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《↑岩田豊蔵》
<『花巻市展望』(佐藤紅歌・松田浩一共著、岩手民報社)より>
前回の最後、
羽田 堀籠さんの結婚式に、私も参っておりましたが、いろいろ話しをしているうちに、宮沢さんが、ひょっといったのですがね。「世間の人は、みんな私を童貞だと思っていますよ、ハハハハ」と。私は、じつは、このときの宮沢さんの言葉が、いまでも疑問につつまれていて、解らないのです。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
における
「ハハハハ」
が気になったのだが、これと関連するような岩田豊蔵の証言が同じく『宮沢賢治の肖像』の中にあった。
1.岩田豊蔵の話
それは次のようなものである。
兵隊検査は、花城小学校で受けましたが、私は賢さんといっしょで、そのころは軍縮ということで、兵隊があまりいらない時代で、私も賢さんも軍隊にはゆきません。古い農学校のころ、私は夜に宿直室に呼ばれて、賢さんに、じゅんじゅんと性教育されました。図も入っている英語の厚い本を(ハバロック・エリスの性学大系)二冊持ち出して説明されました。…(略)…
いつか賢さんが一関の花川戸という遊郭へ登楼してきたといって、ニコニコ笑って話しました。…(略)
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
巷間賢治は童貞だったと言われているようだが、前述の「ハハハハ」といい、この豊蔵の〝遊郭登楼〟の証言といい、この二人の証言はこの巷の噂を戒めているのではなかろうか。なにもそこまで賢治は童貞だったと決め付けることもなかろういうことを言いたかったのではなかろうか。
2.賢治の性に対する考え方
同じく『宮沢賢治の肖像』によれば、森は賢治が
「労働と性欲と思索、思索と労働、こんなように二つづつならび(ママ)うまい具合に調和すれば、まあ辛うじて成立しますね。肉体労働と精神労働それに性欲と、この三つを一度に生活のなかに成り立たせるということは、まずまずできません。日本の農民は、肉体労働と性欲だけの生活を古い時代から押しつけられて、精神労働を犠牲に、ただ二つだけでやってきたのですね。」
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
と語ったと記述している。この賢治の見方・考え方が必ずしも正しいとは私は思わないが、少なくとも賢治は斯く認識していたので禁欲的な生活を己に強いていたのであろう。
3.禁欲の反省
こう考えて生活して来たはずの賢治だったが、このことを後々悔いていたということを同じく『宮沢賢治の肖像』から知ることができる。
それは、森荘已池の次のような証言である。
「私は結婚するかも知れません――」と盛岡にきて私に語ったのは昭和六年七月で、東北砕石工場の技師となり、その製造を直接指導し、出来た炭酸石灰を販売して歩いていた.最後の健康な年代であった。
そのころ私は岩手日報につとめていた。その日の日記を書きうつそう。
昭和六年七月七日
握り飯を食べたら宮沢さんが来社。白い麻服を着て、元気だ。マスザワ(岩手日報花巻支局長)さんからきけば、あなたはあまりからだがよくないそうですが、いかがですかと言う。
自分が、あれは宣伝しているのです。あまり働かされないように宣伝して居るのですと言う。
「それはいいです」と宮沢さん、あっさり賛成。
「御飯を食べながら話しましょう。」
というので出る。I食堂の方へ歩いていこうとしたら、下の方へ歩いて、こっちへ行きましょうと言う。歩きながら、
「実は結婚問題がまた起きましてね。」
という。
「どういう生活をして来た人ですか。」
と私がきく。
「女学校を出て、幼稚園の保母か何かやって居たということです。」
「それで意志がおありになるのですね。」
と私がいう。
「遺産が一万円とか何千円とか持っているということなのでしてね、いくらおちぶれても、金がそんなにあっては――」
と宮沢さんはいった。
「ずっと前に私と話があってから、どこにもいかないで居るというのです。」
わたしはそれは貞女というものですという。
「自分のところにくるなら、心中のかくごでこなければなりませんからね」
そういうので、どうしてですかときくと、
「いつ亡びるか解らない私ですし、その女の人にしてからが、いつ病気が出るか知れたものではないでしょう」と答えた。すべて歩きながらの会話。
…(略)…
どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三冊の本を出す。和とぢの本だ。
「あなたは清濁あわせのむ人だからお目にかけましょう。」
と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だった。
…(略)…
宮沢さんも、そうだそうだという。そして次のようにいった。
「ハバロック・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちっとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になって、伏字にしなければならなくなりますね。」
こんな風にいってから、またつづけた。
「禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです。」
自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻転ではない。天と地がひっくりかえると同じことじゃないか。
「何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした。」
そういってから、しばらくして又いった。
「昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといったそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな偽善に過ぎませんよ。」
私はその激しい言い方に呆れる。
「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしょうね。」
と私は答えた。
「いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう。
石川善助が何か雑誌のようなものを出すというので、童話を註文してよこし、それに送ったそうである。その三四冊の春本や商売のこと、この性の話などをさして、「私も随分かわったでしょう――。」
という。
「いや自分はそうは思いません。」
と答えたが、
「そう思う人があるかも知れませんね」
とも答えた。…(略)
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
賢治の愛弟子の森荘已池が記述していることだから、昭和6年7月7日賢治がこう喋ったことに間違いはなかろう。
したがって、森自身が日記に
天と地がひっくりかえると同じことじゃないか。
としたためたのと同様、私もこの森の証言を読んですこぶる
吃驚仰天してしまった。
4.賢治も普通の男性…
だが、いや待てよ…賢治だって普通の男性だったのだと考えればさほど驚くことでもなかろうかな……とも思えるような気もした。
そして一方では、少なくとも宮澤賢治の性に関する実態は巷間いわれているものとは多少違っていたのではなかろうかという思いを強くした。何も声高に「賢治は童貞だった」などと取り立てて騒ぐほどのことでもないのではなかろうかと。そもそもそうだったのかどうかさえも判らないのだし。いや、そうだったとはあまり言えないのじゃないかとさえ思えるからである。
また、賢治は一生独身主義であったわけでもないということも知れた(?思った)。なぜなら、気が置けない森に賢治が
「私は結婚するかも知れません――」
と語ったのだから、それは賢治のそのときの心情を正直に吐露したものだと思えるからである。おそらく、そしてそれはこの頃だけものでもなかったのだろうとも。
それにつけても
「私も随分かわったでしょう――。」
と弁明した賢治の心境は如何ばかりだったであろうか。
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<『花巻市展望』(佐藤紅歌・松田浩一共著、岩手民報社)より>
前回の最後、
羽田 堀籠さんの結婚式に、私も参っておりましたが、いろいろ話しをしているうちに、宮沢さんが、ひょっといったのですがね。「世間の人は、みんな私を童貞だと思っていますよ、ハハハハ」と。私は、じつは、このときの宮沢さんの言葉が、いまでも疑問につつまれていて、解らないのです。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
における
「ハハハハ」
が気になったのだが、これと関連するような岩田豊蔵の証言が同じく『宮沢賢治の肖像』の中にあった。
1.岩田豊蔵の話
それは次のようなものである。
兵隊検査は、花城小学校で受けましたが、私は賢さんといっしょで、そのころは軍縮ということで、兵隊があまりいらない時代で、私も賢さんも軍隊にはゆきません。古い農学校のころ、私は夜に宿直室に呼ばれて、賢さんに、じゅんじゅんと性教育されました。図も入っている英語の厚い本を(ハバロック・エリスの性学大系)二冊持ち出して説明されました。…(略)…
いつか賢さんが一関の花川戸という遊郭へ登楼してきたといって、ニコニコ笑って話しました。…(略)
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
巷間賢治は童貞だったと言われているようだが、前述の「ハハハハ」といい、この豊蔵の〝遊郭登楼〟の証言といい、この二人の証言はこの巷の噂を戒めているのではなかろうか。なにもそこまで賢治は童貞だったと決め付けることもなかろういうことを言いたかったのではなかろうか。
2.賢治の性に対する考え方
同じく『宮沢賢治の肖像』によれば、森は賢治が
「労働と性欲と思索、思索と労働、こんなように二つづつならび(ママ)うまい具合に調和すれば、まあ辛うじて成立しますね。肉体労働と精神労働それに性欲と、この三つを一度に生活のなかに成り立たせるということは、まずまずできません。日本の農民は、肉体労働と性欲だけの生活を古い時代から押しつけられて、精神労働を犠牲に、ただ二つだけでやってきたのですね。」
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
と語ったと記述している。この賢治の見方・考え方が必ずしも正しいとは私は思わないが、少なくとも賢治は斯く認識していたので禁欲的な生活を己に強いていたのであろう。
3.禁欲の反省
こう考えて生活して来たはずの賢治だったが、このことを後々悔いていたということを同じく『宮沢賢治の肖像』から知ることができる。
それは、森荘已池の次のような証言である。
「私は結婚するかも知れません――」と盛岡にきて私に語ったのは昭和六年七月で、東北砕石工場の技師となり、その製造を直接指導し、出来た炭酸石灰を販売して歩いていた.最後の健康な年代であった。
そのころ私は岩手日報につとめていた。その日の日記を書きうつそう。
昭和六年七月七日
握り飯を食べたら宮沢さんが来社。白い麻服を着て、元気だ。マスザワ(岩手日報花巻支局長)さんからきけば、あなたはあまりからだがよくないそうですが、いかがですかと言う。
自分が、あれは宣伝しているのです。あまり働かされないように宣伝して居るのですと言う。
「それはいいです」と宮沢さん、あっさり賛成。
「御飯を食べながら話しましょう。」
というので出る。I食堂の方へ歩いていこうとしたら、下の方へ歩いて、こっちへ行きましょうと言う。歩きながら、
「実は結婚問題がまた起きましてね。」
という。
「どういう生活をして来た人ですか。」
と私がきく。
「女学校を出て、幼稚園の保母か何かやって居たということです。」
「それで意志がおありになるのですね。」
と私がいう。
「遺産が一万円とか何千円とか持っているということなのでしてね、いくらおちぶれても、金がそんなにあっては――」
と宮沢さんはいった。
「ずっと前に私と話があってから、どこにもいかないで居るというのです。」
わたしはそれは貞女というものですという。
「自分のところにくるなら、心中のかくごでこなければなりませんからね」
そういうので、どうしてですかときくと、
「いつ亡びるか解らない私ですし、その女の人にしてからが、いつ病気が出るか知れたものではないでしょう」と答えた。すべて歩きながらの会話。
…(略)…
どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三冊の本を出す。和とぢの本だ。
「あなたは清濁あわせのむ人だからお目にかけましょう。」
と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だった。
…(略)…
宮沢さんも、そうだそうだという。そして次のようにいった。
「ハバロック・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちっとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になって、伏字にしなければならなくなりますね。」
こんな風にいってから、またつづけた。
「禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです。」
自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻転ではない。天と地がひっくりかえると同じことじゃないか。
「何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした。」
そういってから、しばらくして又いった。
「昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといったそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな偽善に過ぎませんよ。」
私はその激しい言い方に呆れる。
「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしょうね。」
と私は答えた。
「いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう。
石川善助が何か雑誌のようなものを出すというので、童話を註文してよこし、それに送ったそうである。その三四冊の春本や商売のこと、この性の話などをさして、「私も随分かわったでしょう――。」
という。
「いや自分はそうは思いません。」
と答えたが、
「そう思う人があるかも知れませんね」
とも答えた。…(略)
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
賢治の愛弟子の森荘已池が記述していることだから、昭和6年7月7日賢治がこう喋ったことに間違いはなかろう。
したがって、森自身が日記に
天と地がひっくりかえると同じことじゃないか。
としたためたのと同様、私もこの森の証言を読んですこぶる
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4.賢治も普通の男性…
だが、いや待てよ…賢治だって普通の男性だったのだと考えればさほど驚くことでもなかろうかな……とも思えるような気もした。
そして一方では、少なくとも宮澤賢治の性に関する実態は巷間いわれているものとは多少違っていたのではなかろうかという思いを強くした。何も声高に「賢治は童貞だった」などと取り立てて騒ぐほどのことでもないのではなかろうかと。そもそもそうだったのかどうかさえも判らないのだし。いや、そうだったとはあまり言えないのじゃないかとさえ思えるからである。
また、賢治は一生独身主義であったわけでもないということも知れた(?思った)。なぜなら、気が置けない森に賢治が
「私は結婚するかも知れません――」
と語ったのだから、それは賢治のそのときの心情を正直に吐露したものだと思えるからである。おそらく、そしてそれはこの頃だけものでもなかったのだろうとも。
それにつけても
「私も随分かわったでしょう――。」
と弁明した賢治の心境は如何ばかりだったであろうか。
続き
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