「トランプ/ゼレンスキー会談」
2/28に行われた米ウ首脳会談は物別れに終わった。
結果的には残念なことだが、「然(さ)もありなん」という気がしないでもない。
トランプ大統領の考え方、気質については今更述べる必要もないが、ゼレンスキー大統領についても当方以前から違和感を持っていた。それはロシアのウクライナ侵略後の同氏の言動である。
それは何かというと、「これは民主主義を守るための戦いであり、欧米がウクライナを援助し守るのは当然だ」という態度。果たしてそうだろうか。勿論そのような側面はあるにせよ、支援が足りないとかこれ迄の彼の欧米への非難めいた口調には当方首を傾げざるを得なかった。
この意味で、2/28の米ウ首脳会談でトランプ大統領やバンス副大統領がゼレンスキー大統領に対して「感謝がない(足りない)」「あなたの態度は失礼だ」と言ったことには当方頷けるものがある。(尤も我々日本人からするとこのようなことを相手に対して平然と言うのもどうかと思うが)
多大な支援を受けている身でありながら、何を偉そうにといったことだろう。
(トランプにとって大事なのはあくまでも自分及び自国の利益であり、民主主義の盾になるなどという考えは全くない。また他国との協調などということはどうでもよいことであり、これでは意見が嚙み合う訳がない。)
(また2/17に放映されたNHKの「映像の世紀バタフライエフェクト_プーチンンとゼレンスキー ロシアとウクライナの100年」という番組を見たが、ゼレンスキーという人も紆余曲折のあったかなり癖の強い人のようである。)
これはどこかで書いたことがあると思うが、喧嘩や言い合いを避けるには、まず相手の言うことを認め、そのうえで自分の意見をいうということが鉄則のようである。つまり「あなたの言うことは正しい(或いは尤もだ、分かる)、しかし・・・」というような言い方。
ところが先の会談の時のゼレンスキー氏はバンス氏の言ったことに対して、頭から否定してかかってしまった。
これでは口論になるのも致し方ないだろう。
(当方も若い頃は自分の主張を押し通そうとしてすぐ相手に反論し、よく上からたしなめられたものである)
どうも欧米人は直球勝負をしがちだが、この二人は性格的にそのような傾向が特に強いようなので、会談では通訳を介すべきだったという意見には納得できるものがある。(このような欧米人の特徴は狩猟民族ということから来るものなのだろうか。どうも我々農耕民族とは違うようである。同じ欧米人でもアングロサクソン(ゲルマン系)やスラブ系は特に自己主張が強く頑固なようで、半面ラテン系は結構いい加減なようだが。)
ところでゼレンスキー氏は「領土問題に関してはは一歩も譲れず、奪われた領土は全て取り返す」と言っているが、そもそも今回の戦争前の領土、つまり国境というのはどのようにして決められたものなのだろうか。
また一般的に国境というのはどのようにして決められるものなのだろうか。
(というのも、これ以上犠牲者を増やさないためには、戦争終結のためウクライナもある程度領土問題ではロシアに譲歩せざるを得ないのではという気がしているので)
ウクライナとロシアとの関係(歴史)については「ウクライナ問題(23/10/17)」のところで述べた通りだが、領土問題(国境線)に関して改めてChatGPTに質問したところ次のような回答があった。
(一般的な国境の策定問題についてのChatGPTの回答は項目を改めて記しておくことにする)
[ロシアとウクライナの国境線]
Q:現在のロシアとウクライナの国境はどのような経緯で定められたものですか。
ChatGPT:
現在のロシアとウクライナの国境は、ソビエト連邦の歴史的な経緯とその後の独立・国際的承認を通じて確立されたものです。以下、その主な経緯を説明します。
1. ソビエト連邦時代の境界設定
・1922年: ソビエト連邦(ソ連)が成立し、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(ウクライナSSR)がその一部として設立されました。
・1954年: ソ連の指導者ニキータ・フルシチョフの主導で、クリミア半島がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ロシアSFSR)からウクライナSSRに移管されました。これは、ソ連内の行政的な決定であり、当時は大きな問題にはなりませんでした。
2. ソ連崩壊と国境の確定
・1991年: ソ連崩壊に伴い、ウクライナは独立を宣言し、1991年12月1日に国民投票で90%以上の支持を得て独立が確定しました。
・1994年: 「ブダペスト覚書」により、ウクライナはソ連時代に保有していた核兵器を放棄する代わりに、ロシア、アメリカ、イギリスからウクライナの主権と領土保全の保証を受けました。
・1997年: ロシアとウクライナの間で「露宇友好協力条約(大統領間条約)」が締結され、両国は互いの国境を正式に承認しました。
3. 2014年のクリミア併合と国境問題の発生
・2014年: ウクライナで親欧米政権が成立した後、ロシアがクリミア半島を占領し、住民投票を実施して併合を宣言しました。国際社会の大半はこの併合を認めておらず、ウクライナ領と見なしています。
・2014年以降: ウクライナ東部(ドンバス地域)でも親ロシア勢力とウクライナ政府軍の対立が続き、事実上の戦争状態に。
4. 2022年のロシアの全面侵攻と国境の流動化
・2022年2月24日: ロシアがウクライナに全面侵攻を開始。
・2022年9月: ロシアがドネツク州、ルハンスク州、ザポリージャ州、ヘルソン州の4州の「併合」を一方的に宣言。ただし、これらの地域の一部はウクライナ軍が奪還しており、実際の支配地域は流動的です。
現在の状況
ウクライナと国際社会は、1991年の独立時に確定した国境を正当なものと主張し、ロシアによるクリミアや東部の占領を認めていません。一方、ロシアはこれらの地域を自国領と主張しています。実際の戦況によって国境線は変動しており、将来的な国境確定は和平交渉や戦争の行方に左右される状況です。
このように、現在のロシアとウクライナの国境は歴史的な経緯の積み重ねと、近年の政治的・軍事的な動向によって形作られています。
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Q:ロシアとウクライナの国境の線引きはどのようにして決められたのですか。民族あるいは住民の意思などは関係していたのでしょうか。
ChatGPT:
ロシアとウクライナの国境線は、歴史的な政治的決定によって形成されましたが、民族的な分布や住民の意思が直接反映されたわけではありません。以下、その形成過程を詳しく説明します。
1. 帝政ロシア時代の境界
・18~19世紀、現在のウクライナの大部分はロシア帝国の支配下にあり、明確な国境線は存在していませんでした。
・1917年のロシア革命後、ウクライナでは独立運動が起こり、1918年にウクライナ人民共和国が成立しましたが、ソビエト赤軍によって併合されました。
2. ソビエト連邦内での境界画定
(1) ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(ウクライナSSR)の成立(1922年)
・ソ連成立時(1922年)、ウクライナSSRは正式にソ連の一部として認められ、現在のウクライナ領に近い国境が定められました。
・国境線は政治的な判断によって引かれ、民族分布は考慮されましたが、住民の意向を直接問う形ではありませんでした。
(2) クリミアの移管(1954年)
・1954年、ソ連指導部(ニキータ・フルシチョフ主導)がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ロシアSFSR)からウクライナSSRへクリミア半島を移管しました。
・これは当時の行政的な決定であり、住民投票などは行われませんでした。
・クリミアはもともとタタール人の住む地域でしたが、スターリン時代に強制移住が行われ、ロシア系住民が増えていました。
3. ソ連崩壊とウクライナ独立時の国境確定
・1991年、ソ連崩壊に伴い、ウクライナは独立を宣言。
・1991年12月の国民投票では、ウクライナ全体で約90%が独立を支持し、ロシア系住民の多いクリミアでも約54%が賛成。
・その結果、ソ連時代の境界線がそのままウクライナとロシアの国境として確定しました。
・1997年、ロシアとウクライナの間で「露宇友好協力条約」が締結され、ロシアもこの国境を正式に承認しました。
4. 2014年のクリミア併合と国境問題の変動
・2014年、ウクライナの親欧米政権の誕生を受けて、ロシアがクリミアを占領し、住民投票を実施して併合を宣言。
・住民投票では97%がロシア編入を支持したと発表されましたが、国際社会はこの投票の公正性を認めず、無効としています。
・同時期に、ウクライナ東部(ドンバス地域)でも親ロシア派が分離独立を主張し、武力衝突が発生しました。
5. 2022年のロシアのウクライナ侵攻と国境の流動化
・2022年9月、ロシアはウクライナ東部4州(ドネツク、ルハンスク、ザポリージャ、ヘルソン)の併合を一方的に宣言。
・しかし、ウクライナはこれを認めず、戦争によって国境は流動的な状態にあります。
結論:民族や住民の意思はどこまで関係していたのか?
(1) ソ連時代の国境線の決定
・基本的にはソ連政府の政治的判断によって決定された。
・民族構成が一部考慮された可能性はあるが、住民投票などは行われなかった。
(2) ウクライナ独立時の国境確定(1991年)
・住民投票でウクライナの独立が支持されたが、境界そのものを決める投票ではなかった。
・ロシア系住民の多いクリミアでも独立賛成が過半数を超えていた。
(3) 2014年のクリミア併合
・ロシアによる住民投票が行われたが、国際社会は不正があったと見なし承認していない。
(4) 2022年のロシアによる東部4州の併合宣言
・ロシアは住民投票を実施したと主張するが、戦争状態であり自由な意思決定が可能な状況ではなかった。
総じて、ロシアとウクライナの国境線は、政治的・歴史的要因が大きく、民族や住民の意思が直接反映されたわけではないというのが現実です。
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