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吉田 「こりゃ変だべ!」ってどこが?
荒木 前者では、
どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。
となっているのに、それに相当する部分は後者では、 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
となっていて、一箇所全く違っている箇所があって、単行本の『宮沢賢治物語』の場合は、
・昭和二年には上京して花巻にはおりません。…………②
新聞連載の『宮澤賢治物語』の場合は、
・昭和二年には先生は上京しておりません。 …………③
となっているからだよ。
吉田 たしかに。そして僕には、後者なら文章の内容は素直に解釈出来るが、前者は文章が変で意味がすっきりしないしな。
鈴木 そうなんだよ。この両者の大きな違いは、「花巻には」と「先生は」の一箇所だけだが、意味としては全く逆の意味となり、決定的な違いがある。②ならば賢治は上京していることになるし、③ならば上京していないということになるからだ。
荒木 大体は解ったが、いまいち分からん。
鈴木 というのは、②はそうではないが、新聞連載の方の③はもちろん関登久也が存命中のものであり、この③の方が関登久也が書き記した本来の証言であるはずだということが導かれる。
ということは、連載『宮澤賢治物語』を単行本『宮沢賢治物語』として出版する際に、
・関登久也以外の人物がたまたま間違えた。
ということが起こったか、あるいは
・関登久也以外の人物がわざとある意図の下に書き変えた。
という行為があったと考えられるからだ。
荒木 そうか、関登久也の新聞連載の『宮澤賢治物語』は、単行本化されて関登久也著『宮沢賢治物語』となった際に関登久也以外の誰かによって改竄された可能性の方が大ということか。
鈴木 うん、私もそう思っている。というのは、この二つの『宮沢賢治物語』を丹念に見比べてみたのだが、他の箇所は基本的には違っていないのにもかかわらず唯一この箇所だけが違っていて、なおかつ②と③とでは全く逆の意味になってしまうからだ。それも重要な意味を持っている一文だからだ。
よって、
〈仮説〉新聞連載の『宮澤賢治物語』は、単行本化されて関登久也著『宮沢賢治物語』となった際に改竄された。
が定立出来るし、いまのところ反例も見つからない、反例が見つからないから改竄されたと言える。
吉田 ならば、たしかにこの〈仮説〉はほぼ事実と言える。だからこのことから危惧されることは、あの杜撰な「訂正」とこの「改竄」は同根かも知れないということだ。
荒木 話が見えなくなった。
吉田 それは、先に述べた、
「「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という、まるで他人事のような言い回しで、その根拠も理由も明示せずに、「関『随聞』二一五頁の記述」内容を一方的に「訂正」したことになる。
という杜撰な「訂正」と、この「改竄」は同じような企みがあると言われても致し方がないということだ。荒木 そっか、簡潔に言えば、
杜撰な「訂正」=「改竄」
ということか。
吉田 そして、改竄されたのは共に関登久也が書き残したものだから、なおさらにだ。
荒木 そっか、そうだそうだ。これはなおさら………………。
吉田 荒木の言いたいことは僕にも分かる気がする。しかし言いにくいのだろう。そして、これは僕の直感だが、
杜撰な「訂正」は賢治をあまりにも聖人・君子化しすぎたから起こってしまったのだが、今回の改竄も同じような構図があったからだ。
というようなことを。荒木 ありゃ、言われてしまった。
鈴木 おいおい、そこまで言っていいのか、どこかからかは判らぬが圧力が掛かってくるぞ。
吉田 たしかに、賢治に関する世界には構造的な……おっとっと。
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《新刊案内》この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
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を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。延いては、
小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、 『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。
そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。
そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。
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