宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

〝関『随聞』〟は関登久也が著した訳ではない

2023年11月05日 | 「賢治研究」の更なる発展のために
鈴木 なお、ここで言っておきたいことがある。それはあの註〝*65 関『随聞』二一五頁〟に関してだ。いままでは、この〝*65 関『随聞』二一五頁〟の「関『随聞』」とは、関登久也著『賢治随聞』のことだと言ってきたのだが実は……
荒木 実は?
鈴木 それはこんな本、
     
であり、著者は関登久也だと読者は思うだろうが、厳密にはこの本は関登久也が著したものではない。
荒木 どういうこっちゃ?
鈴木 それはまず、この本は先に一度示したように、昭和45年2月20日発行だ
荒木 それが?
吉田 関は疾うの昔の昭和32年2月15日に既に亡くなっていたのだ。当然、〝関『随聞』〟は関登久也が著したものではないことになる。
荒木 となれば関が亡くなってから13年後に発行されたなんて、きわめて不自然だな。
鈴木 では、なぜこのような不自然なことが為されたのか。そのことについては、森荘已池が書いた同書の次のような「あとがき」が示唆している。

 宗教者としては、法華経を通じて賢治の同信・同行、親戚としても深い縁にあった関登久也が、生前に、賢治について、三冊の主な著作をのこした。『宮沢賢治素描』と『続宮沢賢治素描』そして『宮沢賢治物語』である。…(投稿者略)…
 さて、直接この本についてのことを書こう。
 『宮沢賢治素描』正・続の二冊は、聞きがきと口述筆記が主なものとなっていた。そのため重複するものがあったので、これを整理、配列を変えた。明らかな二、三の重要なあやまりは、これを正した。…(投稿者略)…
 なお以上のような諸点の改稿は、すべて私の独断によって行ったものではなく、賢治令弟の清六氏との数回の懇談を得て、両人の考えが一致したことを付記する。
             〈『賢治随聞』(関登久也著、角川書店、昭和45年)277p~〉

 つまり、宮澤清六と懇談の上で、森荘已池が関の既刊の著作を改稿して出版したのが〝関登久也著『賢治随聞』〟だったのだ。しかもこれに続けて森は、
   多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。
という懇願まで述べているのだが、なんとも奇妙なことだ。関登久也に対してあまりにも失礼であり不遜な謂(いい)だ。しかもなんと、この懇願を受けたかの如くに、『新校本年譜』はまさに「本書によって」(これは初出でも一次情報でもないというのにも拘らずである)いることが、先の註釈〝*65〟から自ずから導かれる訳だ。
吉田 まさにこの森荘已池の懇願のとおり、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(『校本宮澤賢治全集第十四巻』もだが)は一次情報でもなく……
荒木 真逆の、「四次情報」とも言える、しかも関登久也が著したものではない〝関『随聞』〟を「典拠」にしたということか。あの「……ことになっている」という他人事のような言い回しにも唖然とするが、この懇願に応えたと言わざるを得ない筑摩に、俺は開いた口が塞がらなくなった……。ついつい、裏で何かが……、と邪推してしまう。
鈴木 さて、このことを知ったならば、あの原田奈翁雄は何と言うだろうか。
吉田 一次情報に立ち返ることが基本中の基本なのに、あの天下の筑摩が「四次情報」に頼るようじゃ、原田は、
    強い自恃と厳しい自戒は一体……
と言って後は口をつぐんでしまうんじゃないかな。

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-981368 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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