ってからです。この書は牧野伝蔵(田三)家をメインとする物語ではありますが、じゅうぶんに私の心を捉えました。このような存在がとても大事なのです。私は、そののち、戦国牧野一族を調べれば調べるほど、わけがわからなくなりましたが。

前置きが長くなりましたが、牧野氏に興味を持ってからの謎のひとつが、駿河にあった新次郎(康成)がどのようにして、牛久保に戻ったのかということです。

どこかで、これに少し言及している文書を見たのですが、その時、自分の記憶力を過信してメモをとらなかったので、忘れてしまいました。年を経るとともに記憶が薄れ、何が書いてあったのかも・・・

今となっては、どうすることもできません。

近年では、山田邦明氏の『戦国時代の東三河 牧野氏と戸田氏』(2014年)を見ましたが、そこには触れていません。もうひとつ、どなたかの、今川氏関係の論文を読みましたが、またもや論考名を忘れました。

桶狭間で、今川義元が討ち死にしてから、西三河に続いて、東三河の領主たちも今川氏から離反して徳川氏に属していきます。この過程で、今川の人質になっていた諸将の妻子の処刑がおこなわれます。

新次郎が牛久保に戻った時期が、牧野氏が家康に帰属する前だとは考えにくいのですが、無事に帰還し得たことから、吉田開城あたりでの、家康方と今川方との取引のなかに、新次郎返還の内容があったのかもしれません(まったくの想像ですが)。また、駿河にあったとされる新次郎は、吉田城内に人質であったとしたならば、より理解しやすくなりますが(史料発見を期待!)。
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老害なんて言わせない! 鈴木貫太郎 首相就任時最高年齢

2021年02月16日 12時06分09秒 | 歴史
鈴木貫太郎は、77歳で第42代内閣総理大臣となった。
慶応3年の生まれであるから、江戸時代である。

言わずと知れた「終戦内閣」を背負った人である。

侍従長であった昭和11年、二・二六事件で被弾し九死に一生を得ていた。
終戦時にも、宮城事件で終戦を阻止する勢力により襲撃を受けたが、難を逃れた。

どうした?明治生まれ!
時代と結びつけるのはこじつけになるが、
近衛文麿(45歳)・東條英機(57歳)・小磯國昭(64歳)・米内光政(59歳)、みな明治生まれである。
※()内年齢は、第一次の内閣総理大臣就任時

自分よりも高齢の方がポストに就くと、己の力のなさ、人徳が乏しい事を棚に上げて、ひがんだり、嫉妬して「老害」と言う人もいるかも知れない。

重責を担って、ちゃんとやってくれる人であれば、年齢など全く関係がない。

何をかいわんやである。
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「一つの歴史の体験のしめくくりをきちんとしなければ、同じような過失が、同じ手順で繰り返される」

2020年10月10日 22時08分51秒 | 歴史
「一つの歴史の体験のしめくくりをきちんとしなければ、同じような過失が、同じ手順で繰り返される」(むのたけじ)

朝日新聞社記者であった「むのたけじ」氏は、米英撃滅の記事を書いたことに責任を感じて、退社しました。
そして、郷里の秋田県横手で、週刊「たいまつ」を創刊しました。

責任のとりかた、人それぞれですが、潔い生き方だと思います。

私は浪人生活を送っているときに、『詞集 たいまつ』に出会い、勇気づけられました。
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小栗上野介と薩摩藩邸焼き討ち

2020年09月16日 19時47分40秒 | 歴史
小野友五郎でも滝川播磨守も、大きな権力を持っていなかったのに、どうしてなのか、「悪者」にされているような感じを受ける。薩長からみてのそればかりではなく、旧幕府の中からもそのような見方がをする者がいたのかもしれない。

小栗上野介もそのように見られていた一人で、小野友五郎と滝川播磨守は、維新後口を閉ざし、小栗は命を奪われてしまったので、言いたいことも言えない。

最新の研究がどのようになっているのか全くわからず、詳しく調べてもいないので、何とも言えないのだが、小栗上野介(小栗忠順)は、慶応3年12月25日の薩摩藩邸焼き討ちヘの関わり方について疑問がある。

小栗が主導したとか、煽動した、命令したというような見られ方もしている。これが、小栗殺害の一因になっているとも。しかし、小栗は強硬論者ではあったかも知れないが、大坂の意向を聞くべきではないかという意見を持っていたという見方もある。これが事実であれば、小栗の評価も少し変わってくるのではないか。

維新後生き延びた者の中には、讒言とまではいかずとも、知っていてもかばうことをせず、身を保ち、死んだ者をスケープゴートにしてしまった悪人がいる可能性はある。あるいは、知ったかぶりをして、「じつは、彼が・・・したのだ」と、その場にいたような顔をして得意げに話したり、伝聞や想像・思い込みを事実であったかのように談話や筆記を残したりした者も多いと思う。

そういう、歴史の作られ方は、恐ろしいことだ。
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梓特別攻撃隊 杓子定規が日本をダメにする

2020年07月20日 13時32分16秒 | 歴史
■梓特別攻撃隊 

楠木正行の辞世より命名されたという、梓特別攻撃隊が東京の南2800キロに位置するウルシー環礁の米機動部隊攻撃のために出撃したのは昭和20年3月11日のことです。

3月10日に予定された攻撃は中止され、攻撃隊は途中で引き返しています。
出撃は翌日に延期になり、この夜宇垣纏第五航空艦隊司令長官に招かれた晩餐会で隊長の黒丸直人大尉が参謀のひとりに激怒している姿が描かれていますのでそのまま抜粋します。

内容は生存者の記憶をもとにしています。

なぜ、三人も出さにゃならんのですか?

電信員を二四機すべてに乗せる理由は何ですか!

小隊長機だけに乗せてもことはたりますよ!


手前らのその杓子定規が、日本を駄目にしたんじゃねえのか!

無理して死なせることはねえだろう!



電信員ほとんどは予科練出身、幼願の残る十代の少年たちである。いたずらに若者を死に追いやるとしか思えないやり方、押し黙る参謀に対して、黒丸大尉の精一杯の抗議でもあった。

※神野正美「梓特攻隊の第二次丹作戦」(『歴史と旅』増刊号94・激闘太平洋戦争)より

攻撃機は海軍の陸上爆撃機「銀河」で搭乗員は操縦員・偵察員・電信員です。
最年長は黒丸大尉の27歳、最年少は18歳でした。
なお、攻撃隊の内一機が空母に体当たりをし、一機はソーレン島に突入、その他少なくとも二機が珊瑚礁に突入して自爆したようです。

黒丸隊長機を含めた4機は暗闇のため目標を捕捉できずにヤップ島に不時着しました。

大和特攻出撃の前に大和からおろされた若い水兵がいたというお話を聞いたことを思い出しました。


無謀だと言われても、
一度決めた作戦(方針)を、なかなか変えることができない。
または、事情に合わせた対応ができない。

成功が期しがたいのに、
決めた作戦(方針)を実行することが目的となっている。
そのための、犠牲はやむを得ない。


「手前らのその杓子定規が、日本を駄目にしたんじゃねえのか!」

(以前の記事を、一部書き直して再掲)
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疑問、福岡孝弟と吉田東洋の関係

2020年05月26日 13時19分42秒 | 歴史
福岡孝弟は、「吉田東洋との関係」という談話で、東洋の弟子であったことを否定してます。
学問上の弟子、門下生ではなく、理屈を学んだ(経済が必要)ということを学んだのだと。
ただし、まったくの吉田派であると認めています。
そして、大町の書き方が酷いと述べています。
大町とは大町桂月のことでしょう。

実際はどうなのでしょうか?
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法律を死守した判事、山口良忠氏

2020年05月25日 22時25分43秒 | 歴史
法律を死守した判事、山口良忠氏

法律を守り、闇米を拒否し、栄養失調による病気で亡くなった判事の方がいらっしゃいました。

法律に携わって生き(生計を立て)、法律に殉じた(法律を守って亡くなった)という、ちょっと考えさせられてしまうようなお話しです。

法律である以上、守らなければならないが、
守ることで死ぬ法律であってはならない。
そういう法律を作ってはならない。

山形道文 『われ判事の職にあり』 文芸春秋 1982年
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太平洋戦争、攻めるか退くかの決断・・・責任を纏う指導者を待望する

2020年05月22日 20時33分20秒 | 歴史
開戦も終戦も似たようなもので、日本政府には国是を決定し実行する指導者がいなかったと言えます。開戦を止める、終戦を早める決断をすることで、何百万、いやそれ以上の命が救われたかもしれません。

国是を決定するポジションにあった人の多くが、大事な場面、もっとも重要な瞬間に、発言をしないという考えられないような行動をとっています。

それぞれの立場的としての意見が自分の意志に優先するのは仕方ないことですが、所属する組織の利益、意地や面子を優先して、国を危うくする行為は、当時の憲法、政治システムを差し引いたとしても、理解に苦しみます。

ずるずると、責任逃れをして決断を先延ばしにしたことによって、国が滅びかけ、国民が苦しんだのです。

国家の存亡がかかっているようなとき、
有事に指導的人物を欠くのは、不幸なことです。

どこを、どのように攻めるのか、あるいは退くのかは次の段階の話です。
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