宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

276 専念寺へ参りましょう

2011年02月07日 | Weblog
       《1↑現在の専念寺》(平成22年9月2日撮影)

 では今回は山折哲雄氏の母の実家、専念寺を訪ねてみたい。

1.専念寺予備知識
 まずは昭和20年頃の専念寺の場所を確認する。それは下図
《2 花巻空襲罹災区域》

   <『花巻の歴史・下』(及川雅義著、図書刊行会)より抜粋>
の地点”S”に当たる。たしかに専念寺は斜線部分(空襲火災罹災区域)にはなく、専念寺は火災から免れているということがこの図からも判る。

 ところで、山折氏は『17歳かからの死生観』の中で、
 その私の実家の寺のすぐ傍に、宮澤賢治の生まれた家がありました。百五十メートルぐらいしか離れていなかった。だから、宮澤賢治のご一族の方々と、私の両親や私には、いろいろな交流がありました。そういう交流を通して、次第に私は、宮澤賢治の作品に触れるようになりました。宮澤賢治の世界に、どんどんのめり込んでいきました。
   <『17歳からの死生観』(山折哲雄著、毎日新聞社)より>
と言っているが、YAHOO!地図(YAHOOさん無断借用ごめんなさい)
《2 花巻マルカン付近地図》

を用いて賢治の生家(M)と専念寺(S)との間の距離を測ってみると約280mあり、山折氏が言っている150mの2倍弱もあった<*1>。賢治は実際には母方の実家(宮善)で生まれているから、そちらを”生家”にしたとしても約250mの距離になる。

 さてこの専念寺については、『花巻の歴史・上』によれば
 上町北の専念寺は、西本願寺寺末とある。明治十二年(一八七九)十一月、炎上して宝物・古文書など焼失し、一時荒廃したことがある。したがって、詳しいことはわからない。大正十四年の由緒書上には、開基は文永年間、仙北郡六郷の善証寺開祖吉永某であり、湯口鍋倉の山江に来たって一宇を建立し、瑩明庵と称したという。天正年間に善了坊の代に現在地に移住し、寛文八年専念寺と改称したという。
   <『花巻の歴史・下』(及川雅義著、図書刊行会)より抜粋>
ことなそうで、専念寺は明治12年に一度火災に遭っていたようだ。

2.大堰川プロムナード
 では、次はいよいよこの専念寺を実際を訪ねてみましょう。
 専念寺の西側には「大堰川」と呼ばれ川があるが、その川沿いにはその名を冠して造られた
《3 大堰川プロムナード》(平成22年9月3日撮影)

というものがある。この
《4 プロムナードを下ってゆく》(平成22年9月2日撮影)

《5 〃 》(平成22年9月2日撮影)

《6 〃 》(平成22年9月2日撮影)

《7 〃 》(平成22年9月2日撮影)

とやがて赤い屋根の建物が現れる。

3.専念寺探索
 その赤い屋根の建物が
《8 専念寺》(平成22年9月3日撮影)

であった。
 では次は専念寺とその周辺少し探索してみる。
《9 専念寺正面》(平成22年9月3日撮影)

写真右手に見える百日紅の大木が見事である。
 なお、上の写真は下図の地点Aで撮っている。
《10 専念寺周辺マップ》

   <YAHOO!地図より抜粋>
この地点Aから東側方向を見れば
《11 ブロック塀》(平成22年9月3日撮影)

があり、その中には墓地B(墓石は20基強)があった。
 次に地点Aから専念寺正面に向かって進むと
《12 道路左手(西側)にも墓地C》(平成22年9月3日撮影)

があり、ここの墓石は20基弱であった。墓地はこの2個所だけであり墓石は全部で約40基ぐらいのようだった。それほど大きいお寺ではなさそうだ。

 専念寺前の道路を右に折れて東方向に進んで振り返って見た
《13 専念寺の住まい》(平成22年9月3日撮影)

さらに進むと
《14 空き地あり》(平成22年9月3日撮影)

 今度は専念寺の西側にある道路から見た
《15 専念寺白壁》(平成22年9月3日撮影)

そこには昔懐かしい
《16 碍子》(平成22年9月3日撮影)

が取り付けてあり、この建物には昭和20代の匂いがする。おそらく、この概観などから見ていまの専念寺の建物は昭和20年に焼け残ったままの建物に違いない。つまり、明治12年に火災にあって焼失した専念寺であるがその後に再建されたままの建物なのであろう。
 さらに西側道路を北方向に進めば
《17 専念寺の裏側(北側)は断崖》(平成22年9月3日撮影)

になっていて、それはかなりの段差があることが判る。

4.花巻空襲罹災思考実験
 ここでもう一度
《18 花巻空襲罹災区域》

   <『花巻の歴史・下』(及川雅義著、図書刊行会)より抜粋>
を見ながら、このときの火災の広がり方などを以下に思考実験してみよう。

 花巻空襲の際の火災は地点A(大工町)から始まって広がっていったということだが、上図を見ればその広がり具合から
 1 風は大雑把に言って西から東に吹いていた(つまり西風が吹いていた)。
 2 火災罹災区域は、大堰川を境にして延焼が止まっている。
 3 専念寺に関していえば火の手は東南方向から迫っていた。
などということが推定できる。

 もしこれらのことが検証できれば、山折氏の証言
 専念寺が焼けてしまうと火災の被害がさらに拡大するということで、消防団の方々がやって来て寺の周辺を全部破壊し、空き地を作った。そのおかげで、うちの寺は焼け残った。
には一部誤解があるということになると思う。

 つまり、寺の周辺を全部破壊したということはなくて、下図(再掲)
《19 念寺周辺マップ》

   <YAHOO!地図より抜粋>
でいえば、壊したのはせいぜい東側D区域だけだったのではなかろうか。なぜなら、火の手は東南方向から迫っているのだが、区域BとCは墓地であり火の手はそこで弱まるはずだからである。
 また、専念寺の西側は大堰川であり、同じく北側は断崖だからそもそもこの2方向には火の手は広がりにくかったはず。そのためであったのだろうか、実際罹災区域はここ専念寺付近が境目になっている。

 そこで、私は次のように思う。
 第一に、寺の周辺を全部破壊した訳ではなく、せいぜい東側D部分に過ぎなかったのではなかろうか。
 第二に、このときは西風が吹いていたはずだから、専念寺が焼けてしまうと火災の被害がさらに拡大する恐れがあったから周辺を全部破壊したという訳ではない。

と。  

 以上の思考実験に基づくならば、何も山折氏は心の傷を持たなくともいいのではなかろうか、と言いたいのである。

******************************************<註*1>******************************************
 この距離150mについては、『デクノボー宮澤賢治の叫び』(山折哲雄×吉田司著、朝日新聞出版)の対談の中にも出て来ていて、山折氏と吉田氏の人となりが彷彿としてきて興味深い。
 その対談で吉田氏がまず『専念寺と賢治の実家の距離は300mある』と述べているが、そのあとで山折氏は『本当は150mある』
   <いずれも『デクノボー宮澤賢治の叫びより>
とダメ出しをしている。
 ところが、実際私が”YAHOO!地図”で調べたところでは約280mであり、吉田氏の300mの方が正しいと思う。どうみたって150mはあり得ない。したがって、実は山折氏の150mの方を訂正せねばならないのではなかろうかと他人事ながら心配してしまう。

 いずれこの対談の距離にかかわるエピソードから二人の違いが浮かび上がってくる。おそらく、山折氏は直感で数字を取り扱っているが、一方の吉田氏は実際何等かの方法で地理的に計測した数字を扱っているのだと思われる。さすがノンフィクション作家!、吉田氏はしっかりと検証をしながら物を書き、そして喋っているんだ、と感心した。
 というわけで、いままでは吉田氏の賢治に対する評価はかなり辛辣だなと思っていたのでやや抵抗感があって遠ざけていたが、実は吉田氏は結構検証しながら物を書いているんだと認識を新たにした。


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