宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

132 賢治と東和町(凌雲寺)

2009年04月02日 | Weblog
 成島の毘沙門堂の北東約2㎞のところに凌雲寺(東和町安俵5区90)というお寺がある。そこに”毘沙門”が詠み込まれている句碑が建っていると云うことを聞いたので『鏑八幡』へ向かう途中に寄り道をしてみた。

《1 凌雲寺》(平成21年3月26日撮影)

《2 山門》(平成21年3月26日撮影)

《3 左側の仁王像》(平成21年3月26日撮影)

この仁王像の左脇に
《4 その句碑があった》(平成21年3月26日撮影)

この写真の中央にある石碑がそれで
  毘沙門は兄に似しかも紅葉晴 青邨
と刻まれてあった。
 もちろん、俳句を詠んでいる青邨といえば山口青邨のことであろう。おそらく、青邨が秋にここ成島の毘沙門堂を訪れて兜跋毘沙門天立像を拝観した際に、その醸し出す雰囲気にもしかすると兄はこの毘沙門天に似ていたかも知れない、と青邨が兄を偲んで詠んだ句なのであろう。しかし、山口青邨と凌雲寺はどんな関係があるのだろうか。
 そこで、青邨のことを”先人記念館のHP”で少し調べてみたならば
 山口青邨(本名:吉郎)は1892(明治25)年5月10日、盛岡市仁王小路にて旧盛岡藩士山口政徳、千代の4男として生まれた。早くに母を失い、盛岡市下小路(現:盛岡市中央公民館付近)に住んでいた母方の叔父笹間家に引き取られ育てられる。(以下略)
等が記されていたが、そこには東和町との関係は何も記されていなかった。

 ちょっと待てよ、この句碑の右脇の木標には”及川古志郎菩提処”と書かれている。たしかに、及川古志郎は東和町土沢の出身であり、この凌雲寺は古志郎の菩提寺であるはず。この木標の脇に青邨の句碑があるということは、もしかすると及川古志郎は青邨の兄と云うことではなかろうか。そういえば、古志郎も青邨も盛岡中学の同窓なはずである、繋がりがありそうだ。
 そこで、及川古志郎の出自を調べてみた。なんと、及川古志郎はあの大島高任の孫であった。もちろん大島高任とは、盛岡藩甲子村(現在の釜石大橋)に産出する磁鉄鉱から銑鉄を生産するために洋式高炉を建設した近代製鉄の父のことだ。そして、高任の娘の繋は医者の及川良吾という人物と結婚したのだそうだ。そう、皆さんお察しのとおり、この及川こそ古志郎の父だったのである。そして、古志郎の妹のイソが山口吉郎と結婚したのだという。たしかに、及川古志郎はこの山口吉郎、つまり山口青邨の兄だったのである。

 ところで、青邨が”毘沙門は兄に似しかも”と詠んでいるように及川古志郎は武人であった。海軍大臣を、それも第2次近衞文麿内閣(昭和15~16年)と第3次近衞文麿内閣でそれぞれ海軍大臣を務めたこともある軍人である。他方、古志郎は熱心な読書家でもあり、漢籍に関しては並の学者も及ばないほどの素養があったと云うし、人格も円満だったと云う。ところが、この性格が災いしたのだろうか、それまでは断固として日独伊三国軍事同盟に反対していた海軍であったが、古志郎が海軍大臣になった途端に三国軍事同盟をあっさりと受け入れてしまった。それは、日本と米国との決定的対立を引き起こし、日米開戦・太平洋戦争突入の要因となった。古志郎が軍人とならずに漢籍の素養を生かしていたならばな、と悔やまれるばかりである。さぞかし、啄木はがっかりしていることであろう。
《及川古志郎》(『海軍の名参謀井上成美』(新人物往来社)より)


 というのは、及川古志郎が入学した頃の盛岡中学には、上級に米内光政、同級に郷古潔、金田一京助、野村胡堂、田子一民、下級に板垣征四郎等の後に名をなした若者が数多在学していた。中でも及川古志郎、金田一京助、田子一民、野村胡堂達は文学的な才能にも恵まれていたので文学を通じて互いに親交があり、文芸活動をしていたようだ。
 そうした盛岡中学に入学してきたのが石川啄木であった。啄木はとりわけ、海軍志望でかつ読書家・蔵書家であると噂されていた及川古志郎に憧れて近づき、親交を結んでいったと云う。一時は字体まで古志郎に似せて書いていたと云う話すらある。そうした古志郎からの影響を受けて次第に文学の魅力に惹かれていった啄木は、いつの間にか短歌への関心を高めていったのであろう。

 そして、賢治が短歌を作り始めたのは、賢治が盛岡中学2年生の時に啄木が『一握の砂』を刊行して評判をよんだことが大きな切っ掛けであることは間違いなかろう。

 というわけで、無理矢理繋げてしまったそしりは免れないが、賢治と凌雲寺は繋がっているのであった。

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