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◇はじめに
・なぜキューバなのか?「キューバに行ったことのある」ある知り合いの人から「キューバは治安も良くよく、いいところだ。しかしカストロが亡くなったらタガが緩み治安も悪化するかもしれないので行くなら今じゃないか。」と言う一言を聞き、「よし避寒もかねて行こう。」と決めた。
○キューバとは、
■概略
・面積は11万㎢(本州の1/2)、長さ(東西)1250km、人口は1100万人(ハバナに200万人)。緯度は北回帰線あたり、台湾と同じ、カリブ海、メキシコ湾に浮かぶ島、2月でも最高気温は32℃程度、夜も23、4℃と暑い、暖流のメキシコ湾流があるのでより暑いのではないか。(台湾、沖縄は冬は北西の大陸からの寒い季節風が吹くのでそれほど気温が上がらない。
■革命の足取り
・19世紀末まではスペインの植民地だったが、(従って言語はスペイン語)1898年米西戦争でUSAの軍政下に入り、1902年共和制になるが実質的には政治、経済ともUSAが牛耳る。1952年にクーデターで政権を取ったバチスタはより一層USAとの結びつきを強め庶民の生活は苦しいままであった。それに抗して1953年7月26日にフィデルカストロら150名が蜂起し、サンチアゴデクーバのモンカダ兵舎を襲撃するが、失敗し一部は殺され一部は捕えられる。捕えられた人の中でも拷問、虐殺されるものも出たがこれが人々の知るところとなり世論の力でカストロらは釈放され、人々の支持を得るようになった。その後メキシコへ亡命して1956年12月メキシコからチェゲバラ等と共に、グランマ(おばあちゃん)号という小船に乗りキューバへ上陸。失敗しかかったがシエラネバダ山地に逃げ込み、地元の農民と共にゲリラ戦を戦い、1959年にバチスタ政権を打倒した。
・その後カストロが首相となり社会主義国として国を運営していくこととなった。「USAの喉に刺さった骨」と言う地政学上の位置により、当時のソ連からは相当重要視され、有利な援助を貰っていた。石油は市価の1/3程度でソ連から買い、それを転売して儲け潤った時期もあったそうだ。また砂糖も市価より相当高く買い上げてもらっていた。
・ケネディ大統領の時、ソ連がキューバに核ミサイルを持ち込もうとして世界的に非常に緊張が高まったいわゆるキューバ危機は今でも記憶に新しい。
・ソ連の崩壊はキューバには相当痛手だったに相違なく,USAの経済封鎖もゆるまなかったので大きな苦境に陥ったらしい。
・現在はラウルカストロ(フィデルカストロの弟)が首相に就任している。
◇ハバナ空港へ到着
・2014/2/13朝、伊丹空港から羽田空港に飛び、京浜急行と京成アクセス線を経て成田空港到着。成田からはエアーカナダでトロント乗り換え20:00にハバナに到着。成田から乗り継ぎ時間も含め16時間かかった。
・入国チェック:ハバナ空港に到着してまず驚いたことは、キューバに入国するとき通常航空機に乗る時と同じようなセキュリティチェックがあったことだ。これは度々起こっている亡命キューバ人等の武装侵入阻止のためではないか?中々大変である。
・荷物のターンテーブルで待つことなんと1時間、それから両替に30分もかかり21:30になってしまった。
・タクシーしかない:空港から市内への交通はタクシーしかないが、もうほとんど残ってなくて1台を乗合で市内に向かった。いや~出足から大変です。なお、タクシーはメーターは付いておらず交渉制。空港からハバナ旧市街まで25~30CUC。大体相場は決まっているようだが乗る前に交渉しないと足元を見られる恐れがある。
・ところで空港からハバナ市内に行くバスはない。リムジンバスはおろか、一般市民向けのバスもなくタクシーのみである。2kmほど離れたところにたまたま空港の近くを通るバスの停留所があるらしく、トランクなど荷物を持って歩く市民を見かけた。(サンチアゴデクーバ空港も同じ)
・つまり庶民は飛行機は高すぎるので乗らない、乗れないのでバスを運行しても乗る人がいないということらしい。
○通貨:両替と言えばキューバは2重通貨制を採っている。主に外国人観光客向けの「兌換ペソ;CUC」庶民向けの「人民ペソ;MN」で1CUCは約$1、1CUC=24MNで外国人向けのホテル、レストラン、商店、タクシーはCUC(表示)である。
◇ホテルへ到着
・旧市街中心にある「イングラテッラホテル」に到着。19世紀以前に建てられたコロニアル調の重厚なホテルで装飾も素晴らしい。部屋も天井が高く。それなりの雰囲気が漂っている。これは正解だな、と思っていたら
・騒音がひど過ぎる:窓の方から大騒音が。ホテル前は大通りなので車がひっきりなしに走っており、またホテルの下ではラテン音楽の生演奏。窓はと見ると一重でなおかつ立て付けが悪く十分に閉まらない。私は旅行の際は耳栓を持参、愛用しているが今回はほとんど役に立たず。翌朝たまらずホテルのフロントで部屋を静かなところに変更してくれと頼んだ。最初は難色を示していたが、わいわいまくし立てたらいうことを聞いてくれ静かな部屋に代われた。遠慮してたら個人旅行は出来ません。
・ホテル予約:ホテルの予約はどうしたかと言うと、「CubaTravelNetwork」と言うインターネットサイトがあり、他の都市でのホテルも含めこのサイトで予約した。世界的の大きなホテルのネット予約のサイト、例えばagoda、booking.com,hotels.com等にはキューバのホテルは全く載っておらず(多分USAの主導するサイトだからか?)日本系のAppleworldには出ていたが、提示料金が2割以上高かった。結局上記のキューバサイトで予約し、何のトラブルもなく泊まれた。
◇旧市街散策
・オールドファッションのアメ車が我が物顔:ホテルから大通りを渡るとセントラル公園。ここに座って見渡すと1950年代以前のアメ車が我が物顔に走り回っている。これはすごいなと思って感心して見ていると、ソ連製のぼろ車も走り回っていて新車はほとんど見当たらない。新車を買うお金がないのだろう、だましだまし整備し、修理しながら使っている。
・建物はコロニアル風:我がホテルも含めて1950年代以前、いやいや19世紀以前のコロニル調建物ばかりだ。新しい建物はほとんど見当たらない。そして建物の「側」を活用してリノベーションして使ってる。これはこれなりに風情があっていいものだが・・・・・。
老骨のアメ車威張りし夏の昼 京都
・やはり国としては貧乏なんでしょう。USAの喉に刺さった骨」だけにUSAの締め付け、経済封鎖は相当厳しいんだろう。
・闇の葉巻販売:公園から「オビスポ通り」に向かう途中、男女の2人連れが親しげに話しかけてきて「私はどこどこの警備員をやっているが今日は休みだ。良い葉巻を安く売っているところを知っているので来ないか?」と話しかけてきた。久しぶりの旅で警戒心が緩んでいたこともあり、ついていくとアパートの2階に連れていかれ別の男が葉巻が入った箱を持ってきて「有名品で市価よりも相当安い」と言って葉巻を見せる。タバコは吸わないし興味もないので断ったら引き下がって何もなかったが気を付けねば。道を歩いていても「葉巻良いのがあるよ」と言う声がよくかかる。横流し品なのか、粗悪品か、どちらにしてももちろん買わないが。
・治安:治安は良さそうだ。南部ヨーロッパよりよほどいいと思う。スリも皆無とは言わないがほとんどいないようだし、暴力沙汰もないようだ。またいわゆる乞食もほとんど見ない。これは矢張りフィデルカストロのご威光か、社会主義の体制がしっかりしているためか。警官も要所要所に立っている。
・気候:気温は30℃位。乾燥しているので蒸し暑くはない。冬は乾季で旅行中一度だけ雷雨があっただけだ。夏は雨季でモンスーンで被害を受けることも多いらしい。
・旧市街一番の目抜き通りである「オビスポ通り」を東に歩く。店は両側にあるがなんとなく明かりが暗いし、商品もあまり種類も多くない。両側に立つアパートの2階からの出口に少しばかり商品、土産物を置き売っている店?が結構多かった。
・街行く人々:街を歩く人と言えば観光用に着飾って花などを売る女性、真っ白なスーツを着て歩く老紳士など一部派手な面もあるが、ほとんどの人はTシャツか、半袖のシャツにジーパンか綿パン、半ズボンといたって質素である。多分気候が暑いので1年じゅうそれで暮らせるのだろう。人々は特に陽気と言うこともなくいたって普通と言うか地味な感じであった。ただし、音楽が鳴ると踊り出す人もいて急に賑やかになった。
・通りに1、2か所食料、日常品等の配給所らしきものがあった。品数はいたって少なく余り良いものもないが、キューバの配給制度は有償配給制でベースの生活は保障されているようで、飢えで死ぬ人はいないようだ。また識字率も98%と高くそれらのことを考えれば中南米の中ではそれなりの水準にあるのではなかろうか。(中南米ではゲリラが出没し、誘拐や強盗事件もあとを絶たない。富裕層もいるが、極貧層も多いと聞く。識字率が低い国も多い。それと比べればキューバは良い水準にあるのではなかろうか。)
・西に進むとアルマス広場に出る。この周辺は古本市が立っていてチェゲバラの写真が表紙となった本等も売っていた。この公園の前に旧総督官邸があり、現在博物館となっている。これもコロニアル風の立派な建物だ。ここのみではないが博物館にいる監視の女性(日本でも片隅の椅子に腰かけている女性がいるがそれと同じ)がやたら多い。
キューバの博物館等は内部を写真撮影する場合結構な額の「カメラ代」を払わなければならず、結局カメラで内部を撮る人はほとんどいないが、その監視の女性は客が来るとガイドをしてくれて(と言ってもスペイン語はちんぷんかんぷんなんだが)カメラ代を取らずに客と展示物を写してくれる。その代りチップをねだる訳である。1CUC程度なんだが彼女らにとっては相当大きいのだろう。
・引き続き西に進むと大きな川の河口付近に至る。左手(北方向)を見るとカリブ海が見える。ここにはフェルサ要塞があり、対岸にはモロ要塞、カバーニャ要塞など他国や海賊からハバナを守る要塞群があり、今になればよき風景となっている。
・革命博物館:キューバ革命の全貌を展示しているが、中でも1956年メキシコからカストロ、ゲバラら百名程度が乗り込み、キューバ東部に上陸し、苦戦しつつもやがてバチスタ政権崩壊に導いた「グランマ号(おばあちゃん号)」が展示されているには見逃せない。
・国立美術館(キューバ館):ここにはキューバの近代、現代美術が集められている。現代美術の質、量とも世界的に見ても遜色のないものであった。一見の価値あり。
・「ハバナバスツアー」:欧米各国の主要都市によくあるような2階建てのバスでハバナ市内をぐるりと一周した。前述のように19世紀以前の建物群ばかりで内装は壊れかけたものもあるがそれらが目立つ。バスに乗っていくと革命広場に到着。メーデーなどでは数十万人もの人々が集まり埋め尽くされる広場。共産党本部、内務省、情報通信省、郵政省などが集まっているキューバの中枢だ。内務省のビルの壁には「チェゲバラ」の大きな顔のモニュメントが、情報通信省の壁には「カミーロ」のモニュメントが飾られている。
・チェゲバラ:観光客受けするのは、そして有名なのは「チェゲバラ」である。中々の男前だ。フィデルカストロの右腕となってキューバ革命を成し遂げたアルゼンチンの若き闘志。一時革命後の政府高官も務めたがその後南米で革命運動に携わるも捕まって殺された。キューバでも世界的にも人気がある。土産物屋、博物館の売店などには常にゲバラのティシャツ、写真、書籍が売られている。キューバ人気はチェゲバラに負うところも大きいのではないか。しかし、革命の熱狂が覚めて現実の世の中で国を運営したフィデルカストロの方が数段上で、大変だったとは思う。
◇ビニャーレス渓谷
・2/15朝日帰りツアーでハバナから120km西にあるビニャーレス渓谷へ向かう。このツアー客はほとんどがヨーロッパ人で私が話した限りではノルウエー、イギリス、チェコ、イタリア、カナダからの客で目的は観光と避寒である。母国はマイナス10,20度であるから十分に避寒となる。
・高速道路:渓谷に向かうバスはハバナ郊外に出ると高速道路を走る。片側3車線でそれなりのものだが、舗装は少し痛んではいる。一番の特色は路側帯を馬車や自転車が走り、歩行者も歩いていることだ。またヒッチハイクの人も多い。若い女性にはたまに止まってくれるようだが、おっさんは?
・ビニャーレス渓谷は石灰質の山で鍾乳洞も沢山あるようだ。鍾乳洞の一つに入ると、石筍、鍾乳石は劣化していてあまり大したことはなかったが中にそれなりの川が流れていて、そこをボートで走ったのは面白かった。
・タバコ栽培:渓谷の畑ではでは、タバコ栽培が盛んで(そう言えば同じ程度の緯度の沖縄も盛んである。)タバコ畑の中に「タバコ小屋」が立てられている。この中は採取したタバコの葉を吊るして乾燥させている。なんとなく良い匂いがする。そのなかでおじさんが葉巻作りの実演をしてくれ興味深く見させてもらった。
葉煙草の吊るし干すてふ夏の小屋 京都
・サトウキビ:この渓谷、およびここへ来る途中にもサトウキビ畑が広がっていた。(これも沖縄と同じ)そう言えばキューバは砂糖とタバコの国と言うイメージも強い。しかし、砂糖価格は長期低迷であり、タバコは先進国の喫煙率が減っており売り上げは低迷だろうから、キューバにとっては経済的に大変だろう。更に目立った工業もないし、第一USAの経済封鎖がきついから国として生きることは大変なんだろう。
・観光立国:切り札はやはり観光だということで相当観光には力を入れ出している。周りを見ればカリブの諸国は皆観光を競い合い、欧米の観光客をどんどん呼び入れようとしている。後述のようにバラデロは完全に外人、特にヨーロッパ人の観光客を呼び込もうとして作られたリゾート地である。他のカリブ諸国と競い合うように外人客を誘致している。これは軌道に乗ってきたようだが、これだけで国力をUPさせるのも大変だし、庶民の間にも貧富の差が大きくなり、なかなか大変なのではないか。